五
「森川航太郎くん、だよね?」
航太郎が部活へ行こうとカバンに荷物を詰めているとき、紗雪が彼に話しかけた。
五月に入り、連休が目の前まで来ている。
一か月も経てばある程度クラスメイトの名前は覚えているものだが、彼は数名の男子の名前しか覚えていない。目の前にいる紗雪の名前もわからない。わかっているのは同じクラスであることと、女子バドミントン部であることだけ。
「あ、え、えっと……女バドの……」
久しぶりに女子との会話。心臓が落ち着かず、口がうまく回らない。
「うん、伊織紗雪。同じクラスなんだから覚えてね?」
「伊織紗雪、伊織紗雪、伊織紗雪……よし、覚えた」
「ふふっ、航太郎くんって面白いね」
その笑顔は天使のように優しく、純粋だった。
「あ、それでね。ちょっと話があるんだけどいい?」
部活前になんの話をするのだろうか。彼の心は舞い上がる。
(ついに来たのか……ついに来たのか俺の時代が!)
回らない口で大丈夫だと伝え、頭をフル回転させる。中学生らしい妄想が彼の脳内を駆け巡る。
「あのね、女バドの一年生とか先輩たちが、青木優一くんのことを知りたいんだって。自分から話しかけるのは無理らしいから、好きな食べ物とか教えてほしいんだけど」
航太郎の青春の始まりは、あっさりと目の前を通過していった。
「えっと、なんで俺に? 堀口とかに訊けば……」
「あの人ちょっと怖いし、航太郎くんも青木優一くんと仲良さそうだし」
正輝は別に悪い人ではない。しかし少々他人に恐怖を与える顔をしている。
航太郎は今までのことを思い返す。優一と仲良くしていた記憶はなかった。
それでも女の子から頼みごとをされた。自らの青春の為、断るわけにはいかない。
「わ、わかったよ。なんか訊いてみる」
「本当? ありがとう!」
彼の心は何故だか癒される。本物の天使なのだろうか。航太郎は翼や輪っかなどの幻覚を見る。
(紗雪さんの為に頑張る……いやいや、なんで下の名前で呼んでるんだ! 伊織さん! 伊織さん! 伊織さん!)
「あ、私のことは紗雪って呼び捨てでいいからね!」
「へ? あ、うん……え?」
「同じクラスだし、同じ部活だし、よろしくね! えっと……あ、航ちゃん!」
下の名前で呼ぶことを許可されたこと、そして「航ちゃん」というあだ名をつけてもらったこと。
それが彼の思考を停止させた。
「ア、ハイ、ヨロシクオネガイシマス」
「ちょっと! なんで片言なの! ほら、部活いこ?」
紗雪がまた微笑む。航太郎の心が浄化されていった。
「ほーら! 置いてくよ! 航ちゃん!」
(森川航太郎、青春を見つけました)
紗雪の背中を追って、航太郎が走り出す。彼女の香りが鼻をくすぐる。
彼は身体の軽さを感じていた。
「ねーこ、ねーこ、ねーこがまってるぅうー」
いつもより部活は早く終わった。優一は変な歌を歌いながら校舎の玄関にいた。
彼はあれから毎日、白猫にニボシを与えていた。
「おい、青木優一くん。待ちなさい」
優一の心が跳ね上がる。その驚きはあまりよくない方向だ。
「おい」から始まりフルネーム。そしてとどめの「待ちなさい」。教師の誰かに呼ばれたのか。しかし彼に、何か悪いことをした記憶はない。
「は、はい! なんでしょうか!」
優一は声のした方へ身体ごと向け、返事をする。
そこに立っていたのは厳つい顔で竹刀を手に持つ体育教師、ということはなく、それとは正反対の航太郎が立っていた。
「なんだ航太郎かぁ……びっくりさせないでよー」
航太郎は真顔で彼の方へ歩いていく。ズカズカという効果音が聞こえてきそうだが、実際はスタスタという感じだ。
優一の前で立ち止まり、航太郎は口を開く。
「好きな食べ物はなんだ?」
「へ?」
「好きな食べ物はなんだ? と訊いているんだ。さぁ、答えろ」
航太郎の口調がいつもと変わっていることには一切触れず、好きな食べ物を考え始める。
「あ、ニボシ!」
「ニボシ?」
航太郎は頭の中で考える。紗雪に彼の好きな食べ物がニボシだと伝えたときの光景を。
「ニボシが好きなんだって」
「え? ニボシ? 猫みたいで可愛いね!」
「ダメだ! それはダメだ!」
妄想の結果、なんとなく彼にとって気に食わない結果となった。
「ニボシ駄目なの? 他だと……あ、そうだ。うちの母ちゃんが作るカレーライス! これは本当にうまい! 今度うちに食べに来いよ! どの店にも負けないレベル!」
「カレーライス、か」
後半の言葉を無視して、航太郎はもう一度妄想の世界へ入り込む。
「カレーライスが好きなんだって」
「へー、子供みたいで可愛いね」
「優一のお母さんが作ったのが美味しいらしくて」
「お母さんのこと大事にして、いい人なんだね……」
「アウト!」
航太郎は思わず叫ぶ。先ほどよりもなんだかひどい結果になってしまった。
「え? 何が?」
「スリーアウトチェンジだ! 他!」
「俺ら野球部じゃないよ……他は特にないなぁ」
好きな食べ物の情報だけでは紗雪は満足しないだろう。
航太郎は次の質問を考える。
「そうだな……嫌いな食べ物は?」
「しいたけ」
「しいたけが嫌いなんだって」
「そっかー。なら優一くんが食べられるように、私頑張るね!」
「なんでだよ!」
妄想をすればするほど、航太郎にとって望んでいない展開が繰り広げられていく。
「味とか食感とか。なんか受け付けないんだよなぁ」
航太郎の「なんでだよ」は妄想に対してなのだが、彼はそんなことを知るはずがない。
「他に好きな物は?」
「んー、猫かな」
「猫が好きだって」
「猫? 私も好き! 将来一緒に飼おうかな……」
「ふざけるな!」
妄想の中の、紗雪の赤らんだ顔は可愛かった。
しかしそれは航太郎の望むものではない。
「ご、ごめん。確かに猫は物じゃないな。あ、でも動物って物ついてるよな。動く物かぁ。なんか嫌な感じだなぁ」
明らかに会話はかみ合っていないのだが、優一がそれに気付くはずもなく、航太郎にそんな余裕もなく、会話は進められていく。
夕日が差し込んだ校舎の玄関は、青春という言葉がよく似合う。
「そろそろ帰っていい? 猫に早く会いたいし」
「あぁ、はい、どうぞ……猫?」
優一は靴を履き替え、駆けていく。夕日へと溶け込んでいく背中が、航太郎の目には美しく映った。彼も猫が好きなので、つい追いかけたくなってしまう。
「紗雪に何を言えばいいんだろう……」
「呼んだ?」
紗雪が現れた。突然の出来事に航太郎は慌てふためく。
「え、あ! 違う! いや!」
「ちょっと落ち着いてよ」
紗雪が小さく笑う。航太郎はそのことに幸せを感じる。しかしそんな状況ではない。
本人がいないところで名前を呼んでしまった。たとえ許可されていたとしても、変な人だと思われるかも知れない。
「あ、えっと、あの」
「ほら、深呼吸、深呼吸」
二人は一緒に深呼吸をする。一緒に深呼吸をしているだけなのに、航太郎は幸せを感じている。それはきっと青春真っ只中だからだろう。
「えーっと、あ! そうそう、優一のこと、色々訊いてみたよ」
「早いねー! 流石航ちゃん!」
その一言に航太郎の顔が熱くなる。彼の妄想とは違い、紗雪ではなく彼自身が顔を赤らめる。そのことが尚更恥ずかしく、食べごろのトマトよりも赤くなった。
「ニ、ニボシが好きなんだって!」
「ニボシ? 変な人だね」
妄想とは違う結果になったが、それは当たり前のことだ。妄想は妄想でしかない。予想ならまだしも、妄想なんて外れて当然だ。
「あと、優一のお母さんが作ったカレーライス」
「へー、彼のお母さん料理上手なのかな」
これはもしかすると危ない方向へ行ってしまうかも知れない。
「お母さんに料理教えてもらおうかな」などと紗雪が言い出せば、優一の母親と紗雪の仲が良くなる可能性が出てくる。そして彼女が作った料理を、優一の家族皆で食べることに。「優一の奥さんになってもらいたいわぁ」なんて冗談を、優一の母親が言い出せば、ゴールインまでの距離が縮まってしまう。
「ま、まぁ、俺もカレーライスなら作れるけどね」
その流れから少しでも遠ざける為、彼は必死に嘘を吐く。
やればできるかもしれないが、やったことはない。精々カップラーメン程度だ。
「え! そうなの? 私料理できないからなー。今度食べてみたい!」
逆方向に危険な流れだ。正直に嘘だと言えば、何故嘘を吐いたのかという話になる。いつでも家においでよ、と言ったとしても料理なんてできない。
「そのうちね! そのうち!」
「うん! 楽しみにしてる!」
彼はなんとか逃げることに成功した。
紗雪の言葉が社交辞令ということもありえるので、実際どうなるかはわからない。
しかし万が一の場合に備え、カレーライスを作る練習をしなければならなくなった。
「あとしいたけが嫌いだって」
「私もしいたけ嫌いー」
「俺も嫌い!」
これは嘘ではない。食べられないわけではないが、できれば口にしたくない。それは嫌いと言っていいだろうと、彼は胸を張っている。
自分もしいたけが嫌いですよ、というアピールではなく、二人だけがしいたけ嫌いという状況を作りたくなかったのだ。
「あと猫が好きだって言ってた。俺も好きだけど」
あらかじめ予防線を張っておく。こうすれば後から話を合わせる必要もない。
「私ね、猫飼ってるんだ! ジローっていうんだけど、すっごい可愛いの!」
君の方が可愛いよ、なんてキザなセリフを彼は言えない。言えないだけで、思ってはいた。
「へぇ、そうなんだ! 今度見に行ってもいい?」
「うん! 優一くんと一緒においでよ!」
なんで優一も一緒なんだという疑問は口に出さず、とりあえず返事をする航太郎。だが猫好き仲間として誘うのはいたって当然のことだ。
「やっべ、やっべ、ニボシ忘れた」
二人の時間を壊すように優一が戻ってきた。しかし彼に悪意などない。航太郎からすれば邪魔をされたような気分だが、それはあくまで彼自身の問題だ。
「あれ、航太郎。まだいたの?」
「ちょっと話してて……」
できれば何事もなく、優一がニボシを取りに行って、そのまま帰ることを祈る航太郎。しかし世の中そううまくはいかない。
「あ、どうも初めまして。私、航ちゃんと同じクラスの伊織紗雪です」
「航ちゃん? あぁ、航太郎のことね! 俺は一年一組の青木優一です」
いつかはこんな日が来るのは当然のこと。それがたまたま早かっただけだ。
「うん、知ってるよ。有名だもん」
「え? 俺有名なの? どーしよ、航太郎。俺有名人なんだって」
「知るかよ……」
つい素っ気ない態度をとってしまう。なんとかしてもう一度二人になりたいと思う航太郎だが、難しい話だろう。
「俺教室にニボシとってくるわ! あ! 二人も一緒に猫のとこ行かない?」
「え! 行きたい!」
「お、俺も!」
航太郎は素直に行きたい気持ちもあったが、それ以上に彼らを二人きりにしたくなかった。逆に考えれば紗雪と一緒にいられる時間が伸びたということ。そこまで考える余裕は航太郎にない。
「ちょっと待っててね!」
ニボシを取りに、優一は教室へと走っていった。
玄関は橙色の沈黙に包まれている。
これから告白でも行われるのかという雰囲気が何処となく漂っている。
ちらほらと他の生徒が彼らの傍を通って帰宅していく。そんな生徒たちの目に、彼らはどう映っているのだろうか。
「ねぇ、航ちゃん」
その沈黙を破ったのは紗雪だった。慣れない呼び方に、返事の声が裏返る。
「優一くんと猫見に行ったっていったら、皆に怒られちゃうかな」
「いや、えっと、猫を見に行くだけだし……二人きりではないし……」
「お待たせー!」
いいタイミングで優一が帰ってきた。手にニボシが詰め込まれた袋を持っている。
「んじゃ、行こうか! ばあちゃんも待ってるだろうし」
ばあちゃん、というのは彼の実の祖母ではない。一週間ほど前に猫がきっかけで知り合った人のことだ。
「ほーら、ニボシをお食べー」
彼はいつものように、いつもの電信柱で、ニボシを猫に与えていた。
「あらあら、あんたかい? 最近その猫にニボシをあげとるのは」
優一が振り向くと、背後の家からお婆さんが出てきた。
やはり飼い猫だったのだろうか。白猫はお婆さんに近付き、身をすり寄せる。
「あ、もしかして飼い猫ですか? すいませんでした。勝手に餌あげちゃって」
「いやいや、飼い猫じゃないよ。ここらへんに住みついとる野良猫や」
「でも結構懐いてる……」
お婆さんの傍で甘えた声を出す猫を見ながら、優一はそう言った。
「じいちゃんがまだおったころから、住みついとるからねぇ」
お婆さんの発言から、お爺さんが亡くなっているということは鈍感な彼にもわかる。それからずっと一人なのだろうか。
「猫の名前は?」
「普通にネコって呼んどるわ。野良猫やから名前も自由にさせんとねぇ」
なかなか面白い考え方だ。野良猫が自ら野良になったとも限らないが、お婆さんからしてみれば他人の子供に勝手に名前をつける気分なのだろう。
「猫はばあちゃんの子供みたいなもん?」
「そうかもしれんね。子供も孫もおるんやけど、色々と大変やから……」
お婆さんの表情が暗くなる。それと同時に彼の心が重くなる。
「ばあちゃん、また来てもいい?」
「いつでも待っとるよ。猫もニボシ食べれて嬉しそうやから」
「そっか! ばあちゃん、猫! また来る!」
「はいはい、またね」
「にゃー」
優一は一人きりという孤独を味わったことがない。その恐怖を知らないから、より一層怖くなる。
彼はいつの間にか走り出していた。走ったところでその恐怖も、その涙も消えない。流れ出る汗と共に、彼は走った。
その日からは猫とお婆さんに会いに、その場所へ通っていた。自分が来たところで、お婆さんの寂しさを拭えないかも知れない。それでも、少しでも気休めになればいい。そう思い、彼は学校がない日も、部活がない日も通い続けた。
「おーい、猫! ばあちゃん! 友達連れてきたぞー!」
優一はお婆さんが住む家の玄関に向かって叫んだ。その声を聞き、白猫が庭の隅から飛び出してくる。
いつもならば少し遅れてお婆さんも玄関から出てくるのだが、今日はいつまで経っても出てこなかった。
「あれ、ばあちゃんが出てこない……?」
「可愛い!」
「いやぁ、可愛いなぁ……」
航太郎と紗雪は白猫とじゃれ合っている。
「なぁ、猫。ばあちゃんは?」
「にゃー」
「……日本語でお願いします」
少しの感情ならば、相手が猫でもなんとなく理解できていた彼も、何を言っているのか理解できない。
わかったのは、猫が少し寂しそうな顔をしていたことだけ。
「買い物にでも行ったんじゃないの?」
「買い物はいつも昼に行ってるって……でも玄関に杖ないし、出かけてるのか?」
お婆さんは腰が悪いので外出するときはいつも、玄関の側に置いてある杖を使って歩いている。今日はその杖がなかった。
「ま、明日も来ればいいか……」
それからしばらく三人は猫と戯れていた。
切なそうな優一の顔を、紗雪は横目でずっと見ていた。
「優一くん、寂しそうだったね」
「うん……」
優一と別れ、航太郎と紗雪は二人で歩いていた。
校舎の玄関にいたころの航太郎からすれば、この状況は幸せ以外の何物でもない。
しかし今は少し違う。いつも、元気な優一だけを見ていた。あんなに悲しい顔を見たのは初めてだった。
三十分前とは違う沈黙が彼らを包む。夕日が沈み、黒く染まった空が不安を掻き立てる。
「明日、また一緒に行ってみるよ」
今回沈黙を破ったのは航太郎。沈黙が嫌になったわけではない。ただ紗雪の心を少しでも安心させたかった。それだけだった。
「私、塾あるから……任せてもいい?」
「うん、大丈夫。明日もお婆さんがいないようなら、近所の人にでも訊いてみる」
航太郎は心の中で葛藤する。今、誰の為に思い悩んでいるのかがわからない。紗雪を安心させる為に悩んでいるのであれば、優一のことなんて頭にない偽善者ではないか、と。
「なんともなければいいけど」
「本当にね……あ、俺こっちだけど」
「私はこっちだから。またね」
「うん、また明日」
歩き去っていく紗雪の背中を立ち止まって見守る。彼はその背中を抱き締めたくなった。自分の欲望の為なのか、彼女を安心させる為なのか。
またしても彼は悩む。
「本当に駄目な奴だな、俺って」
がっくりとうな垂れ、コンクリートで固められた地面に、自身への愚痴を吐き捨てる。
紗雪を安心させること。それも自分の為ではないのだろうか。
自分の中に感じた冷たさを、彼はただ感じることしかできない。
次の日。優一は授業中も部活中も暗い気持ちを抱えていた。
朝、様子を見に行く時間もあったのに、彼はそうしなかった。もしかしたら、という感情が足の動きを止める。普段ポジティブな彼も、今日ばかりはネガティブだった。いつものように明るく元気に、と頑張ってみるが、いつもと違う自分がいるだけ。
昨日の出来事を知らない人からすれば、気付かないか、敏感な人なら様子がおかしいと思うだろう。
しかし、昨日の出来事を知っている二人からすれば、取り繕っている彼を見るのは心苦しかった。
部活の片付け中も、彼は早くお婆さんの下へ行きたい気持ちでいっぱいだった。
事情を知る航太郎は、いつも以上に機敏に動き、片付けを急いだ。
「なぁ、航太郎……おい、航太郎!」
航太郎の背後から直哉が話しかけるも、彼は片付けに夢中で声に気が付かなかった。
「こいつもおかしいな……おい! 森川航太郎!」
反応がない航太郎の肩を、直哉は思いきり掴む。突然肩を掴まれた航太郎は驚き、身体を震わせた。
「うわっ! あ、直哉さんか」
「直哉さんか、じゃないだろ。何回も無視してんじゃねぇよ」
部活内の絆も強まり、ほとんどの部員が下の名前、もしくはあだ名で呼び合うようになっていた。
「え、あ、すいません。片付けに夢中で」
「なんかあったのか?」
「え? なんかって?」
「優一の様子がおかしいからさ。正輝は知らないって言ってたから、お前ならなんか知ってるかと思って。で、なんか知ってるか?」
直哉は昨日の出来事を知らない。
小学校から付き合いのある正輝でさえ、体調が悪い程度にしか考えなかった。それほど優一の取り繕い方は完璧だったのだろう。
しかし直哉の目は誤魔化せない。彼は人よりも人の気持ちを読み取る力に長けている。
それが彼の強みであり、弱みでもあった。
気持ちが弱っている人を放ってはおけない。常に誰かを心配し、助けようと手を伸ばす。その分、自分のことが疎かになってしまう。
「えーっと、猫はいたんですけど、お婆さんがいなくて……」
「ん? わからんからちゃんと説明してくれ」
航太郎は片付けをしながら、直哉に昨日の出来事を話した。
「なるほどな……よし、俺も行こう」
「え? まぁ、いいと思いますけど」
「よーし、さっさと片付けるぞ! おい! お前ら! さっさと片付けろ! 俺は今日腹の調子が悪くて大変なんだ!」
普段の彼なら腹が痛かろうと自分勝手なことは言わない。部員たちはよっぽど腹の調子が悪いんだろうと思い、ペースを早める。二人の会話を聞いていない優一からしてみれば、嬉しいことこの上ない。