【三日目】 本音
メモ帳に書いていたら、いつの間にか、1時間を経過しようとしていた。
(あ、もうそろそろ………………)
持って行く物は無い。
時刻は11時ちょっと過ぎ。
静かに、部屋を出る。
もうこの時間だと、寝ている人も居るかもしれない。
十字路を真っ直ぐ行き、角を何度か曲がり、食堂の前の十字路も真っ直ぐ行き、お風呂、娯楽室、洗濯場を通り過ぎる。
そして、そのドアを、ゆっくりと、開ける。
ここのそれは、小テラスと比べると大きい。
初めて来る大テラス。とても広い。確かにこちらと比べると、あちらは小さく感じてしまう。
小テラスにあるものより大きなテーブルがいくつかある。椅子もたくさん置いてあった。
そして、その一番向こうのテーブル。
隅のほうに一人、居た。
私はそこに向かって歩く。
もうその人も気付いていた。
いや、待っていてくれたのかもしれない。
ゆっくりとお茶を飲んでいた。
「来てくれたんだ。アカリ」
「……はい」
ユウカさんはゆっくりとお茶を飲んでいる。
「………………」
「……………………」
少し、間を置く。
「……………………私は…………ここで働ると信じて、ここに……来ました」
「……うん」
「…………私は、ここで働けば…………前のようには………………昔は…………そうでもなかったんですけれど。………………でもその後は……………………」
「…………うん」
「でも、ここで………………働き続けると…………私は………………”何かを……失って”しまうんですよね」
「………………そうだと…………思う」
「でも…………………………それでも……………………私は…………………………ここを、辞めてしまったら、…………………………もう……………………………………行く所は無いです」
「………………そっか」
「多分………………辞めたら………………………………前、みたいに。…………………………そして…………今度は………………もう…………」
「………………」
とても、言い辛い。
けれども、それは、事実。
ユウカさんは急かす事も無く、こちらを、見ている。
「……でも………………そうなる、くらいなら…………でも…………その時になったら…………もしかしたら…………後悔するかも……しれないですけれど…………………………」
少し間が空いてから、ユウカさんが話し始める。
「………………私もさ…………そう、…………思ってた」
「…………ユウカ…………さん」
「……前の、…………生活なんてさ、……酷いもんだったから、…………だからさ、…………それくらい…………って。どうせ…………戻ってもって………………」
「……………………はい」
「朝、聞いて、きた、よね」
「…………はい」
「………………それで?」
やさしい声で聞かれる。
「………………あの、ユウカさんは………………前の生活と比べても……私は、……ユウカさんが………………何を。………………それは、まだ、知りませんが、それでも……………………今ここに居ることに…………それを無くしても………………今ここで働いている事に………………後悔は、して、いないですか?」
少し考えるように、外を見てから、話し始めてくれる
「………………始めは……………………後悔した…………よ」
「………………」
「…………なんで、よりにもよって………………それなのって。でも、さ…………やっぱり、それでも……戻ってたらさ………………」
「………………はい」
「…………………………アカリと、同じ、だと思う」
「………………………………私は、多分、………………………………………………………………………………死ぬ………………かもしれません」
「………………多分……………………私も」
今は、就職氷河期。
働ける人は、ごく僅か。
ちゃんと、家で寝て、ちゃんと、お風呂に入って、ちゃんと、ご飯を食べて。
そんな人は、数少ない。
そうで無い人たちは、色んなことをして、生きていく。
けれども、そんな術すら持たない人は、飢えか、病か。
生きていく事は難しい。
そして。
私もその一人。
そして。
ユウカさんも。
「…………後悔してるって聞かれれば、何に対してかって、思っちゃうけど。……ここで、こうして働いて、ご飯も食べて、お風呂も入って。そして、ちゃんと自分の部屋で寝て、また、朝皆で仕事し始めて。…………そんな生活だけを言えば、全然後悔して無いよ。……………………今でこそ、だけどね。………………初めて、私が失った時は、………………それを知った時、知らされた時は、…………………………すごく、後悔した。後悔、してた……………………」
「…………………………はい」
「……………………でも、さ。………………最近になってから…………ようやくね。………………少しずつ、だけど……………………今の、生活の方が…………良かったんだろうな………………って」
「…………私は………………正直………………怖い…………です。………………自分が……………………何を失ってしまうのか。……………………それは…………考えてしまうと……………………すごく、怖いです。………………でも、戻される事の方が……………………もっと………………怖い………………かも…………しれません」
「…………そっか」
「………………はい」
「………………私さ。…………朝、お香炊いてるでしょ?」
「…………え? あ……はい」
(…………もしかしたら…………ユウカさんは――――)
「………………でもさ…………私自身が、…………………………………………それを分からないんだよね」
多分、………………いや、そうなのだろう。
(ユウカさんは………………”匂い”を…………感じない…………ユウカさんは…………”嗅覚”を………………)
「…………じゃあ、ユウカさんが………………その………………お香を炊いてるのは………………」
「………………お願い、みたいな、………………お祈り…………みたいな。………………初めは、………………そんな感じだった」
「…………………………今でも、そう思って…………続けているんですか?」
「……………………ん。……………………どうだろ。……最近はさ、皆が、喜んでくれるから、……………………かな。……皆が、………………私の、代わりに、さ」
「………………私は、ユウカさんみたいに、……そう……思えるのか、…………自信は…………ありません。………………でも、………………そう、出来るように、…………頑張れれば………………」
「アカリはさ、うん、…………きっと、……私より、……頭も、良いし、それに、……きっと、………………強いよ。だからさ。…………ちゃんと考えて、………………悩んで、…………しっかりと、…………決断して、ね」
「……………………はい」
そよそよと、風が吹いている。
周りは暗い。
そこらじゅうから聞こえる、波の音。
そして、何かを失ってしまうこの空間。
けれども、生活を、与えてくれるこの会社。
私の心は、この時に、決まったのかもしれない。
お読みいただき、ありがとうございます。




