逆さ森の虹のあと。
未だヒトの立ち入らぬ、深い深い場所に、その森はありました。
地面には細かな砂が降り積もり、時折見かける岩場には色とりどりの木々が四方に枝を伸ばしています。色ガラスを何枚も透かしたような光が空から降り注ぎ、風は振り子みたいに行ったり来たり。
もしヒトが森の様子を目にすれば、きっと不思議がることでしょう。
けれど、森の仲間たちにとってはただの、当たり前のふるさとでありました。
「なぁ。きみ、虹ってみたことあるか。」
尋ねたのはブタくん。
尋ねられたカメさんは、甲羅から伸ばした首を捻ります。
「虹って何だい。そんなものみたことないや」
「ヒョウのやつに聞いたんだ。雨のあと、空の向こうに虹というきれいなものが出てくるらしい。ボクは、それがみたくてたまらないんだ」
「そんなの無理に決まってる。雪ならともかく、雨なんて降ったことがないじゃあないか」
カメさんは諦めろと言いますけれど、ブタくんはまるで聞きません。お話でしか聞いたことのない虹に、心を奪われてしまったのです。
仕方なく、カメさんはブタくんに言いました。
「だったらヒョウの野郎に聞いてみようじゃないか。虹を見たってその場所に連れて行ってもらおう」
「よしきた。ヒョウの話を聞いたら、きみだってきっと虹を見たくなるだろうさ」
二人は連れ立って、ヒョウの住処に向かうことにしました。
「虹だって? ほんとうにそんなものがこの世にあるのかい」
道中、ブタくんとカメさんは、ウシの親分と、ウサギの子分に出会いました。
二人とも、森では名の知れたおしゃれさんです。
背中に木々の葉やきらきら光る砂を乗せて、ウシの親分とウサギの子分はブタくんを見上げます。
「ヒョウの野郎が見たらしいんだ。今から、それがほんとうか確かめるところさ」
「ならわしらも連れて行っておくれよ。この森にわしが知らぬものなどあってはならんのだ」
「あっしたちは足が遅いから、カメさん、その甲羅にのせてはくれないかい。なァに、お代はホラ」
と、そこらにあったはっぱを食いちぎり、ウサギの子分はカメさんに差し出します。
「そんなのいらないけれど、そうだな。一緒に行くならそっちの方が早そうだ。ブタくん、二人をオレの背中にのせておくれよ」
二人は四人になって、ヒョウの住処に向かいます。
「虹がそんなにキレイなものなら、是非とも見てみたいねぇ」
「おまえはまたそうやって、物好きだなぁ」
ヒョウの住処である岩山のふもとで、四人はクリの旦那と、ウマの奥様に出会いました。
「それはもう! 森の木々よりも色鮮やかで、貝よりもきらきらしてる、ものすごく大きなものらしい。今から、どこで見れるかヒョウに聞くんだ」
「いいわねぇ。行きましょうよあなた。わたし、虹っていうものを見てみたいわ」
「そうは言ってもねぇ。ほら、おれは歩くことが下手なんだ」
二人の会話に、ブタくんとカメさんは顔を見合わせます。
クリの旦那の棘はとても鋭くて、二人とも背中に乗せるのを嫌だなぁと思ったのです。
「よし。オレの背中はウシの親分とウサギの子分でいっぱいいっぱいなんだ。ここはひとつ、ブタくんに二人を運んでもらおう」
「冗談はよしておくれよ。ボクの柔らかい背中にのせたら、クリの旦那が刺さってぬけなくなってしまうだろう。きみの背中は固く、ひらったくて乗り心地も抜群だ。クリの旦那を乗せて運ぶなんて、森の中じゃあきみしか出来ない大仕事じゃないか」
ブタくんの口車にのせられて、カメさんはクリの旦那とウマの奥様をその甲羅にのせました。
ヒョウの住処は森で一番空に近いところ、険しい岩山の天辺です。
ブタくんとカメさんがついたとき、そこにはヒョウと、ぽっかり浮かんだお月さまが話をしておりました。
「本当に話してしまったのかい? 困ったな、虹はとても危ないものなんだよ。空の向こうの虹は良いけれど、空にかかる虹を見たらすぐに逃げ出さなくてはならない」
「でもよ、キレイなんだろ? だった見るくらい……」
「それはそれはキレイで不思議、見たり、触れたくなる気持ちはわかるけれど、森の全てをなくしてしまうような恐ろしいものなんだ。だから誰にも言ってはならないと、固く言い含めておいたのに」
お月さまの言葉を聞いてしまって、ブタくんは身をすくませました。
お月さまは、空と森のはざまをただよう、とてもとても不思議な方です。知らぬことなどなく、その言葉は予言のように正しいのです。
虹を探しにここまでやってきた自分が、とても悪いことをしているようで、恐ろしくなってしまいました。
「ブタくん。聞いてしまったのかい?」
「ごめんなさい、そんなつもりじゃ……。ただぼくは、虹が見たくって」
「決して、そんなことを願ってはいけないよ。願えば虹は来るものだ。もしも見てしまったら、すぐさまそこを離れるんだ。決して戻ってはならないよ」
返事をする前に。
空を行く大きなものが、ブタくんの目を奪いました。
「あれは……」
「見るのは初めてかい。あれは、船というものだ。言葉も喋れず空を行く無機のものだ。……あまりよくないな。すぐに岩山を降りた方がいい」
果たして、その船というものはまっすぐにブタくんたちへと近づいてきます。
風が吹き荒れて、カメさんの甲羅から、クリの旦那とウマの奥様が落ちてしまいました。
逃げるんだ、というお月さまの言葉ももう聞こえません。
船は岩山にぶつかって、その身体から、だくだくと血を流します。
黒々とした空を覆うように広がり続け、薄まり――やがて、七色のぎらついた輝きを放ちました。
「あれが、虹……」
初めて見る虹は想像よりもずっと恐ろしく、悍ましく、なのにあまりにもキレイで、ブタくんは思わず見とれてしまいます。
「おい、おまえ。お月さまの言葉を忘れたのか。早く逃げないと死んでしまうよ」
「でも、クリの旦那とウマの奥様が……」
ブタくんは下を見ましたが、虹によって光は遮られ、岩山の下は真っ暗です。もう、二人の姿は見つかりませんでした。
カメさんに手を引かれて、ブタくんは走り出します。
虹は見る間に空へと広がり、追い付くことなど出来そうにもありません。そしてタコのような触手を四人めがけて伸ばすのです。
ブタくん、カメさんはなんとか逃げ出しましたけれど、ウシの親分とウサギの子分は絡めとられ、もう、ダメになってしまいました。
「カメさん、みんなが」
「おれたちだって危ないんだ。空に出られなければ息も出来ない!」
限界が近かったのはカメさんの方です。
息が苦しくなり、どんどんと遅くなって、やがてカメさんも見えなくなってしまいました。
残っているのは、もう、ブタくんだけです。
虹で覆われた空はぎらぎらと輝き続け、森は暗く、静かになっていきます。
どこまでもどこまでも、ブタくんは逃げましたけれど、最後には虹の触手に捕まり、もう、どうしようもなくなりました。
ブタくんを助けたのは、ヒトという、森には居ない生き物でした。
ヒトは、私たちのせいでごめんねと、涙ながらに謝りましたけれど、ブタくんには何を言っているのかもわかりません。
ただ、森に帰りたいと、ブタくんはそんなことばかり考えていたのです。
やがて体も癒えたころ、ブタ君が故郷に帰ることになりました。
道中は皮膚が乾いてとても痛く、けれど森のことを思い出せば、少し心が軽くなります。
苦しい旅路を越えて、ブタくんは故郷に帰り――
けれど、仲間たちはもう、ブタくんを迎え入れてはくれませんでした。
色とりどりだった木々は灰色に枯れて果て、濁った土が地面を覆っています。
変わらぬはずの光や風すら、もの悲しく感じられました。
沢山いた森の仲間は影も形もなく、代わりに見知らぬものどもが、新顔であるブタくんを不思議そうに眺めています。
「キミは誰だい?」
「知らない顔だ、仲間とはぐれたのかな」
「ここは寂しい場所なんだ、仲間になってくれるのなら大歓迎さ」
彼らはブタくんをやさしく受け入れてくれましたけれど。
あまりにも悲しくなって、ブタくんはひとつ、鳴き声をあげました。
森はもう、死んでいたのです。
未だヒトの立ち入れぬ、深い深い海の底。
逆さ森の、それはおしまいでありました。