三
「あっ、青木くん! おはよう!」
「ん、おはよー」
知らない女子生徒から挨拶をされ、返事をする優一。
彼の名前はこの中学校にいる女子生徒のほとんどが知っている。彼が入学してからそこまで時間も経っていないのに、これ程の人気。一年後に彼のファンクラブが乱立していてもおかしくはない。
しかし、彼の名前を知っている生徒が多くても、その生徒の名前を彼は知らない。校内で彼に挨拶をしてくる生徒のほとんどは彼が知らない生徒。それでもとりあえず挨拶を返す。
女子生徒は自分の欲の為に挨拶をしているが、挨拶をするという行為が生徒の中で当然のことになれば、教師にとっては嬉しいことだ。
女子の意識が彼に向いている中、彼の意識は自身の持つカバンに向けられていた。何度も何度も中身を確認しては、安心する。
「約束したことは死んでも守れ」という父親の教えを、大切にしていた。
彼が昨日約束したことは二つ。
一つ目は航太郎との約束。ラジオを録音したCDだ。
二つ目は猫との約束。ニボシだ。彼はなんとなくで登下校のルートを変えているので、登校中にあの白猫と出会うことはない。
何度か挨拶の交換をした後、彼は教室に辿り着く。
(CDは部活のときでいいかな)
彼はそう思い、自分の席に座る。自然と彼の周りに人が集まってきた。女子だけでなく、男子も。人を惹きつける魅力が、彼にはあるのだろう。
「眠たい……眠たい……寝たい……」
航太郎は結局、あれから一睡もできなかった。
夕飯が終わってから三時間ほど寝てはいるが、普通の中学生にとって三時間の睡眠は、空腹時のクッキー一枚となんら変わりはない。
もちろん彼も例外ではなく、身体に疲れが残ってしまっている。
「おはよう、航太郎くん。目の下のクマが怖いよ?」
「あ、勝。おはよう」
同じ男子バドミントン部の本田勝が彼の顔を見て驚いている。
男子バドミントン部一年生の中で、航太郎と同じ小学校出身なのは彼だけだ。そして彼が友人と呼べるのは、この学校で勝一人だけだった。
「それに目も腫れてるし……泣いたの? なんかあった?」
「いや、大丈夫。心配するようなことじゃないから」
「ふーん、そう。なんかあったらいつでも言ってよ? 僕、職員室寄らないといけないから、また部活で」
「おう」
航太郎は目を擦りながら教室へ向かう。
一組から三組は一階、四組から六組は二階。彼は残念ながら六組なので、階段を上らなくてはならない。階段を見つめ、ため息を吐く。階段を上る体力はある。だが気力がない。
(あ、そうだ。あの糞野郎は確か一組だから、CD借りに行こう)
進路を変え、先ほどと同じように目を擦りながら一組へ向かう。
(っていうかあいつのせいじゃん。あいつがラジオを勧めなきゃ俺はこんな眠れない夜を過ごすことなんてなかった……)
苛立ちを抑えながら一組の教室を覗き込む。一つの人だかりと、ちらほらグループがあった。そして二人ほど孤立している。
まるで自分を見ているようで切なくなったが、そんなこと今はどうでもよく、優一がいないことが問題だ。
「森川? 何してんの?」
トイレに行こうとしていた堀口正輝が彼を見つけて、声をかける。
彼も同じバドミントン部で、優一の親友とも呼べる存在だ。身長は優一よりも低いが、眼鏡を掛けていて大人びた顔をしている。
「あいつは?」
「あいつってどいつだよ。ってかその顔どうした」
「青木優一、青木優一はどこだ」
親の仇討ちでもしたいのかと思うほど切羽詰まった表情をする航太郎。
「おーい、優一! 森川が来てるぞー」
正輝が優一を呼ぶ。航太郎には見えなかっただけで、教室にはいたようだ。どこにいたのだろうか。航太郎が教室を見ていると、例の人だかりから彼は出てきた。
「航太郎! CD今渡す!」
「あ、あぁ、うん」
「んじゃ、俺トイレ行ってくるわ。森川、本当にひどい顔してるぞ?」
正輝は笑いながらトイレへと向かった。彼の最後の言葉は航太郎に届いていない。優一の人気を目の当たりにし、驚愕し、教室の入り口で立ち尽くす。
(なんだこいつ……なんだよこいつ……なんなんだよこいつは……)
優一が誰とでも仲良くなれる性格だということは、彼も理解していた。
整った顔と、漂う清潔感。そしてあの性格。
優一に勝てる要素が一つもないことを、彼は実感した。
「はい、CD! ってその顔どうした!?」
「気にするな。CDありがとう。お前のせいだ」
それだけ言い残し、彼は一組を後にする。
「クマ、腫れ……これは事件の香りだ……ん? 俺のせい? 俺なんかやったっけ? え?」
優一は一人悩む。昨日は普通に会話して、普通に別れた。今日も今初めて会った。
「これは迷宮入りしそうだ……」
「なーに突っ立ってんだ。あれ、森川は?」
トイレから戻ってきた正輝は、教室の入り口で立ち尽くしている優一に声をかけた。
「俺ってなんかした?」
「は? 何が?」
「なんかしたのかなぁ」
「……意味わからんぞ」
優一は唸りながら席へと戻る。状況を把握できていない正輝は、教室の入り口で立ち尽くす。
一年生の教室は活気に満ち溢れている。受験、進学、成績。そんな不安はまだ存在しない。
しかし、友達ができずに悩む生徒もいる。航太郎もその一人だ。部活に行けば仲間がいて、先輩がいる。しかしクラスでは一人ぼっち。六組に彼と同じ小学校出身の生徒はいるが、小学校時代から関わりのなかった生徒ばかりだった。
彼は教室にいるとき、孤独を感じる。
誰とも話せないわけではなく、仲間外れやいじめにあっているわけでもない。それでも彼は孤独だった。クラスの中で浮いていた、というよりも沈んでいた。航太郎は自分がどこにいるのかわからなくなっていた。
「お前ならもっと上を目指せるんだけどなぁ」
心地よい朝の陽ざしと、コーヒーの香り。ここは喫茶店ではなく、職員室。
新学期早々、三年生は進学の希望を提出し、各自担任と相談する。
「いやぁ、着いて行けなくなるのも嫌ですし……」
「成績ももちろんだが、桜高校はバド部もそんなに強くないぞ?」
「大丈夫です。僕もそんなに強くないです」
三年二組の担任、神崎は頭を抱えている。直哉の成績ならもっと上の高校を目指せるのだ。学校としても、担任としても、より上へ行ってもらいたい。
「お前は現実的すぎるんだよ。もっと夢見てもいいんじゃないか? 向上心がないってわけじゃないんだけどよ」
「ボチボチじゃ駄目ですかね」
「とりあえずもう少し考えろ」
「はぁ……わかりました」
直哉は職員室を出て、ため息を吐く。彼は勉強も運動も好きだ。しかし無理をしてまで頑張ろうとは思えない。
「あれ、稲月先輩? 顔が暗いですけど大丈夫ですか?」
ちょうど職員室に到着した勝が、彼に気付いて声をかける。
直哉は進路のことで少し話していたと勝に伝えた。勝は配布物を取りに来るよう頼まれていたらしい。
「一年がアドバイスなんてできないですけど、話聞くくらいならできますから」
「おう、ありがとう。また部活で」
勝が職員室に入ろうと、ドアに手をかける。
「なぁ、本田。現実的に生きることって駄目なのか?」
アドバイスはできない、と告げたはずなのに、これはアドバイスを求められている。勝は少し考え、思考を言葉にする。
「現実的ってサラリーマンとかそういうことですよね。サラリーマンを目指している中学生は夢がないって言われそうです」
先ほど神崎に言われたばかりだ。サラリーマンという職業を目指しているわけではないが、現実的に生きるとはそういうことだろう。
「でも結局は現実的な生き方をする人が大半。だったら夢を見る必要ないですよねー。夢を見ることもなんとなく大事だとは思うんですけど、現実的に生きている人がいるから世の中回るわけだし。現実的に生きることは駄目じゃないと僕は思いますよ」
中学一年生にしてこのような考え方ができるのはいいことなのか、悪いことなのか。どちらにせよ、自分の考えを持っていることはいいことだと直哉は思う。
「そうか。ありがとうな」
「いえいえ。んじゃ、また」
職員室へ入る勝を見送り、彼は自分の教室へ歩き出す。
(ま、ボチボチでもいいか)
勝の考え方が正しいとは限らない。
しかしそれでも直哉は、自分の心を埋め尽くす雨雲が少し消えたような気がした。自然と笑みがこぼれる。
(あぁ、眠い……)
航太郎は机に突っ伏していた。もうそろそろ朝礼の始まりを告げるチャイムが鳴る。無意識の内にあの光景を思い出してしまう。優一がたくさんの人に囲まれている光景を。
自分は今、一人だ。教室には人がいるのに、一人だった。自分が気にしなかったように、誰も自分のことなんて気にしない。
「俺の悩みを理解できないなら死ね」
なんとも独りよがりな歌詞だ。
しかし、そう思う人がいるから、そんな歌詞が生まれる。それならば、幸せではない自分も歌が生まれる為に必要なのかも知れない。
「あ、やば! 教科書忘れた!」
彼の耳に、ふと、そんな声が聞こえた。一人一人、大小関係なく悩みはある。
悩みが絵具であるならば、航太郎の悩みは青。教科書を忘れたという悩みは黄。睡眠不足という悩みは赤。
そう考えると、なんとも鮮やかな悩みたちだ。青は青である為に。赤は赤である為に。
自分を守る為の歌詞。
彼なりの解釈。その答えが正しいかどうかは、歌詞を書いた人にしかわからない。
だが歌詞の解釈をこと細かく説明されるのは、それはそれで何かが違う。受け取り方は人それぞれでいい。感じた色を大切にすればいい。
チャイムの音が、航太郎を現実へ引き戻す。
(こんなこと考えたのは初めてだなぁ)
今まで耳にしたことがある音楽。いい歌詞だ、と思ったことはあった。
しかしここまで考え込んだのは初めてだった。
黒い髪は、澄んだ川のよう、綺麗に流れているように見える。額に浮かぶ汗も、その川の水のようで不快感がない。
「ニ、ボ、シ! ニ、ボ、シ!」
「なんだよ、それ」
優一と正輝は一緒にランニングをしている。彼ら二人の運動能力は男子バドミントン部の中でいえばツートップ。ランニングも二人が先頭を走っている。
猫のことを考えながらトップを走る優一。
一方で、航太郎は八人の中で最下位争いをしている。相手は勝だ。
ランニングがだるいと愚痴を漏らす勝に、航太郎は自身にも発破をかけるように吠える。
「うるさい! 早くしないとあいつに負ける!」
最下位争いをしているのに、常にトップを目指している。勝からすれば馬鹿馬鹿しい話だが、航太郎は真剣だ。
「航太郎くんはなんで優一くんに負けたくないの?」
「なんとなくだよ! くっそ、あいつの背中が遠い!」
「優一くんに君は見えてないけどね」
勝は彼に現実を突きつける。実際優一の頭の中は猫一色だ。
「だったらあいつに俺の背中を見せてやる!」
航太郎は走るペースを上げた。
「その願いを叶えたいのなら頭を使わないと」
「え? 頭? 体力勝負だろ!」
頭を使えと言われ、ペースが元に戻る。このままのペースを保てば、昨日のように疲れ果てることはないはずだ。
「ここで立ち止まればすぐに背中を見てもらえるよ。一周差をつけられて、だけどね」
勝は馬鹿にしたような笑みで航太郎を見る。
「それだけはいやだぁあああああああああああ!」
航太郎は速度を上げる。本当に勝ちたいのなら喋らずに走るのがいいとは思うが、煽られてやる気が出るのなら問題ないのかもしれない。
呑気に会話を交わすトップの二人。
この二人に航太郎と勝の姿は見えていないどころか、頭の中に存在すらない。
「へぇ、猫との約束ねぇ。猫が約束を守ってくれるとは限らないだろ」
「た、確かに……いや! あの目は約束を守る人の目だった!」
「猫だろ」
「約束を守る猫の目!」
優一は慌てて言い直す。その目がどんな目なのか、正輝にはわからない。
正輝に限らず、ほとんどの人がわからないだろう。
「まぁ、いるといいな」
「いるの!」
「はいはい」
この二人の会話の間にも、航太郎は必死に走っている。
しかし残念なことに、途中にいる四人さえも抜かすことなく、ランニングは終了した。航太郎は誰かの背中を追いかけることしかできなかった。
「はい、お疲れ様。気を付けて帰ってね。それと稲月。神崎先生が部活終わったら職員室に、だそうだ。片付けは他の人に任せればいいから」
「えー」
「えー、じゃないでしょ。三年生なんだから」
それだけ言って石川はパイプ椅子から立ち上がり、職員室へと戻っていく。最近腰痛がひどいらしく、腰を叩きながら歩いていた。今年で五十七歳なので、腰痛も薄くなった頭髪も仕方がない。
「んじゃ、小林。あとは任せるわ。また明日な」
副部長の小林に一言伝え、直哉は石川の後を追った。
「なんかあったのかな」
「進路の話だと思うよ。朝も呼ばれてたし」
疑問を口に出した航太郎に、勝が教える。勝はふと直哉との会話を思い出し、航太郎に夢はあるかと尋ねた。
「んー……考えたことないなぁ。小さい頃に寿司屋になりたいとか言ってた気はするけど、今は全くだ。勝はなんかあるのか?」
「僕は平凡に暮らせればそれでいいかな」
直哉同様、現実的な勝。現実的とはいえ、平凡に暮らすのにも多少の苦労はついてくるものだ。
「おい、話してないで早く片付けろよ。帰れないだろ」
早く帰りたい正輝は苛立ちながら二人に注意をする。
「正輝くん、将来の夢は?」
そんなことはお構いなしに質問をする勝。
火に油を堂々と注げる勝は、かなりの度胸の持ち主かもしれない。
「金持ちになること」
それだけ言って、正輝はバドミントンのネットを体育館倉庫へと運んでいく。
「金持ちなんて、一握りの人間にしか無理な話だけどね」
自分で訊いておきながら、しっかりと答えてくれた正輝の夢を現実的に否定する。
「だから夢なんだろ」
調子に乗った勝は、他の一年生にも片付けをしながら同じ質問をしていった。
結果、高木琢磨は「ハーレムを形成したい」、佐々木健太は「結婚したい」、大木栄治は「モテたい」、福島洋は航太郎と同じく「わからない」、優一は「幸せになりたい」と答えた。
「なんていうか、極端だな。現実的なのと、バカなのと、で」
「わからないっていう航太郎くんと洋くんはどっち?」
「どっちかって言うなら、現実的だろ。俺だって平凡に暮らせるならそれでいいし、結婚もしたいし、モテたいし、ハーレムだって羨ましいし、金持ちにだってなりたいし、幸せにもなりたいよ」
これは一般人が望む、ありふれた夢になるのだろう。
ハーレムに関しては男限定だろうが、それ以外はほとんどの人がそう思うはずだ。
「でも意外だったなぁ。優一くんが幸せになりたいっていったのは」
「別に普通じゃないのか?」
航太郎の言うとおり、優一だって一人の人間だ。幸せを望んでいたっておかしくはない。
「だって、あんなに恵まれてるんだよ? 顔も身長も人柄も。それなのにまだ幸せになりたいなんて、僕からしたら贅沢だよ」
勝は優一の全てを知っているわけではない。目に見えるだけのことを言っているだけだ。
「身長なら、勝も俺よりは――」
「航太郎くんよりは、ね」
簡単に人の心を傷つける勝。
ちょうど片付けが終わったようで、小林は皆に聞こえるよう、帰っていいと叫んだ。
「帰ろうか」
航太郎は、荷物を持って帰ろうとした勝の首を掴む。航太郎の方が小さいので、上げた腕が少しぷるぷるしている。
「航太郎くんに身長勝ったところで、僕より大きい人はいるでしょ。だったら比べる意味なんてない。そう思わない?」
「思わない」
「優一くんにランニングで勝ってどうするの? 優越感に浸る?」
航太郎は言葉に詰まる。優一に勝ってどうするのか。そんなことを考えたことはなかった。そして優越感という言葉が、彼の心を締め付けた。
「優越感だとか見下すだとか、そんなの人間として腐ってるよ」
自分とは違う、高い場所にいる優一のことを、もしかしたら自分は見下したかったのかもしれない。それで少しでも自分の存在を確かめたかったのかもしれない。
航太郎は力なく勝の首から手を離す。
「……勝ちたいって思うことは駄目なのか?」
「それは悪いことじゃないよ。でも、勝ってどうしたいのか、どうなりたいのか。そこを間違えれば勝つことに意味はなくなる。優一くんに勝ちたいってことは、今の君は負けているってこと。もし未来の君が彼に勝ったとしたら、それはどういうこと?」
「どういうこと……俺が成長したってことか」
「さっき僕は比べることに意味はないって言ったけど、今の自分を知る為に他人と比べることは必要。だけど優劣をつける為に比べてたら腐るよ」
中学生が一体どこまで考えているんだと言いたくなる会話。
一気に話して疲れたのだろうか、何が言いたいのかわからなくなり、部活の疲れも重なって、勝は航太郎にも負けない眠そうな顔をしている。
「なんかよくわかなくなっちゃったね」
「いや、話を聞けてよかったよ。俺は俺らしく頑張る、そういうことだろ?」
「うん、多分、そういうことー」
二人ともよくわからなくなっているが、とりあえず航太郎は頑張るということだ。
話している間に、体育館には二人しかいなくなっていた。
「俺らも帰ろうか」
「そうだね……あれ、カバンがあるけど……稲月先輩のかな?」
「本当だな。職員室まで持って行って……ん?」
航太郎が直哉のカバンの近くまで歩み寄ると、カバンの上に異様なものがあった。この体育館にあるべきものではないもの。
彼は戸惑い、勝の顔を見る。勝もそれに気付き、首を振る。
「これは触れないほうがいいと思う。僕らは帰ろう」
「お、おう……」
こうして二人はカバンと異様なものを放置し、体育館を出た。
「だから! 何回も言いますけど! 俺はボチボチでいいんです!」
「だからぁ! 何回も言うけど! ボチボチだとかつまらんこと言うな!」
職員室で二人の男が叫んでいる。その様子を何故か微笑んで眺めている石川。幸い他の教師は皆帰宅していた。
先ほどからずっとこんな様子で、お互い一歩も引かず、譲らない。
「もったいないだろ! お前はできる奴だ!できる奴がやらねぇで、誰がやるっていうんだよ!」
「やりたい奴がやればいいでしょう!? 俺にやる義務なんてない!それに俺は勉強できない!」
「嘘をつくな! お前の成績を担任の俺が知らねぇわけがねぇだろ!」
神崎の言うことは正論だ。直哉の生活態度、成績を知った上での相談なのだから。
「とにかく俺は帰ります! さようなら! また明日!」
「おい! まだ話は終わっていない!」
神崎の言葉を背中で受けるが、それを無視して職員室から抜け出す。力強く職員室のドアを閉めたせいで、大きな音が職員室に響いた。
「大変ですねぇ、神崎先生も」
「石川先生……あいつにはもっと上を見てもらいたいんですけどね。うるさくしてしまってすいませんでした」
三十歳にもなって声を荒げたことを謝罪する。
「いえいえ、元気なことはいいことです。彼のことは一年生の頃から見ていますけど、変わりませんねぇ。こうと決めたら揺るがないのは。ま、それは君も同じでしたけど」
「ははは……こうと決めたら揺るがない、か……」
日が沈んだ空を見て、神崎の気持ちが更に沈む。
誰もいない体育館。自分のカバンの前で立ち尽くす直哉。
例の異様なものに視線を奪われている。
「どうしてこんなものが……ここにあるんだよ……!」
震えた手で、その異様なものを手に取る。
乾いた身体。死んだ魚。ニボシ。
「いじめ……? いじめなのか?」
気付かないうちに誰かを傷つけてしまっていたのだろうか。直哉の心に不安が過ぎる。
「いや、待てよ……ニボシっていうとダシ。あ、猫も食べそうだな。猫ってことは、猫の恩返し? いやいや、猫に何かした記憶はないな。じゃあ誰だ? 幽霊? …………え、幽霊?」
学校に残っている生徒は彼一人。
石川と神崎は職員室にいたので、ニボシを置くことはありえない。
まだ春なのに、直哉は何故か寒さを感じる。嫌な寒さだった。自称特技であるギャグすらも浮かばない。絶望的な状況だ。
もう一度彼はニボシを眺める。すると目が合ってしまった。
「こいつの目……食べてほしそうな目を……干したニボシが食べてほしそう……」
気付いたときには既にニボシは口の中。彼の口の中にニボシの風味が広がる。
「……ん、うまい」
ニボシを食べて冷静になったのか、落ち着いた手つきでカバンを肩にかけ、体育館から去って行った。
「猫ー? ニボシ持ってきたぞー? 猫ー……」
昨日の電信柱の近くに、あの猫はいなかった。優一は一人、寂しさを抱く。正輝が言った通り、約束を守ってくれなかったのだろうか。
「にゃー」
突然彼の背後から、猫の鳴き声がした。すぐに振り返ると、昨日の白猫がいた。
どうやら電信柱の向かいにある家の庭にいたようで、彼の声を聞いて出てきたみたいだ。
「あれ、お前飼い猫なの?」
「にゃー?」
「ニボシ持ってきたけど、いる?」
もしも飼い猫ならお腹を空かせているということもないだろう。優一がカバンからニボシを取り出すと、白猫は匂いを感じたのか目を輝かせて鳴いた。
「お、食べたいか! あんまり食べすぎるのもよくないから、今日は二本だけな!」
白猫の側にニボシを二本置く。
白猫は彼の顔を見て、一度だけ鳴いた。「ありがとう」と言うように。
「どういたしまして」
猫の幸せそうな顔を見て、ついついにやけてしまう優一。
彼のことを好きな人がこの現場を見たらどう思うだろうか。
「いやー、見れば見るほど直哉さんにそっくりだなぁ」
白猫が直哉に似ているのか、直哉が白猫に似ているのか。似ているからといってカバンの上にニボシを置くのは非常識だ。
「よし、白猫! 俺は帰るからな! また明日も来るから!」
「にゃー!」
白猫の頭を一つ撫で、彼は家へと向かう。
帰り道、空腹しのぎにニボシを一本口にする。
「なんだこれ! うまい!」
歩き煙草が歩きニボシに変われば、世界も少しは変わるだろうか。
後日、部活の休憩中にニボシを食べていた優一を発見した直哉は、彼のことを叱りつけ、一緒にニボシを食べた。
「ふー、すっきりした」
航太郎は家に帰ってすぐ、優一が録音してくれたラジオを聴いた。自分に衝撃を与えてくれた一曲の曲名が知りたかったからだ。その曲を何度も繰り返して聴いた。
回を重ねるほど、自分の中で何かが始まっていくのを感じる。それがなんなのかはわからないが、確実に何かが始まっていた。
「幸せな歌は世の中に溢れてるからなぁ。だからっていって幸せじゃない歌もそれなりにあるわけだし。失恋だとか喧嘩だとかじゃないんだよ、俺が求めているのは。もっとドロドロした……別方向の不幸せ……そんな歌を生むのは誰だ? 俺みたいな奴? 俺か!?」
こんな歌を幸せではない人が生み出しているのであれば、その中の一人に自分がなる可能性もある。幸せではない誰かの歌で、幸せではない誰かが救われる。彼がそうだ。この曲を、この歌詞を書いた人が幸せかどうかはわからない。しかし、幸せだったなら、明るい世界にいるのなら、こんな歌詞は思い浮かばないのではないか、と航太郎は必死に考える。
「いや、待てよ。幸せなときに歌を生もうとしたら生めなかったっていうのもありえるな……いやいや、そんなことはどうでもいい。やるか? やるのか、俺?」
曲に触発されたのか、彼の心は熱く燃え上がっている。
始まりはいつも突然だ。湧き上がった想いをどうするか、それは人それぞれだ。現実を見て、諦めるも良し。とりあえずやってみるのも良し。本気で目指すのも良し。
「よし、ミュージシャンになろう!」
一人の人生が変わった瞬間だった。一人の決意が、いつか誰かの決意へと繋がる。夢は夢を繋ぎ、夢を生む。誰かの夢が叶い、その姿を夢見て、誰かが夢を目指す。そしてまた夢が叶う。その過程で幾つもの諦めが生まれても、幾つもの挫折が生まれても、必ず繋がっていく。