七
時間が過ぎ、それから一年後の夏休み。
ここに至るまでに色々なことがあった。
一年生の夏休み。優一は宿題をギリギリまで終わらせず、色々な人に助けてもらったり、秋の運動会で大活躍をしてヒーローになったり、バレンタインデーには全男子生徒から妬まれるほどのチョコレートを貰ったり。
航太郎が夏の部活で張り切りすぎて熱中症で倒れたり、秋の運動会で張り切りすぎて足の骨を折ったり、バレンタインデーに紗雪から貰った義理チョコに最高の幸福を感じたり。
直哉は最後の大会で健闘するも、二回戦敗退だったり、担任の神崎と進路のことでバトルを繰り広げたり、卒業式で大号泣したり、意外と学ランのボタンがなくなっていたり。
勝に彼女ができて部員から神と崇められるも、三日で別れたり。正輝はその年に貰ったお年玉が過去最高記録で舞い上がっていたり。ハーレムを望んでいる琢磨と、モテたい栄治はフラれ続けたり。
どこにでもある普通の中学校生活。彼らからすれば、それが全てだった。
「おい! 二年集まれ! あ、優一はどっか行ってろ!」
夏休み中の部活動。その終わりに琢磨が優一を除く二年男子部員を集める。優一は嫌われているわけではない。ただこの場は敵なのだ。ぞろぞろと七名が集まる。
「円陣組むぞ」
七名が輪になって円陣を組む。除け者にされた優一は、楽しそうな光景を一年生に混ざって遠くから眺めている。ちなみに今年の一年生は七名。例年通り少なからず多からずの人数だ。
「いいか、お前ら。今日のひいらぎ祭り、優一に女子たちの視線が集まることは目に見えている。しかし、だ。優一も女バドの二年十人を相手にするなんて無理だよな? 精々二、三人が限度。これがどういうことかわかるか、航太郎」
「女子に余りが出ます、隊長」
「そうだ。つまり、そこが俺ら負け組に残された唯一の突破口となる。なのに俺たちの中で足の引っ張り合いをしていたら意味がない。天は俺たちに味方してくれた。女子十人、皆可愛い。誰が誰でもいいよな、栄治」
「もちろんだ!」
彼ら男子八名は、女子バドミントン部二年生十人とひいらぎ祭りへ行く。ひいらぎ祭りは柊川の河川敷と、そのすぐ近くにある児童会館で行われる、中規模の夏祭りだ。中規模といっても打ち上げ花火や屋台も出る。しかし若者はあまり来ない。
若者は同日に街で開催される城花祭りへ行く。こちらの祭りは打ち上げ花火はないものの、屋台の数はひいらぎ祭りよりもかなり多く、彼らが住んでいる市の中では大規模といえる祭りだ。若者からしてみれば人気の多い城花祭りの方が祭りという感じがするのだろう。
まったりと楽しみたい、人混みを避けたい人はひいらぎ祭りを選ぶ。彼らは十八人という大人数。連絡手段もないのでひいらぎ祭りを選んだ。
今年の八月は、近年の夏と比べると暑い。しばらく冷夏が続いていたこともあり、尚更そう感じてしまう。それに負けじと人の熱気も凄まじい。ひいらぎ祭りもいつもと比べて人が多かった。
「お前ら離れるなよ!」
琢磨が指揮を執る。これは彼なりのアピール。頼りがいがある、そう思われたいのだろう。琢磨は先頭を歩いているが、残念なことに隣にいるのは栄治。色気なんてない。その後ろに洋と健太。そしてその後ろに望まずして今日の主役となった優一。両サイドに女子が二人。それに続いて正輝と、隣に女子が一人。なんだかんだ大人っぽい雰囲気を出す正輝のことを好きになる女子もいる。その後ろに残りの女子七名。その中に紗雪もいる。そして最後尾に航太郎と勝。航太郎は紗雪のうなじを見つめている。男子は皆、適当な私服なのだが、女子は皆、浴衣を着ている。航太郎は彼女のうなじを見れただけで、今日来たかいがあったと確信する。
「帰りたい……」
「おい、そんなこと言うなよ」
勝が溢す愚痴を、航太郎は欲望の眼差しを保ったまま拾い続ける。城花祭りと比べれば人は少ないが、それでも十分多い。勝はその人混みにうんざりしていた。航太郎も人混みは身長的に考えて嫌いだが、目の前に紗雪がいる限り、彼はこの場所から抜け出したりはしない。
「なんかどっかで休みたいねー」
「うん、疲れてきちゃった」
後ろから聞こえてきた女子の声に、琢磨は餓えた野獣のように食らいつく。
「屋台でなんか買って、どっかで食べようか!」
花火が始まるまで三十分ほどある。その三十分間ずっとぶらついていれば、花火を見る為に顔を上げるのも億劫になってしまうだろう。
たこ焼きや焼きそばを買い、彼ら十八人は河川敷に座る。活気溢れる人の笑い声、必死に鳴き叫ぶ蝉の声。耳を澄ませば川のせせらぎが届いてくる。沈む夕日を、誰が見ているだろうか。昇る朝日を、誰が見ているだろうか。まだ見えぬ太陽を、誰が待っているだろうか。彼らの場所から太陽は去っていき、空は静かに色を変える。夏の風が音も立てずに遊んでいる。小さくか弱い、一つの雲がそんな空を漂っている。
花火を打ち上げるには絶好の空だ。
「へーんしーん!」
「ちがう! へんしんはこう! へーん……しん!」
彼らの前ではしゃぐ子供たち。屋台で買ってもらった仮面ライダーのお面を被り、変身ポーズについて揉めている。
「仮面ライダーとか久しく見てないなぁ」
「俺、仮面ライダーより戦隊ものの方が好きだったな」
男子たちは特撮について話し始める。その話題に着いて行けない女子たち。ほとんどの男子が通る道だが、女子はもっと可愛らしいものが好きなんだろう。
仮面ライダーか戦隊ものか、ウルトラマンか。何になりたかったかで盛り上がる。
「俺はウルトラマンだな。組織に属しているから給料もちゃんと出るだろ」
正輝は幼いころからそんなことを考えていた。かなり現実的な考え方だが、一応ウルトラマンそのものに対しても憧れてはいた。
「えー、やっぱり戦隊ものだろ。一人で戦うとか怖いじゃん。俺そんなん無理だわ。それにロボに乗りたいし」
協調性を大事にする優一。彼ならば仮面ライダーにもウルトラマンにもなれそうだ。もちろん現実にそんなヒーローは存在しない。それらを演じる俳優として、だ。ロボットに乗りたい、という気持ちもほとんどの男性が理解できるだろう。操作の仕方などの詳しい仕組みは、子供にとってどうでもいいこと。大きくて強くて恰好がいい。この三つに加え、合体まである。ロボットにはロマンが凝縮されているのだ。
「俺も正輝と一緒でウルトラマンだな。でかいし」
大きいという部分に憧れる航太郎。ウルトラマン自体は大きいが、それで本体である人間の身長が伸びるわけではない。それでも高い場所からの景色を見てみたいのだろう。普段見下ろされることが多い彼だから思うことだ。
「勝は何に……あれ、勝?」
先ほどまで航太郎の隣でたこ焼きを頬張っていたはずの勝が消えた。彼がいた場所には、食べかけのたこ焼きだけが残っている。誰にも気付かれることなく、勝は消えた。
「勝ならあっちだ」
正輝は、からしマヨネーズがたっぷりとかかった焼きそばを食べながら指を差す。その方向には、勝と仮面ライダーの変身ポーズで揉めていた子供たちが何かをしていた。
「いいか? 右手はこう! 左手はこう! で、変身!」
「右手はこうで……」
「違う! こう! ずばんっと突き出す! ほら、君ももっとキレよく!」
「せいっ!」
「そう! そんな感じ!」
気付かぬ内に変身講座が始まっていた。中学一年生の頃から現実的思考の彼が仮面ライダーが好きだというのは意外だ。
小学生の頃から彼のことを見てきた航太郎は驚きを隠せない。彼なら「特撮なんてご都合主義でつまらない」と言うと思っていた。
「なんか本田くんってかわいいよね」
「うん。子供も好きみたいだし」
女子の好感度が急上昇している。それを妬ましく思う男子数名。勝がそれを狙ってやっているのであればなかなかの策士だ。しかし彼の心にあるのは子供たちにちゃんとした変身ポーズをしてもらいたいという欲だけ。
変身講座が終わり、勝が戻ってくる。充実した時間を過ごしたという顔をしていた。
「本田くんってそういうの好きなんだー!」
今まで彼に興味を示していなかった女子数名が、彼のところに群がる。ギャップ萌え、というやつだろうか。
「好きだよ。面白いし、かっこいいし」
「現実的なお前がねぇ……」
「だって現実じゃないでしょ。フィクションだよ?」
どうやら現実とフィクションの境目はきっちりしているようだ。
「子供も苦手だと思ってたわ」
「子供も好きだよ。僕とは違って純粋だし」
勝は純粋な子供に憧れていた。現実主義な自分と、純粋な子供たち。現実的思考しかできない自分が嫌いだった。どれだけ夢を見ようとしても、いつも現実が割り込んでくる。いつも現実に邪魔されてしまう。彼は彼で、そんな悩みを抱えていた。そんな人なら純粋な子供に嫉妬し、嫌いになったっておかしくはない。それでも彼が子供を好きなのは、夢を見る子供たちと接することで、それが自分にも伝染すればいいと思っていたから。
嫉妬と憧れは大して変わらない。自分が本当に憧れに近付きたければ、嫉妬心を抱く余裕もない。少しでも手を抜けば、憧れは一瞬にして嫉妬に変わる。
彼は自分のことを純粋だと思っていないが、その憧れは十分純粋だった。
「正輝、たこ焼き持ってて」
「お? 食べていいのか?」
流石中学生男子。大盛り焼きそばを完食したばかりなのに、まだ食べられるようだ。
「駄目! トイレに行くだけ! あと三個だから! 覚えてるからな!」
「はいはい、いってらっしゃい。食べないから」
たこ焼きを正輝に預け、優一はトイレへと走る。
「あ、お茶なくなった。ごめん、ちょっと買ってくるね」
紗雪が立ち上がる。そのチャンスを航太郎が見逃すはずはない。二人きりになれる絶好のチャンスだ。
「お、俺も行くよ」
「なら一緒に行こっか!」
航太郎は紗雪の隣に並び、歩き出す。他に名乗り出る人がいなかったのが救いだ。なんとか二人きりになることに成功した。カップルならば手を繋いで仲良く歩くだろう。しかし二人はそういう関係とは程遠い。
(どうする、俺。どうするんだ。俺!)
優一は一人で焦っている。トイレがない。児童会館にトイレはあるのに、こんなイベントの日に限って故障中で閉鎖されていた。しかも男子トイレだけ。これは神様が優一に与えた試練なのだろうか。児童会館に着くまでにある程度の余裕はあった。トイレがないという焦りと時間の経過で余裕はなくなっていた。
(こうなったらプライドを捨てて林の中で……)
そんなモラルのない行動は優一も嫌いだ。できれば避けたい。しかし今は緊急事態。女子トイレを使うこともできないだろうし、漏らすのはごめんだ。考えている暇はない。尿はすぐそこまで来ている。
幸い児童会館のすぐ近くに、木が立ち並ぶ丘があった。ここなら誰も来ないだろう。優一は静かな林の中へ駆け込んだ。
「きゃっ!」
「おわっ!」
林の中を走っていると、木が生えていない芝生の空間があった。そしてそこに、幽霊かと思ってしまうほど、暗い夜空で輝く星のような少女が座っていた。祭りの明かりが僅かしか差し込まないこの場所に、誰もいないと思っていた優一は彼女に驚き、彼女もまた、突然飛び出してきた彼に驚いた。
その驚きと、少女の可愛さで、尿意は一旦消え去った。
「あ、えっと、その……」
「花火?」
「え?」
「花火、見るの?」
少女は首を傾げ、優一にそう訊いた。正直にトイレがしたいと言えるわけもなく、彼は頷いた。
「うん、友達と見るよ」
「友達、いっぱいいるの?」
「あー、うん。そうだね、いっぱいいるよ」
少女は切なそうな顔をする。
「私、友達いないの。だからずっとアニメ見てる。お兄ちゃんはアニメ見る?」
「最近はあんまり見てないかなぁ」
「私ね、将来ね、声優になりたいの。そしたら見てくれる?」
何故友達がいないのか。何故少女はそんな約束を初対面の自分と交わそうとするのか。そんなことを考える余裕は優一にない。尿意のせいではなく、目の前にいる少女に全神経を集中させていたから。それは意図して集中しているのではない。奪われてしまっていた。
「……うん、見るよ」
「約束だよ?」
少女は小指を立てる。とても細くて、簡単に折れてしまいそうな指だった。優一は少女に近寄り、腰を下ろす。
「うん、約束」
自分の小指を、少女の小指へと絡める。見た目以上に華奢なその指が、暗闇でもわかるくらいに綺麗で透き通ったビー玉のようなその瞳が、彼の胸を熱くさせる。それが恋なのか、別の感情なのか。彼はその熱を感じるだけだった。
「私、声優になれるかなぁ」
少女は視線を地面に落とす。水滴を纏い、ラムネ瓶に閉じ込められている潤んだビー玉が、彼の心を強く強く締め付ける。そして彼は決意した。
今の世の中、声優を目指す人はたくさんいる。しかし声優になれる人は少ない。そして、もしなれたとしても、アニメに出演できる人はその中の一握りだけ。それは優一も知っている。
少女の声は鼓膜へ溶け込むように綺麗な声をしている。声優にだってなれるだろう。だが運悪くその声が誰にも見つけてもらえなければ、少女の夢は砕け散る。輝ける場所がなければ、その輝きに意味はない。
「もう二つ、約束しようか」
「二つ?」
少女は優一を見つめた。その瞳を見て、彼は改めて決意する。
「君は絶対、声優になる。これが一つ目の約束」
「うん」
「もう一つは、俺が小説家になる。小説家になって、俺が書いた話がアニメ化される。そしたら、君がそのアニメに声優として出る。これで二つ」
小説なんて書いたことがないのに、そんな約束をしてしまった。当てのない約束をしてしまった。しかし彼は約束をしてしまったとは思っていない。何故か自信があった。根拠なんてどこにもない。あるのは自信と、約束を守るという気持ちだけ。
「お兄ちゃん、小説書けるの?」
「わかんない。でも、書ける」
「どういうことなの」
少女は笑いながらそう言った。初めて見せた少女の笑顔は、彼の決意に火を点す。
「約束、守れる?」
「うん、絶対声優になるよ! お兄ちゃんも約束守ってね?」
二人は約束と微笑みを交わす。
「おう! ゆーびきーりげーんまーん」
「うーそつーいたーらはーりせんぼん、のーます!」
「ゆーびきった!」
指を切った瞬間、優一の心に不安が生まれる。何故かもう会えないような気がした。
「しおりー!」
「あ! お父さん! こっちこっち!」
恐らく少女の父親だろう。少女の名前を呼ぶ声が聞こえ、彼女はそれに返事をした。
「二人が約束を果たしたら、その時はここで一緒に花火を見ようね。しおりちゃん。んじゃ、家族団欒の邪魔しちゃ悪いし、またな!」
優一は生まれてしまった不安を拭い去るように走り出す。後ろからお兄ちゃんと呼ぶ声が聞こえたが、それは無視した。あれ以上彼女の前にいれば、何かが変わってしまう、そんな気がしたから。
「ん? しおり、今誰か……」
(お兄ちゃん……)
「しおり早いよ! 花火までもうちょっと……ってあれ? どうしたの?」
「あっ、ううん、なんでもないよ。お姉ちゃん」
「しおり、身体の調子がいいからってあんまり走っちゃ駄目じゃない」
「ごめんなさい、お母さん」
少女は名前も知らない青年の顔を思い出す。彼はこんな短い時間に交わした約束を守ってくれるのだろうか。自分は夢を叶えられるのだろうか。
そんな不安も知らずに、祭りは盛り上がっていく。地平線の向こうで、炎が小さくなる。一息で、一瞬にして消えてしまいそうな弱々しい炎だった。
優一は無事に用を足した。確かに児童会館のトイレは故障中だったが、児童会館の外に臨時の男子トイレがあった。焦りのせいか、周りが見えなくなっていたようだ。
もしこのトイレに気が付いていたら。もしこの祭りに来ていなかったら。優一はそんなことを考えながら、皆の下へと帰る。歩けば歩くほど、想えば想うほど、指を離したとき以上の、現実的な不安が彼を襲う。
ふと立ち止まった瞬間、謎の自信の隙間を掻い潜り、自分は小説家になれるのかという不安に襲われた。小説家になれなければ、約束を破ったことになる。なれたとしてもアニメ化されなければ同じこと。必ず約束を守ってきた優一にとって、破るということは考えられない。
わからないことだらけ。だが、わからないからやるしかないのだ。やる前から諦めるのは、叶えられない以上に最低なこと。今諦めれば口だけの男。最低な人間。優一は自分に言い聞かせ、鞭を入れ、一歩踏み出す。
ほんの僅かな少女との会話が、彼の人生を変えた。
「私ね、好きになっちゃった」
「え?」
航太郎は驚き、紗雪の顔を見る。可愛い。いや、違う。ついさっき買ったお茶を落としてしまいそうになる。彼女は今「好きになっちゃった」と言った。それは間違いではない。では誰のことを好きになってしまったのだろう。これはもしかすると告白なのか。二人きりというチャンスを狙った告白なのか。彼の心臓は荒れ狂う海のように激しく脈打つ。
「え、えっと、誰を? もしかして……」
「うん、優ちゃんのこと……」
荒れ狂っていた海は、一瞬にして干上がる。結局そうだ、やっぱりそうなんだと航太郎は落ち込む。一年という時を経て、航太郎と紗雪以上に、優一と紗雪が仲良くなっていた。遠くなったわけではないのに遠く感じてしまうのは、彼女が優一のことを好きだったからだろう。航ちゃんと呼ばれて舞い上がっていた自分が馬鹿馬鹿しく思える。
「で、でも、優一って人気あるし」
「そうなんだよね。だからどうしたらいいかわかんない」
今どうしたらいいのかわからないのはこっちだ、と航太郎は思う。
全てを優一に奪われた自分。とても情けない。航太郎だって紗雪のことが好きだ。孤独に震えていた自分を救ってくれたのは彼女だ。席替えをして、隣になって、幸せになって。真面目に授業を頑張る彼女を見て、好きという気持ちはどんどん膨れ上がっていた。
二年生になって残念なことに紗雪とクラスが別れ、その気持ちがより強く彼の身体を蝕んでいった。さらに残念なことに、紗雪と優一が同じクラスになってしまった。それだけで十分つらかったのに。それでも諦める理由なんてなかったのに。
たった今、現実を突き付けられた。
「みんなよりも可愛いわけじゃないし、私のことなんて――」
「そんなことないよ。可愛いし、私のことなんてって言うほど、魅力がないとも思わない。大丈夫だよ」
航太郎は言ってしまった。紗雪も驚いている。彼の心の中で、紗雪が魅力的だなんてことくらいずっと思ってきた。しかし口に出したのは初めてだ。
「え、えっと、その、自信持ってってことが言いたくてですね」
「あ、うん……ありがと」
「……戻ろっか」
「うん……きゃっ!」
紗雪は地面に捨てられていたペットボトルに躓き、転びそうになる。航太郎は咄嗟に彼女の腕を掴み、身体を支えた。
「だ、大丈夫?」
「あ、う、うん、ごめん。ありがとう」
航太郎は彼女の腕を離す。
右手に残る、初めて感じる彼女の温もり。久しぶりに人の体温を感じた。どうせならばこの体温を全身で感じてみたい。そんな願いは叶うはずがないと頭では理解しているのに、心がそれを望んでしまう。後ろから思い切り抱き締めればその願いは叶う。しかしそんな強引に叶えたところで、心は満たされない。感じた温もりのせいで、航太郎の中にある孤独が際立つ。闇の中で感じる孤独以上に、光の中で感じる孤独は強さを増す。温もりはいつか消えるだろう。だが温もりを感じたという事実は消えはしない。
「あ、航太郎と紗雪。なにやってんの?」
色々あった優一は、戻る途中で二人と出会う。航太郎にとって、今一番会いたくない人。紗雪にとっては一番会いたい人。優一が色々あったことを報告したい相手は航太郎。
入れ違い、食い違い。うまく噛み合わない歯車。
「俺、トイレ行ってくる」
この状況で優一と紗雪を二人きりにしたくはない。だが紗雪の気持ちを考えるならば、二人きりにしてあげるべきだ。
二人きりにする為じゃない、トイレに行きたいだけなんだ、と自分自身を強引に納得させる。もうどうにでもなればいい。そんな気持ちだった。
「トイレだったら児童会館の外に臨時のトイレがあったよー」
「あぁ、ありがとう」
航太郎は走って逃げる。
紗雪の心は、自分の気持ちを理解してくれた航太郎への感謝でいっぱいだった。
二人の気持ちを知らない優一は早く航太郎に報告したいのに、と残念な気持ちだった。
面白いくらいに噛み合わない歯車たちだ。
「航太郎! 俺さ! 小説家になるわ!」
優一はとりあえず報告だけしておこうと叫んだ。あまりにも唐突で意味のわからない発言に、航太郎はつい、進行方向を二人のいる場所へ戻す。
「しょ、小説家? なんでだよ?」
「あれ、トイレは?」
「そんなこと突然言われたら気になるだろ!」
紗雪も二人きりになれた幸せよりも、優一の発言を気にしていた。
「トイレ行きたいから、簡単に説明しろ」
「えーっと、少女、声優、小説、アニメ、約束。おっけー?」
「全然おっけーじゃねぇよ! わかんねぇよ!」
「簡単にって言ったじゃん……」
流石にこれは誰も理解できない。二人の頭の中で五つの単語がぐるぐると回る。
「つまり、声優を目指す少女と出会う。小説家になり、アニメ化してもらう。そのアニメに声優としてその少女が出る。っていう約束か」
簡単に解説できているが、これを言ったのは優一ではない。航太郎が優一の背後へ、優一と紗雪は声のした後ろを振り返る。するとそこには高校の制服を着た直哉が立っていた。
「あれ、直哉さん! なんでここに? っていうかなんで知ってるんですか?」
優一は驚いている。いつから話を聞いていたのか、もしかしたらあの光景を見られていたのか。見られていたとしても特に問題はないのだが。
「いや、知らねぇよ。でも、大体そういうことなんだな。お、航太郎。背伸びた?」
「えぇ、少しは……で、なんでここに?」
「俺も祭りに来てて、優一発見したから声かけようと思ったら叫んだから。んで、声かけるタイミングを見失って、盗み聞きした」
「直哉、ゲットしたぞ」
三匹の金魚と水が入った袋を手に持った制服美少女が直哉に報告する。胸にある校章は同じものだ。凛々しい顔立ちをしている。
「おー、おめでとう。あ、こいつらは中学の後輩」
「どうも、神田凛です」
「青木優一です。えっと、直哉さんの……彼女?」
「い、一応そういう関係だが……見えるか? 見えるのか?」
彼女と呼ばれたことが嬉しかったのか、淡々としていた口調は一変し、年相応の可愛らしさが顔を見せた。
直哉と凛は同じクラスで、同じバドミントン部。
最初に彼女を見たときに直哉は何かを感じ、部活をしている姿を見て完全に惚れた。可愛い系ではなく、美人系。彼氏の一人や二人いてもおかしくはない美しさ。もしいないのであればチャンスを逃すわけにはいかない。そう思い、彼は自分の想いを彼女に告げた。人生初めての告白だった。
凛は告白されるまで、直哉のことを同じクラスで同じ部活の人としか見ていなかった。告白されてから初めて彼の顔をしっかり見たところ、なんと昔飼っていた猫にそっくりだったのだ。何故か感動してしまい、勢いでその想いを受け取った。初めは勢いだったとしても、彼のことを知れば知るほど彼の魅力に嵌り、好きになっていた。
彼女は感情を言葉に出さない。直哉のことが本当に好きでも、好きだと言葉にすることはない。嫌いな人がいるならその人に背を向けて離れていくだけ。
言葉で好きと伝えてくれない凛が、本当に自分のことが好きで隣にいてくれているのか、直哉にはわからなかった。直哉は高校生になっても人の気持ちを理解できる人間だった。しかし恋愛経験が乏しく、今までのように自分の直感を信じ切れずにいた。彼に直接訊こうかと思ったが、「俺のこと好き?」というキャラではない。彼は一人、悩んでいた。
そんな悩みも、付き合い始めてから二週間程度で消えた。彼女なりの愛情表現によって。
二人で並んで下校しているとき、彼女は何も言わずに手を繋いだ。二週間経っても手すら繋いでいないピュアすぎる関係だったので、彼は当然驚いた。彼女の顔を見てみると、少し照れた顔をしていた。好きだと言っているようなその表情。
彼女は、自分の想いや考えは行動で示す人なんだと直哉は気付き、無駄に悩んでいた自分が恥ずかしくなった。二人揃って顔を赤らめ、手を繋ぎ、歩いた。
「でさ、優一。アニメ化狙うならマンガ家の方がいいんじゃないか? あ、これはギャグじゃないぞ」
ギャグでないことは忠告せずともわかること。文字数と最後の「か」しか合っていない。
それはそれとして、直哉の言う通り、マンガの方がアニメ化に近いイメージはある。
「んー、でも俺、絵下手だし」
「文章書くのも難しいだろ」
「それに優ちゃんって、国語の成績あんまりよくないよね」
航太郎と紗雪がそれぞれ彼にダメージを与える。彼の国語の成績は、よくて平均程度。読書も滅多なことがない限りしない。国語の成績で小説を書くわけではないが、国語の授業で得られる知識はあって困るものではない。
七分前の自信は、一瞬で砕け散る。
「やっぱり俺には……」
「約束したなら無理でも努力はしろよ」
実に厳しく逞しい凛の発言。少し口は悪いが、言っていることは正しい。優一の心は燃え上がる。
七秒前に粉砕された自信は再構成され、復活した。
「そうですよね! やらないと!」
その自信に満ちた言葉に、紗雪と航太郎の心が揺れる。
紗雪は恐怖を感じていた。優一なら何故か成し遂げてしまいそうだったから。それは嬉しいことなのに、自分の手の届かない場所へ行ってしまいそうで怖かった。
航太郎は心で笑っていた。優一を、ではなく自分自身を。夢というのは自分との約束。彼はミュージシャンになると自身に誓った。それもただのミュージシャンではない。自分のように下層にいる人たちの為の歌を届けるミュージシャン。恋が成就してしまえば上層へと移動してしまう。しなくていい。片思いでいい。紗雪を抱き締めるのは、最後でいい。
優一は考える。夢を見ることは大変だと。それでも成し遂げたい夢がある。守りたい約束がある。あの少女に、また会いたい。その為には進まなければならない。
踏み込んだのか、踏み外したのか。優一の人生は音を立てて変わり始める。