藪神様
歩けば鈴が鳴る。竹藪の奥から静かに染み出るように鳴るその音は、どこか甘露な響きで人を惑わす。
まるで別の世界へ誘う呼び水の様であり、聴くものの心をざわつかせる。
時折、風が吹き、鈴の音と混ざる。それは竹の死鳴る音だろうか。
私は人ではない。姿は子供にしかみえない。いつの日か忘れてしまうとわかっているのに、やめられない。
元々は人間で、竹藪に捨てられていたと聞かされた。
記憶がないので、それが本当なのかは分からないが、人間ではないということについては自覚がある。
歳をとらない、人の寿命と照らし合わせても不自然なくらい長く生きているし、多少の怪我はすぐ治る。
食べなくても餓死しないし、痩せたり太ったりもしない。
人はお稚児さんを超えたあたりの時分に決まったように私のことが見えなくなる。
そして暫くするうちに、私の存在も出会ってていた記憶も綺麗に忘れてしまう。
それを知っていて、同じことを繰り返す。
「進歩のない阿保だ」と薮神様に言われた。
この竹藪には小さな祠が1つだけあり、そこに住まわる神様がいる。藪神様だ。
祠には時折、人が手を合わせにくるので、藪神様は貰ってばかりも気分が良くないと
適度にこの山を守っている。
私は竹藪様の祠の鈴なのかもしれない。
祠の鈴は1つ欠けていて、私が歩けばリーンと静かな音が鳴る。
その音は極限まで柔らかく遠くまで音の波が空を駆けて響いていく。
聴くものを揺らし、心の静けさに一筋の滴が落ちたように波紋が広がり、ざわざわと胸のあたりが落ち着かなくなる。
音が響き終わった後、不思議な静寂と視界の広がりと、意識が体から飛び出して周りにとけてしまうかのような感覚の中に己を陥らせる。
それは竹藪の中を一人で歩いている感じに似ていて。
そう、藪の音なのだ。
ざわ、ざわっとどこかわからない異世界の深淵の底からの音が、その場にいるものの不安を掻き立て
その癖、どこか心安らぐような心地にさせる。
そんな音を立てる鈴が体につけられている。
「貴方様だって迷い込んできた子供を脅かして、街に戻るように促してる癖に」
藪神様は人に触れるなという、なのに私を受け入れてくれる
私はどうしても人に触れたくなるから、藪の中には居られない気持ちになって、誰かを常に待っていて
「我は静謐な空間を好む。ぎゃーぎゃーと子供が遊んでいる場所を藪とは言わないだろう」
「そんなものでしょうかね」
藪神様だってきっと同じ気持ちに違いない。
いいえ、分かってる。最初から人の餓鬼に関わらなければ別離の寂しさも感じなくて済むのだ。
ざくざくっ
草を踏みしめて歩く音が聞こえた。藪にふさわしくない重くない餓鬼の足音に、私の身体の中にある弦楽器は1つ高い音階に変わるように跳ね上がる。
「おお、誰かいた。何してんの」
リーンとどこかで鈴の音が鳴る
「はぁ」またか。私は肩を崩し面倒なものに出会ったと大げさに嘆いた風を装う。
「何もしていないが、お前はどうしてこんなところにいる?」
「迷っちゃってさ、適当に歩いてた」
「そうだろうな」
洗っては汚しているのであろう黒ずんだスニーカーと、活発そうな瞳とそれに似合う短髪。右手には拾ったのか知らないが竹の枝を持ちぶんぶん振り回している。
危ないやつである。竹の枝は切れ味が鋭いというのに。
「知己よりも勢い」を体現しているような、端的に言えばそこらに良くいる餓鬼のそれである。
意地悪そうな瞳をしていない点は加点をあげてもいい。それ以外はまったくもって餓鬼である。ああ餓鬼だなぁと思う。餓鬼としか表現のしようがない餓鬼である。
「おい餓鬼」
「はぁ?俺のことか、ガキ扱いすんなよ、お前もガキだろうが」
まぁ外見だけはそう見えるだろうな。だが一緒にするなと言いたい。こう見えても妙齢の女性なのだぞ。
いや、妙齢って言っていいのかわからないけども。老婆と言われるのは少々きついものがある。心は若いから。
「さっさと帰ってくれないか」
藪神様の気配は空に消えていた。これもいつものことである。
人にその姿を見せることは無い。
夕方になれば、子供は家に帰る。藪に居ると危ない。そのことを伝えなければいけない。
そんな風にして、その年も、竹林の中に迷い込んできた何も考えていない勢いだけの洟垂れの餓鬼の世話をした。
きちゃない鼻をちんして、さっさと帰れと諭した。
その餓鬼、名前は大和だったか、ヤマトと書いて「ダイキ」と読む、いや読まないだろう、可笑しな名前だ。
そいつは最初から不躾な奴だった。
「お前、何で一人でいんの?何そのしゃべり方?いい匂いがする、何で?」
「知るか!」
藪神様は空から目を細めてこちらを睨んでいる。
「他所でやってくれんかね」という非難をチクチク頭に受けるのだけど、これって私のせいか?
「私はもう400歳を超えている」
「げっ、ばばぁだ」ばばあ、ばばあと叫びながら謎の竹振り踊りを踊るこいつは間違いなく餓鬼である。
ああもう、餓鬼なのはわかったから、餓鬼の証明をしなくていいから。
「そうだよ、老婆の扱いでかまわない」実際精神としては老婆のそれである。
それを聞いて餓鬼は私の頭から足の指先までを不躾に視線で舐める
「つまんねぇな」
ああもう、いいから帰れ!
「なんでこんなとこいるの?」
「人に関わりたくないからだ。」
「俺は人だぞ」
「わかってるから早く帰れ」
「ふーん、お前も人間なのに」
邪気のないその言葉に心がざわついた。辺りにリンと静かな音が響いた。
「これやる」餓鬼の右ポケットから差し出されたのは、テカテカと黄土色で怪しく艶光りしている丸い物体である。
「泥を固めた団子を渡されてもね」
「いいから、はい」差し出されたものは何でも受け取らなければいけない。それが祠の神の矜持というものだ。
例え不要な余計な邪魔なものであっても快く受け取るぞっと。
藪神様って偉いよねぇと思いつつ受け取る。いらねぇ。
「固っ、なんだこれ?」
「当てたらメッチャ痛いぞ、良いだろう」
「そうだろうね」何が良いんだかさっぱり分からないが。
てめぇに当てて追い返してやろうか。なんて意地悪なことが脳裏を掠めたが即座に反省した。
いや怪我させちゃうし、この硬さは。
「まぁありがとう、お供え物として頂いておくよ」
「さぁ、あまり暗くなると家の人も心配するだろうし、本当に帰れなくなるから、頼むから帰ってくれないか」
餓鬼は空を見上げて、周りを見回して、阿保なりに状況を理解したようだった。
辺りが暗くなり、少し風が冷たくなり始めている。
「うん。わかったけど、お前は?一緒に帰らないのか」
「わたしはいい。ここが家だ」
「ふーん、なにいってんの。さっさと帰れよ」お前に言われたくはないな。
さらにリンとどこかで音がした。音がしたのは私の鈴だろうか。
歩き出そうとした餓鬼が振り向いてこちらに目を向ける。真剣な眼差しで問いかけてくる。
「また会えるかな?」
「何故そのようなことを聞く」
「友達だから」
「いつそのような関係になった」
「それ」っと餓鬼は私が持つ泥の玉に指をさしてこう続けた。
「友達の証」ニカっと白い歯を見せると、何やら歯の上に器具のようなものがついている。
歯の矯正か、しっかりした親なのだろうな。幸せなことだ。
ってちょっと待て、この団子にそんな意味ないだろうに。
「じゃね、いい匂いの人」
「褒めてるのか知らんけど、その呼び方はどうなんだ?」
「だって名前」という彼の言葉にかぶせるように、自分のことを彼に伝える。伝えたかった、だって友達だもの。
「慶鈴」
「ん?」餓鬼は頭を傾けている。失礼な奴だ
「私の名だよ」
「けーれ?」
「そうそう。早く帰れって意味だ」
「ぎゃははははは!変な名前」「またな、カエレちゃん!」
「ケイリンだ」彼は今度は振り向かず、全速力で藪の外に走って行った。走りながらも手にもつ枝で生えている竹を叩く、所謂一つの餓鬼である。
「危ないなぁ、ちゃんと前見てくれ」
兎も角として、あちらに向かえば、どこかで竹林を抜けて街道に出るだろう。
「友達、ねぇ」
丹念に磨かれた、価値のわからない泥の玉、それを祠の左奥に丁寧に収めた。
私と藪神様はここが家である。貰ったものを家に収める。それに間違いはない。
「もらったのは貴君だ、その価値は受け取る者ではなく、与える者が決める仕来りである」
空に居たはずの気配が、地面から沸き上がり、形を成して私の隣に立った。
藪、その気配に包まれると私は誰かに抱きしめられているかのように、心の波音が静かに、あるべき場所に落ち着く。
リーンと胸の中で柔らかな音の波紋が広がり、全身を心地よく弛緩させる。
「名前を教えても仕方ないのではないか」
「はい。それでも教えてもらったのです。返礼として」
「なかなか騒々しいやつだった」ああ、あの騒々しさは藪神様を不愉快にさせてしまったのかもしれない。
「ごめんなさい藪神様」ペコリと頭を下げて主人の許しを請う。
「良い。貴君にとっては、いい暇つぶしになったであろう」
「ええ、そうですね」
時折、落ち葉を舞い上げて、地面から空へざっと風が吹く、その風の音にリーンと私の音が混ざり、天に向かう竹と竹の間をすり抜けて虚空の彼方へ消えていく。
残るのは静寂と、逢魔が時の柔らかく仄かに紫草の根から染色されていくかのような、混色の空。
藪神様は、常に私に優しい。
数日後、彼は友達をつれてやってきた。うざいやつである。しかしまぁ、遊んでやるのは吝かではない。
鬼ごっこをしたり、竹を切ってトンボや弓を作ってみたり、やれることはいくらでもある。虫もいるし、たけのこもある
竹林で遊んだ。時にはせがまれて町まで出たりした。
そのうち徐々に、一緒に遊んでいた人間が減っていく。そうして残ったのは彼だけだ。
彼がこけそうになったのを私がかばって顔に怪我をした。
妖怪でも赤い血がでるのが滑稽ではあるが、すぐに治った。
「いいなぁそれ」
「伊達に400年生きてないぞ」
「じゃ、俺も400年生きる」
「ああ、そうしてくれたら暇にならなくて済む」
「でも、もう少しすれば忘れてしまうんだよ」
「忘れねぇよ」
うんうん、そうだねぇ。何度耳にしたであろうその言葉。聞き飽きたのに決して嫌ではない言葉。
「忘れちゃうのかな?」彼は時折不安になることがあった。こんな藪の中で一人で居るからに違いない。
だからさっさと出て行けというのに。
「少なくとも400年の間で忘れなかった子はいなかった」
「そうなの?じゃ俺もか」
「だろうね」
そうなのか、困るなぁ、と独り言ちているが、何をしたって無駄なのだから考えなければいいのに
「でも、いいよ、忘れたことすら忘れるから」
「出会ったことも記憶になくなるみたい、悲しくもないさ」以前、餓鬼の親の親ぐらいの餓鬼に会いに行って、そのことに気づいた。
「お前は忘れないんだよね」まぁそうだねぇ、そういうものだねぇ。
少年を見ながら背中に手をあてて竹に身体を預ける。預けた竹は紗なりとしなってざわざわと音が鳴る。
頭上から降るその音は私が確かにそこに居る証拠なのだろう。
「変だよそれ」
「そうだねぇ、でも忘れたくないからいいんだ」
「俺も忘れたくない」少年は私を見据えてそう言った。
「ありがと」笑顔で彼の視線を交わすしか、私にはできない。
ずっと一人で、忘れられて、そんなのは可愛そうだ。だって、ふふふホント餓鬼だ。
いや、約束だ!「お前を一人にしないからな」真剣な目をしてそのようなことを言った。
そういう台詞はもう10歳くらい歳を重ねてから言ってほしいなぁ
「怪我しても元に戻るよな」
「ん?ああ、戻るけど」
子供というのは話に脈略がない、頭に浮かんだこと、言いたい話題に急にかわるからついていくのが大変だ。
「多少痛いけど」
「だったら、いいよな」
「なにがだ、主語をつけてくれ」
「しゅご?」
「いやいい、続けて」
「身体の一部もらってもいいかな」
正直、驚いた。そうくるのか、腕の一本でも取り上げようというのか、それとも髪の毛か、どちらにしても少々野蛮ではないか。
腐ったりはしないだろうけど、そんなものを持って帰られたら親が泣くぞ。
「はぁ?やれるものならやってみればいい」
彼は私の小指にかみついた。くすぐったい!舐めるな。消毒のつもりだったのだろう、指を丹念に舐めて唾液を付けた後に
ガブリと齧り付く。
「ごへん」
聞き取れなかったが、多分これは「ごめん」だなと思う。
目線だけ上げて、私の顔を一瞥した後、先の皮の一部と爪を引きちぎって
それを飲み込んだ。
私の小指からポトリと血が流れた。
「これで忘れない」
よくわからない理屈だと思った。食べてもそのうち排出されるだけだろうに。
「そうなんだ、そうなるといいね」
「ごめんな、バンドエイドもってないやどうしよう」自分でやったくせに、目の前で慌てる餓鬼を見つつ可笑しくて笑ってしまう。
彼の行為は無意味である。それでも慰めにはなった。
彼は私を忘れたくないと思ってくれている。この痛みがその証拠なのだとしたら、しばらくはこの痛みを味わっていてもいい。
不思議なことに彼の身体から私の小指が排出されることは無かった。
私の削れた小指も怪我こそ治ったものの、完全には元に戻らなかった。
いつもなら指が千切れても、そのうち生えて元に戻るというのに。
私は時折、子供たちの姿を見に行く。最初は思い出さないか、見えるようにならないかという淡い期待もあったが
今では特にそういうこともなく、何かしらの義務感でそのようにしているのだが、藪神様はその行為を愚かだという。反論はしない。
顔をゆがめて竹林に戻ってくる私を見ていれば、何か言いたくもなるだろう。
今日もまた、同じような顔をして竹藪に戻った。
「俺は絶対、忘れないからな」
その言葉を少年から何度聞かされただろうか、彼からもう二度とその言葉を耳にすることは無いだろう。
「あれ、何でこんなとこ居るんだ。誰かいたような、なんだったっけ」
今、直前まで覚えていたことなのに、何かに攫われて思い出せない。
そうして、その記憶は世界のどこにも痕跡すら無くなってしまう。
少年は自分がなぜこの場所に来たのか、ここで何をするべきだったのか、頭に確かに有ることはわかるのに、思い出すことだけは絶対にできない。
そうして、少しの違和感を覚えながら、思い出せないことは仕方ないと己の中で納得をするしかない。
「これしかないや」祠の前に給食の残りのパンを置いて、餓鬼は去った。
大和はお稚児さんを超えてちょうど1年後に私のことが見えなくなった。
そうして私のことを忘れてしまった。
指の効果だろうか、私との記憶が忘却に陥るまで、1年ほど延命できたものの結果としては他の子供たちと同じだった。
私のことを忘れて、己の人生を歩み始めた。
大和は一言でいうと彩のない人生を、何故か幸せそうに生きていた。
最初は様子をみるつもりだったが、そのあまりにも色気も食い気も欲も何もない、人として不自然な生き方が心配になった。
だから彼の傍に居て、一緒に過ごすことにした。
そうはいっても、声をかけても聞こえないし、もちろん居ることに気づくこともない。
さながら霊感のない男と座敷童の同居生活である。
ただ、私には座敷童のような、幸せの恩恵を与える能力は持ち合わせて居なかったようだ。
彼の人生は常に平たんであり、退屈であった。
彼は番を探さず、決められたように高校を卒業し、地元の市役所に務め始め
よく言えば平穏に、悪く言えば無為に、ただ安穏と日々を過ごしていた。
趣味もなく、他人との交流も希薄で、何やら空中に向かって声をかけて晩酌をするだけが楽しみの男になっていた。
容姿は悪くないし、服にも多少の金をかけて、身なりを正しているのだが、休日に出かけることはほとんど無かった。
それを知らない女からは、何度か好意を寄せられていたようだが、彼の柳に風の態度に業を煮やし
距離を詰める努力をあきらめて、傍から居なくなる。
そんなことを繰り返しながら、番と一緒になるべき適齢期を超えてしまった。
あれだけ阿保で元気で屈託のない餓鬼が、なぜ成長してこうなるのだろうか。
「せめて私が何か話せたらいいのに」
一人で過ごして、寂しいだろう?私ならいくらでも話を聞いてあげられるのに
そうしたらいつものように遠慮のない言葉と笑顔が見られるだろうに
彼の笑顔が見たいのに。
「寂しくない?」そう聞いても答えは無い。
それでも繰り返す。その問いかけは、部屋の中で空気に溶けて混ざる。
誰への問いなのか、分からないままに。
藪神様には毎日のように報告に戻っていたが
「もう会いにいくのはよしたらどうか」と声をかけてくれた。
彼は私と出会って、妖怪の気に触れ過ぎて、人としておかしくなってしまったのかもしれない。
これは私の責任だから彼が死ぬまで、彼を看取るまで傍を離れないことに決めた。
それで一人で生きることを選ぶ彼の寂しさが少しでも紛れるのであればと。
これは単に自己満足なのだろうと思う。私が何をしようが、彼にとっては彼の人生に何も変化が起きることは無い。
横に座り、時には寝ている姿を眺め、会社に出かけるのを見届ける。
竹藪に戻り、時が過ぎるのを待つ。日が傾き始めたころに竹藪を出て、彼の家で帰りを待つ。
彼はおそらく寄り道をせず、毎日同じ時間に私の待つ部屋のドアを開く。私はその瞬間を楽しみに待ち、疲れたであろう彼を迎え入れる。
「おかえりなさい」と声をかけ、許可も無く抱擁する。
お飯事だと自覚はある。それでもやめられない。
横に座り、ご飯を食べる顔を覗き見する。
何故だろうか、少し気恥ずかしく、不思議と満たされた気持ちになる。竹藪に居たころには感じられなかったことである。
私の外見は少しだけ成長しているように思えた。藪神様にそういわれて初めて気づいた。
彼の姿に己を釣り合わせたかったのかもしれない。
感情というものが私に何かしらの影響を与えるのだと、初めて自覚した。
料理を作れない、悩みごとの相談に乗れない、仕事で疲れているだろう彼の身体を癒すことができない、
彼に対して何もできない。
一時の間、決まった人と一緒に過ごせることは、私に安堵を覚えさせた。
そうして、もっと話したい、触れてほしい、そんなことが頭から離れなくなっていた。
彼の手を胸にあててみる。
大きな背中を抱きしめてみる。
鼓動が少し早くなって、戸惑う。
身体がすり抜けた瞬間に、我に返る。彼は私のことが見えないし、居ないのと何ら変わらない。
それでもまた繰り返し思ってしまう「ああ、彼と話がしたい」と。
長い間妖怪と触れ合うと、人との触れ合いができなくなるのかもしれない。そのように思えた。
それくらい彼は人として何かが欠けてしまっているように見えた。
普通に生きて、普通に番と一緒になり、子供を作ってほしかった。
そうしてその子供が私のところに来たなら、それはとても楽しいことだろうなと思ったのに。
だが、そのような人の幸せと呼ばれる行為を彼は一切しなかった。
時を重ね、彼は孤独に病死した。
誰も身内がおらず、無縁仏として扱われるであろう彼の亡骸を前にして、ポロポロと涙がこぼれた。
私の涙は彼の亡骸の上に落ちて、すり抜けて消えていった。
彼の死を、彼居なくなることを、彼の遺骸を、人生を慰め悼むことすらできない自分に悲しくなった。
ずっと一緒にいることは、別れの辛さを鋭く重くする。
数年以上も誰かと共に過ごしたのは初めてだった。
同じ人に対して、長くて数年しか触れ合わなかった私にとって、その別離は大きな衝撃であった。
愛しい人がいなくなったのである。愛しい人、そうか、私はそのように感じていのか。
彼が居なくなっても、私は何も変わらない。少なくとも私の命はまだ尽きそうにない。
迷い込めば二度と出てこれないような、いつまでも同じ景色が続く竹林の奥
人を拒む竹藪は、常に私に優しい。静かで、温かい。
「帰りました」
「お帰り」藪神様は必ず返事をくれる。
そう言ってくれる相手がいることは、とても幸せなことだと、彼を見ていて思った。
ああ、酷いことをしてしまった。
人と妖怪は触れ合ってはいけない。長い時間を過ごしてしてはいけなかったのだ。
「藪神様は、だから迷い子を追い返していたのですね」
「貴君と我は違う、完全な妖怪ではない。だから触れ合いたいと思う心も間違いではない」
「それでも」嗚咽して言葉が出ない、ただただ涙が止まらなかった。
「何故泣く?人はいつかは死ぬものだ」
「わかりません。ただ悲しくて申し訳なくて仕方がないのです」
「ずっと、ずっと思っていました。私が人であったなら、いいえ、せめて彼に見えていたら
何かできたのではないか、何もできない自分が悔しくて」
いえ、そうではない。
「私に会わなければ彼はこんなことには成らなかったのに、藪上様の忠告を守れば、一緒に居なければよかった」
「そんなこというなよ」
「え?」
目の前に餓鬼のころの彼がいた。
会うと照れ笑いし、直ぐに茶化して逃げる阿呆、懐かしい顔がそこにあった。
「どうして・・・」
「人ではなくなったか」
「あまりに長い間、体の中に妖怪の一部を含んでいたから、貴君の指と魂が同化して人ではなくなってしまったのだな」
「妖怪と人の魂が混ぜあって、天にも戻れずにこの場に残ってしまっている」
「そんな、私のせいじゃない」
どうしよう、おろおろと慌てる私に対して
「そんなことどうでもいいじゃん。やっと会えた、長かった」参った参ったと屈託なく笑う。
「良くないよ」
「いいから」
彼は私を抱きしめた。
「一人にしない、それが約束だっただろ?」
でも、でも
「ずっと一緒に居てくれた、だから幸せだった」
「見えなくても、なんとなく感じていた、だから自分の人生に不満は無かった」
「座して部屋にいる間、不思議だったんだ、なぜこのように思うのか、ただそこに居るだけで望むべきことが満たされ
するべきことを果たせていると思えていたのか」
「死んだとき、その理由が分かったよ」
「君がいたからだったんだな」
ずっと昔の話
祠に捨てられた子供を不憫に思った、だから藪神は鈴を与えてしまった。鈴は祠の一部である。
藪神様が言葉にならない声を発したのち、私の左手に鈴が見えた。
先が欠けた小指の第一関節に真っ赤な紐でぶら下げられている。
「貴君はこの男と一生分の時間を共にした。人としての一生を終えたのだから、もう良いだろう」
「鈴を外せば、人として死ねるはずだ」
その鈴は私にとって、甘い誘惑であり、この長い時間から解放されるための扉の鍵でもある。
鈴を外して、右手に紐の先を持つ。この手を緩めれば私の死に、魂は人として輪廻にかえるのだろう。
リーンとひときわ大きな音が鳴った。
光沢のある真っ赤なサクランボを飲み込むかのように、柔らかく唇の上に押しあててゴクリと鈴を飲み込んだ。
「な、なにやってんだ」
「一人にはできない。死ぬなら一緒に」
彼の眼を見て、意思を確認する。瞳が納得したのを見届けて
そうして竹藪の空に向かい叫んだ。
「私はあなた様の子供です」
竹藪は、ざわざわと静かに揺れている。
「不貞の娘は、親の悪いところが似てしまったようです」
「彼を一人きりにするのは不憫だと思ってしまいました。決して一人にはできないと、過去の私と同じ時間を過ごさせてはいけないと
そう思ってしまいました」
「貴方様が私に身体の一部を貸してくださったように。今、都合良く私も魂の一部を彼に貸しています」
「見てください」
子供から少しだけ成長した身体がそこにある。
「私は彼と居て、少しだけ時間を重ねることができました。こんなことは彼に会うまで1度もなかった。
きっと物凄く長時間がかかるでしょう、でもいつかは・・・。
そうして人として死ねると思います」
振り返って彼に問う。
「それまで一緒にいてくれる?」
「お前を一人にしない。約束だからな」
「うん」ありがとう。
「慶鈴。人も神も妖怪も皆同じだ。親が与える最初の贈り物
名前はそのもの自身を表す。鈴はもう貴君の一部だ。それをどうするのも貴君の自由。人として生き、人として死ぬがいい」
「貴君が寿命で死ねば、この男の一部も死ぬはずだ。運が良ければ魂も輪廻に戻れるだろう」
「ただし、この藪は人を受け入れぬ」
「わかりました」
別離の時、藪神様はいつも優しく正しい。そうしなければいけないのだと気づかせてくれる。
「今まで、大変お世話になりました」
「これからも貴方様を、そして私を見守り、大切に育ててくれたこの竹藪をずっと愛しています」
私は定期的に、祠に向かいお供え物をする。
人知れない、風の音だけがざわざわと響く藪の中
何度足を運んでも、親の声は二度と聞こえることは無かった。