第9話「真 相」
「!」
京子は目覚めた。
「夢……?」
彼女はベッドに寝かされていた。
白い天井が見える。虫がのたくっているような模様の天井だ。
「こ…ここは…?」
京子は身体を起こそうとした。
「い…つつつ……」
とたんに全身に痛みが走る。
見ると、彼女の左腕と左足はギブスで覆われていた。かろうじて動く右手で頭に手をやると、そこには包帯が巻かれてあるようだった。
「…………」
京子は首を動かして右手にある窓に目を向けた。
窓は閉められていた。
だが、カーテンは閉められていない。彼女の目に映る青い空と白い雲、そして山並みの見え方から、ここは一階ではなく少なくとも二階以上の場所なのだとわかる。
──ウィィィン……
彼女の耳にエアコンの音が届く。
防音でも施してあるのだろうか。外の喧騒がまったく聞こえてこない。
そんな静寂のなかで、エアコンの断続音はまるで耳鳴りのように聞こえてくる。
(どうしてこんなところに……)
京子は窓の外の風景をぼんやりと見つめながら思った。
(ここは病院……?)
京子は、自分の記憶があやふやなのに気がついた。
(わたしは何をしてたの…かしら……)
何かを思い出そうと目を閉じた。そして、その刹那───
「あ……」
暗闇に光が灯った。ちかちかとそれが瞬きはじめる。その光のひとつひとつに、見覚えある情景が映し出され、それにともない、彼女の記憶が戻ってきだした。それはまさしくフラッシュバックであった。
耳を塞ぎ、しゃがみこんだ郁子の姿。
激しく罵る自分の声。
懇願するような郁子の瞳。
近づいてくる灰色の雲。
風に揺れる白いユリの花束。
遠くに見えるフェンス越しの町並み。
泣いている郁子の顔。
泣いている自分の顔。
ゆっくりと落ちていく白い帽子───
そして───
───大好きよ、京ちゃん───
「いくちゃん!」
京子は目を開けた。
相変わらず天井の模様しか見えない。
「いくちゃん……」
京子の目から、一筋の涙が流れた。
彼女の耳には、はっきりと郁子の声が残されていた。
限りなく優しい親友の声が───
「あなたはいったい……」
京子が呟いたそのとき。
──ガチャ──
扉が開き、誰かが入ってきた。
「あら。気がついた?」
京子は声のしたほうに顔を向けた。
「佐伯さん……?」
そこには佐伯美智子が立っていた。手には白いユリがいけられた花瓶を持っている。
「よかったわねえ。それくらいの怪我ですんで」
すたすたと美智子は歩きだし、京子の寝ているベッドに近づいた。傍らにある戸棚に花瓶を置く。
「さ、できた」
ぱんぱんと手を叩き、美智子は窓を背にして京子に向き直った。
「さあ。聞かせてもらうわよ」
「え…?」
京子は目をぱちくりさせた。
「え? じゃないわよ、まったく。あなたって昔とちっとも変わってないのね」
やれやれといった表情で、美智子は肩をすくめた。
「………」
京子は少しむっとした。
美智子のほうも相変わらずといった感じである。京子は、己の天敵であった人物をじっと観察した。
それでも、美智子は昔のような派手な髪型というわけではなかった。肩につくくらいの髪を外側にわざとはねさせた最近の流行りの髪型だったが、きつい目も人を小馬鹿にしたような口もとも昔のままである。
しかし、美しさは昔に比べて増したようである。化粧をしているのも関係してるだろうが、女として今が一番美しく見える年頃だからともいえる。もしかしたら誰かに恋しているのかもしれない。
そんなことを無意識に思って、京子は黙ったまま美智子を見つめていた。
「ちょっと!」
すると、いらいらした口調で美智子が言いつのった。
「黙ってないで何か言いなさいよ」
「何を言えばいいのよ」
京子は、ふてぶてしく少し声を荒らげた。
「…………」
美智子は少し驚いた目をした。
だが、気を取り直したのか、今度は少し和らいだ口調で言った。
「……どうして、あそこにいたの?」
京子は意外に思った。美智子にこんな優しげな声が出せるとは思わなかったからだ。
「いくちゃんに逢いに行ったのよ」
美智子に合わせて京子は静かに言った。
「郁子に?」
美智子は不審そうな顔をした。しかし、京子は構わず続ける。
「わたしは、あなたやいくちゃんに受けた仕打ちを忘れることができなかった……」
「ああ…あれね」
美智子が申しわけなさそうな声で言う。
「あれは悪かったと思ってるわ。それは素直に謝るわね。あなたのお母さまが亡くなっていたなんて知らなかったんですもの。でも、言い訳するわけじゃないけど、わたしね、あなたが羨ましかったのよ」
「羨ましい?」
京子はベッドの上で身じろいだ。
「ええ。そうよ」
見ると、美智子の顔が少し赤くなっているようだ。
「子供の頃のわたしの恰好を覚えてるでしょう。あれって、ひどかったと思わない? わたしは大嫌いだったの。まったくセンスのかけらもない服なんだもの。あれをわたしが好きで着てたなんて、みんなに思われるのがとてもイヤだった。あれをわたしに着せていたのは誰だと思う?」
京子は首を振った。
「父の愛人だったのよ」
京子は吐き捨てるように言った。
「あの頃、わたしの父は母と離婚したばかりでね。母はわたしを父に押しつけたまま家を出ていったの。父にはすでに愛人がいたわ。籍は入れてなかったけれど、事実上の妻として我が物顔で家に居ついていたわ。派手な女だった。ブランド物を買いあさり、わたしにも自分の趣味に合わせた服を着せたのよ。わたしが喜んでいると思い込んでね。でも、わたしには父に逆らう強さがなかった。父の愛人に怒りをぶつけても、逆に責められるとわかっていたから何も言えなかったわ」
美智子は京子に向けていた目を逸らすと、遠くを見るような目になった。
「あなたの着ている服はわたしにとって憧れだったわ。都会のセンスに満ちた、とっても洒落た服装……」
「佐伯さん……」
「だから、それをお母さまに買ってもらったと言うあなたが、まるで自慢しているみたいに見えてとても嫌いだった……」
美智子は再び視線を京子に戻した。彼女の目はひどく悲しそうだった。
「だけど……」
すると、美智子の口調が変わった。悲しげな表情を浮かべていた顔を下に向け、許しを請うように頭を垂れる。
「とにかく、あれはわたしが悪かったわ。ごめんなさい」
「別に……いいわよ。あなたはあんな人だと思ってたから……」
「それもちょっと失礼な物言いだわね……」
頭を下げた恰好のまま、ぶつぶつと美智子は呟いた。だが、幸運にもそれは京子には聞こえなかったらしい。
「その……」
京子は言いにくそうに口ごもる。
「お父さまの…その…お相手の人…は……」
「とっくの昔に別れたわよ」
美智子は事も無げに言った。
「どうせ、そうなることは分かっていたわ。母との離婚だって、父の女癖の悪さから起きたことだもの。あの父が一人の女に満足するわけがないのよ。まったく男ってやつは!」
美智子の怒声が病室に響く。
「…………」
京子は神妙な顔つきで、怒れる美智子の顔を見つめた。
「だけど……血の繋がりってこわいものよねえ」
すると、なぜか美智子の表情が和らいだ。
「どんなにイヤだと思っていても、どこか憎みきれないのよ。わたしを捨てて出ていった母に対しても、子供のころは憎んで憎んで憎みつづけた。でも、近頃では、母が感じた辛さ、悲しみというものがわかるような気がするの。わたし、けっこうつっぱってたつもりだったけど、やっぱり子供だったんだなあって……大人のこと分かってたつもりだったんだけどね」
「佐伯さん……」
心配そうにそう言う京子に、弱々しく笑って見せる美智子であった。
「ごめんね。変な話して……」
「………」
京子は首を振った。
「でも……」
しばらくして、京子は不思議そうな顔をして言った。
「わたし、よく助かったものだわね。デパートの屋上から飛び下りたのよ。あそこって確か七階建てじゃなかったかしら」
「それが、すごい奇跡だったらしいわよ」
美智子が顔を上げ、目を輝かせた。
「あなたの身体は、風に煽られでもしたらしく、電線に引っ掛かって、そのあと景観のためにと植えてあった木に落ちたそうよ。それがクッションがわりをしてくれたのね。それで勢いが弱まって、さらに植え込みに落ちたの。もう少しズレていたら、コンクリートの上だったんですって。そうなったら、いくら勢いが弱まっていたからといって、腕と脚の骨折だけじゃ済まなかったでしょうよ」
「そう……」
彼女の言葉に、なぜか上の空で頷く京子。
「いくちゃんはどうしたの?」
「え?」
美智子は不審そうに目を細めた。
「ほら。屋上にいたでしょ」
「あなた、何を言ってるの」
心なしか美智子の顔が青ざめているようである。
「屋上には小西さんしかいなかったわよ」
「え…でも…」
「いるわけないじゃないの!」
美智子は京子の言葉を遮った。
「!」
思いのほか鋭い声に、京子は黙り込んでしまった。
「……誰もいないのに、屋上で女の人が、まるで誰かに語りかけているみたいに喋っているとお客さんに聞いて、わたしは駆けつけたのよ」
京子は、傍らに飾ったユリの花に目をやりながら言った。
「そんな……まさか……」
京子は驚愕の顔を隠しきれない。
「わたしは、あそこで逢おうって彼女に手紙を出したのよ。あのことがあってから、わたしは急に父の転勤で引っ越しして、結局いくちゃんに逢わないまま別れてしまった。そのために憎しみが増していき、いつか彼女に復讐してやると思い込むようになったの。そして、たったひとりの身内だった父も他界してしまい、ようやく復讐劇ができるとこの町に戻ってきた。もう何も恐れるものはない。何も失うものはない。わたしが死んでしまっても、誰も悲しむ者はいない。そう思ったからこそ、手紙を出し、彼女と逢う手筈を整えたのに………」
「そう…そうだったの……」
京子の言葉を聞き、美智子はようやく合点がいったというように頷いた。
「やっと分かったわ。郁子が何を悩んでいたのか……あなたから手紙をもらったからだったのね」
「どういうこと?」
京子は訝しげに言った。
「郁子は死んだわ」
「え……?」
京子は一瞬何を言われたのか、理解できなかった。まるで「死んだ」という言葉に、無意識のうちに拒絶反応を起こしたみたいだ。
「なん…です…って?」
そのとき、京子の脳裏に、屋上から落ちていく時に見た情景が浮かんだ。
優しく微笑み、京子を「大好き」と言った郁子の神々しいまでの顔を───
あれは夢ではなかったのか───京子は思った。
彼女が助けてくれたのか。本当なら絶対に助かりはしなかったであろう。それなのに、自分は奇跡のように助かったのだ。
「ユリの花束が供えてあったでしょう」
京子の物思いを美智子の声が破った。それでも、京子は心が麻痺したかのように無反応だった。
「あれはわたしが置いたんだけれど、あそこから郁子はフェンスを越えて飛び下りたの。ちょうどあなたがしたようにね」
「………」
京子は美智子へ視線を向けた。ゆっくりとぎこちなく。
「佐伯さん……」
「遺書はなかったわ。どうして彼女が自殺しなきゃならないのか、誰にも分からなかったの……そう…あなたに責められるのが怖かったのね。まったくあの子ったら…馬鹿なんだから……」
そう言う美智子の目から涙が溢れた。
「………」
京子はもう言うべき言葉を失っていた。何を言っても、今はどうにもならないと分かっていたからだ。ただ辛そうに目を細め、美智子の泣く姿を見つめるしかできずにいた。
「その帽子……」
「え…?」
泣きはらした美智子の目が、京子の頭の上に設えてあったフックに掛かっている、あの白い帽子に向けられた。
「知ってた? わたしにとってあなたの服が憧れであったと同じで、郁子にとってはこの白い帽子が憧れだったの。郁子ったら、あなたがいなくなってしまってから、いつもいつも言っていた。白い帽子が似合う女の子になりたい。京ちゃんのようになりたいって。それはもう呪文のようにね」
「帽子……」
京子はベッドから帽子を見上げた。
(わたしの手紙のせいでいくちゃんは死んでしまった……)
京子は心が痛んだ。
(でも……)
京子は分かってしまった。
どちらにせよ、誰かが死ぬことは避けられないことだったということに───
京子が手紙を郁子に送らなかったら、憎しみに押しつぶされて京子自身が命を絶っていただろう。もしかしたら郁子も、手紙のことがなくても同じ道を辿ったかもしれない。
(なんだか……)
ここまで考えて、京子の心に浮かんできた言葉がある。
───幽霊を見たものは必ず死ぬ───
「やっぱり……」
京子は思わず呟いた。
「あの噂は本当だったのかしらね……」
「え? 噂って?」
美智子は鼻をすすり上げながら聞いた。
「てっちゃん地蔵の噂よ」
「…………」
「幽霊を見た人は死んじゃうっていう、あの噂……結局いくちゃんは死んでしまったし、奇蹟的にも助かったけれど、わたしも死ぬところだったし……あら、そういえば……」
京子は何かを思い出したようである。
「佐伯さんも幽霊を見たんじゃなかった?」
「ああ、あれね…」
京子の言葉に、ばつの悪い顔をして美智子は言った。
「あれ、嘘なの」
「えっ、うそ?」
すっかり涙の後も消えてしまった美智子の顔をしげしげと見つめる京子。
「ええ。あのとき、ああでも言えば、より一層あなたを怖がらせることができると思ったのよ」
「まったく……」
京子は呆れたように首を振った。
「わたし、やっぱり、あなたって人が好きになれないわ」
「それはこっちのセリフよ」
京子の言葉にむっとしたらしく、美智子は憤慨して言い返した。彼女のその言葉は、くしくも彼女たちが幼いころ、京子が美智子に返した言葉であった。だが、二人ともそんなことを言い合ったことなど、すっかり忘れているようだ。
しばらく互いに睨み合い、病室には緊張した空気が流れた。
しかし、その緊張感を先に破ったのは、意外にも佐伯美智子であった。彼女は表情を和らげると言った。
「でも、幽霊の話は本当のことだったのかもしれないわね。あなた、見たんでしょ。郁子の幽霊を」
「ええ…そうね」
京子は些か戸惑いながらも頷く。
「どうやらわたしは、いくちゃんの霊に助けられたみたいだから」
それを聞いた美智子は、無意識のうちに顔をしかめた。
「もう…あの子ったら、死んでからも人のこと気にしてばかりで……馬鹿は死ななきゃ治らないって、あれは嘘だわね。郁子がいい例だわ」
「…………………」
京子は黙ったまま身じろぐ。その彼女の目に美智子の飾ってくれたユリの花が飛び込んできた。
ユリの花の白さが、窓の向こうの空の青さに映えている。それはもう鮮やかで美しい眺めであった。
(いくちゃん。わたしはあなたの分まで生きつづけるわ。この命はあなたがわたしにくれた物だものね。本当だったら死んで無くなってしまう物のはずだった。わたしは、辛くても悲しくてもこれからずっと生きつづける。だから、空の上からいつまでもわたしのことを見守っててちょうだい。そして、わたしに勇気を与えてちょうだい。わたしがこの世界で強く生きていくために……)
京子の目に映る情景は、こののち彼女の心から消えることはないだろう。
白いユリの花、病院の天井や窓。
窓の外に広がる風景、遠くに連なる山々。
京子は、優しそうで、それでいて厳しい自然や、自分を取り巻く環境に思いを巡らせ、いつまでも窓の外を見つめつづけていた。




