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てっちゃん地蔵  作者: 谷兼天慈
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エピローグ

 あれから一年の歳月が流れた。

 ある暑い夏の日の午後、小西京子は白いワンピースに身を包み、思い出の林道を歩いていた。手にはあの白い帽子を持ち、飛び下りた時の傷の後遺症も感じられないしっかりとした足どりだ。

「懐かしい……」

 林道は、まったく変わっていなかった。まるで昔に戻ったかのようだ。

 獣道のような、草を踏みしめて出来た細い道筋。まわりをうっそうとした雑木林が取り囲み、昼間でも薄暗い。

 大きな道路はここからは遠く、喧騒から隔離された静寂さが、人と人との軋轢で疲れてしまった心を落ちつかせてくれる。

 木漏れ日は、暑い季節にもかかわらず、強い陽射しをやわらげてくれ、気持ちのよい汗を与えてくれる。

 しかし───

「…………」

 ゆっくり歩く京子の目が不快そうに細められた。

 彼女の視線の先にテレビやソファといった家財道具が、無造作に捨てられていたのだ。

「昔はこんなもの捨てられてなかったのに」

 京子は憤りを感じて呟く。

 確かに、あの森の公園の川のように、お菓子の紙袋や空き缶といった細々としたゴミは捨てられていたことはあった。ああいった小さなゴミは拾いやすいので、まだ捨ててあっても許せるような気がする。だがもちろん、そういったゴミも捨てていいとはいえない。

 そして、このような粗大ゴミというものは善意で捨ててやろうと思っても、なかなかできることではない。無料でできるものではないし、大きく重たいために自分ひとりでは動かすこともままならないからだ。

「…………」

 結局、京子にしても、ただ横目で眇めて見るだけで通りすぎるしかなかった。

(いやだな……)

 後ろめたさが心に広がる。

 思い出の場が汚されても、何もできない自分に嫌気がさす。

 そのとき、京子は思い出した。彼女が林道に行くことを知った美智子が言った言葉を。

「びっくりしちゃだめだよ。最近は、けしからん者どもが粗大ゴミを捨てていくのよ。近くに道路がないのに、どうやって運びこむのかしらねえ。わたし、今度父に進言しようと思うの。林道の美化活動をやってみてはどうかって」

「くす……」

 京子は美智子の憤慨した顔を思い出し笑った。

 あれから、なにかと京子の世話をしてくれる美智子であった。自分のコネを使って、今年の春には同じデパートに就職させてもくれたのだ。

 実際、つきあってみれば、けっこういい人であることが京子にも分かった。かつて郁子が「あの子もいい子なのよ」と言ったのは、あながち嘘ではなかったのだ。

 それでも、まったく仲良く付き合っているというわけではなかった。喧嘩もよくする。

 それは仕方のないことだ。人と人が対等に付き合っていけば、どうしたって意見の食い違いが出てくる。それを片方が無条件に押しつけたり、反対に受け入れすぎたりすると、何も進歩がない。互いに意見を尊重しながらも、自分の考えもきちっと出す。そうやっていい方向に持っていこうと努力しあうのが、本当の友達関係というものだろう。

 そんな感じで物思いにふけりながら歩いていたら、京子の目にいきなり目的の物が飛び込んできた。

「あ……」

 京子は感極まって絶句した。

 そこだけ時間が止まったように彼女には感じられた。

 十六年前と同じで、地蔵は泰然として立っていた。背後には松の木が変わらず存在していて、まるで従者のようにも見える。

「同じだわ」

 京子は地蔵に近づくとしゃがみこみ、恐る恐る手を伸ばした。額をそっと触る。

 やはり額の傷はあった。そして、地蔵はあのときのまま、微笑んでいるような不思議な顔つきをしている。

「いくちゃんみたい……」

 思わず微笑み返す京子。

 彼女の目には、地蔵の顔が郁子に見えているようだった。

 京子はゆっくりと立ち上がり、顔を上げてあたりを見回した。

「いくちゃん、そこにいる?」

 京子は少しの間、じっと耳をすますように気配を窺った。

「…………」

 京子は、間違いなく郁子がここにいると信じながら、彼女に語りかけはじめた。

「わたし、あなたの分もしっかり生きるからね。あなたにもらった命だもの。これからどんなことが起きても頑張れる。それにね、あなたのことを話せる友達もできたし。絶対にわたしたち、あなたのこと忘れないから。いつまでもあなたのこと大好きだから。安心してね」

──サワサワサワ……

 風がそよぎだし、あたりの木々の梢を優しく揺らした。まるで、京子の言葉に頷いているみたいだ。

 京子はにっこり微笑んだ。

「そうだわ。あなたに報告することがあるのよ。あのデパートの屋上に、お地蔵さんがたてられることになったの。あなたやわたしが飛び下りたってことで、邪気を祓う意味でということらしいわ。そうしたら、そこにも出張してきてちょうだいね。いくちゃんなら、きっと誰の願いでも叶えてあげるんでしょうね………」

 京子は再び目の前に立つ地蔵に視線を移した。

「わたし、強くなるね」

 彼女はそう強く言い切ると、手にした帽子を地蔵の頭にかぶせた。

──サワサワサワ………

 風が帽子を揺らす。

「………」

 京子は地蔵を見つめる。その瞳には様々な想いが映し出されているようだ。水の底から浮かび上がってくる空気の泡のように、浮かんでは消えていく───

(……す…き……)

「!」

 京子は待っていたように表情を輝かせた。

「いくちゃん?」

──サワサワサワ………

 気のせいだったのだろうか。

 梢が揺れている音しか聞こえなかった。だが、京子の耳には、梢のざわめきに混じって郁子の声が聞こえたような気がしていた。

「…………」

 京子はそっと目を閉じた。

──サワサワサワ………

 しかし、もう何も聞こえてこない。

 京子は目を開けて残念そうな顔をした。

 そして、もう一度あたりを見渡し、ひとつ溜め息をついた。

「うん…」

 京子はお腹に力を入れて頷くと、決心して振り返り、もときた道を戻りはじめた。一歩二歩と足を進める。

 すると、その足がふと止まり、郁子はもう一度振り返った。

「………」

 彼女の目には白い帽子をかぶった地蔵が見える。何事もなかったように地蔵はそこに立ち、京子の視線を受けとめた。

「さよなら……」

 そう言うと、京子は顔を前に戻した。

 そして再び歩きだす。

 ワンピースの裾が風に揺れる。

 そんな彼女の背中を見つめるものは、ここには誰もいない。ただ、白い帽子をかぶった地蔵だけが何も言わず、優しく静かに微笑んでいるだけである。

 そして京子の姿は見えなくなった。

──ヒュゥゥゥゥ───

 いきなり突風が吹いた。

 ひらり───

 風は「てっちゃん地蔵」に襲いかかり、白い帽子を吹き上げた。

 螺旋を描きながら、林の梢にも引っ掛からず、どこまでも上空を目指し飛んでいく。

 青い青い空の海に吸い込まれゆく白い白い帽子───

 どこまで飛んでいってしまうのだろう。

 暑い───

 その暑さを吹き払うかのように風は吹く。

 帽子がこの世界から消えてしまっても、空は変わらず夏の暑さを感じさせるばかりだろう。

 そして───

 白い帽子はもうどこにもない。

 ただ、熱気を含んだ風だけが、幼い少女の声を運んでくるのみである。


───大好き───と。

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