森のいくら
「洗濯物干してきてくれる〜?」
朝ごはんを食べ終わって、ボーッとテレビを見ていると、台所からお母さんの声が聞こえた。
眼鏡でぽっちゃりしたおじさんが、日本の総理大臣の話をしている番組だが、つまらない。
「…うん」
洗面所へ向かい、洗濯機の脇に置いてあるカゴに濡れた洗濯物を押し込んだ。
洗濯機の内側にへばりついている服を出すのはいつも重労働だ。
「ふう…」
今日も大漁だなあ。
重たいカゴを持って二階へ続く階段を登り、ベランダに繋がる窓を開けた。
その瞬間、湿気をたっぷり含んだ暖かい空気が身体を包む。
「…夏だなぁ」
8月になってからこのセリフを吐くのは何度目か。
私がどれだけ夏の存在を認識しても、夏はただそこにあるのだった。
…干そう。
家々の屋根の向こうにムクムクと湧き上がる入道雲を横目に、洗濯物を干し始める。
洗濯物が全て生暖かい風に揺れる頃には、私もじっとり汗が滲んで、皮がとろけてしまいそうになっていた。
「おや」
家の裏にある畑の茂みが何やらキラキラ光っている。
お隣さんは宝石の栽培でも始めたのかしらん、と思った後、ようやく昨日の雨の雫が残っているんだと気がついた。
よく見るとその茂みだけでなく、周りの雑草や用具入れなんかも雫を受け、太陽の光を反射してキラキラしている。
「…ほう」
朝から少し賢くなった気がして、満足して、カゴを片手に涼しい部屋に戻った。
その日の晩御飯にいくらが出た。
「…おかーさん」
「ああ、それ?お母さんが送ってきてくれたの。いくら好きでしょ?後でお礼の電話しておこうね」
「…うん」
北海道のおばあちゃんは、時々いくらをクール便で送ってくれる。
いつもニコニコして優しそうなおばあちゃんが、私のために、森でいくらを収穫してきてくれる。
ホカホカと湯気が立つご飯の隣に行儀よく並ぶいくら。
一粒だけ指先にとって、口の中でプチっと潰す。
ほんのり塩味の後、どろっと濃厚な中身が舌の上に広がった。
…美味しい。
このいくらがしょっぱいのは、おばあちゃんの汗が染み込んでいるからなのだろうか。
努力の味はいくらの味と似ているのかもしれない。
「いただきます」
さあ、いくらだ。
いくらの雪崩がご飯の白さを侵食していく。
ご飯を箸で下からすくい上げると、その上に鎮座する真っ赤ないくら達。
赤いつやつやとした粒々は宝石のようで、今朝の畑を思い出した。
ほどよい塩気にご飯が進み、いつも以上に黙々と食事を口に運ぶ。
いくら、いくら、美味しいいくら。
森の宝石。
一体いくらはどんなふうに木になっているのだろう。
ブドウのように沢山の粒が集まって房になっているのだろうか。
野生のいくらを、いつかおばあちゃんと一緒に食べに行きたいな。
そんな事を考えながらご飯をかきこんでいると、お茶碗の底に一粒だけいくらが残った。
…最後。
最後の一粒をじっくり味わおうと、そのいくらを箸で摘もうとした瞬間。
「お、おいおいおい!!!お嬢ちゃん、ちょっと待ってくれ!!!」
どこかから声が聞こえた。
後ろを振り向いてみる。
誰もいない。
…気のせい…?
再び意識をいくらに戻そうと、お茶碗と向き合う。
するとまた声がした。
「嬢ちゃん、ここだ!!!俺だよ俺!」
…こういうの、なんだっけ…そうだ、おれおれ詐欺だっけ。
「ちげぇよ、俺はいくらだってんだよ」
あれ、なんでわかっちゃったんだろう。
「そりゃああれよ、俺は嬢ちゃんの心と会話してるんだ、丸聞こえなのよそんなもん」
……。
「まあまあそんなに嫌そうな顔しなさんな。ここで出会えたのも何かの縁、ひとつ嬢ちゃんに頼みが」
「?どうしたの、ボーッとして。ごちそうさま?」
「…え、あ、ん、ごちそうさまでした…」
あまりにも突然な未知との遭遇に呆然としていたところ、お母さんの声で我に返った。
この慌てっぷりを表に出してしまわぬようなるべく平然と、素早く自分の使った食器を台所のシンクに運ぶ。
その時お茶碗だけはこっそり後ろに隠して、自分の部屋に向かった。
そして今、私は机の上でいくらと睨み合っている。
「そんなに睨みなさんな。俺ぁお願いを聞いてもらいたいだけなんだよ」
…いくらは、喋るのか。
「そりゃ喋るぜ。生きてる間はみんな喋ってる。いくらってのは基本的に話好きが多いんだ」
でも、見たことない…喋るいくら。
「嬢ちゃんがいつも食べてるのは、どうせスーパーのいくらだろぉう?そいつらはもう死んでるからな、喋れないのはしょうがねえ。死人に口なしとはよく言ったもんだぜ」
…し、死んでる。
「そうだぜ。冷凍いくらなんてのもみんな死んでる。でも新鮮な、俺たちみたいな産地直送のいくらってのは生きてんだ。だから新鮮で美味いんだよ」
でも、みんな喋ってなかった…!!
私、さっきいくら、食べたけど…。
「ああ、いくらってのはな、ご飯の上に乗せられても死んじまうんだよ。でもこれがいくらの殉職みたいなもんだね。名誉な死に方さ。冷凍されたりして死ぬのよりよっぽどいいんだ」
私は知らないうちにいくら大量虐殺をしていたらしい。
なんと恐ろしいことを…。
…でも、なんであなたは生きてるの。
「ああ、俺は運良くご飯につくのを免れたんだよ。全く、奇跡としかいえねえな。ま、いくらの死に方を嬢ちゃんが気にする必要はないんだぜ。でな、俺の頼みを聞いてほしいんだよ。いいかい?」
…内容によります。
「そりゃそうだ、こりゃすまねえや。俺の頼みってのはな…俺は、海に行きてぇんだ」
…海。
「そう、海だ。実はな、俺も偉そうなこと言ってきたが本当は養殖場育ちのいくらでな。本物の海ってのを見たことがねぇんだ。海に入って、いくらとして一皮むけたいんだよなあ」
ずっと夢だったんだ、と呟くいくらの表面が、照れたように波打った気がした。
そうか、海。
海に行ったことは一度だけある。
お母さんと去年の夏、浮き輪や水着、日焼けオイルなんかを濡れないカバンに詰めて、電車に乗って行った。
うちの近くの駅から数えて三つ目の、ちょっと大きな駅には人が沢山いて、お母さんにくっついていくので精一杯だった。
「ほら、広いでしょう」
「…うん」
白い砂浜に反射する、毒々しい日光。
鼻を通る独特の匂い。
初めて嗅いだ海の匂いは、何者でもない、海の匂いだった。
確かに、森の中で育ったこのいくらにとって海というのは憧れ、ろまんなのかもしれない。
「おいおいちょっと待ってくれ嬢ちゃん。今、俺が森の中で育ったって言っただろう」
…うん、思った。
「っかぁ〜、そりゃあ随分な勘違いを…。いいかい、いくらの名誉のために言っておくが、いくらは水の中で育つもんなんだぜ」
えっ。
「初耳かい?しっかし、今までいくらを一体なんだと思ってたんだよ」
…変わった果物、みたいななにか。
「果物!!はぁ〜、あんな温室の中でないとダメになっちまうブルジョワ野郎と一緒にしないでくれよ、寒気がするぜ!!」
…じゃあなに、いくらは。
「ふふ、そうか、お嬢ちゃん知らなかったんだな。これを聞いたら驚くぜ。いくらはなぁ、卵だ」
えっ、卵?
「しかもただの卵じゃねえ、恐竜の卵なんだぜ」
…ほぉ、恐竜の、卵…?
私は、いつの日か図鑑で見た大きな恐竜の絵を思い出していた。
獰猛そうに開いた口から覗くギザギザの歯に、鋭い爪、硬そうな皮膚。
こんなにふにゃふにゃの、私の口の中で弾けてしまういくらが、あの恐竜の卵だとはとても思えない。
「おいおい失礼だな。能ある鷹は爪を隠す、って言葉はいくらの為にあるようなもんさ」
…のうある鷹は爪をかくす。
「そう。こう見えて俺たちはとっても偉いんだ」
…いくらは、偉い。
「ああ、いくらは偉い。小さい粒の中に、どでかい可能性がぎゅぅっと濃縮されてんだ」
ねえ、いくら。
「…んん、なんだい嬢ちゃん…いくらは早寝なんだ。嬢ちゃんも早く寝な。じゃないとべっぴんさんになれねえぜ」
…明日海、行こうね。
「おおそうかい。ありがてえなあ…恩にきるぜ、嬢ちゃん。ふわぁ〜あ……ってことは明日は早起きだ。早く寝ろよ」
でも海近いから、早く起きなくてもいいよ。
「バカだなぁ、海に行く前は早寝早起きって相場が決まってんだよ。さ、早く寝とけ」
…おやすみ。
「ああ、おやすみ…」
そう言って、いくらは完全に寝てしまった。
実に呑気ないくらだ。
私は海に行く方法を考えた。
まずお母さんになんて言い訳をしよう。
学校でもらったプリントに、子供が一人で海に行ってはいけないと書いてあった。
友達と、児童館に行くと言うことにしよう。
夕方までにはどうせ帰ってこられるはずだ。
お金は、お手伝いのお金を貯めてある。
…電車に乗るか乗らないか、これは実に大きな違いだ。
一人で切符を買い、ちゃんと決まった電車に乗って、ようやく目的地にたどり着く。
複雑な作業をこなし、途中で襲われるであろう孤独感にも耐えなければならない。
いくらが海に行って一皮むけるなら、私は電車で行って帰るんだから二皮ぐらいむけているだろう。
剥けすぎて、お母さんに何があったのか聞かれてしまうかもしれない。
「…ふぅむ」
そして、ようやく眠りにつけた。
結局、翌朝はいくらと一緒に八時に起きた。
「…おはよう、いくら」
「ふわぁ〜あ、よく寝たぜ。おはようさん」
リビングに降りると、お母さんはもういなかった。
今日は月曜日、夏休みは平等に与えられないものなのだ。
テーブルに用意してあった朝ごはんを、いくらと話しながら食べて、それから早速海へ行く準備をする。
いくらはお茶碗から水を入れたペットボトルに移し、それをお気に入りのカバンに入れた。
苦しくない?
「ああ、大丈夫だ。茶碗より広くて快適だよ」
その答えに満足して、ふんす、と満足げに鼻を鳴らした。
帽子、はんかち、ちり紙、お金、水筒…水着や浮き輪は、今回はいらない。
忘れ物がないか確認してから家を出た。
じわじわ暑いアスファルトの熱が下から襲いかかってくる。
「…夏だなあ」
「夏は好きかい?」
夏は暑い。
でも夏休みがあるし、お祭りも花火もある。
夏は色んなものを連れて来てくれる。
でも、よく考えると、それは春でも秋でも冬でも同じだ。
…全部、春も夏も、秋も冬も、全部好き。
「ま、全部好きじゃないと面倒だよなぃ」
その時のいくらは、随分大人っぽく見えた。
それから丘を越えて、小学校を通り過ぎ、ようやく駅に着いた。
改札口で、優しそうなおじさんの駅員さんから切符を買う。
「一番の電車に乗るんだよ」
「…ありがとう、ございます」
思ったより簡単に切符が買えた。
ふんす、とまた鼻が鳴る。
ホームに出て、今にもとろけそうにてらてら光っている線路を見ているうちに、電車が来た。
熱を持った車体がホームに滑り込む様はなにか動物のようで、恐竜のことを思い出す。
…いくらはどんな恐竜になるんだろう。
そしてお腹の中で私を程よく冷やしながら、電車は走り出した。
途中で窓から海が見えたが、いくらには最後まで内緒にしておいてやろうと思い、前に抱えていたカバンをぎゅっと握りしめる。
いくらの事を考えていると、なんだか、海を100回くらい見たことがある人、のような気持ちになった。
…ついた。
電車を降りて改札口へ行く。
若い駅員さんに切符を渡して駅を出ると、そこはもう潮の匂いでいっぱいだった。
ふむ、これはやはり、あの匂いだ。
「…これが海の匂いかい、なんだかペタッとした臭いだなあ」
そういうものさ、海の匂いというものは。
海の匂いを嗅ぎながら、木々の隙間から見え隠れする海を追って、なんとか海にたどり着いた。
…海だよ。
いくらをようやくカバンから出してやって、ペットボトルを高く掲げた。
「……あぁ…はぁ、へえ…これが、海か…!」
海は、私の記憶よりも光って見えた。
いくらはペットボトルの中で、フワフワゆらゆらと興奮している。
「すげえなぁ、でっかいなあ!こりゃすげえなあ…嬢ちゃん、ありがとうな」
喜ぶいくらを見て、私はまた鼻を鳴らすのだった。
…いくらは、海に帰りたいか。
「…ああ、そうだなぁ。嬢ちゃん、本当にありがとよ。養殖いくらの願いを聞いてくれて…この恩は海の底でも忘れねえよ」
そして私は波打ち際に寄り、蓋の空いたペットボトルを傾けた。
つま先が水に浸って気持ちいい。
「…ばいばい、いくら」
「ああ、嬢ちゃんも達者でな!!」
海と一体になったいくらはすぐ見えなくなってしまった。
今頃はあそこらへんにいるのかな、と沖の方を眺める。
「ばいばい、いくら!」
そう少し大きな声で沖に向かって叫ぶと、一点が一際眩しく光った気がした。
海の中には、野生のいくら達がいっぱいいるのかな。
いじめられたり…は、しないか。
…恐竜に、なれるのかな。
恐竜になったら、一体何皮くらいむけるのだろう。
きっとたくさんむけるに違いない。
…私も、今よりもっとたくさんむけて、大人になるよ。
でも私はもう卵じゃないから、いくらより先輩だ。
ちょっとだけ胸がキュッとしたけど、私の方がいくらより大人だから、私は家まで一人で帰った。