その15 癒しと和みのひととき
癒しと和みのひととき
もうびっくりするしかない。
卓くんの手話の上達ぶりはハンパじゃなかった。
ひなたの聴覚障害を知ってすぐに始めたらしいけど、ここまでできるようになるなんて、すごい集中力だと思う。
この1週間、毎日夜中の3時頃まで勉強していたとのこと。
「卓くん、眠くならなかったの?」
「平気だよ。それにちゃんと寝てたよ」
「会社で?」
「違うよ(^_^;)僕はね、朝ごはん食べないから出勤時間ギリギリまで寝てるんだ。4時間半は寝てるから大丈夫」
「それにしてもすごいよ…」
ひなたと暮らしている私の方が恥ずかしくなった。手話なんてろくにやってない。
「早くマスターして、ひなたちゃんにも教えてあげないといけないだろ?じゃないとひなたちゃんの意思を聞いてあげることができないし」
「うん…そうだよね。。」ホントに私はダメな姉。
私とひなたは最初、週末の土日だけ、卓くんの家に来るつもりでいた。
でも、ママの最近の疲労度を考えると、少しでも体の負担を軽くしてあげたい。
そう思って、私は学校帰りにおじいちゃんのいる病院へ行き、ママと一緒にくっついているひなたを連れてすぐに卓くんの家へ通うようになっていた。
そうすることに決めたのは、病院から家に戻るまでの途中に卓くんの家があったから。
卓くんがまだ会社から帰ってないときは、近くの公園でひなたと遊んでいる。
だから余計に卓くんは、毎日通って来るひなたのために、必死で一刻も早く手話をマスターしたいと思ったのかも。
だからある意味、私が卓くんをせかしちゃったようで、少し悪い気がした。
今日はひなたがお気に入りのままごと一式を持ってきた。
おもちゃの野菜や食品。そして調理道具。割れない皿や茶わん等々。
卓くんは手話のテキストを広げながら、身振り手振りでひなたに話しかける。
幸い、ひなたは高度難聴だけれど、家で骨伝導補聴器をつけているときは、わずかに聞こえている。
だからママや英之、私の話す言葉は、ある程度は理解できていると思う。
ただ、まだ小さい子供のせいか、補聴器のようなわずらわしいものを身につけるのは大嫌いなひなた。すぐに取り外してしまうようになり、強制すると、泣きじゃくって暴れまくる。
その繰り返しで、ここ数カ月は補聴器なしの生活。ママも英之もひなたが嫌がることは無理強いしなくなっていた。
卓くんの手話にひなたはバカウケしている。
元々手話は、相手の顔をよく見て、身振り手振りをオーバーアクション的にしなければならないから、卓くんのやっていることが可笑しくてしょうがないんだと思う。
失礼な話だけど、私も卓くんの身振り手振り、顔の表情、大きく口を開けて丁寧に話す口ぶりに吹き出しそうになる。
「ひなたちゃん、じゃあオジサンが野菜を切るよ」
そう言って、卓くんはおもちゃのまな板の上で、おもちゃの大根やきゅうりをおもちゃの包丁で切るマネをした。
「さぁ、次はひなたちゃんの番だよ」
卓くんが手振りでひなたに合図する。
ひなたはすぐに理解して、その野菜をおもちゃのレンジに入れてスイッチのボタンを押した。
3秒足らずでレンジを開けて、皿に盛り付けるひなた。卓くんがあぜんとしてその行動を見ている(^_^;)
うちの食生活が、いかに冷凍食品が多いかってことがバレたようで恥ずかしかった。
でもまぁ…卓くんだって毎日ラーメンなんだから、そんなに恥ずかしがることでもないかなと思いなおす私。
その後の2週間はあっという間だった。
ひなたと卓くんはすっかり仲良しになって、一緒にお風呂まで入るようになっていた。
これは私が受験生のときから、ここでシャワーを浴びてから帰るクセがついていたので、ひなたにもマネされた感じ?w
それに卓くんは、お風呂で遊ぶ子供のおもちゃも買って来ていて、ひなたもお風呂が大好きになっちゃったんだ。
それで困ったのは、今日のひなたは私の手を引っ張ってお風呂に誘ってきたこと。三人で遊びたいという意思表示(⌒-⌒;
「お姉ちゃんはダメだよ。ひなたはオジサンと遊んできなさい」
それでも半べそになりながら私の手を引っ張るひなた。
「僕は…かまわないんだけどね・・・ヾ(´▽`;)ゝ ウヘヘ」
「卓くん、エロオヤジ丸出し」
「ごめん…(^□^;A やっぱ無理?」
「当たり前でしょ!そんなこと普通聞く?」
ちょっとエッチな卓くんを垣間見たけど、そんなの全然気にならない。
それよりも驚いたことは、今週になってひなたが自分から骨伝導補聴器をつけたいと意思表示をしたこと。
これは絶対に、卓くんの熱意がひなたに伝わったんだと思う。卓くんの声をじかに聴きたくなった現れに違いない。
本当にここは心が和んで癒される場所なんだってつくづく思う。
ラーメン以外は何もないこの家なのに、それが逆に笑いを誘う空間になっている。
こんな楽しい時間が今の我が家には全くないなんて…
ママは一体どこで歯車を違えちゃったのかな?
毎日、卓くんに送ってもらう車の中までもが、なぜかしら楽しい。
カーエアコンを入れないで、車の窓を開けながら涼しい自然の風を浴びる。
とても気持ちのいい夜のドライブ。
「さぁ、着いたよ。じゃあまた明日ね」
「うん。ありがとう卓くん。ひなたもお礼しなさい」
私がひなたにお辞儀する合図をすると、突然ひなたは両手の甲を90度に交差させたあと、右手の方を上にあげて微笑んだ。
「えっ…??」
卓くんも私もびっくりした。
「卓くん、ひなたのこれって…手話じゃない?」
卓くんが感動したように言う。
「…そうだよ。手話だよ。ひなたちゃんは今『ありがとう』って言ったんだよ!」
すごい。。練習や人マネでしかしなかった手話を、初めてひなたは自らやったんだ。
卓くんはひなたの頭をなでて喜んでいる。
「なんかこれからが益々楽しみだよ。さ、ママたちが帰って来ないうちに早く帰りなさい」
「うんっ!」
こうして卓くんと別れた私たちは、すぐ目の前にある道角を曲がり、まだ明かりのない我が家の玄関に向かった。
いつものように玄関のカギを開けてひなたから中に入れる。
そして、そのあとに私が入り玄関の扉を閉めようとしたその瞬間!!
・・・まるで悪夢のような出来事が私たちを襲った。
(続く)