第七章 静かな住宅街
しばらく経ってもスマホを握る手が震えていた。
恒一は車の陰にしゃがみ込んだまま、何度か深呼吸を試みた。
だが上手くいかない。
肺が浅く動くだけだった。
心臓はまだ暴れている。
耳の奥で脈の音が響く。
ドッドッドッドッドッ。
うるさい。
自分の鼓動がうるさかった。
怪物に聞こえるんじゃないかと思うほどに。
ようやく周囲を見回す。
古い二階建てアパート。
色褪せた外壁。
ひび割れた駐車場の白線。
植え込みのツツジ。
郵便受け。
自転車置き場。
どこにでもある住宅街の風景だった。
つい数時間前まで。
平和だった世界。
住民が買い物へ出かけ。
老人が散歩に出かける。
だが今は違う。
誰もいない。
静かだった。
異様なほどに。
静かだった。
遠くから聞こえるサイレンだけが、この世界にまだ人間社会が残っていることを教えていた。
恒一はスマホを見た。
画面には通知が並んでいる。
ほとんどが家族だった。
美沙。
結菜。
美沙。
結菜。
美沙。
胸が締め付けられる。
震える指で開く。
『大丈夫!?』
『返事して!』
『お願い!』
その下。
『パパ』
『どこにいるの?』
『怖いよ』
結菜からだった。
たったそれだけ。
それだけなのに。
目頭が熱くなる。
泣きそうになる。
だが泣いている場合ではない。
返信を打つ。
『生きてる』
『今知立』
『帰るから待ってて』
送信。
数秒。
反応がない。
圏外。
送信中。
失敗。
再送信。
失敗。
再送信。
ようやく送れた。
届いたかは分からない。
それでも少しだけ安心した。
生きていると伝えられた。
たぶん。
きっと。
そう思いたかった。
その時。
遠くからガシャンと音が聞こえた。
恒一の身体が跳ねる。
反射的に車へ身を寄せる。
息を止める。
音の方向を見る。
住宅街の端で交差する道の更に向こう。
百メートルほど先。
コンビニだった。
駐車場に車が数台残っている。
入口付近で何かが動いた。
人間ではない。
小さい。
一メートルほど。
緑色の皮膚。
異様に細い身体。
長い腕。
ゴブリンだった。
「……っ」
声にならない。
一体ではない。
二体。
三体。
四体。
さらに奥からもう二体。
群れだった。
ゴブリンたちはコンビニのガラスを叩いている。
店内を覗いている。
自動ドアは半分壊れていた。
そして一体が中へ入った。
少し遅れて。
悲鳴が聞こえた。
人間の声。
生存者だ。
隠れていたのだろう。
恒一の全身から血の気が引いた。
次の瞬間。
複数の甲高い鳴き声。
ゴブリンたちが一斉に店内へ殺到した。
悲鳴が大きくなる。
何かが倒れる音。
棚が崩れる音。
そして。
数秒後。
静かになった。
恒一は目を閉じた。
助けられない。
行っても死ぬ。
分かっている。
だが胸が痛かった。
自分が見捨てたわけではない。
それでも。
何もできないことが苦しかった。
数分後。
ゴブリンたちは店から出てきた。
何かを抱えている。
食品。
飲み物。
菓子。
そして。
人間のリュック。
理解できない光景だった。
捕食者というより。
略奪者に近い。
まるで猿だった。
いや。
もっと嫌な何かだった。
人間を襲い、人間の真似をしている。
その不気味さに鳥肌が立つ。
ゴブリンたちはやがてコンビニよりも更に奥の住宅街へ消えた。
恒一はようやく息を吐いた。
ここも安全じゃない。
どこも安全じゃない。
知立市全体に怪物が散らばり始めている。
そう考えた瞬間。
焦りが込み上げる。
このまま留まるのも危険だ。
だが移動も危険。
どうする。
どうする。
頭を回せ。
考えろ。
パニックになるな。
恒一はスマホの地図を開いた。
幸いGPSは動いていた。
現在地。
知立駅から少し離れた住宅街。
そして港区。
遠い。
改めて見ると絶望的だった。
車なら一時間もかからない。
だが徒歩では違う。
二十数キロ。
しかも安全な道などない。
大通りは危険だ。
ワイバーンに見つかる。
人も集まる。
怪物も集まる。
なら住宅街を縫うしかない。
遠回りでも。
見つからないことを優先する。
その時だった。
空から影が横切った。
恒一は反射的に伏せた。
車の下へ身体を少しでも押し込む。
数秒後。
巨大な翼の音が聞こえた。
ドォォォッ。
低空飛行。
近い。
かなり近い。
空を見る。
ワイバーンだった。
一体。
住宅街の上を旋回している。
獲物を探している。
首が動く。
左右へ。
ゆっくり。
観察するように。
恒一は息を止めた。
頼む。
見つけるな。
頼む。
こっちを見るな。
ワイバーンはしばらく旋回したあと、南の方角へ飛んでいった。
恒一はすぐには動かなかった。
映画ならここで走り出す。
だが現実は違う。
まだ近くにいるかもしれない。
戻ってくるかもしれない。
十分ほど待った。
長かった。
永遠のようだった。
ようやく身体を起こす。
膝が震えている。
立ち上がるだけで疲れる。
だが進まなければならない。
このまま進まなければ夜になる。
夜になればもっと危険だ。
そのことだけは分かる。
恒一はアパートの裏手へ回った。
建物の陰を選ぶ。
道路の真ん中は歩かない。
交差点ではまず覗く。
安全を確認してから渡る。
まるで泥棒だった。
いや。
獲物だった。
捕食者から逃げる小動物。
それが今の自分だ。
住宅街を抜けた先。
小さな公園が見えた。
ブランコ。
滑り台。
砂場。
どれも見慣れた風景。
だが。
砂場の脇に何かがいた。
恒一は咄嗟に電柱の陰へ隠れる。
それは鳥だった。
いや。
鳥ではない。
大きい。
二メートル近い。
全身を羽毛に覆われている。
後ろ脚が異様に発達している。
長い尾。
鋭い爪。
そして。
人間のように周囲を見回していた。
恐竜映画で見たことがある。
それはヴェロキラプトルだった。
一体。
いや。
違う。
植え込みの向こうにもいる。
二体。
三体。
群れだ。
恒一の背筋が凍る。
ワイバーンより怖かった。
空から見つかるかもしれない恐怖ではない。
今この距離で見つかったら終わる。
確実に。
ラプトルたちは何かを探していた。
鼻先を地面へ近づける。
匂いを嗅ぐ。
耳が動く。
人間を探している。
そうとしか思えなかった。
恒一は身動き一つできなかった。
汗が頬を伝う。
風が吹く。
植え込みが揺れる。
ラプトルの一体が顔を上げた。
こちらを見る。
恒一の心臓が止まりそうになる。
見つかった。
そう思った。
だが。
ラプトルは数秒後に別方向へ向いた。
遠くから聞こえたサイレンに反応したのかもしれない。
やがて群れは公園を横切り、住宅街の奥へ消えていった。
恒一はしばらく動けなかった。
全身の力が抜ける。
今ので分かった。
知立市はもう人間の街じゃない。
怪物たちが徘徊している。
見つかったら終わり。
本当に。
終わりだ。
恒一は震える足を無理やり動かした。
港区はまだ遠い。
だが進むしかない。
家族が待っている。
その事実だけが、今の彼を動かしていた。




