その25 必然な二人
口ベタな卓さんがここまではっきり言うまでには、かなりの決意と勇気を振り絞ったはず。
今すぐにでも返事はできる。『はい』と一言で済むことなのだから。
なのに…なのに私はその直前でためらった。
バカな私…ここに戻って来たのは何のため?こんな予感もしてたはず。そしてその時は、快く返事をすることも決めてたはずなのに…
突然の不安が私の頭の中をよぎる。それは卓さんに対してではなく、自分への不安。
私は卓さんにふさわしいだろうか?
独身時代に一度フッてしまったことも、離婚をしたことも、みんな私の決断でしたこと。卓さんを長い間苦しめて来たのはこの私。
そんな私がいとも簡単に申し入れをOKしてしまうのは、都合が良すぎるのではないか?
こんな善人の塊みたいな人と幸せになる資格が私にはあるのだろうか?
「卓さん。本当に私でいいの?」
彼は躊躇なく答える。
「もちろんです!」
彼の言葉は力強かったけど、斜面での横向き態勢のためか、その維持が辛そうに見える。
それを見た私はひとつの提案をした。
「卓さん、正面の方を向いて話してみない?お互い海を見ながらしゃべるの」
「…はぁ」
「目を合わせながら話すのも大事だけど、緊張するでしょ?私ね、卓さんにもっとリラックスしてもらいたいの。そして私がさっきの返事をする前に、もう少しだけあなたとお話がしたいの」
「海を見てるとリラックスして話せるんですか?」
「人の表情を見ない分、楽に話せるものよ」
「…わかりました」
「ありがとう」
私たちは隣同士に座りながら、顔はお互いに正面の海を見据えていた。
話しかけたのは私の方から。以前から心に引っ掛かっていたこと。
「卓さん、いずみに対する責任を感じてのことなら、無理はしなくていいのよ」
「無理なんてそんな…」
「私、全然知らなかったの。あなたがずっと今まで、いずみの養育費を払い続けてくれていたこと…本当に申し訳なくて…」
「そんな謝らないで下さい。それは僕が決めたことなんですから」
「でもあんな大金、申し訳なくてとても私には使えない。卓さん、あれはあなたのお金よ。あなたが自由に使っていいの。あなたは人間的にも素晴らしい人。尊敬すべき人。私たちのために、卓さんの人生を犠牲にしてしまったら…」
────数十秒の沈黙。
やがて卓さんが、ひとつひとつ言葉を丁寧に、噛みしめるように、ゆっくりと声を発した。
「ゆりかさん、それは違います。僕が自分の人生を犠牲にしているだなんて、一度も考えたことはありません。断じてありません」
「でも…」
「僕が人間的に素晴らしいだなんてとんでもない話です。むしろ女々しい男そのものなんです。僕は何年経ってもゆりかさんを忘れることはできませんでした。是枝君と再婚されたことがわかったときだって、ショックで寝込んでしまいました。忘れる決心をしたはずなのに…そのはずなのに、どうしてもあなたのことが頭から離れなかったんです」
「・・・・」
「そんな数年後のある日、突然いずみが僕の前に姿を現しました。成長したいずみにゆりかさんの面影を見たとき、受験勉強を教わるために僕の家に通って来るいずみを拒むことなんてできませんでした。会うことが…会えることが嬉しくて嬉しくてしょうがなかったんです」
卓さんが胸のうちを正直に告白してくれている。彼はウソの言えない人。私は黙って彼に耳を傾けていた。
「でも僕はゆりかさんに近づくことなんてできませんでした。是枝君と再婚しているあなたに付きまとうのは、単なるストーカー行為。ゆりかさんの幸せな家庭を阻害することになる。僕は自分の気持ちをずっと封印していました」
「その封印が解けたのは…例の事件のとき…?」
「そうです。是枝君が亡くなってからです。人の死をきっかけにするなんて、僕はとんでもない男なんです」
「…そんなことない」
「でも正直、僕はいずみやひなたちゃんと自由に楽しい時を過ごせるようになり、嬉しくてたまらなかったんです。そして帰宅するあなたの顔を確認してから僕は自分のアパートに戻る。そんな程度のちっぽけな時間に、僕は幸せを感じていました。とんだバチあたり者です」
「自分をそういうふうに言わないで」
「でもそこで気づいたんです。僕が前進するためには、ゆりかさんを忘れることじゃなく、ゆりかさんと歩んで行くことだって。バチ当たりでもいい。甘んじてそれは受け入れるから、ゆりかさんと一緒にやり直したいって」
「卓さん…」
「僕にはゆりかさんしかいないんです。ゆりかさんが必要なんです。ゆりかさんが大好きで大好きでたまらないんです。頭の中はゆりかさんでいっぱいなんです!」
怒涛のように流れる卓さんの言葉。口ベタな彼がここまで言ってのける心の強さ。信念。決意。私は今にも泣きそうだった。
「僕は映画のようなかっこいい決めセリフなんて言えません。たとえそんなセリフが浮かんだとしても、僕には似合いません。ただ僕には、ゆりかさんたちを守っていく覚悟はあります!」
「私…たち」
「はい。僕はいずみやひなたちゃんと家族になりたい。本当の父親じゃないけれど、本当のような家族になりたいんです。図々しくて馴れ馴れしいお願いですが、僕のこのわがままを聞いてはくれないでしょうか?見た目はこんなブサイクな僕だけど、どうかもう一度、僕にやり直しのチャンスをくれないでしょうか?」
一気に込み上げてくる感動。私は彼の懸命な言葉に心を打たれた。
「僕は家族全員で幸せになりたいんです。誰ひとり欠けることなくこれからずっと…」
「卓さん、もう言わないで…」
「えっ?」
私は卓さんを遮った。
「もうわかったわ。。充分にわかった。それ以上言ったら私もう…」
「あ…」
海を見ながらしゃべっていた卓さんが、チラッと私を見たのがわかった。
「私もう…声が出せなくなっちゃう。。きちんとお返事できないじゃないの…」
「ゆりかさん…」
見られてしまった。。
私の目から一気に流れ落ちる涙を。
涙でぐしゃぐしゃになった私の顔を。
それはまさしく嬉し涙。心の底から湧き出る感動の涙。
私はこの瞬間、ハッキリと決意した。
私はこの人を支えてゆこう。これからずっと。
何があってもこれからは一緒にいよう。私にとって、これ以上の人は絶対いない。
どんな人間にだって欠点はある。誰しも完璧な人間なんていない。
私たち二人に足りない部分があったってそれも当然。
もう二人とも大人なんだから、これからは許す許さないの問題じゃなくて…
補い合って、話し合って、そして分かり合ってゆこう。
卓さんは全て行動で示してくれた。ずっと今まで。
何年にも渡って支払い続けてくれた大金の養育費。
いずみの受験勉強をサポートし、ひなたには手話も指導。更には強盗からも二人の身を守ってくれた。
是枝が亡くなってからも私たちを陰から支えていてくれた。
世間の好奇な目にさらされないように、目立つことなく、心配りや気配りも決して忘れなかった彼。
どんな決めセリフよりも、どんなにときめくようなセリフを言える人よりも、行動で示す人には叶わない。
誠実さ、実直さがにじみ出ている人…それが森田卓さん。
今なら大声で言える。
───私は…私は森田卓さんが大好き!!
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遠い地平線から視線を隣のゆりかさんに移すと、彼女はボロボロ泣いていた。
僕は戸惑い、すぐに目線を正面に。
こんな場面、映画やドラマならそっと彼女の肩を抱き寄せてあげるのかもしれない。
でも今の僕はゆりかさんの返事待ち。早合点はいけない。焦ってはいけない。
───待とう。何分でも…このままゆりかさんの言葉を。。
待つのは長かった。
5分か10分か…お互い肩を並べて座りながらも、そのくらいの沈黙は続いていた。
ゆりかさんの鼻をすする音が止み、やがて沈黙は破られた。
「卓さん、私ね。9年前のあの頃と…あの頃ここにいたときと同じ気持ちなの」
「初デートのとき…ですね」
「ええ」
「でも…あのときは暗示にかかっていたんじゃ…?」
「そうよ。でもね、あのときの気持ちは蘇ってくるの。卓さんに夢中だったあの気持ち…」
「それって…」
僕はまたチラッとゆりかさんを見た。彼女は海を見つめながら話している。
軽い微笑みを浮かべながら…とても優しい顔で。とても印象的な顔で。
ゆりかさんが愛おしくてたまらなく思えた瞬間…
今すぐにでも抱きしめたい。ギュッと抱きしめたい。
でも僕はそんな衝動をグッとこらえた。
「もちろん今はそんな暗示になんてかかってないわ。でも気持ちはあのときと同じなの。あなたを思う気持ちは全く同じ」
「同じ…」
「私も卓さんが好きです。大好きです。私にとって、かけがえのない大切な人よ」
「ゆりかさん…」
「今決めました。私はあなたと生きる。これからずっと共に生きていきたい!」
僕の衝動は限度を超えた。
僕がゆりかさんに振り向くと、彼女も同時に僕を見ていた。
こんなに澄んできれいな目…見たことがない。
目と目が合った瞬間、僕たちの意志は通じた。
お互いが求めたのはキス。
強く激しいキスではなくて、そっと近づき目を閉じて、お互いの唇の感触を確かめ合うキス。長い長いキス────
僕はゆっくり彼女の肩に手をまわし、そっと優しく引き寄せた。
もう言葉なんていらない。
海のさざ波がBGMのように、とても心地よく聴こえる。
こんなにも自然にキスができるなんて。。
こんなにあたたかいキス。
ドキドキするのではなくて、心から落ち着くキス。安らげるキス。癒されるキス。
それは心が溶け合うように長く…更に長く続いた。
やがて僕たちの唇が離れても、目と目はお互いをしっかりと見ていた。
口を開いたのは僕の方から。
「ごめんね。随分遠まわりしちゃって…」
ゆりかさんは軽く目を閉じ、首を横に振る。
「ううん。違うわ。私ね、キスしてる間に思ったの。これは私たちが真の夫婦になるための試練だったんじゃないかって」
「試練…」
「今日、この日この場所で、私たちが会えたタイミングが全てだと思うの。私たちがこうなるのは必然だってこと」
僕は少し考えてから、その言葉をじっくり噛み締めた。
「必然か。。うん…そうだね。そうであって欲しい。いや、きっとそうだよ」
「ええ…きっとそうよ」
(続く)
次回はエピローグになります。ここまで読んでいただているたくさんの読者様には、心から感謝致しております。