二
「一年生並べ―! ならば奈良で並べー!」
男子バドミントン部部長である直哉のギャグ付き一声で、新鮮さに満ち溢れている新入生たちが横に並ぶ。
この年、男子バドミントン部に入部した一年生は八人。その八人の中に優一と航太郎もいた。
二年生九人、三年生六人。今年は計二十三人だ。
彼らがいる中学校の男子バドミントン部は、弱くはないが強くもない。
もしかしたら大会で勝ち抜けるかも知れないし、もしかしたら一回戦負けかも知れない、といった感じだ。
「顧問の石川先生は後から来るから、その前に俺らだけで自己紹介だ。二年、三年も並べー! ならば奈良で並べー!」
受けなかったギャグを二回言ったところで受けるわけがない。くすりとも笑わず、二年生、三年生も一年と向き合うようにして並んだ。
「まずは俺から。男子バドミントン部の部長、稲月直哉です。室内で窓を閉め切っての練習だからきついとは思うけど、一緒に頑張りましょう」
さすが部長に選ばれているだけあって、挨拶はしっかりしている。
それに倣って他の三年生、二年生も自己紹介をしていった。
「次、一年。じゃあ、こっちから順番に。名前と、簡単に意気込みを」
一年生も順番に自己紹介をしていく。
一人一人すぐには終わらせず、直哉は一人一人に質問をしていた。この中学校は近辺にある小学校三校の生徒が入学してくる。どの小学校から来たのか、好きなマンガなど、質問は様々だ。
そんな軽い質問のおかげで、一年生の表情は和らいでいった。
六人目が航太郎、七人目が優一だった。
「森川航太郎です。運動は苦手ですけど、一生懸命頑張ります!」
直哉は並んだ一年生を右から左へ、左から右へ、一人ずつ見て、頷く。
「森川航太郎ね。身長いくつ?」
「一五三センチです」
「伸びるといいな」
「はい!」
中学一年生なので、学年全体を見ても彼くらいの身長の男子生徒はいる。しかし今年入部した八名のうち、航太郎を除く七名が既に一六〇センチ以上。並ぶと一人だけ凹んで見えてしまう。
「次」
「はい、青木優一です! 他の一年生に負けないよう頑張ります!」
今度は優一と航太郎を見比べる直哉。
「青木優一……。身長いくつだ?」
「一七二センチです」
「でかいなー。それに顔もいいし、モテるだろ?」
「いやぁ、そんなことはないですよ」
彼は謙遜したが、そんなことはある。
小学生時代に告白された回数を両手で数えることはできない。
バレンタインデーに貰ったチョコレートは何回も指を折らないと数え切れない。そのチョコレートのほとんどが本命だ。
最近の小学生とは違い、彼はそこまでませていなかったので、付き合ったりする、ということはなかった。
「それにしても青木と森川が並んでいると、兄弟みたいだな!」
きっぱりと失礼な発言をした。
優一には兄弟がいないので、弟ができた気分で素直に笑っていた。
航太郎も笑っているが、劣等感と憎しみが詰まっている。
「よーし、次は……」
そのような感じで自己紹介は終わり、練習に移った。
(負けてられるか、このデカい奴に……!)
校庭でのランニング。航太郎はただひたすらに走っている。校庭の周りを十周。ランニングに勝ち負けなどないのだが、彼は優一に負けたくなかった。
一方、優一はのんびりと走っていた。その姿は絵になる。その爽やかさに、周りの女子は釘づけだ。
それに気付かず、先輩はいい人そうだったな、同級生とも仲良くできそうだな、と考えている。
彼は普通に走っているが、周りにいる他の部の一年生はつらそうだ。遊びではない真剣な運動。大変そうだが、初めての世界に飛び込んだ輝きはある。
「はっ……はっ……はぁ……」
「大丈夫かー?」
ランニングが終わり、一年生は体育館で休憩している。
全力で走りすぎてうまく呼吸ができていない航太郎を、優一は心配する。心配している彼の呼吸は普通とは言えないものの、乱れは少ない。
その心配に下心なんてないのは航太郎にもわかっている。わかってはいるのだが、何故か自分のプライドが傷付けられているのを感じる。この下心のなさもモテる理由だろう。
心配したのに無視されている優一は不思議に思っている。
「あんまりきついなら先輩に言って保健室に――」
「だい、じょー、ぶ……だから。俺に……構うな」
息を切らしながら伝えたいことを伝える。呼吸はまだ落ち着かない。自分よりも速く走っていた優一が平然としているせいで気持ちも落ち着かない。
「あ、今日って月曜日だよね?」
唐突に曜日を確認する優一。面倒くさがるように何度もうなずく航太郎。優一の目に、彼の姿は赤べこのように映った。赤い顔がそれを強く感じさせる。笑ってしまいそうになるが、これ以上機嫌が悪くなってしまっては今後が心配だ。優一は必死に笑いを抑える。
「毎週月曜日の夜十一時からのラジオが面白いんだよ! 聴いてみ?」
普段ならそれくらいの時間まで起きていることは簡単だが、今日は疲れている。
そして小さな彼にも成長期は来ている。成長期は眠たくなるものだ。そんな時間まで起きていることは無理だろう。
「多分、今日は、疲れてるからすぐ……」
「えー、それは残念……あ! なら録音して明日貸すよ?」
「そこまでして聞かせたいの?」
航太郎の呼吸もようやく落ち着きを取り戻し、まともに会話ができるようになった。
休憩時間の残り五分、優一はずっとそのラジオの魅力を語った。いいものを広めたい優一の気持ちを、航太郎は暇つぶしに利用した。
練習が終わり、下校時間。優一を除いた一年生は皆、疲労を顔に浮かべている。
それぞれが帰っていく中、優一は航太郎を見つけて横に並ぶ。その凹凸を見つけた直哉が楽しそうに二人に声をかけた。
「青木、元気だな。青木だけに」
「これくらい大したこと……あ、今のギャグですか!?」
夕日が沈みかけた空はどこか切なく、美しい。橙、青、紫、白。不思議な空だ。理解し難い芸術的作品よりも理解できない空を、航太郎はぼうっと眺めている。
「二人は家どっちだ?」
校門の前で、直哉は二人に尋ねた。
「俺、右です!」
「俺は……確か左です」
中学校に入学してからしばらく経つのに、帰り道を忘れるはずがない。航太郎は疲れのせいで色々と見失っていた。
「森川、確かってなんだよ。疲れてんのか? あ、そりゃ疲れてるか」
「そうですよ。すぐに布団に飛び込みたい気分です」
その言葉に優一がすぐさま反応した。疲れているのに布団に飛び込めば朝まで起きないだろう。
しかし、そもそも疲れている人に遅くまで起きてラジオを聴け、というのは駄目なんじゃないかと一人悩み始める優一。
「ラジオ……いや……んー……」
「あぁ、ラジオ。覚えてたら聴くから……」
「いや……うん……」
無理させるのは人としてどうなんだ、と自問自答している優一を無視して、直哉は帰ろうとする。
「じゃあ、俺右だから。森川、明日も頑張ろうな!」
「あっ、航太郎! また明日!」
「はい、お疲れ様でしたー」
優一が下の名前で呼んだことには触れず、航太郎は力なくとぼとぼと歩き出す。二人は航太郎を見送る。
その背中は疲れによって更に小さく見えた。
「お前ら仲良くなれそうだな」
「でも僕がちょっと嫌われてるみたいで……」
「まぁ仲良くやれよ。どうだ? 部活は楽しかったか? っていってもランニングと球拾いとラケットの持ち方くらいだったけど」
並んで歩く二人の身長差は約三センチ。直哉の方が高い。直哉も中学三年生なので、まだ伸びる可能性はある。
いつかは抜かされるだろうな、と直哉は彼と話しながら感じていた。
「俺ここ真っ直ぐだけど、青木は?」
「俺は右曲がります。あと優一でいいですよ」
「おう、ならまたな、優一」
「はい、お疲れ様です! 直哉さん!」
二人は交差点で別れる。街灯が徐々に点き始めた。
「あー……」
航太郎の家は、学校から徒歩十分。そこまで遠くもないが、疲れた身体では遠く感じてしまう。立ち止まって、うな垂れた。
「つかれた……」
自分のペースで走れば、ここまで疲れることもなかっただろう。優一という存在のせいで乱されてしまった。
(明日のランニングはゆっくり……いや、それだとあのデカいのに永遠に勝てない! よっし、明日は負けない!)
航太郎は心の中で決意した。
彼の決意を受け取った夕日は、そっと誰かの朝へと沈んでいった。
「高木琢磨と、本田勝と……」
直哉は優一と別れてから、新入部員八名のことを思い出す。部長として、部員の名前はすぐに覚えなければならない。
「あとは凹凸の森川航太郎と青木優一だな。よし、覚えた」
記憶力はいい方なので、八人の名前を覚えることは簡単だった。
「それにしても……若いっていいなぁ」
新入部員、特に優一を思い出しながら、彼は一人呟いた。中学三年生も十分若いだろう、と誰かにツッコまれそうな発言だ。
「新入部員が侵入してきた……どうだろう」
もしかしたら彼の中身は中年親父なのかも知れない。
そして将来、残念ながらこのギャグの腕は一切上がらない。
「今日の晩飯なんだろうな。なんだろうな。ナンだろうな! カレーだな!」
一人でギャグを呟き、一人で笑う。傍から見れば怪しい中学生だ。
「お、猫!」
「にゃー」
優一は帰り道にある電信柱の近くで猫を発見した。
首輪をつけていないので、野良猫だろうか。白い毛が少し汚れている。
「おー、かわいいなぁ」
猫の頭を優しく撫でる。猫が目を瞑った顔というのは、本当に可愛らしい。菩薩を眺めているようで心が洗われる。優一の顔は自然と綻んだ。
「にゃー」
「ん? お腹空いたのか? 悪いな、ご飯持ってないや」
「にゃー……」
落ち込んだ顔を見せた猫。彼は慌てて喋り出す。
「明日! 明日はなんか持ってくる! ニボシかなんか! 約束!」
「にゃー!」
もちろん優一に猫の言葉はわからない。猫が優一の言葉を理解しているのかもわからない。
人と動物は言葉が通じないのに、言葉や鳴き声でコミュニケーションを取ろうとする。生き物というのは本当に不思議だ。
最後にもう一度頭を撫で、彼はなんとなく走り出した。
小学生は疲れを知らない。放課後は校庭で遊びまわり、走って家に帰る。しかし元気だ。小さな身体のどこにそんな体力があるのだろうか。
だが彼は中学生だ。
航太郎は家に着き、布団に飛び込みたい気持ちを抑えて、すぐに風呂へと飛び込んだ。こんな汗臭い身体ではぐっすりと眠れないし、お腹も空いている。
「いい湯だったぁ……」
一日の疲れと汚れを落とし、彼はおじさんのような声を出しながら風呂から上がった。
「ごはんおかわり!」
数時間ぶりの食事を、何日も食べていないかのようにがっつく。運動後の食事は何倍にもおいしく感じるものだ。母の味がする生姜焼きをおかずに、ほかほかのご飯を三杯平らげる。
その様子を彼の両親は優しい目で見ていた。
「ふぅ、ごちそうさまでした」
「あんた、よく食べるようになったわねぇ」
満足そうな航太郎の顔を見て、彼の母は嬉しそうにそう言った。
午後十時五十八分。
優一は布団に入り、ラジオを聴いている。しっかりと録音の準備はしてあるので、もし航太郎が寝ていたとしても問題はない。
実際彼自身も、部活の疲れが身体に来ている。だが彼にとってその疲れは、心地よい睡眠の為の心地よい疲労に過ぎない。
午後十一時の時報がラジオから流れる。それと同時に録音のボタンを押した。
「さぁ、今夜も始まりました。立石健太郎のムーンナイト。今夜も一時間、楽しい音楽をお届けいたします」
至って普通のラジオだが、彼はその普通さが好きだった。
ラジオよりもテレビが主流の今、テレビから流れる音楽こそが流行りの音楽だと言える。決してその音楽が悪いわけではないが、どこか物足りなく感じる。
一方でラジオから流れ出る音楽は、流行りから離れ、様々な音楽を提供してくれる。その普通さは、彼にとって新鮮以外の何物でもない。
ラジオから流れ出る音楽に、彼は身を委ねる。メリーゴーランドのように優しい、ジェットコースターのように激しい音楽たちが、彼の心を踊らせる。
月明かりがカーテンで遮られた真っ暗な部屋で一人。昨日と明日の境目で一人。最後の一曲を聴き終わり、胸に温もりを感じ、ラジオの録音を切る。彼は静かに夢の世界へと沈んでいった。
この時間よりも少し前、午後十一時五十三分。
明かりの点いた部屋で布団に潜り、ラジオを聴いている航太郎。聴いているように見えて聴いておらず、静かに寝息を立てている。
食事を終えて、彼はすぐに自身の部屋へと移動した。CDを聴く為だけに置いてあるラジオカセットでラジオを流し、布団に入ってリラックスしていた。疲れた身体でリラックスをしていれば、寝ないはずがない。
寝ないという意思は、明かりを点けているというところから汲み取れるが、布団に入った時点で彼の負けだ。
「…………」
ラジオからは楽曲紹介と終わりの挨拶。そして最後の一曲が流れ始める。
「……んー?」
眠気がまだ残る目で時計を見る。午後十一時五十六分。時間を確認し、枕に顔を埋める。
「まぁ、寝るなって言う方が無理だよな」
言い訳をして、最後の一曲くらい聴いてやるか、とラジオに耳を澄ませる。
「……お?」
出だしの歌詞。彼の心に雷が落ちた。衝撃が全身を揺らす。
「俺の悩みを理解できないなら死ね……か。極端だけど……いい」
荒々しい演奏、歌、歌詞。汚いといえば汚いのに、それ以上の優しさを感じていた。
普段耳にする音楽と、この一曲。何がどう違うのかはわからない。それでも何かが決定的に違う。耳で聴いているのに、胸で聴いている感覚に陥る。
その感覚は不快なものではなく、安らぐほどだった。
胸で感じた温もりに、彼は不意に涙を流す。
「あー、なんだろう。なんかつらい。なんかつらいのにあったかいってどういうことだ」
気付けば曲も終わりを迎える。彼はラジオに集中する。アーティスト、曲名が知りたいからだ。残念なことに紹介は曲の前。曲が終わって流れるのはCM。
「そのパターンか……」
ラジオを聴けと言った男が録音しているだろうと信じ、彼は諦めて部屋の電気を消して布団に潜る。
胸の温もりや曲のことが気になるのか、落ち着かない。
パソコンは親の部屋にしかなく、こんな夜中に使わせてはくれないだろう。携帯電話も持っていない。
あの男に明日訊けばいい。そう自分に言い聞かせてみるも、今度はランニングのことが頭に浮かんでしまう。
「……寝れないんだけど」
涙で少し濡れてしまった枕に顔を埋め、なんとか眠ろうとするものの、色々と混ざった胸の高揚感は抑えきれない。