プロローグ
「白い帽子……」
高林郁子は何でもない事のように呟いた。
縁なし眼鏡の下で、目をうっすらと細めて遠くに煙る山を見つめている。
「落ちていく……」
彼女はデパートの屋上にいた。
平日のこの日、観葉植物があちらこちらに配置されている屋上には誰もいない。
さきほどまで、数人の従業員が煙草を吸いにきていたが、今は彼女しかここにはいなかった。
「昔は、この屋上にも遊園地のように観覧車が回り、機械仕掛けの乗物が設置され、子供たちが溢れていた。私が生まれた年にこのデパートはできて、幼いころ、よく親に連れてきてもらったものだった」
フェンスに寄り掛かるように、遠くを見つめていた郁子は、そう言いながら後ろを振りむくと顔をあげた。
彼女の目の先には、このデパートのシンボルマークの刻まれた看板があり、町並みを見下ろしている。
「まさか自分がここの店員になることになろうとは、夢にも思わなかったわ」
郁子は喋りつづけている。まるで誰かが彼女のそばにいて、その人物と歓談しているみたいに。
「…………」
彼女はゆっくりと足もとを見やった。真っ白なユリの花束が置かれてある。
「はぁ……」
そして、微かな溜め息をついた。
おそらく昔なら、コンクリートで固められた足もとだったことだろう。
今では見渡すかぎり、びっしりと人工芝が張りめぐらされており、緑一色でおおわれていた。
子供の喜ぶ施設はないが、大人たちが落ちつける空間である。
人々は、それほど心がすさんできているのだろうか。
仕事に追われ、我が子とともにゆったりとした休日を過ごせぬ現代の親たち───忙しい仕事の合間、あるいは(貴重な)休日、買い物に子供たちとやって来てお昼を食べたのち、子供らは一目散におもちゃ売り場へと突進してしまい、ひとり手持ち無沙汰して待つ間、一服でもと、空の見える場所を求めてこの屋上へとやってくる。
せめて緑に囲まれ、町の喧騒から逃れたい───いったい誰がそんなことを想像して、この屋上を緑の絨毯で満たしてしまおうと思ったのだろうか。
今や、ほとんどのデパートの屋上はこんな具合で、癒しを求める大人たちがたむろする。
「…………」
彼女は心持ち顔を上げ、見つめた。
視線の先には屋上に出るための通用口があった。それは客用のものである。
彼女は待っていたのだ。ある人を。
「ふぅ───」
大きなため息をついて、郁子は呟いた。
「子供のころはよかった……」
彼女の目は、再び足もとの芝に目を向けられた。
だが、もうすでに彼女の瞳には別の何かが映されているようだった。
「今のように何にも束縛されず、自由だった時代───でも、本当は幼いというだけで、精神的にも肉体的にも理不尽に束縛されつづけ、だれもかれもが理想という名の自由を手に入れたいと願っていた───」
そして、彼女は語りだした。
「そんな、幸せだけど不幸だった、でも限りなく優しかった時代に、京ちゃんは───」
そよと風が吹く。
足もとのユリが微かに揺れた。
彼女は懐かしそうに目を細め、遠くの空を見つめている。
「いつも白い帽子をかぶっていた………」




