暗号にした記録
小舟の櫂が水を打つ音は、港のざわめきに紛れてすぐに消えた。
リネアは裏口の敷居に立ち、赤い塗料の跡を目で追った。舟は倉庫の影を抜け、古い防波堤の向こうへ滑っていく。追えば追いつける距離ではない。灯台の脇に係留していた予備の小舟も、いつの間にか綱を切られていた。
「追跡は無理です」
階段の上からセドが言った。
「分かっています」
「なら、まず扉を閉めましょう。ここに残っているものまで持っていかれます」
リネアは返事をせず、管理室へ戻った。机の上には、散らされた紙片と、乾きかけた測量用の木札が残っている。棚から盗まれたのは、渦の位置を記した原本だけだった。観測に使った砂時計も、方位板も、木札の番号表も無事だ。
つまり、盗人は何を持ち去れば調査が止まるのかを知っていた。
「内部の者です」
セドが紙を拾いながら言った。
「灯台の鍵を扱える者は多くありません。けれど、鍵を使わずに入る方法を知っている者なら、もっと多い」
「あなたは、誰かを疑っていますか」
「疑うべき相手を絞るために、事実を集めています」
「言い方が監査官らしいですね」
「あなたは、疑われると怒るのですか」
「疑われるだけなら。観測を盗まれ、間違いを私の責任にされるのは困ります」
セドは返事をしなかった。彼の視線が、棚の脇に落ちた細い金属片へ向く。先端が赤く染まっていた。
「これは舟の釘でしょうか」
「違います。灯台の階段に使われている古い留め具です。赤い塗料は、南岸商会の倉庫扉に使われているものと同じかもしれません」
「確かめに行きましょう」
「今すぐ?」
「今すぐでなければ、明日には塗り替えられる」
リネアは盗まれた原本の代わりに、机の引き出しから薄い紙束を取り出した。セドが眉を上げる。
「それは?」
「あなたに見せていない記録です」
「見せていない?」
「全部を見せる必要はないと思っていました。原本を預ければ、あなたの上司や評議会の誰かに取り上げられるかもしれない」
リネアは紙束を開いた。そこには、潮の高さを数字ではなく、短い線と点の組み合わせで記した表が並んでいる。
「潮位、風向き、流れの変化を、別の記号で書いてあります。私にしか読めません」
「暗号ですか」
「盗まれても、すぐには役に立たないようにした記録です」
「では、原本は囮だったのですか」
「そうではありません。あれが盗まれるとは思っていなかった」
セドは紙束を見つめた。責めるような目ではなかった。ただ、何かを決める前の目だった。
「リネア。これから調査を続けるなら、互いに隠し事をしないでください」
灯台の窓から、夕暮れの海が見えた。赤い光が水面を長く染めている。
「あなたも?」
「私もです。父の記録について、まだ話していないことがあります」
「それは今、話せますか」
「南岸商会が港の航路改訂に関わっていたことを、私は王都で調べていました。こちらへ来る前から、商会の名を知っていた」
リネアは黙って彼を見た。
「なぜ黙っていたのです」
「あなたが、私の調査の道具にされると思わないようにしたかった」
「もう十分、道具にされかけています」
「だからこそ、これ以上は隠さない」
その言葉に、リネアは紙束を閉じた。
「分かりました。私も、あなたに見せていない記録をすべて出します。ただし、読む順番は私が決めます。記録には、観測した人間の癖まで残るので」
「癖まで?」
「風が強い日に、線が少し右へ傾く。眠い夜には点が大きくなる。そういうものです」
「あなたの暗号は、あなた自身の記憶でもあるのですね」
「だから盗まれたくないのです」
翌朝、リネアは港の職人たちを灯台へ呼んだ。船大工のヨルン、帆布職人のマレア、錨を作る鍛冶師のトーヴ。彼らは最初、測量図を見て難しい顔をしたが、リネアが渦の外縁を木片で示すと、すぐに船の動きと結びつけた。
「この流れなら、船底の形で受け方が変わる」
ヨルンが言った。
「貨物船は船尾が重い。だから最初に舵が流された」
マレアは昨日の風向きを聞き、帆の張り方を記録した。
セドは職人たちに、盗まれた原本のことを隠さなかった。代わりに、暗号化した記録の存在はリネアに任せた。
「港の人間に協力を求めるなら、何が起きているかを知らせるべきです」
セドが言うと、リネアはうなずいた。
「けれど、全員に同じ鍵を渡してはいけません」
そこで二人は、記録を三つに分けることにした。潮位はリネア、船の構造はヨルン、出航時刻はセドが管理する。三つがそろわなければ、航路の全体像は分からない。
午後、リネアは暗号表の一部を新しい紙へ写した。記号の列を、セドが横からのぞき込む。
「この二重の点は、潮が変わる合図ですか」
「違います。誰かに見られた印」
「では、昨日の記録にも?」
リネアの指が止まった。
暗号表をめくる。昨夜、盗難の直前に書き足した欄に、二重の点があった。彼女はそれを、紙が濡れた跡だと思っていた。
「……見られていた」
さらに一枚めくる。三日前の記録にも、港祭りの準備船を測った記録にも、同じ印がある。
セドの表情が硬くなった。
「暗号の一部を、誰かが解いています」
「全部ではない。潮位の記号だけです」
「なぜ分かりますか」
「この印のある箇所だけ、書き写し方が変です。私の記号を真似ようとしている。でも、風向きの符号までは読めていない」
リネアは紙束を胸に抱えた。敵は原本を盗んだだけではない。二人がどこまで調査を進めたか、灯台の中から見張っていたのだ。
「次は、わざと間違った記録を混ぜます」
「囮を作るのですか」
「ええ。誰が、どこまで読めるのか確かめます」
セドは少し笑った。
「あなたは、盗まれたあとでも観測を続けるのですね」
「盗まれたから続けるのです。私の記録を使う人間に、海の危険を決めさせないために」
その夜、二人は灯台の管理室で向かい合い、別々の鍵を持つ暗号表を作った。窓の外では、岬の灯りが規則正しく海を撫でている。
「リネア」
「何ですか」
「約束を、もう一つしてもいいですか」
「内容によります」
「危険を感じたら、一人で動かないこと」
彼女はすぐには答えなかった。
「あなたも同じなら」
「もちろんです」
「では、約束します」
セドが手を差し出す。握手のためだと分かっているのに、リネアは一瞬ためらった。それから、その手を取った。
固く、温かい手だった。
その晩、灯台の階下で誰かが足音を立てた。二人は同時に顔を上げたが、もう互いに疑う必要はなかった。暗号の紙を隠し、灯りを消す。
扉の隙間から、細い影が伸びた。
そして、鍵穴に何かが差し込まれた。




