悪の経済学二論(三十と一夜の短篇第18回)
第一論.大きな視点で
ドン・ガブリエーレはやってきた三人の顔を順繰りに見た。
まず、マリア。元々は〈公社〉の幹部だった女で三十代半ば。ブルネットの美人。どのように美人かといえば、ミラノのファッション・ショーに出る蓮っ葉なモデル風の美しさではなく、小さな教会の小さな聖母マリア像の御顔に宿るような美しさ。彼は彼女をひそかに(安直とは思いながら)聖母マリアと名づけていた。ここ数年やってくるようになったが、名字は知らない。嘘のような話だが知らないのだ。ドン・ガブリエーレのような人間は知る必要もないことをいちいち知ろうとはしないし、また知る必要のない人間に自分が知っていることを教えもしない。聖母マリアはいつも新しい少年や少女を連れてくる。それも訓練済みの完全な状態で。それだけだ。
そして、今回マリアが連れてきた子どもたち。エミリオとエミリア。間違いなく双子。どちらも十五を超えていない。ドン・ガブリエーレのパートナーであるアンジェロの一つ上といったところだろう。どちらも黒のタートルネック、エミリオはチノパンツ、エミリアはタータンチェックのスカートと黒のストッキング。それに踵の低い革靴。どうせマリアが仕込んだのだから、靴の爪先からは隠しナイフが飛び出すに違いない。
相棒を見やる。アンジェロは上機嫌だった。同年代の子どもたちが手駒になると、いつだって無条件に喜ぶ。
逆にドン・ガブリエーレはどうも慣れなかった。マリアが少年少女を連れてくるのは今に始まった話じゃないし、ドン・ガブリエーレの残り短い余生にもマリアはたびたび現われて、人を殺すための道具と化した新しい子どもたちを見せに来るのだろう。ドン・ガブリエーレは自分の業と罪については六十年以上前に結論を出している。人差し指にピンを刺して、その血をつけた聖母マリアの札を手のなかで燃やしながら、彼は〈名誉ある男〉として生きることを誓ったのだ。
聖母マリアが淡々とした声で、この二人はいつもどおり一キロ先からの狙撃からピアノ線による絞殺まで一通りこなせると説明しているが、ドン・ガブリエーレの心はどこか余所にあった。昔、彼が生まれるよりも前の時代、自分のような生きかたをするものたちのことはただ〈名誉ある男〉と呼べば良かった。パレルモの〈名誉ある男〉たち、カターニアの〈名誉ある男〉たち、カステッランマレーゼ・デル・ゴルフォの〈名誉ある男〉たち。そして、ここ、カステル・ディ・フェルゼーナの〈名誉ある男〉たち。
マリアに訊いてみたい気もした。その子らは人差し指をピンで刺したかね? おれは刺したぞ。その血を聖母マリアのカードに落として、手のひらの上で焼きながら、もし、〈名誉ある男〉の誓約に違えば、このように焼け死んでも構わないと諳んじた。
男女を問わず未成年を暗殺者にするというアイディアはあっちの連中から出たものであって、こっちの側から出たわけではない。確かにドン・ガブリエーレ自身も十五のころには銃を持ち歩き、〈名誉ある男〉のような本物の男になるために自分をホモ野郎呼ばわりした男を公衆の面前で撃ち殺したこともあった。
だが、あっち側のよこす暗殺者は毛色が違った。アメリカだかロシアだかの元特殊部隊員に仕込まれたというのだから、毛色が違うのは当たり前だが、どうもこの子どもたちには技術はあっても気概が見えなかった。誰かにホモ野郎呼ばわりされても平然と無視するようなイギリス人風の冷たさ。少なくともシチリア流ではない。
確かにミレニアムを過ぎて三〇余年経った。どの家も十九世紀以前の造りをしているくせに屋根にはサッカー中継を見るためのアンテナが立っているし、一家に一台ホログラフを利用したディスプレイのパソコンがあり、白い漆喰壁には厚さわずか五ミリのテレビがかかっている。さらにこのシチリアの、乾いた小さな町をインターネットにつなげて、ベトナムだかマレーシアだかの、ふやけたフェットチーネのような不思議な名前の町の誰かと自動翻訳ソフトで話すこともできる。だが、それでも、シチリアはシチリアだ。大の男をバールや道の真ん中でホモ野郎呼ばわりするなら昔と同じで刃傷沙汰の覚悟をしなくてはならない。
にもかかわらず、この少年と少女の目からはそういう気力が抜けている。いや、この双子だけではない。マリアが連れてくる子どもたちはいつも同じような目をしている。暴力に対する輝きがない。たぶんわざと抜いたのだろう。そういう状態を指して、アンジェロとマリアは洗脳状態にあるのだと嬉しそうに言うのだが、どうしても、その『洗脳』がドン・ガブリエーレには信じ切れなかった。
本当は新しい暗殺部隊の構成員たちにため息をついたのだが、彼はそれを年齢がもたらすしんどさのせいに見せかけた。この部屋には静かな狂気が息づいている。子どもたちを次々と殺し屋に仕立て上げていく聖母。双子の暗殺者その一。双子の暗殺者その二。ドン・ガブリエーレと同等の権力を分かち合った十三歳の天才少年。そして、八十三歳のカポ・ディ・トゥッティ・カピ。つまりボスの中のボス。
悪い夢だな。引き出しにあるトスカーノ・クラシコのことを思い出したが、やめておいた。もっといいものがある。ドン・ガブリエーレは背後に大きくあけた窓を振り返り、そのまま背中と足の痛みをこらえながら立ち上がると、ベランダに出て鋳鉄製の欄干に手を置き、少し風に当たった。ゆったりとしたカーディガンの裾が左右に揺れた。ここには正気の風が吹いている。白い雲が青い空を北へ北へと泳いでいる。あの雲はチュニスを――混じり気がなく魂をゆさぶるほど白いあの都市の空を通り過ぎたのだろうか? そして、その雲はローマへ、アルプスへと流れていくのだろうか?
ドン・ガブリエーレは視線を下に戻した。農園が見渡せた。段丘にレモンの樹が並び、左の開けた地には葡萄が植えられている。太陽は眩しくて、木々の枝葉がきらめいて見えた。そのきらめきは上等の赤ワインとリモンチェッロを約束してくれる。
ドン・ガブリエーレは〈機関〉の最高権力者だ。だが、夏の夕暮れ時に谷間に覗くティレニア海がきらめくのを眺めながら葡萄棚の下に用意した籐椅子に座り、編み縄で包まれたボトルから赤ワインをソーダグラスに注ぐ、編み縄は水で濡れているからワインが程よく冷たい、そのグラスに切ったばかりのオレンジを二切れ放り込み、グラスを円を描くように動かして、オレンジとワインを馴染ませてから、喉を潤す。それだけで人生の素晴らしさのほとんどを味わったようなものだ。その素晴らしさを味わうのに〈機関〉の最高権力者なんて肩書きは必要ではない。
それが分かる人間が〈機関〉に何人いるだろうか?
とはいえ、権力の取り合いゲームは一度参加したら最後、途中で抜けることができなくなる。タランテラと同じで踊ったが最後、死ぬまで踊り続けなければならない。常に権力を確保しなければならないのだ。金だけ持っているのに権力のない人間など穴のあいた財布と同じだ。なるほどジュリオ・アンドレオッティの言葉は正しい。権力は、それを持たぬものを消耗させる。だから、ドン・ガブリエーレはこのゲームから抜けられない。権力を持ち続けなければいけない。
部屋を振り返って業務連絡に戻る。マリアが続けた。アムステルダムにおいて〈機関〉の支部組織が現地の中国系麻薬組織と抗争状態に陥ったが、敵組織の最高幹部の抹殺に成功したため、アムステルダムはいまや〈機関〉の掌握下にあります。
聖母マリアがそう言って、横の双子をその暗殺任務に投入しました、といい、訓練の成果は十分にあったと思われます、と強調した。マリアは双子を過去最高クラスの暗殺者だと褒めちぎった。
「それは素晴らしいですね」アンジェロは日本の金魚を値踏みするような奇妙な調子で答えた。「いえ、ほんとに」
ドン・ガブリエーレは何も言わずにしておいた。こんな報告を聞いていると自分が旅行会社の重役にでもなった気がしてくる――先月はドイツ人観光客を千五百人フィレンツェに送りました、今月は二千人のドイツ人観光客をヴェネツィアに送り込もうと思っています。……聖母マリアは子どもを殺人マシーンにすることは得意でも、状況を報告することは恐ろしく下手、というより無警戒に過ぎる。
もしここが盗聴されていたらどうするつもりだろう? いちいち、「麻薬組織」とか「抹殺」なんて言葉を使わず、アムステルダムの件は終わった、の一言で片づければいいのだ。昔の〈名誉ある男〉たちは厄介者をあの世送りにしてやったときは鳥に例えて話をした。カラスがうるさい。ウズラは安全だ。カモメは飛んでった。こうした言葉でお互いの意志の疎通が図れた。
ところが、マリアはその辺の機微が分からないらしく、どの幹部をどんなふうに殺したか、殺害に要した時間はどれくらいか、その後、双子の感情に何か変化を与えたか、脈拍に変化はあったか、ご丁寧に一つ一つ説明してくれた。
言葉が多すぎる。もし、この会話が全部録音されていれば、法学部を出たばかりのケツの青い新米検事だって、おれたち全員を終身刑にできる。
この女は所詮官僚だな。ドン・ガブリエーレはそう感じた。説明マニアでメモリーマニア。もともと〈公社〉の人間だ。確かに怜悧で頭は切れるが、〈名誉ある男〉のように完全な法の外に身をおいたことがないせいか、詰めが甘い。きっと、おれのいない場所ではおれのことをマフィアと呼んでいるのだろう。官僚にマフィアは幻影であって〈名誉ある男〉こそがそれにあたる概念なのだと言っても、通じやしない。
下らない映画の影響でCIAとかKGBといった国家の諜報機関は賢いものと思っていたが、こうして実際に顔を合わせてみると、そうでもないことが徐々に分かってくる。諜報機関を動かしているのは官僚主義者たちだ。そして官僚主義者の害悪は、とにかく微に入り細を穿った報告をしたがること、そしてさらに始末に負えないのが報告書を残したがることだ。
公文書館でも作るつもりか? ドン・ガブリエーレはときどき〈公社〉出身の幹部たちの精神状態を疑いたくなる。〈機関〉の活動にまつわる報告書は全部コンピュータの中に保存されているが、もし誰かがハッカーを使って、〈機関〉の秘密の報告書にアクセスしたら? イタリア政府はどこまで〈機関〉を守れるのか? もし、これを知ったのがFBIだったら? 元〈公社〉の連中は司法取引か〈機関〉が新しい時代を乗り越えるための必要悪なのだと言いつくろうか、するのだろう。あるいは大急ぎで関係する書類をシュレッダーにかけるのか。だが、〈名誉ある男〉たちはそんな生易しいことを考えない。もし、当局がその気になったら、間違いなく〈名誉ある男〉流の粛清が必要になる。つまり報告書に名前が乗った人間を片っぱしから殺して、捜査の糸を全部断ち切るしかないのだ。
アル・カポネは二十六歳にして一年で一億ドルを稼いだが、カポネは銀行に一セントだって金を預けたりはしなかった。記録を残さないためだ。記録を残さないことは〈名誉ある男〉の世界では絶対だった。だが〈公社〉の世界ではむしろ記録を残すことが絶対だった。これでよく〈名誉ある男〉と〈公社〉が融合できたものだとドン・ガブリエーレは我ながら不思議に思う。あるいは相互補助、お互いにない部分を補うための融合か?
だが、マリアはドン・ガブリエーレの憂鬱を露とも知らず報告を続けた。ドン・ガブリエーレから見て法の向こう側にいたからだろう。いくら〈機関〉が大きくても、犯したヘマによっては取り返しがつかなくなることだってありうるというのに。
まあ、この手の〈公社〉連中をきちんとした人間に、つまり真人間にしてやる方法はある。老人はその方法を知っている。それは実に簡単だ。人に殺らせるのではなく、自分で一人殺せばいいのだ。どうせ、マリアのような連中は人間の死に対してデータを通してでしか接していない。数字だったり写真だったり文字だったり。たとえ死体をその目で見たとしても、それは最高級の棺おけに入れられ、きちんと身なりを整えて、花で飾った死体だ。そんなものは死体とは言えない。ドン・ガブリエーレが求めるのはそうではない。自分で銃を持ち、相手の頭にきちんと銃口を押しつけて自分の人差し指で、そう、ピンで刺した指で引き金を引く。温かい返り血と脳漿を浴びれば、それで考え方がちょっとは落ち着くはずだ。
マリアが全ての説明を終えると、老人は賛辞の代わりに今まで話していたことは何でもないのだと遠まわしに表現するつもりで「君たち、冷たいレモンで喉を潤わせたくないかね?」と訊ね、答えもきかずに呼び出しブザーを鳴らした。「マルコか? よく冷えたリモンチェッロを一本とグラスを二つ、それにレモネード用のグラスを三つ、レモネードの水差しを一つ持ってきてくれ」
三分後、ボディガードがリモンチェッロとレモネードを銀の盆に乗せて運んできた。
今日は風が涼しいが陽は強い。この部屋も暖かいから、彼らの着ている黒いタートルネックの薄いセーターではさぞ体がちくちくするだろう。エミリアとエミリオはレモネードをストローに口をつけると、一息に飲み干した。
おかわりをしようとして、エミリアとエミリオは水差しに同時に手を伸ばした。すると二人の動きが止まった。二人の顔に初めて戸惑いのようなものが浮かび、同時にゆるゆると手を引いた。アンジェロはレモネードを飲み干すと遠慮なく手を伸ばし、おかわりのレモネードをたっぷり注いだ。
ドン・ガブリエーレはまたマリアに質問したくなった。もし、この双子が同時に同じ標的を銃の照準に捉えたとしたら、今みたいに遠慮しあうのか?
自我がなくなりすぎたんじゃないか? 老人は怪訝に思い、水差しを手に取ると、まずエミリアに、次にエミリオにグラスが一杯になるまでレモネードを注いでやった。
二人ともまた一息に、まるでそれが地球に残された最後の空気だとでもいうように飲み干した。老人はボディガードのマルコにレモネードのおかわりを持ってこさせた。
自分はリモンチェッロを楽しんだ。食前酒にするのもいいが、こうして明るいベランダから風が吹き込み、カーテンが揺らめく中で自分は幸せなのだと実感するためだけに飲むのもいい。振り返ると、また水差しが空っぽになり、薄く切ったレモンが底にはりついていた。
「そんなに気にいったなら」ドン・ガブリエーレは双子に言った。「土産に何本か原液を持って帰らせよう」
それを聞くと、二人は初めて微笑んで、「ありがとうございます。ドン・ガブリエーレ」と声を揃えて答えた。
(聖歌隊のようにきれいな声だったが、まあいい)老人は双子がお互いの顔を嬉しそうに見やるのを眺めながらぼんやりと思った。(声で人を殺すわけではないし)
ドン・ガブリエーレは暗殺者となった子どもたちから笑顔を引き出して、それを自らの贖罪にしようなどと考えるつもりはなかった。馬鹿馬鹿しい。彼は八〇年に三歳の女の子を、八六年には十五歳の少年を殺した。三歳のほうは間違えて撃った。暗かったから憲兵隊長の抱えているものが一週間分のバゲットとオイルサーディンが入った紙包みに見えたのだ。逆に十五歳のほうはそれと知ってて絞め殺した。三歳のほうは同時に射殺された憲兵隊長の父親とともに路上で骸を並べたが、十五歳のほうは喧嘩で〈名誉ある男〉を刺したので誘拐されて絞め殺され、町外れの小さな牧場に作った石造りの硝酸水槽に放り込んで骨まで溶かされた。
マリアが双子を連れて帰ると、ドン・ガブリエーレとアンジェロはその自動車がレモン園のあいだの道を砂煙を上げながら走っていき、開いた鉄門を通り抜け、陽炎と砂を含む風の中で見えなくなるまで見守っていた。
「いつも思うのだがね」ドン・ガブリエーレは言った。「マリアが連れてくるああいう子らは信用できるのか?」
「腕は一流ですよ」アンジェロが答えた。「アムステルダムでは銃撃戦もなし、ピアノ線だけでキュッと。音もなく、きれいな手口でやりました。地元の新聞はプロの犯行といって騒いでいますが、彼らにできるのはそのくらいです。何も残していないんですからね。彼女の説明の通り、機関のための暗殺任務に対する彼らの貢献は期待できますよ」
「そうじゃない。情に流されたりしないか訊いてるんだ」
まさか、とアンジェロは笑った。「もう洗脳済みなんですよ。〈機関〉への精神的な依存度はむしろ大人の殺し屋たちよりも高いんです。やれといえば、相討ち覚悟でローマ法王だって殺しますよ」
法王の名が出たのでドン・ガブリエーレは十字を切った。「洗脳なんて簡単に信用するな。歴史上、人間が人間を本当に洗脳することができた例は一つしかない。カトリック教会だ」
「あの子たちはあなたと僕、そして〈機関〉のために殺してくれますよ」
「なぜだ? おれはイエス・キリストでもローマ法王でもないぞ。ひょっとしてお前さんがそうか?」
「僕も違います」アンジェロは言った。「でも、世界はとてつもなく残酷で救いようがないということを教えてあげればいいんですよ。路上生活と孤児院でろくな目に合わなかったようですから、その下地は出来上がってました。そこに僕らが救いの世界を提示する。〈機関〉の利益と彼らの安息は常に重なっています。これまでと同じ、あの兄妹は我々にとって有益な駒になってくれます。マリアはイタリア以外にもドイツやフランス、ポーランドにも同じような暗殺部隊を設立するつもりです。いずれも〈機関〉の利益を守るために必要な措置です」
「踏みつけた悪夢は四方に飛び散り、そして増殖する」ドン・ガブリエーレは引き出しから三分の一ほど吸った状態で消した葉巻を取り出し、卓上ライターで火をつけた。甘い煙りをふーっと天井に向かって吐くと葉巻でくるくる円を描きながら、老人は忠告した。「マリアと他の暗殺部門の統括者たちにやりすぎないよう徹底させろ。やつらときたら、どこそこの検事を殺したいとか、どこそこのジャーナリストを殺したいとしょっちゅうおれに嘆願してくる。しかもEメールでだ」
「大丈夫ですよ、ドン・ガブリエーレ。〈機関〉はそうした実力行使の際に生ずる世論の反発を抑えるための政治力を持っています」
「政治力?」ドン・ガブリエーレは驚いて声が裏返りかけた。「政治家のことを言っているのか? アンジェロ。しっかりしてくれ。政治家のことは信用するな。あいつらときたら、どうしようもない嘘つきだ。嘘をつく必要もないときでも嘘をつく。それがやつらの性分だからだ。政治家が暗殺部門を守るのじゃなく、暗殺部門に政治家どもが泣きついているのだ。目の上のたんこぶを一人殺して、自分をスキャンダルから救ってくれとな」
「では、放置するので?」
「そうは言っていない。〈公社〉と融合した以上、そういった情けない連中の面倒もおれたちが見てやらなければならん。例えば、ミラノで〈機関〉絡みの不正融資を追っているジャーナリストについては調査の手が上院議員に及ぶ前にカタをつける。ただし殺すかわりにもっといい方法を使うことにした。そいつが十二歳の少年と裸になってベッドでアクロバットしている映像を盗み撮りして、コリエーレ・デラ・セラ紙と動画投稿サイトに流してやる。実は既に撮影済みで後はエンター・キーを押すだけのところまで持ってきてある」
老人はアンジェロを手招きして、ホログラフに映っている動画投稿サイトのページを見せた。「押してみるかね?」
「ぜひ」
アンジェロはエンター・キーを押した。
「これでミラノの一件は片づいた。簡単なもんだ。このホモが少しでも恥を知るならば、十三階建てアパートメントの一番上から飛び降りるだろうな。しかし、こいつらときたらバケツのなかで蠢く二匹のタコみたいだな。(ドン・ガブリエーレは口をへの字に曲げながら、男と少年が絡み合うウィンドウを閉じた)まあ、万事こうやってうまく片づけていけばいい。まず知恵を使う。知恵で駄目なときは人差し指を使うわけだ。暗殺は奥の手であることを忘れるべきではない」
ドン・ガブリエーレは葉巻を吹かした。
「でも、これだけ優秀な暗殺部隊を抱えているのに何もしないのはやっぱりもったいないですよ」アンジェロがうっとりとして言った。「彼らを使えば、一度にヨーロッパ中の要人を暗殺して世界を混乱に巻き込むことだって可能なのに」
「くだらん妄想は捨ててしまえ。〈公社〉がどれだけ政府に食い込んでいたのか知らないが、政府と真っ向から戦う必要はない。おれたちはテロリストじゃないんだ。政府とは癒着しながら舌を出してコケにすべきであって戦うべきではない。大体、政府が表向きの権力を看板として背負ってくれているおかげで、おれたちも同様の権力を構築できるんだ。光がなけりゃ影がないのとおんなじだ。それに民衆ってのはいつだって腐った卵をぶつける相手を探しているもんだ。政府はせいぜい的にされればいい。おれたちは裏でクリーンにものごとを進めるから」
「でも、その政府の権力をどれだけこちら側に取り込めるか、興味を持ったことはないんですか?」
「ないね。お前さんは政府と本気でやり合うしんどさを知らん。なんたってお前さんは九二年を知らないからな。どれ、年寄りの長話をしてやる。
九二年、シチリアはコルレオーネ一派が牛耳っていた。みかじめ料の徴集からヘロイン・ビジネスまで全てだ。やつらはパレルモの〈名誉ある男〉たちの名門どころを皆殺しにして、自分の言いなりになるボスたちに挿げ替えた。そのコルレオーネ出身で〈野獣〉と呼ばれた〈名誉ある男〉がいた。見た目はチビで人畜無害な百姓にしか見えないし、ひどい訛りで同じシチリア人のおれたちにも何を言っているのかよく分からなかったが、その男がコルレオーネ一派のボスなのだ。こいつの中身は本物の〈野獣〉だった。ケダモノ以外の何者でもなかった。敵対する人間だけでなく、その家族、子ども、兄弟、両親、従兄弟、ただ金を借りていただけの男まで殺すのだからな。おまけに〈名誉ある男〉同士での話し合いで平気で嘘を言った。ずる賢い〈野獣〉は〈名誉ある男〉同士の話し合いでは必ず真実を述べるという誓約を無視したのだ。こいつを殺してくれ、あいつを殺してくれ、としつこくせがむ〈公社〉の幹部とまったく同じで、〈野獣〉もこいつを殺そう、あいつを殺そうとそんなことばかり考えていた。やつのせいで一体何人死んだのやら。
九二年、ついに捜査の手が自らに及ぶと〈野獣〉は二人の判事をリモコン爆弾で吹っ飛ばした。その二人の名前は今もパレルモの空港に残っている。〈野獣〉はそれじゃ足りなかったらしく、ローマとミラノの文化財に指定された教会前で自動車爆弾を炸裂させた。死人が出た。それでも足りなくて、フィレンツェのウフィツィ美術館にも自動車爆弾を仕掛けて、吹っ飛ばした。建物の一部と、絵が数枚、それに観光客が何人か死んだ。自分に手を出せば、とことんまでやってやるという意思表示のつもりだったのだろう。が、これが結局命取りになった。フィレンツェの爆弾騒ぎにはイタリアどころか世界中が震撼した。ナチスでもやらなかった蛮行だと散々非難された。ニュースは連日放送し、いまやマフィアはナチス以下の存在だ、と宣言した。
ついに、イタリア政府が本気になった。やつらは陸軍で押しかけてきた。警察と憲兵隊も増員された。〈名誉ある男〉が滅ぶか否かの瀬戸際だった。〈野獣〉は徹底的にやるつもりでいた。だが、〈野獣〉以外のボスたちが緊急に集まり、一切の嘘も隠し事もせずに話し合い、決定した。〈野獣〉は政府に引き渡す。代わりに政府は他のボスに手を出さず、反マフィア・キャンペーンを徐々に終息に向かわせること。おれたちは実際に大臣に会った。そして裏取引した。あれは密告だった。けがわらしいことだ。だが、〈名誉ある男〉が〈名誉ある男〉を警察に売ったのはあれ一度きりだ。ああしなければ〈名誉ある男〉は今ごろシチリアから完全に駆逐されていたはずだ。
アンジェロ。確かに〈機関〉は大した権力だ。その操りの糸は神経のようにヨーロッパ中に広がっていて、しかも潤沢な資金源と強固な執行能力を持つ。もし言いたければ、ヨーロッパを裏から操っていると言ってもいいだろう。もっともおれはこの大げさな呼び名は気に食わんがな。おれにわかるのは、この農園とカステル・ディ・フェルゼーナのことだけだ。……ああ、わかってるさ。アンジェロ。お前さんはヨーロッパを裏から操りたくてうずうずしている。さっきも言ったとおり、そのための資金と実行力があるし、お前にはその頭脳があるんだからな。だが、どんなふうに操るのだ? 恐怖をもってしてか? 敬意をもってしてか? それとも畏怖をもってしてか?」
「ほんの少しの恐怖と圧倒的多数の錯覚した自発的賛同をもってして操作します」アンジェロは答えた。
ははーん、とドン・ガブリエーレはにやついた。「そいつらは黒いシャツを着ているんだろう? ファッショ・リットーリオを掲げて行進し、ローマ式の敬礼をするんだろう? エイヤ・エイヤ・アララとわめくのだろう?」
「僕が真面目に答えると、すぐにあなたは茶化します」
「そう、むくれるな。おれはお前さんと話すのが楽しいんだよ。それにお前さんがそれをやり遂げると信じているさ」
「大切なのは彼らの意識に僕たちの利益を刷り込み、僕たちの手駒とし、それでいてかつ彼らは自らの価値観に基づいて行動していると錯覚させることです」
「『彼ら』とは誰のことかね?」
「全ヨーロッパ人ですよ」
「それをどうするね?」
「マスコミはもちろんインターネットで漂流するくだらない噂まで全てを統括し、彼らにインプットされる情報を〈機関〉が牛耳るんですよ。人間の知性は経験の積み重ねで形成されるのですから、〈機関〉が用意した経験をただ与えるだけでいいのです。テレビでもラジオでもあらゆるコミュニケーション・ツールを駆使して、〈機関〉の用意した記憶と経験を積ませることで彼らは自分が高い知性を有したと錯覚し、高い知性を有したと信じたもの特有の頑なさで彼らは行動を〈機関〉のためにはめ込んでしまうんです。こうすれば彼らは知らず知らずのうちに〈機関〉のために行動してしまうんです」
「ほんの少しの恐怖は?」
「はい。それは彼らに問題意識を植え付けるために使います。〈機関〉による情報のインプットは平和状態では少々困難、というか効果が薄いのです。だから、平和な彼らに平手打ちをし、行動を起こす必要があることを悟らせます。その発端は何でも構いません。移民増加による治安悪化や地価の下落、イスラム原理主義や環境保護団体の過激派、アンチ・グローバリズム、ネオアナーキストの集会や暴力沙汰、何でもいいから、平和だったはずの彼らの身近な場所で問題を発生させるのです。彼らはただの羊から自分たちを守ってくれる強い羊飼いを求める羊になります。身を守るという自我はありますが、羊飼いに依存しているのは相変わらずです。そこに〈機関〉が羊飼いとして徐々に浸透していくのが僕のイメージです。ジャーナリズム、警察、政治に伸びた〈機関〉の神経がこのカステル・ディ・フェルゼーナの頭脳から下した命令を受けて、羊たちを正しい方向に導くんです。僕にはそれが見えるんですよ」
アンジェロは〈機関〉をイメージで捉えていた。〈機関〉の指令系統と下部組織が、あらゆる筋肉に絡みついている神経のようになり、その全貌を見ることもできるし、拡大して細部まではっきりと目に見ることもできた。
一方、ドン・ガブリエーレは〈機関〉についてカンで把握していた。アンジェロのような広範囲の理解はできなくとも、彼の目にはいやでも点が見える。それは必ず問題を起こす点であり、今のうちに取り除かなければ〈機関〉に深刻な損失をもたらすぞ、お前のケツに火が着く前にカタをつけちまえ、と語りかけてくるのだ。
つまりアンジェロは〈機関〉の頭脳であり、ドン・ガブリエーレは〈機関〉の第六感だった。
ドン・ガブリエーレは三度鷹揚に拍手をした。
「素晴らしい。とどのつまり、羊どもが気にしているのは自分の手持ちの家と土地の価格が下落することだ。そうならないようにさえ保証すれば、アンジェロ、全ヨーロッパの白人が君の靴を舐める」
第二論.小さな視点で
エミリオとエミリアは、アメリゴ・ヴェスプッチ空港からマリア・コンデロッロの運転する車で彼らの住むパルトーナという小さな田舎町へ戻った。国道をパルトーナへ向こう途中、いくつかの都市の脇を横切った。どの都市も中世時代の城壁を持っていて、そして城壁の外にも街が広がっていた。だが、フィレンツェから離れるにつれて、横切る都市の城外の街が少しずつ縮んでいき、最後は城壁に吸い込まれ、都市は羊の放牧地に囲まれてしまった。それがパルトーナだった。
車がパルトーナの城門をくぐったころにはもう夜中の八時だった。パルトーナの住人はメディチ家時代の城壁に囲われた地域に住んでいた。見るものといえば、いくつかの教会とコジモ・ディ・メディチがこしらえた小要塞、そしてイタリア中のどこの都市にもあるガリバルディの名を冠した広場くらいのものだった。
そんな小さな町に双子は住んでいた。ジョヴァンニ・ラッラ通り八番地。両親に先に死なれて、叔父たちに面倒を見てもらいながら二人だけで暮らしている――近所の住民にはそう伝えていた。面倒を見る叔父というのは二人いて、まず一人目は、通常の子どもが受けるであろう勉学を二人に施し、二人目は殺人術の稽古をつける元カラビニエリの特殊介入部隊の隊員だった。どちらも〈機関〉に所属していて、自分たちの仕事、つまり双子の教育以外には何も知らなかった。一人目の教官は自分の教え子たちがアムステルダムの麻薬戦争の真っ只中に送られたなんて夢にも思っていなかったし、二人目の教官はこの双子にいまだもってして、普通の教育を、つまり一人目の教官による教育を施されていることを知らなかった。
二人が住んでいるアパートメントの前でマリアは車を停めた。すると、お互い肩をくっつけて頭を寄せ合って眠っていた双子がすぐに目を覚ました。
「あの」エミリオが心の底から恥じるように訊ねた。「僕たち、どのくらい寝ていました?」
「空港からずっとよ」マリアが答えた。
「ごめんなさい」エミリオは消え入りそうな声で謝った。「不注意でした。以後、気をつけます」
「別に責めているわけじゃないの」マリアが言った。「休めるときには集中して休息を取ることは自己管理の一環よ」
「はい」二人は声を揃えて答えた。
「それじゃあ――」二人が降りると、マリアが言った。「おやすみ。二人とも」
「おやすみなさい。コンデロッロさん」
マリアがアクセルペダルに足を移そうとすると、エミリアが声をかけた。「あのっ」
「なに?」パワーウィンドウを下げながらマリアは訊ねた。
「私たち、これからもたくさん〈完了〉させていきますから」
マリアの眼に一瞬暗い色の影が走ったが、「そう」とだけつぶやいてから言った。「期待しているわ」
車が行ってしまうと、エミリオがレモンジュースの原液を三本入れた紙包みを抱え、エミリアが先に二階に上って、鍵を開けた。電気をつけて、ダイニング・ルームのテーブルに濃縮レモンジュースの瓶を置いた。
「居眠りしたけど、怒られなかったね」エミリオが言った。
「私たちがしっかり〈完了〉してるからよ」エミリアが言った。「〈完了〉前なら、特殊訓練三種を五十回させられてたはずよ」
二人はクスクス笑った。
「最終試験もパスしたし。アムステルダムじゃ僕ら、ちゃんとターゲットを〈完了〉させたもんね……どうしたの?」
「私、アムステルダムって好きになれない街だったなあ」
「運河がいやなの?」
「そうじゃないけど。でも、アムステルダムの水は冷たそう。ヴェネツィアだったらきっと好きになると思う」
「ヴェネツィアで誰かを〈完了〉させる任務が与えられればいけるのにね」
「任務で行ったんじゃ楽しめないじゃない。馬鹿ね」
エミリオは、むっとして訊ねた。「じゃあ、どうやって行くのさ?」
「分からないけど、コンデロッロさんのために、もっとたくさん任務を遂行すれば、一回くらいヴェネツィアに連れていってくれる気がするの」
「もっと気にしたほうがいいものがあるよ」エミリオは冷蔵庫を開けた。「しばらく空けるって分かっていたから何も買ってない」
冷蔵庫を閉じると、台所の天井の鉤から吊り下がっているニンニクと唐辛子を指差した。
「あるのはこれとパスタ、オリーブオイルくらい。野菜も肉も魚もないよ」
二人は街に出た。パルトーナは小さな田舎町だが、バールの数はフィレンツェに劣らない。どんなに細くて短い路地でも必ずバールが一軒開いている。その手のバールは間口が小さいので、店に入りきらない男たちはバールの明かりの届く場所まで道に割り込んで席を作り、ガーリック・オイルで炒めたウナギの稚魚やアスパラガスとチーズのオーブン焼きをツマミながら、地元のワインに舌鼓を打つのだった。
二人のお気に入りはガリバルディ広場のバールだった。三十軒足らずの民家でぐるりを囲める小さな広場の真ん中には青銅でできたガリバルディの立像があった。台座にはイタリア統一戦争当時、猟銃片手にパルトーナを飛び出した三人の少年――ジョヴァンニ・ラッラ、アレッサンドロ・ボルレアーノ、ジャンロレンツォ・ディ・イアネッティの名が銘打たれていた。彼らはガリバルディの赤シャツ隊に加わって、シチリアからナポリへと戦い抜き、一人前の男になって故郷に帰ってきたのだ。
ナツィオナーレ通りから窓に点った灯に取り囲まれたガリバルディ広場に入ると、一際まぶしいバールがガリバルディ像を挟んだ反対側に見える。そのバール――ジュゼッペの店はまだ夜間向けに開いたばかりだったが、既に常連客が店の奥を占領していた。広場にはみ出したテーブル席も埋まっていたが、二人には頼めばもう一つ作ってくれそうに思えた。
二人は店に入ると店主のジュゼッペを捕まえて、二人で懇願した。
「今日、親戚に会って帰ってきたんですけど、早めのお昼から何も食べてないんです」エミリオが言った。「おまけに冷蔵庫が空っぽで。ペペロンチーノしか作れません」
「お店の席はまだ空いてますか、ジュゼッペさん?」エミリアが言った。
ジュゼッペはざっと店を見て、答えた。「もう埋まっちまってんな」
「そうですか」
二人がいかにも悲哀をおびて去りかけると、
「まあ、待て。今作ってやる」
そう言って、ジュゼッペは息子のパオロを呼んだ。一度呼んでもやってこなかったのでジュゼッペは壁に打たれた釘すらもぶるぶる震えるほどの大声で怒鳴った。二階からパオロがしぶしぶ降りてきた。双子より年上の十七歳で前世紀のパンク・ミュージックに(当人の言葉によれば)イカれていて、髪を黄色に染めて逆立たせ、両耳に十五個のピアスをしていた。常連客はそんなパオロのことを〈空薬莢のパオロ〉と呼んだ。なぜそんな呼び名になったのか、誰も由来を言えなかったが、エミリオとエミリアにもそれが不思議と似合った名前のように思えた。
パオロがぶつくさ言いながら、物置き部屋から折りたたみ式のテーブルと椅子を二つ準備した。すると、ここの常連で家具屋のミカエロ老人がパオロに訊ねた。
「なあ、空薬莢。ピアスって痛えか?」
「初めだけっす。痛いのは」
「それが何かに引っかかって耳が裂けちまうとか心配しねえのかい?」
「風呂から出て、タオルで頭拭いてるとそうなりかけるっすね。実際」
それを聞いた常連客たちはウヘーッと痛そうな声を上げた。エミリオとエミリアも優等生っぽい十四歳の少年と少女が取るべき行動――恐がっているフリをした。フリをしながら双子は思った。仕方ない。パオロや店の人たちは〈完了〉前だから、それがひどく痛そうなものに思えるのだ。〈完了〉さえすれば、もっと痛いこと、酷いことがこの世界に存在し、誰かを〈完了〉させるために痛いことや酷いことをたくさんしなければいけないと分かるだろう。
双子には不思議だった。どうして彼らは自らを〈完了〉させずに楽しそうに生きていけるのだろう? どうして自分たちは〈完了〉しなければいけなかったんだろう?
「ほれ、お二人さん」パオロがテーブルを平手で叩いた。「つくってやったぜ」
「あの、チップは?」
「いらねえよ、んなもの。お前らからもらったらカツアゲになっちまうだろーが」
パオロはぶっきらぼうに答えると、動画投稿サイトに自身のギターの技量をアップするために、とっとと部屋に戻っていった。
なんだかんだ言いつつもパオロはいい場所に席を作ってくれていた。頭上からは緑樹の葉がこすれるのが心地よく聞こえ、ジュゼッペのカウンターからも近い。さらに小さなコップに蝋を満たした蝋燭がテーブルの真ん中に一つ、その小さな火がちらちらと夜の空気をあぶっていた。
ジュゼッペのおすすめを頼むと、まず籠に入ったパンと薄切りのレモンを数枚入れた水差しが、そして一皿目にはアーティチョークのオーブン焼き、二皿目にはセージのフライを添えた鶏肉のソテー、そしてデザートに赤ワイン漬けのさくらんぼが出てきた。
二人はたっぷり時間をとって食事を楽しんだ。最後のさくらんぼの種を皿にペッと吐き出すと、二人はそのままバールに集まった男たちを見回した。話題は大体決まっていた。サッカー。女房がまたダイエットに失敗した話。街を吹く風が温かくなってきたこと。煙草や飲酒を控えるよう医者から忠告されたこと。
「そうなんだ、フリオ」その老人はフリオ以外のみんなに対しても聞こえるように言った。「信じられっかよ。おれが四十の頃に生まれたようなガキが、今じゃ大きくなって医学免許なんて取って免状を壁に飾りやがるのよ。そして、このおれに長生きしたけりゃ禁煙しろ禁酒しろなどと抜かしやがる」
「なんて言ってやったんよ?」フリオが訊ねた。
「ふざけんじゃねえ、このヤブ! そらあ、脅しのつもりか? こちとら、てめえがおむつのころから大工やってんだ。おれさまの肝臓は牡牛みてえにタフなのに、お前は煙草を吸うな酒をやめろと言いやがる。次にやめさせられるのはなんだ? 女と寝ることか?」
「それはないだろう」ジュゼッペがグラスを拭きながら笑って言った。「いくら、あんたでももう勃たない、だろう?」
これにはみんなが笑った。笑いものにされた大工の老人だけはぷりぷりして、おれだって、その気になれば、その気になれば、とぶつぶつこぼしながら、オリーブオイルに浸したパンに噛みついた。
話が卑猥な方向に向いたのを気にしたジュゼッペが双子に言った。「食事は終わったか? よし。子どもは寝る時間だ。さあ、帰りな」
「はい」二人は声を揃えていった。「おやすみなさい」
「おう、おやすみ。いや、待て。昼に売れ残った焼き菓子がある。包んでやるから持って帰って明日の朝にでも食べな」
思わぬ贈り物に二人の顔が綻んだ。「ありがとうございます。ジュゼッペさん」
代金を払った後、エミリオはもう家に帰ろうと言ったが、エミリアはサン・ベルナルド教会の鐘塔にこっそり上って星を見たいと言い出した。
「広場からでも十分見えたじゃないか」エミリオが口を尖らせた。「はやく帰ろう」
「教会の鐘塔に上れば、広場よりももっと近い距離で星が見られるでしょ?」
「駄目だよ、エミリア。はやく帰って体を十分に休めなきゃ」エミリオが言った。「明日からは訓練だ。これだけは絶対だよ」
ひんやりとした声だった。エミリアは何も言わず、エミリオの三歩前を歩いていたが、「そうだね」と言って、振り向くと「私たち、もっと〈完了〉しなくちゃ」と言った。「これだけは絶対だもんね」そう言って、にっこり笑った。
家に戻ると、交代でシャワーを浴びて、別々のドアの前で相手に微笑んで言った。「おやすみ、エミリア」「おやすみ、エミリオ」
エミリオは寝台と薄いタオルケットに体を挟んで、目を閉じた。それでも眠りは中々やってこず、今日の出来事が思い出される――〈機関〉で一番偉い人。片方は僕らより年下で、もう片方は僕らよりずっと年上だった。コンデロッロさんは二人に僕らを誉めてくれた。最高の暗殺者だって。それが何よりも嬉しかった。コンデロッロさんは僕とエミリアをあの最悪の場所から連れ出してくれた。あのころの僕らはまだ〈完了〉には程遠くて、弱かった。でも、たった二年の時間で僕とエミリアは〈完了〉した。〈完了〉さえすれば世界は恐ろしいものではなくなる。世界は僕とエミリアをいじめる存在ではなくなる。
浅い眠りの中、エミリオは夢、というよりは自分たちがしたことの追想をした。灰色の空。言葉の通じない運河の街。赤やオレンジ色のきれいな破風のある街並み。きついビネガーの匂いがするニシンのマリネを売る屋台。
中国系麻薬組織の首領は抗争で死んだ父親からその地位を受けついだばかりの二十六歳の女だった。だが、組織運営と戦いの才は娘のほうが長じていたらしく、代変わりと同時に抗争相手のオランダ系組織が本拠地にしているレストランをグレネードガンで吹き飛ばし、幹部三人を殺害し、一転して追い込み始めた。オランダ人たちは取り返しがつかなくなる前にと加勢を〈機関〉に求めた。
それでエミリオとエミリアがアムステルダムにやってくることになった。
ボスは地味な色のビジネススーツを着ていて、オフィスビルに入っていった。顔も確認できた。常に女のボディガードとともに動いている。ターゲットは自分で武器は持たず、常にボディガードが九ミリをショルダーホルスターに入れていた。〈機関〉はそこまで調べ上げていた。
アムステルダムに行く前、二人は好きな武器とバックアップを選べとチームリーダーから言われていた――リモコンで起爆するプラスチック爆弾、スナイパーライフル、アサルトライフル、サイレンサーを装着したサブマシンガンや九ミリ・オートマティック。
エミリオとエミリアは決めていた。一番難易度の高い方法で〈完了〉させよう。そうして選んだのが、ピアノ線だった。さらに逃走用自動車の用意などのバックアップも要請しないことにした。できるだけ一番困難な方法でこの任務を遂行させて、最高の評価をもらいたかったからだ。
コイントスの結果、エミリオがターゲットを、エミリアがボディガードを担当し、女子トイレの中で実行した。ピアノ線をターゲットの首に巻きつけて体をめぐらせて、梱包されたコットンの塊を背負うような要領で相手の体を背負い、絞める。標的の体重が首を締める力に転用される、コツさえつかめば体重のない二人でも可能な絞殺術だった。ターゲットとボディガードはピアノ線から逃れようと左右に身を動かそうとしたり、足で何かを蹴飛ばそうとしたりしたが、黒いヒールの高い靴がすっぽぬけて洗面台に落ちたくらいで、絞める構えは外れなかった。ボディガードのほうはホルスターの銃をまさぐったが、銃はすでに床に落ち、隅に蹴りやられていた。どちらかが失禁したのが臭いで分かった。ボディガードは抵抗がおさまり、ガッ、ゴッと喉を鳴らした後、肉に食い込んだピアノ線が皮膚を切り裂き、頚動脈を断った。エミリアは間一髪で自分の服に血が垂れる前に、ゴボゴボ喉を鳴らしているボディガードを背中から床に下ろした。ボディガードは切り裂かれた喉からドクドクと血を流し、二度大きくひくついてから動かなくなった。
エミリオのほうはもう少し時間がかかった。だが、背中越しにターゲットが、自分の思い通りに、ゆっくりと〈完了〉していくのが感じられ、口の端が少し上向いた。
二人の死体はそのままにし、ピアノ線はポケットにしまって、監視カメラを避けて歩きながら、建物を出た。誰かが女子トイレに入って、悲鳴を上げる前にできるだけ現場から離れた場所へ立ち去りたかった。駐車場にはターゲットが乗っていたメルセデスと中国人の男が二人。彼らはエミリオたちに注意を払うこともなかった。疑う理由がなかった。十四歳の子どもが自分たちのボスをピアノ線で絞め殺すなど彼らの常識をはるかに超えていた。そのため、女子トイレから掃除婦の悲鳴が聞こえ、二人の男が建物に駆け込んだころにはエミリオとエミリアは凶器のワイヤーを運河に捨てて、スキポール空港行きのバスに乗っていた。
イタリアに帰国し、当時、チームが拠点にしていたホテルに戻ると、今回の暗殺チームのリーダーがこう言った――これでお前たちの教育は〈完了〉だ。
すすり泣く声で目が覚めた。エミリオはベッドから起き上がって、自分の部屋を出ると、隣の部屋のドアノブに手をかけて、「エミリア、入るよ?」と言ってからドアを開けた。エミリアがベッドの上で膝を抱いて縮こまって泣いているのを見つけた。エミリアはドアのノブが壁にぶつかった音にもビクッとし、頭を膝と膝のあいだに埋めた。
「いやな夢を見たの?」エミリオはエミリアの顔を覗き込むように身を屈めて訊ねた。
「ひっく……あぅ……」
エミリオはしゃくりあげるエミリアを抱きかかえ、優しく頭を撫でた。
「あいつが、あ、いつが、ぅう、私のことを、ぶつの。何度もぶって、服を破って、あ、あ、裸、にして――」
「あいつなんていないよ、エミリア」
「エ、え、エミリオ、一緒にいてくれる? 私――」
「大丈夫」エミリオはエミリアを抱きかかえ、手を握った。「ここは施設じゃない」耳元に優しくささやいた。「誰も、僕らに手出しはできない。だって、僕らは既に〈完了〉しているんだから。ずっと一緒だ」
これからもずっと。




