嵐の山田、稲妻のベノ
真夜中。凄まじい嵐。渦巻く強風に極太の雨粒だ。窓を開けてごらん。きみだって驚いちゃうよ。こんな時に外をほっつき歩く奴は、掛け値なしの大馬鹿者だ。すごく濡れるよ。この雨風じゃ傘など役に立つまい。上着に下着に靴に靴下に、雨の重りが陰気かつ派手にまとわりついて、決して解放してくれやしないだろう。なんとか気持ちを奮い立たせようと陽気な歌を口ずさんでみても、開いた口の中に大気の汚れがたっぷり混ざった特製のおつゆがひっきりなしに滑り込んでくるから、不愉快な気分はいやますばかり。おちおち目も開けていられないけれど、どんな危険が潜んでいるかわからないので、そうも言ってはいられないし。こんな時になんだって外をほっつき歩く? そんなことをするために生まれてきたわけじゃないだろう? たまげたことに、そんな奴がいる。このとんでもなくとんでもない嵐のさなか、夜の散歩と洒落こんだ男。その名も——
山田ダチト。
まあ、まず。山田ダチトが言った。差し当たっての問題はだ。それはおれの孤独、おれがあまりにも孤独すぎる、ということなのだ。決して。誓ったっていいが、おれは決して馬鹿ではない。うすのろではない。若干の偏りはあるものの、まあまあまあ、それなりの知性というものを備えている、と言える、と思う。それなのにだ。どうにもおかしいのは、おれが誰とも話が噛み合わんということだ。おれは無難な言葉と態度でもって他人に挑む。偉ぶったり、知ったかぶったり、格好つけたり、自己陶酔したりはしていないつもりだ。むしろ他人の方がそういった類のことをちょくちょくしている、と言える、と思う。それはいい。そんなことをされたって気を揉むようなおれではないし、いちいち咎め立てたりはしないおれだ。話しているのだ。会話をしているのだ。差し障りのない言葉の応酬だ。笑顔だって気安く振りまくさ。卑屈さなどみじんもなく、嘲弄のかけらもない、混じりっけなし、心からの笑顔だ。ほどよくたっぷりの睡眠から自然と覚める瞬間、目蓋の裏に透かす春の陽光のような、耳に心地よい小鳥のさえずりのような、さわやかな笑顔だ。癇癪をおこした小鬼の如き赤子だって、思わず釣られて天使のように笑いだすこと請け合いの笑顔だ。事実、おれの笑顔の評判は上々だ。日に日に、その評価は高まっていく一方だ。笑顔の誉れ高きおれなのだ。どこに行ったってそうだ。アメリカじゃ皆が口を揃えてこう言った。ファンタスティック・スマイルマンにゃかなわねえ。フランスじゃこうだった。ムシュウ・ジョリー・スリールには脱帽だ。イタリアじゃどいつもこいつも、ウォーモー・ベッラ・ソリッソー、とやかましかったものだ。はん、嘘だがな。おれは嘘ばっかりつくからな。
驚くべし。山田ダチトは濡れそぼったその身を省みることなく、連射連射の自動小銃よろしく独り言吹き出して、がっしゅがっしゅと驀進する。確固不動の目的でもあるのか? ひと夏に全てを賭けるセミだってたまらず閉口してしまう、この荒ぶる嵐のもなかに? いや、降雨荒天もこの男にはいささかの障りにもならないどころか、はなから意識の埒外にあるようだ。すなわち、無視。この世に溢れる無視のその殆どが、無視をしているふりであることはよく知られている。無視を決め込んでいる奴の大半が、実際のところは対象に心囚われてそこから抜け出せず、無駄にもがき苦しんでいる。ひるがえって山田ダチト。こ奴の無視は言葉どおりの無視。このような無視はそうそうお目にかかれない。これじゃせっかくの天の演出も台無しじゃないか。しかししかし。天とてただただ手をこまねいているばかりでもないようだぞ。そら、光った。しばし待て。そら、鳴った。充電開始と言ったところかな? また、光り、そして……鳴る。光って光って光って……鳴る鳴る、まだ鳴る。それで、急ごしらえではあるが取りあえずの準備は整ったようだ。稲妻。夜空を派手に引き裂き、つぎはぎの跡などひとつも残さぬ天空の魔法だ。さあ、明かりを消して、カーテンを開けて。嵐の夜に稲妻。楽しいよ。綺麗だよ。見なきゃ損だよ。屋根と壁にしっかりと守られたきみたちであれば、この荘厳なるショウを堪能できるだろう。では荒れ狂う自然に喧嘩を売った愚か者、山田ダチトはどうなる? 山田ダチトという存在を、この星、この宇宙と、理性を総動員させ比較検討し、塵の如き自己に気づき絶望でもなんでもして、さっさと寝ぐらに逃げ帰った方がいいのではないか? よもや誰も軟弱者と嗤うまい。
ああ、そうだ。山田ダチトが言った。おためごかしはもうたくさんだ。おれは寂しい、寂しいのだ。人生と呼ばれる、このけったいなあれやこれやが、途方もない冗談が、おれを孤独に縛りつけ、いっときの安らぎさえ許してはくれぬ。連中は何を喋っているのだ? あんなにも窮屈そうに? 頑なにおれをその輪に加えず、どんな重大な秘密を共有しているのだ? 連中はおれを仲間として認めていないのだ。では、おれは連中の敵か? どうやらそうでもないらしい。おれは誰だ? 昨夜、こんな夢をみた。おれは寝ている。物音ひとつしない、真っ暗な部屋の中だ。おれは寝ている。だが覚醒している。気分は悪くない。何ひとつ注文をつけようもない。全てが静寂に包まれ、闇と溶け合い、おれとおれ以外の境界も曖昧だ。おれはとてつもなく大きな存在であると同時に、目では捉えることも不可能なほど小さな存在でもある。気分は悪くない。おれは寝ている。だが覚醒している。突然、静寂が破られた。なんの前触れもなしに。玄関の扉が勢いよく開いたのだ。玄関? なんの玄関だ? 玄関などあったか? 声がした、ただいま——おれの声だ。おれの声で間違いない。間違いないが、間違っている。間違いなく、間違っている。おれはここにいる。ここで寝ている。おかえりなさい——妻が言った。妻? 誰の妻だ? もちろん、おれの妻だ。おれに妻がいたか? 女に触れたこともないこのおれに妻が? おれの足音が遠ざかる。おれは妻と二言三言、言葉を交わした。当たり障りのない言葉を。記憶の海の底に沈み、二度と浮上してこない、そんな言葉を。ドアが向こうの方で静かに閉まった。そして、静寂が戻った。完全な静寂だ。おれは起き上がろうとした。だが、無駄だった。全てがあやふやで、おれの体がどこにあるのか、おれの意識すら……あるのかないのか、いや、おれは……ここにいるのか? おれは存在しているのか? おれは叫ぼうとした。声が出ない。声の出し方を忘れてしまったのだ。何もかもを忘れている自分に気づいて……おれは目覚めた。ああ、所詮は夢だ。しかし、おれは気分が悪い……目覚めてからずっと……。
稲妻がど派手に暴れまわっているというのに、山田ダチトは意に介す様子もなく、あいも変わらず独り言三昧だ。奴にはこの轟音が耳に入っていないのか? ひらめく雷光に目がくらんだりしないのか? なにより、稲妻がその身を激しく打ちつける恐怖に身がすくんだりしないのか? しかもこの雨、この風! なんだか一段と激しさを増している気がしないか? ああ、そして、なんてことだ! 山田ダチトが早足で通りすぎたその横で、地面が脈打っている。なにかが、大きななにかが、山田ダチトの背後を狙うように、蠢いている。
おれは昔から孤独だった。山田ダチトが言った。決して。誓って言うが、決してひとりを好むわけではない。だが、おれは自ら進んでひとりになってゆく。輪から外れてひとりになってゆく。そもそも、その輪がどうした理由で出来ているのかさっぱりわからん。待てよ。輪などあるのか? あるように見えるのだが……おれ以外の全てが繋がっている輪があるようにしか、おれには見えんのだが……本当にその輪はあるのか? 皆が皆、おれと同じように、自分以外からなる巨大な輪を見ているのだとしたら……? おい、待て、やめろ。おれだけが孤独なのではないと、そう言いたいのか? あの馬鹿みたいな連中、奴らもまた、孤独のただなかにいるのだと、そう言いたいのか? おれが奴らとなにも変わらない存在だと、いや、待て、それは嫌だ、おれと連中が同じとな? ふむ、そうなのかもしれん、きっとそうなのだろうが……まあ、いいか。諦めも肝心だ。おれはおれ、おれは奴らで、馬鹿まぬけ。ふむ、ふむ。本当にそうなのか? おい、おれ。おれって奴は大したものかい? なるほど、ではおれ、おれって奴は愚かものかい? おやまあ、まるで参考にならん。いつでも肯定と否定が同時に返ってきやがる。わかったのはおれが全くあてにならない奴だと言うことだけだ。だからと言って、他の奴にこのあたりのことを聞くのも気がひけるではないか。だいたい、連中はおれのことが見えているのかね? おれは結構、連中のことを見ているのだが。奴らの会話に耳をすませているのだが。奴らの顔がおれの方を向いたこともなければ、会話の中におれが出てきたためしもない。おれもあの猿どもの一員であるのだが、奴らまるでおれを石ころのように……いや、石ころにだって意味を見出す奴もいるものだ。おれも旅先で拾った石ころを幸運の御守りだなどと、肌身離さず持っていたことがある。実際、幸運なこともあったのだ。それがどんな種類の幸運だったかは忘れてしまったがな。そう、実際、幸運としか思えないようなことも起こったし、不運としか言いようのないことも起こった。そして今も起こり続けている……ように思えるが、本当に運なんてあるのか? 完璧なカードカウンティングができれば、多くのゲームで勝てるように、例えば全ての信号機のパターンを完璧に理解していれば、赤信号で立ち止まることなく目的地にたどり着くことも可能じゃないか? あらゆるパターンさえ理解してしまえば、幸運だけを選んで掴みとることだってできる、できる……のかもしれないが、だからなんだ、おれにそれをしろってのか? 馬鹿言うな、できるわけがない……できるわけがないし、それに、おれはそんなものどうだっていいのだ。おれはただ寂しい。仲間だとか友達だとか、そういうものがおれは欲しいのだ。どいつもこいつもドブ臭い夢の中に引きこもって、明後日の心配ばかりしていやがる。老後? 貯金? 不安? 冗談はやめてくれ! おれは寂しいんだよ! おい! うるせえな、雷! いい加減にしろよ!
本当に寂しいのだろう。ついに山田ダチトが大自然に心を開いた。稲妻に毒づき、雨にもなにやらわめいた。くしゃみを一発二発、恨めしげな目つきで身を震わせて、風にも言いたいことがありそうだ。山田ダチトを歓迎しているわけでもないだろうが、稲妻も雨も風も更にやけくそな勢いで、いや、ここはやはり歓迎しているとしておこう。なにしろ山田ダチト以外、人っ子ひとりいないのだ。山田ダチトを特別扱いしたって問題あるまい。ぶるるるっと濡れた犬っころのように山田ダチトが頭を振るった。無数の水滴が飛んで、少しは山田ダチトの頭も軽くなったのだろうが、それもほんの一瞬のことだった。それでも山田ダチトは立ち止まらなかった。もちろん、引き返しもしなかった。山田ダチトは歩き続けた。独り言はもうやめたようだったが、声に出していないだけで、意識の中では同じようなものがぐるぐる渦巻いているに違いない。そんな顔をしていた。独り言を繰り出すかわりに、やたらと唾を吐くようになった山田ダチトであった。雨水が口の中に這入り込んでくるってわけだ。それから、時は過ぎた。だいぶ経った。それでも山田ダチトは歩きながら唾を吐き続けていたし、雨も風も稲妻もめったやたらだったし、地中を蠢く怪しい奴は山田ダチトにずっとぴったりマークだった。つまり、なにも変わっていない。いまだ真夜中なのを考えると、それほど時間は経っていなかったのかもしれない。あるいはもう夜明けは来ないのかもしれない。
突然、山田ダチトが振り返った。こんもり盛り上がった地面をきっと睨んだ。なんだかしらんが、山田ダチトが言った。どう言う了見でおれをつけまわす? 気分が悪いなんてもんじゃないぞ!
地面が更にこんもり盛り上がり、ごばあーっと音をたてて、蛙のようなオケラのような人間のような、奇妙奇天烈な奴が飛び出してきた。変な奴は仁王立ち、ぎょろぎょろ落ち着きのない金色の目玉で山田ダチトを見据えた。友好的な態度とは言えなかった。
おれは山田ダチト。山田ダチトが言った。貴様は何者だ。
ベノ。変な奴、すなわちベノが言った。先に言っておくが、ベノは怒っている。山田ダチトは今すぐ、巣に帰れ! 邪魔だ! 巣に帰れ! 今すぐだ!
いや、帰らん! 山田ダチトが言った。
帰れ! ベノが言って、一歩踏み出した。暴力の匂いのする一歩を。
いいや、帰らんね。山田ダチトが言って、足を踏み鳴らした。威嚇的に。
正直なところ、そろそろ帰ろうかと考えていた。が、帰れと言われて帰る奴があるか!
それはそうだが。その通りだが……ベノもベノたちも、稲妻を見たい……踊りたい。恋をして、踊って、稲妻! 最高だぜ! 山田ダチトは邪魔だ。だから帰って欲しい。稲妻が止まったらどうする? 踊れない、恋はこない、稲妻が見れない。最悪でしょう……? 山田ダチト、帰れ帰れ! ベノは目ん玉が潰れるほど稲妻が見たいのよ。
おれなど無視すればいい。貴様らで勝手に盛り上がっていればいい。
無視などできるか! ベノが言った。
いや、しろ! 山田ダチトが言った。
できません! ベノが言った。
何故だ? おれは歩き続ける。ここを通り過ぎるさ。あとにはなにも残らず稲妻見放題、恋にダンスに好き放題ではないか。
そう言う問題じゃない。稲妻に目もくれず、恋もしない、踊りもしない、そんな山田ダチトがいると思うだけで、ベノとベノたちは、しゅんとする、ぞっとする。そんな山田ダチトがいなくなって、巣に帰って夢見る山田ダチトがいれば……イェーイ! 最高だぜ!
貴様の言うことはわかる気がする。むむ……しかし……すまない。おれは帰るわけにいかぬ。これはおれ自身の美学の問題よ。この状態になったおれを止められることなど誰にもできんのだ……たとえおれ自身でさえもな……。
面倒くせえ山田ダチトです。ベノが言った。
なんとでも言え。山田ダチトが言った。
帰れよ。ベノが言った。
帰らんと言っている! 山田ダチトが言った。
では。ベノが言った。決闘だな!
決闘、とベノが言った瞬間に、あちこちから、ごばあーっと音がして、ベノの仲間が次々と地中から飛び出てきた。みな口々に、決闘、決闘、とはやし立てている。
望むところだ。山田ダチトが言って、しばし呆然とした。
怖気づいたか? ベノが言った。
いや、そうじゃない。一瞬、妻のことが頭をよぎったのだ。山田ダチトが言った。
妻いるならやめた方がよい、帰れ。ベノが言った。
違う、違うのだ。あれは夢で……おれに妻はいない……。
帰って妻の夢見なさいよ。山田ダチト、死ぬぜ? ベノが言った。
いや! 決闘だ! 山田ダチトがきっぱり言った。
ベノの仲間がどっと沸いた。
それもよかろう。山田ダチトはこんな牙あります? そう言って、ベノは牙をむき出した。素晴らしくギザギザで、噛まれたらとてつもなく痛そうな鋭い牙だ。
そんな牙はない。山田ダチトが言った。
ではこいつをつけろ。武器に差があるのはフェアじゃない。そう言って、ベノは山田ダチトに着け牙を手渡した。
山田ダチトはこんな爪あるか? そう言って、ベノは爪を見せつけた。美しく湾曲していて、掻かれたらひとたまりもなさそうな鋭い爪だ。
そんな爪はない。山田ダチトがよだれを垂らしながら言った。着け牙のせいでどうしてもそうなる。
ではこいつを。決闘はフェアに行わないとな。そう言って、ベノは山田ダチトに鉤爪つきの手甲を手渡した。
覚悟はいいか? 手甲をつけ終えた山田ダチトを見て、ベノが言った。
ああ。山田ダチトが言った、よだれを垂らしながら。礼を言うぞ、ベノ。おれはいま生きている。おれはいま存在している。こいつはなんともこたえられんわい!
次の稲妻を合図に、ふたつの生き物は丁々発止とやりあうのだ。どちらか、あるいは両方が死ぬまで。