寒空の美月
タイトルどうしてこうなったwwww
他になにか思いついたら変える可能性があります!
大学進学とともに上京して早一年。都会にはこうも遊び場があるのかと感心しつつも、乏しい経済力では遊び回るなんてことはできず、アルバイト先のバーと学校を行き来する寂しい生活だ。
どこに行っても人が多くて、その割には人との関わりが少ないから、気を抜いたら自分なんて飲み込まれて深い闇の底で消えてしまうのではないかと考えてしまうような。そんな虚無感がこの首都には漂っている。そこに、誰もが息苦しさを感じているから、きっと何処にいても早朝の満員電車で揉まれている時と大して変わらない気分なのだろう。
大学から自宅のアパートまでは電車で3駅。線路近くの、シャワー室のような風呂付き5万6千円。朝は電車の音で起こされる。おかげで講義に遅刻した試しはない。
アルバイトでバーカウンターに立つようになって、人間観察が得意になった。一つわかったことは、大人は酒が好きだという事だ。アルバイト中は酔った大人の話し相手をし、呂律がはっきりせず支離滅裂な様子を眺めている俺が言うので間違いないだろう。自分も将来ああなるのかなあと思うと寒気がするが、この不況の世の中だ、酒にでも酔わないとやっていけないのかもしれない。
その日の帰りは、水曜だったことも影響してかあまりそう言う輩を目にしなかった。流石に週の真ん中だなあと思いながらアパートに帰り着く。
その人は、アパートの階段の踊り場で突っ伏していた。泥酔しているのか、近寄っただけで酒臭い。自由にカールした髪は乱れ、何事かを譫言で繰り返している。ただでさえ短いタイトスカートからは、惜しげもなく美しい脚投げ出されていた。俺の苦手な女だ。
「マスターこんばんわ」
そう言っていつもカウンター席の左から二番目に陣取る彼女は、マスターにぞっこんのようだ。マスターは俺の叔父であり、店の経営者でヒゲの似合う所謂ちょいワル系である。緩くウェーブさせた栗色の髪を指に絡ませながら、溜息。ソルティドッグを赤い唇に湿らせると俺をチラと見やる。
「何だか疲れちゃった。マスター、この後食事どう?」
「俺なんて、まなみさんにはもったいないですよ」
本気とも冗談ともわからない表情でそんなことを言う、それに対してマスターは慣れているのか当たり障りのない返答をする。その繰り返しだ。
「相変わらず連れないわねえ。ねえ、君はどう?」
「いえ」
はじめはマスターに、そして俺に絡む。俺は、出来るだけ短い返答をする。その後は、大体は仕事の話をして帰っていくのだ。
アルバイト先のバーに近頃よく来る、この泥酔女は八坂まなみと言い、大きな出版社の編集担当らしい。いつも強い酒を飲んでマスターに擬似恋愛よろしく絡み、時々こちらをチラ、と見てはニンマリとした笑いを口元に貼り付ける。はじめは余裕を振りかざす嫌な女だと思った。しばらくして、その“八坂まなみ”と言う名前が、気に入っている小説家が出版した本の殆どを編集担当している人物と同姓同名であることに気づいた。あんな人でもちゃんと仕事をしていて、その過程で出来た本を自分は毎回買っているのかと思うと、意外でもあり、悔しくもあった。
今日は男連れで来店したが、しばらく飲んでいると酔いが回ったのか連れの男に支えられ帰って行ったのを覚えている。あの不躾な視線に晒される時間が短くてよかったと思っていたのに。
「何でよりによって……」
連れの男に途中で捨てられてしまったのだろうか。そのままにしておくこともできたが、呻きながら体をブルリ、と震わせ寒そうに身を捩った常連客を放っておくことはできなくて。気づけば肩を担ぎ自宅にて保護していた。
「ほら、ちゃんと自分の足で歩いてくれ」
「う……うーん、ナキザワってば冷たいわ……」
那木澤晴。それが彼女が担当する今時超売れっ子の小説家だ。いくつもの賞を受賞し今や多くの出版社から引っ張り凧、その恋愛小説の面白さから女性の支持率は高く、しかし物語の用紙が恋愛だけに留まらない作風から男性ファンの心も掴んで離さない、つまるところ天才なのだ。俺と背格好が似ているのか、八坂さんはその小説家と間違えているらしかった。恐れ多い。
「はいはい、水飲めますか」
「ん、助かる。ありがとね」
何だ、ちゃんと礼が言えるじゃないか。そう思った矢先にバランスを崩しそうになり、必然的に腰を抱き寄せる形で体を支える。支えている腰の、その細い線に戸惑った。余程酔っているのか、水を飲む間も支えていないと今にも崩れ落ちそうだ。密着された髪から、うちの店の匂いと、タバコの臭いと、ちょっとだけシャンプーの香り。思いのほか、キツくないその香りを意外に思う。もっと、香水とかの匂いがキツいイメージがあったからだ。
「寝る……」
水は充分飲んだのか、再び歩み始めるその体を支えサポートする。向かう先がソファーであるあたり、休まなくてはならないことはわかっているようだ。
「今日はベット貸しますからそっちで寝てください」
「あ、私の本、沢山。ね」
那木澤晴を集めた本棚が目に入ったらしい。幸せそうな顔で微笑むその表情に不覚にもどきりとする。誠に質の悪い酔っぱらいである。
支えながら上着を剥いで、楽に休めるようにしてやりそのままベットに転がすと、スカートから尻がはみ出しそうになっているのも気に止めずに死んだように寝てしまう。というか、気づいてしまった。Tバックとか履いてるんだろうと思ってたのに、普通の下着だ。それは程よくレースが付いた淡い色で、それが上品なデザインだった。俺は、何を見てしまっているんだろう。焦って、布団をかけて視界を保護。一連の動作を終えると、溜息が出た。
「肩こったな」
アルバイト中、縛っている髪を解く。戒めが解かれ、無理矢理に後頭部に向かって押さえつけられていた長めの前髪が降りてきた。体を温めるためにシャワーを浴びた。ベットには既に住人が居るので、羽織っていたコートを布団にしてソファーに横たわる。ベットサイドには目覚ましとメガネ。始発まで、あと二時間だ。
カタン、カタタン、トン、トントン。一日の開始の音だ。保険のように仕掛けている目覚ましが鳴き出す30分前に、スイッチを切る。今日も役目を果たすことはなかったようだ。背中が妙に痛い、と思い自分が昨晩ソファーで寝たことを思い出した。
メガネをかけ、トースターとコーヒーメーカーのスイッチをオン。読みかけの那木澤晴を取り出して出来上がりを待ついつも通りの朝だ。ベッドを見やる。もぞ、と蠢く布団の塊もようやく朝が来たことに気づいたらしい。
「やだ、ココドコ?」
意外に落ち着いた反応だ。俺が顔見知りだからだろうか。
「俺の家です」
「あなた誰? ……失礼ですけど、私たち何もないわよね」
そりゃあ、あまり話したことはないし、印象が薄いのはわかるけれど、まさか自分のことを認識してもらえないとは思わなかった。何か、こちらだけ彼女を知っていると言うのは尺にさわる。ついムッとして、突慳貪な態度をとってしまう。
「あなたの服装が乱れているのは、寝相のせいですからご心配なく」
「寝ぞ……!」
顔を赤くしている。もっと余裕の微笑みでカウンターを返してくると思ったが、時刻も朝である、いつものように口も達者に動かないのだろうか、それとも案外見知らぬ男の部屋で目覚め、動揺しているのかもしれなかった。きっとこちらが彼女の素なのだろう。
と、チン! とトースター。どうやら焼けたらしい。音とコーヒーの臭いに釣られ、もぞもぞとベッドから抜け出してくる。寝ている間に苦しくて脱いでしまったのだろう、ワイシャツ一枚、男のロマンだ。
「……目のやり場に困るんですけど」
着ていたカーディガンを膝掛けにできるよう、投げる。すると何を思ったのか、着始めた。貴様は天然か。
「目玉焼きは半熟派ですか」
「火が通っている方が好きよ」
かすかな吐息に、まだ酒臭さが残っている。二日酔いなのだろう、食欲なさげに目玉焼きを眺めているため、コーヒーではなく水を置いた。
「シャワー勝手に使ってください」
「後で借りる。ねえ、どうして私を拾ってくれたの」
今更、あなたの通っているバーの店員ですとは言いにくくなって、家の前で寒そうな格好で倒れていたのでと言っておく。部屋をくるりと眺め、そう言えばこの光景には見覚えがあるわ、など言う。
「ねえ、君。那木澤晴好きなのね」
「まあ」
「私ここにある本、殆ど作ったわ。八坂まなみという名前に見覚えは?」
「ええ、ありますよ」
得意気な顔だ。悔しいが、那木澤晴の作品の中でも傑作と言われているものはほとんどこの人が編集したものだ。
「私、こういう者なの。今度お礼させて頂戴」
有名出版社の名前が載った名刺には、八坂まなみと書かれている。改めて見ると、目の前にいる彼女は本物の八坂まなみなのだと実感する。その事実に、素直に感動する。
「俺、あなたの仕事尊敬します」
あくまでも仕事、であるが。感動を素直に伝えることは悪いことではないだろう。だけど、俺は昔からポーカーフェイスなど言われてきたから今回もあまり伝わっていなかったようだ。
「あまり驚いていないようね。社交辞令は嬉しくないわ。わかった、お礼は今度の新作とかでどう?」
それはかなり魅力的なお礼である。小説の初版は多くがハードカバー本であり、値も張るので貧しい学生生活では手にするのにも清水の舞台から飛び降りる思いだ。
「助かります」
断る理由が見つからないので、了承することにした。
大学まで送ると言う八坂さんの申し出を丁重に断り家を出る。まだシャワーを浴びていない八坂さんに合鍵を渡し大学までの道のりを歩き始めた。
途中、赤いスポーツカーが横を通り抜け、少しして再び戻ってくる。それは俺の横で停車した。俺に用はないはずだと思い歩き続けていると、呼び止められる。
「ちょっと、君。内田くん!」
内田くん、とは俺の名前である。声のした方を見ると、それは髪をきれいにセットし化粧をした先ほどのだらしない姿とは似ても似つかない――八坂まなみその人だった。
「せっかくなんだし、乗りなさい」
「でも、あと少しですから」
「私が乗せたいいの!」
半ば無理やり乗り込まされる。赤いスポーツカーなんて初めて乗った。車なんてどこから持ち出したのだろうと思っていたが、八坂さんの部下がこちらまで運転してきたようだ。最新技術をエンジン部分に濃縮させたそれはあっという間に校門前で停車した。多くの学生がいる中、この目立ちすぎる高級車から降りることには抵抗感が強いが致し方ない。
「ありがとうございます」
車から降りた途端に視線が痛い。今すぐ逃げ帰りたいくらいなのに、助手席から八坂さんも降りてきてしまったから更に注目されているのを感じる。
「世話になったわね。ありがとう」
唇に限りなく近い頬にキス。そう言う挑発的なことを野外でも平気でしてりまう。これが俺のよく知る八坂まなみだ。けっこう親近感が湧いていたのに、再び苦手意識が浮上してくる。
「こちらこそ。講義に遅れますので」
とにかく恥ずかしいのと、突き刺さる視線から早く逃れてしまいたいのとが混ざり表情は硬くなってしまった。もう少し感謝の言葉をかけたかったけど、恥ずかしさが勝り、一度も振り返らず早足で門をくぐってしまった。
叔父が経営するアルバイト先は、昼間はカフェ、夜はバーと言う体制を取っている。現在学生アルバイトは八名。ほとんどが同じ大学に通っていて、それぞれにあだ名がありそれで呼び合うという変な習慣がある。因みに俺は、髪を一つに結っているからかポニーだ。他には、黒猫、天パ、メガネなど容姿に沿ったものが多い。
「ポニーくん、カシオレが入ったよ」
「了解」
そのアルバイトの中でも、バーカウンターに入れるのはマスターと俺、黒猫の三名。俺と黒猫はアルバイトだが、シフトに入る回数が多いために実力がついた二名である。バーカンに入れない新人である天パやメガネたちは主に注文を聞いてくる役割だ。だから、アルバイトは八名いるが実際に同時に働いているのは五名くらいだ。
うちの常連客は、曜日ごとに決まっている場合が多い。今日はあの女は来ないはずだった。
「マスター、昨日ぶりね。あら、やっぱりいつもと違う曜日に来るとアルバイトの顔ぶれも珍しい感じね」
なんで来たんだろう。忙しいのではないのだろうか。そう思っていたが、カウンター越しに会話を聞いているとどうやら今日、那木澤晴の原稿本がオールアップだったらしい。
「それで、お世話になった坊やのところにいち早く届けたくてね。ええ、この近くよ。それで来たの」
どうやらあの約束は本当だったらしくこれから俺の自宅に向かうらしい。出迎えられないのが申し訳ないが、ここでその青年が俺であると言うのも面倒なことになりそうなので、控えておく。来ると必ず頼むソルティドックを黙ってそっと目の前に置くと、八坂さんはチラとこちらを見るも、やはり俺であると気づかない様子だ。
「ありがとう、あなたアルバイトなのにわかってるわよね。でも今日はソルティ一杯だけにしてくわ。あの子にこの前迷惑かけたんだもの、ちゃんとしてるところ見せたいの」
結構あの日のことを気にしているらしい。少し困ったような表情が、一人前の大人らしく見えた。その表情に何か突き動かされる思いが湧いた俺は、八坂さんに話しかけていた。
「きっと、許してくれる」
普段から無表情、愛想がないと例えられる俺だが、自然に微笑むことができた。理由はわからない。だけどそれが精一杯で、すぐに離れてグラス磨きに戻る。マスターが、シャイな奴でねえ、何てフォローを入れている。隣に立つ黒猫が意外そうに見つめてきたので俺だって笑うさと言い訳じみたことを言ってみる。
「いつもより、優しい感じがして、さっきの方がいいと思う」
黒猫はボソリとそう呟くと営業スマイルを振りまく天パに呼ばれていってしまった。あの二人、あまり話が弾んでいるところを見かけたことはないが、相性が良いらしくよく一緒にいる。普段は気さくな天パがああも大人しくなるので、誰の目から見ても天パが黒猫に気があるのはお見通しだ。気づいていないのは黒猫本人だけだろう。
八坂さんは、そのあと数杯に分けてアルコール度数の低いカクテルをたしなみ、閉店まで店で会話を楽しんだ。今日は閉店作業の係りではなかったし、少しほろ酔いの彼女を放っておく気にもなれず一緒に店を出る。
「あら、ポニーくんだっけ。あなたも上がりなの」
「ええ」
「よかったら途中までご一緒しない?」
都会の空は、星が見えない。帰り道には、週の終わり際だからか酔ったサラリーマンがちらほらと歩いている。流石に泥酔して突っ伏しているものはいなかった。アルバイト先から自宅のアパートまでは、最寄駅から一駅。駅から自宅までは大学よりも近い。
「ポニーくんもこの駅使うのね」
「まあ」
「ポニーくんって、寡黙よねえ」
そう言われて、何となくムッとする。つまらない、と言われているようで悔しい気がいたからだ。
「俺の友達なんてそんな奴ばかりですよ。その、以前助けてくれた学生はどういう感じでしたか?」
「そうね。寡黙な印象はなかったわ。どちらかといえば口下手? でもね、何だかんだで優しいのよ。ふふ、二日酔いだったのだけど、コーヒーじゃなくて水出してくれたりとかね」
気づいていたのか。そう思うと、先ほど寡黙と言われ少しいじけてしまった自分が子供のように感じられる。
「ああいう気遣いできる人って、なかなかいないから珍しいなって。だから、ちゃんとお礼がしたいのよ」
それ、俺です。そう言ってしまいたいと思った。だって、こんなに近くで歩いているのに、この女は本当に俺だと気づいていないらしいから。別に隠しておく理由もないし、八坂さんがこれから自宅に来ることを考えれば打ち明けてしまった方が良いだろう。しかし、俺の顔を忘れてしまっているに過ぎない可能性もあるのかもしれない。そう思い、質問してみる。
「その学生の容姿は覚えているんですか」
「ええ。覚えてるわよ。泥酔していたけれど、翌朝ご飯まで作ってくれて。そうね、見た目は前髪が長くってくせっ毛で、眼鏡をしていて。ちょうど、あなたくらいの年の子だったわ」
つまり彼女には髪を下ろし、眼鏡をかけた姿で認識されているらしい。俺はまず、メガネをかける。そして、結っていた髪を解く。一緒に纏めることでさらされていた額は、少し長めの前髪に覆われる。
「それってこういう奴ですか」
その時の彼女の表情と言ったら、まるで幼い少女のようなあどけなさで、ガラス玉のような目は見開かれ、口はあんぐりと下がっていた。その間に、終電が来てしまうが八坂さんは固まったまま動こうとしない。おかげで終電を逃してしまった。幸いなことに、明日の講義はないので、始発まで駅で待機しておけば何とかなるだろう。
「な、な、な……なんてことなの! 私全く気づいていなかったわ。本当に本当よ!!」
昨日の段階で気づいていたことではあるが、彼女はしっかりしているようで、どこか抜けているようだ。
「普通、声とかで気づきませんか」
「だって、あなた印象変わりすぎなのよ!」
そう言われて、確かにこの見た目では顔はよく見えないのかもしれないと気づいた。しかし、俺は別に好んで前髪を伸ばし、眼鏡をかけているわけではなかった。
小さい頃は、よく女の子に間違われたりするのが嫌だった。高校に入ったことくらいから、告白されることが多くなった。おかげで彼女がいなかったことがない。大学に入ってからは、モデルのスカウトを受けるようになった。だけど、そういう世界には興味がないので、断っていた。段々、スカウト自体が面倒になり、そういう機会を減らすために出来るだけ顔を隠した。案外、効果は抜群だ。アルバイト先で髪を上げているのは、叔父の命令であるので仕方なくと言うやつだ。
「スカウトとか、面倒なんで」
「へえ。贅沢な悩みね。本名は内田くんだっけ」
アパートの表札でも見たのだろう。苗字で呼ばれることを不思議には思わなかった。同時に、自分が名乗っていなかったことに気づく。
「内田忠彦ですよ。八坂まなみさん」
「あの日拾ってくれたのが顔見知りだったなんて。みっともないところを見せてしまったわ。そうそう、これを渡さなくては。はい、新作のハードカバー本」
那木澤晴の最新作『そして今夜も月は満ちる』と言うタイトル。講義の合間の読書本が手に入り、自然に笑顔になった。
「ありがとうございます。助かります。ところで、あの日なぜアパートにいたんですか?」
「それ、やっぱり言わなきゃダメかしら」
八坂さんは少し恥ずかしそうにしていたが、俺が黙っているのを促していると捉えたのか、ポツリと語り始めた。
「一緒に来てた男ね、那木澤晴本人なの」
「!」
俺は思わず興奮する。あの日、自分の近くに那木澤晴がいたなんて! そう思うと同時にどんな男だったかを必死に思い出す。
「あれ、那木澤晴って俺と同じくらいの年、なんですね」
若い男だった。店の中は間接証明で、その顔はよく見ていないがそれだけはわかる。
「そうよ。とある理由があって一緒に飲んでたの。でも、私がちょっと飲みすぎて、分別がつかなくなっちゃって。それで、ええと星が見たいって言い出したらしいのよ」
成人して間もないならわかる。でも、八坂さんは二十六歳くらいだったはずだ。お酒の失敗は通り過ぎてそれなりに経験値もあがっているというのに、この普段はしっかりしている女性がそんな風になるとは、よほど仕事でストレスが溜まっていたのだろう。
「仕事、忙しいんですか?」
「ええ、まあ。それで、私タクシーから勝手に降りちゃったみたいなのよね。それが、あのアパートの前だったのよ」
「なるほど、すごい偶然ですね」
「本当に、内田くんが拾ってくれて助かったの。じゃなきゃ絶対に風邪ひいてたわ」
会話は、そこで途切れてしまった。八坂さんは、何とも言えない複雑な表情だ。この表情を幾度か見かけたことがあるが、その度に八坂さんが大人びて見えて俺は距離を感じてしまう。
「内田君はさ、バイト中とか女の子結構話しかけてくるでしょう」
「そうですね……俺は仕事中は必要以上に話しませんから」
確かに、女性客から話しかけられた経験はある。だけど、殆どは話しかけやすいホールスタッフ、カウンターではマスターに人気が集まるので、俺に話しかける客はほとんどいない。
むしろ、俺の方がこの女に興味があるのだった。あの、那木澤晴の担当をしているのだから、どんな人間なのか気になってしょうがなかった。だけど、八坂さんはマスターと仲が良いようで、しかも美人とくると話しかける機会もあまりなかった。俺が、口下手なせいもある。
そう伝えると、八坂さんは少し安心した顔になる。それが妙に嬉しい。
「じゃあ私、嫌われているわけではないのね」
「そんな風に思わせていたのなら、すみません」
それにしてもあの男。那木澤晴だったことに驚いた。てっきり八坂さんの恋人だと思っていたので、あの男が恋人ではないという事実が何故か嬉しかった。何故嬉しいのか、俺にはわからなかった。八坂さんのことは苦手だ。あの不敵な笑みでこちらを見られると落ち着かないし、赤い唇が紡ぐ言葉はいつも男をからかっているようで、自分が騙されそうで、怖かった。
だけど、彼女は仕事に一生懸命で、ストレスで飲みすぎてしまう弱さもあって、素の時は意外に素直な反応をする。しかも、天然で無防備。もしかして、いつもの挑発できなタイトスカートも単にそんなデザインが好きなだけなんじゃないか、そう思えてくるから不思議だ。そこまで考えて、わかった。俺はつまるところ、この女に憧れているんだ。それでいて、支えたいとも思っている。彼女が頑張りすぎた時にそばにいるのは、あの日みたいに俺がいい。
「あの、また店に来てくれますか」
「ええ、マスターもいるし、今度からは内田くんもいるしね」
八坂さんが微笑んでくれる。それはやっぱり大人の余裕みたいなものを含んでいて、俺は早くそれに追いつきたくて。
「また、こうして一緒に帰ってくれますか」
八坂さんのことがもっと知りたくて。だけど、今はこんなことしか言えなくて。
「……ええ」
八坂さんは、少し驚いたような表情になると、視線を落としてそう言った。頬が少し赤い。理由を考えて、あんなセリフでも少々好意がわかりやすかった、と恥ずかしくなる。しかし、色恋なんてものは恥ずかしいものだ。どう転がっても恥ずかしいのだったら、堂々としたほうが得なのだ。
「私も」
はじめ、小さく消え入りそうなその声に気づけなかった。
「私も、そうしたいなと思っていたのよ」
その頬には赤が指していて、それが寒さのせいだけではない気がして。連鎖して自分の頬も熱くなるのがわかる。だけど、生まれてからポーカーフェイスと言われ続けた俺である、それは八坂さんには気づかれていないようだった。結局、俺の自宅に来る必要のなくなった八坂さんはタクシーで帰った。俺は、電車に乗りながら心地よい気分に包まれていた。これから何かが始まる、そんなワクワクした気持ちで満たされたいた。
那木澤晴の新刊は、少し切ない話で一気に読み終えてしまった。俺は彼の作品が無名の頃から好きでずっと読んでいるが、ここ数年でハッピーエンドが大幅に増えた。と言うか、彼の作品に恋愛要素が散りばめられ始めた。そこが大きな変化で、コアなファンの間では『海辺の町』を堺に前期・後期と分けられているほどだ。今回は、これまでの流れからまた一変し、ファンタジー小説のジャンルにも分類される作品となっているようだった。
そして、翌週の木曜日。
「こんばんわ。マスター。ポニーくんはいるかしら」
八坂さんはいつもの左から二番目の席ではなく右側の三番目の席、つまり俺の正面に座った。
「こんばんわ」
グラスを磨く手を休め、挨拶をする。バーカンに入っているのは、俺と黒猫、そしてマスターだが、実はこれにはちゃんと別に役割もある。まず、マスターはカウンター席の接客、黒猫は注文受けとドリンク出し、俺は洗い物とドリンク作成だ。だから、必然的にシンクのある入口から向かって右側の席の近くにいることが多い。
マスターが、意外そうな表情で聞いてくる。
「あれえ、まなみさん。いつの間にこいつと仲良くなったんですか?」
「俺が那木澤晴のファンで」
「ええ、それでこの前の小説どう思う? 私と那木澤にとっては結構挑戦でもあったのよね」
確かに、現代ものを得意とする那木澤晴の作品としては亜種に入る出来上がりであった。
「ええ、驚きました。今までのシリーズとは無関係ですが、あれはあれで亜種として受け入れられるレベルの出来でしたよ」
「本当? ああ、でもあそこはまよったのよ――」
普段職場で無駄口を叩かない俺が饒舌に話す姿は珍しいらしく、マスターの近くに座っていたカウンター席の客らが物珍しそうにこちらを見ている。八坂さんと俺はそうしてしばらく新作について話していた。
「あの、それって那木澤晴の新作ですよね?」
そう言って途中で入ってきたのは、常連客の女の子だ。いつも友達と一緒に隅の方で楽しそうにカクテルを飲んでいるのだが、よほど那木澤晴が好きなのか、会話に混ざりたそうにしている。八坂さんは、隣の席に促した。
「私は、ちょっと意外でした。那木澤晴と言えば、恋愛ものって感じで」
それは、後期の作品を中心に有名になっているからだろう。そう言いたくなるところをグッとこらえる。ここであまりに詳しすぎる知識を披露したら引かれてしまうかもしれない。あくまでアルバイト中であるので、接客に準ずることにした。
八坂さんは、数杯ソルティドッグを嗜むと明日が早いからと言い帰ってしまった。カウンターに残されたおは俺とその女の子だけだ。正直、あまり話も合わないその客の接客は苦しいものがあったが、当の本人は八坂さんに合わせて飲んでいたので酔いがさめず饒舌に語りまくる。俺がドリンク作成で離れると、文句を言ってくる。これはまずい、あまりよくない酔い方だ。
「ちょっとー。まだ私話してるんですよー?」
「すいません、カンパリソーダ入っちゃったんで」
なかなか逃れられそうにない。このやりとりももう、五回目に差し掛かった時だった。常連客の女の子が、突然に泣き始めたのだ。
「どぉして、構ってくれないんですかあー!」
「ええ!?」
俺の袖を掴んで離さない。これは面倒なことになってしまった。マスターをチラ見やると、ほかの客と話し込んでいて気づかない。閉店間近、ドアが空く。こんな時間に新しい客かと思えば、八坂さんだった。忘れ物ー、と言いながらこちらにくる。ああ、八坂さん助けてください。そう思った瞬間だった。
「私は、ポニーくんのことがずっと好きだったんですよぅ」
「……うん。ん?」
突然の告白。俺は驚いた、同時に何故か八坂さんの方を見てしまう。その顔が、あまりに寂しそうで。俺は何故かそれにドキリとしてしまった。
「あら、私邪魔しちゃった? ごめん、すぐ帰るわ!」
だけど、八坂さんはすぐに踵を返して店を出て行ってしまう。追いかけなくては。そう思うと同時に脚が動いた。マスターは未だに話し込んでいて、気づいていない。黒猫は驚いた顔をしている。だけど、気にならなかった。俺は店を飛び出した。
八坂さんの姿は見えない。もう、帰ってしまったのだろうか? 部下が車を出していたのかもしれなかった。辺りを見回して諦めようとしたその時、店のドアの横に蹲る影。この大きさとシルエットには見覚えがあった。
「八坂さん?」
俺の声にピク、と反応する。顔は上げない。もしかしたら泣いているのかもしれない。さっき出て行ってしまった時の表情が今にも泣き出しそうだったから。
取り敢えず寒いだろうと思い、来てきたカーディガンを着せ、自分も目線を合わせるために屈む。
「あの、店の裏口からバックヤードに入れるんです。ここは寒い。行きませんか?」
ズ、と鼻をすする音。やはり泣いていた。そのことには今は触れず、バックグラウンドへ促す。椅子に座るよう促し様子を見ていると、顔を赤くして目を背ける。自分からは何も語るつもりはないらしい。
「落ち着きましたか」
そう言う人に事情を無理やり聞き出すのはマナー違反だろう。取り敢えず、手元にあったインスタントコーヒーを淹れた。スマホに着信。マスターだ。
『ええ、すいません。今バックにいます。はい、いいんですか?』
今日は黒猫が店じまいを引き受けてくれるそうだ。おかげで、俺はそのまま上がれることになった。今度、何か奢ってやろう。一通りのやりとりが終わり、八坂さんに事情を説明した。
「すみません、マスターでした。俺、今日は上がって良いそうなので、途中まで送っていきますよ」
「何も、聞かないのね」
八坂さんは何も言ってくれないだろうと思っていた。大体にして、あのタイミングで泣くとすれば、その前に何かあったか、俺が無礼な行動に出てしまったかのどちらかだと思ったが、心当たりはないので前者だろう。互いの名前も最近知った仲だ、それをいけしゃあしゃあと聞けないと、そう思っていた。
「無理やり聞きたくありませんから」
「そうやって、中途半端に優しくされると辛いわ」
だけど、その気遣いは空振りだったみたいだ。
「どうして?」
「あなた、鈍いわ!」
今度は怒り出してしまった。涙目で怒られると、何でか申し訳ないというよりは、少し色っぽく感じてしまう自分が情けない。
「えと、俺何かしましたか?」
「さっきの子」
ぐす、とまた鼻を啜りながら、目線をそらされる。俺はああ、と思い出した。
「何か、俺のこと好きみたいで」
思い出して照れる。さっきは驚いてしまったけど、やはり告白されるというのは嬉しい。だけど、それと付き合うかどうかは別物だ。
「付き合うの?」
「だったら俺こっちに来てませんよ」
どうしてか、八坂さんが気になってしょうがなかった。と、考えて自覚してしまう。俺はやはり、この女が好きなのだ。憧れどころじゃない、こうやって目の前で泣かれたら放っておけない程度には、好きなのだ。そう思ったら、自然と口にしていた。
「俺、八坂さんのこと好きですから」
「ちょっと、急に何言ってるの……」
顔を背けられてしまった。やはり、このタイミングでいきなりの告白はまずかっただろうか。だけど、どうしても言いたくなってしまったので仕方がないだろう。よくよく見てみると、八坂さんの少し尖った耳はほんのり赤く色づいていた。
「すみません、こんなときに。空気読めってやつですよね」
流れる微妙な空気をどう取り繕っていいのか分からず、頭を掻く。
「帰りましょう」
店を出る頃には、すっかり真夜中だ。これなら閉店作業をしてもあまり変わりはなかっただろう。
「今日も、タクシー使いますか」
返事はない。先刻から八坂さん考えていることがわからずに困っていた。
「月が綺麗ですね」
夏目漱石の名言にそんな言葉があったのを思い出す。想い人に気持ちを伝えるにはこれで充分だ、と。小説編集の八坂さんなら、わかるかもしれない。
「ええ、綺麗ね」
やはり、反応してくれた。ふと見やると、微笑んでいてその目と視線がぶつかってああ、もうこれだけで十分だと思えた。
「はじめね、あの店に入った時にまずあなたが目に入ったの。それで、可愛い子がいるのねって思って。私、これでも沢山恋愛をしてきたの。だけど、あなたは全く見向きもしてくれなくって。だから、マスターに絡むついでにあなたに話しかけて。だけど、それでも当たり障りのない返事しかくれなくってね」
八坂さんは唐突に語りだす。俺は、あの夜までこの女が苦手だった。それは、俺の憧れている人であるということを抜きにしても、こんなに綺麗な大人の女性が学生の自分を好きになってくれるはずもないと、そう言うひねくれた自信のなさから来るもので、八坂さんが食事に誘ってくれても、からかっていると思い込んでいたためだ。気を許すとうっかり、好きになってしまいそうで。
「すみません」
だけど、それを話すのは尺なので、言わない。それよりも驚いたのは、八坂さんが俺のことを気にかけてくれていたということだ。
「それで、まあぶっちゃけると、一目惚れよ。こんな歳にもなってね。そう、私ずっとあなたが好きだったの。だけど、私5つも年上でしょう。素直に気持ちが伝えられなくて」
俺たちは、どれだけ遠回りしてしまったのだろう。いや、そんなことはどうでもいい、問題はずいぶん前から俺たちは両思いだったということだ。
「何だか、私負けっぱなしね。あんな姿も見られて、泣いてるところまで見せちゃって」
「俺は嬉しですけどね」
「意地が悪いのね」
八坂さんが笑う。この人のいろんな表情が見たい。そう思った。
「今日、泊まっていきますか」
そんなことを言ってみる。どんな反応が返ってくるか、俺は楽しみで仕方がないのだった。
こんにちは。
最近アイディアがとまらない、紗英場渉と申します。
はじめまして、そして数日ぶりでございます。
あとがきを書いている現在でもタイトルが思い浮かばず困っています。だっっさいタイトルか何でこのタイトルにしたwwwwってなったるかもしれないです。
さて、今回は知っている方には懐かしの那木澤晴という小説家をちょっぴり登場させてみました。書きあがって気づいたのですが、那木澤ではなく那木沢だったきがします。まあいいや。
年上の女性を好きになる男性の気持ちがわからなくって難しかったです。だから、逆に年下の男性に好きになってもらうとしたらどんながいいかなーと思いながら書きましたが、結局一目惚れじゃねえか!と非一目惚れ恋愛推奨派の私としてはちょっぴり不満な仕上がりになりました。
でも、人間はじめは見た目から入るってことでいっかとも思っています。
さて、よかったらアドバイス、感想まっております。
読んでいただけるだけで嬉しいけれど、今回は自分でも不完全燃焼なので他人の力を借りて改善点を見つけたいので←
それでは!