その8 マイナス思考(前編)
「もしもし卓さん?ゆりかですけど…」
その声と口調からは、まだ用件も言わないうちから何か切実なものが感じられた。
「どうかしましたか?体調でもどこか…」
「いいえ、体は大丈夫です。それよりも私、卓さんにお話しなければならないことがあって…」
「はぁ…何でしょう?遠慮なくどうぞ」
僕はそう言いながら、そばにいるいずみをチラッと見た。
いずみはテレビを観ていてこちらは見ていない。
電話の向こうでゆりかさんが話し始める。
「私、卓さんに今までのお礼とお詫びを全くしてなかったので…」
「ちょ…ちょっと待って下さい。お礼って何ですか?そんなの必要ないですよ。それにお詫びだなんて、意味がわかりません」
いずみがひょいとコチラを見た。
「卓さんには長い間、どれほど子供たちがお世話になってきたことか…本当に申し訳なく思っています」
「いや、それはですね。僕が勝手にやって来たことなんで…」
「今まで子供たちを本当にありがとうございました」
「(・ ・)....え?」
その過去形で終わった語尾からは、明らかに決別宣言とも言うべきニュアンスが隠されていた。
「卓さん、あなたへの感謝の気持ちは一生忘れることはありませんから」
「い、いえ…そんな感謝だなんて…」
「これからは人に頼らないで、私がもっと頑張って進んで行きます」
「そ、そうですか…」
やはりそうだった。いきなりだったので、少し動揺はしたけど、僕に大きなショックは特にない。
元々、僕がしゃしゃり出て行くことは失礼なことだとわかっていたからだ。
是枝くんの忌明けもしないうちに、元夫が家に上がりこむ常識の無さ。
これが世間に知られたら、ゆりかさんがどんな目で見られることか…
自分に甘い僕は、それをわかっていながら通い続けて来た。僕に弁解の余地はない。
いずみは勘がいい。電話の相手が自分の母親であることにすぐに気付いたようだ。
またその逆に、電話の向こうのゆりかさんも同様、こちらの状況を察知していた。
「いずみもそこにいると思うけど、今日が最後ということで納得してもらいます…」
「…はい。わかりました」
僕があまりに素直に返答するせいか、逆にゆりかさんを心配させてしまったようだ。
「卓さん、怒ってる?突然でごめんなさい。私が自分勝手なことばかり言って…」
僕はすぐにそれを否定した。
「いえいえ、怒ってなんかいませんよ。実は…僕もわかってましたから」
「え?わかってた?」
「ええ。今冷静に考えれば、人の家族の中に土足で入り込んで引っ掻き回していた僕がバカだったんです」
「私はそうは思ってないわ。そんな言い方しないで」
「いいえ。謝るのは僕の方かもしれません。僕はゆりかさんの家庭がいつまでも円満でいることを願っているだけで良かった。それなのに僕は、いずみが受験生のときからつい関わり始めてしまったんです。世間体で言えば、こういうのはトラブルの元です」
「そうかもしれないけど、私はそんなことは全然…」
僕はゆりかさんの言葉を遮ってしゃべり続けた。
「是枝くんが亡くなってからも僕は図々しく何度もご自宅にお邪魔していました。悪いと薄々感じていながら続けてしまいまいた。今日がいい機会です。ゆりかさんたちの新たな出発のためにも、僕のような邪魔者は断ち切って下さい」
ついに言ってしまった。僕の今までの心の奥につっかえていたものを。
普段、口ベタな僕がここまで一気に言えるなんて珍しい。
でも自分では何となくその理由がわかる。
僕は臆病者だ。だからこの時の僕は、単なる強がりでしかなかった。心とウラハラなことだけが口から先に出てくる。小心者で臆病な人間の特徴だ。
────これでいいんだ。これで…
そう言って自分に納得させた僕だった。
けれど、それに対するゆりかさんの返答は、僕の思いとは全く違う観点からだった。
「違う!違うの。そういう理由じゃないの。勘違いしないで。卓さん」
「…は?」
その意外なゆりかさんの言葉に僕はいささか驚きを隠せなかった。
いずみがそばで頬杖をついたマジ顔でこちらを見ている。
「卓さん、私は自分にダメ出ししたの。自分自身を許せないのよ」
僕はこんなことを口にするゆりかさんが不思議でならなかった。
「どうしてですか?ゆりかさんのどこに非があるんです?」
「あります。いっぱい」
「ゆりかさんは今まで、被害者の立場ばかり経験して来たじゃないですか。あなたのどこにダメだしする要素があるんです?」
一呼吸おいたゆりかさんが、少し声のトーンを落とした口調で話し出した。
「私が、大変な目に遭ってばかりいる事に原因があるんです」
「え??…すみませんが、僕にはその意味がわかりません。どういうことですか?」
(続く)