第十章 空の支配者たち
ホームセンターの自動ドアが閉まる音が背後で響いた。
恒一は振り返らなかった。
振り返ったら迷う気がした。
残った方が正しいんじゃないか。
そんな考えが浮かぶ気がした。
だから見なかった。
自転車を押しながら駐車場を進む。
佐伯も隣を歩いている。
二人とも何も喋らない。
駐車場には放置車両が並んでいた。
買い物途中だったのだろう。
スライドドアが開いたままのミニバン。
ハザードを点滅させたままの軽自動車。
買い物カゴが転がっている。
ほんの数時間前までは普通の休日だった。
それが信じられなかった。
空を見上げる。
青空。
白い雲。
そして遠く。
かすかに見える黒い影。
ワイバーンかもしれない。
距離がありすぎて分からない。
だが見えた瞬間に心臓が跳ねた。
もう鳥と怪物の区別を考える余裕すらない。
空に何か飛んでいたら怖い。
それだけだった。
駐車場の端まで来たところで二人は自転車に跨った。
恒一はクロスバイク。
佐伯はマウンテンバイク。
どちらも売り物だった。
本来なら金を払うべきだろう。
だが今はそんな状況ではない。
店長も何も言わなかった。
むしろ。
『使えるものは使ってください』
そう言っていた。
それが今の世界だった。
ペダルを踏む。
思ったより軽い。
足が前へ進む。
徒歩とは比べ物にならなかった。
風が顔に当たる。
少しだけ希望が見えた。
名古屋まで。
港区まで。
まだ遠い。
それでも歩くよりは現実的だった。
少なくとも絶望だけではなくなった。
だが。
自転車には別の問題があった。
目立つ。
とにかく目立つ。
徒歩より速い。
だからこそ動きが大きい。
開けた道路を走れば空から見つけられる。
ワイバーンが動くものを優先して襲うことは、知立駅で嫌というほど見た。
恒一は自然と速度を落とした。
住宅街沿いの細い道を選ぶ。
建物の影を辿るように。
見通しの良い道路は避ける。
交差点へ出る前には必ず止まる。
空を確認する。
耳を澄ます。
それを何度も繰り返した。
進む速度は決して速くない。
だが生きている。
それだけで十分だった。
十分なはずだった。
不意に。
佐伯が急停止した。
「止まってください」
声が低い。
恒一も慌ててブレーキを握る。
「どうしました」
佐伯は空を見ていた。
その顔が青ざめている。
恒一も反射的に見上げる。
最初は分からなかった。
遠い。
だが。
何かいる。
かなり高空。
黒い点が複数。
円を描くように飛んでいる。
「ワイバーン……?」
「たぶん」
数が多い。
三体。
いや。
五体。
もっといるかもしれない。
恒一は周囲を見回した。
すぐ近くに古い自動車整備工場があった。
シャッターは閉まっている。
しかし、シャッターの上に屋根が突き出している。
「隠れましょう」
二人は自転車を押し、急いで建物の陰へ移動した。
息を潜める。
心臓の音がうるさい。
汗が流れる。
空から見つかっていないことを祈るしかなかった。
数十秒。
いや。
数分だったかもしれない。
その時だった。
空の向こうを銀色の光が横切った。
速すぎた。
一瞬だった。
鳥ではない。
ワイバーンでもない。
何かが空を切り裂くように飛んでいく。
恒一が目で追った直後。
数秒遅れて。
ゴォォォォォォォォォッ!!
爆音が届いた。
空気が震える。
胸の奥まで響くような重低音だった。
恒一は思わず肩を跳ねさせた。
佐伯が空を見上げたまま呟く。
「戦闘機だ……」
今度は二機。
さらにもう二機。
合計五機。
銀色の機影が高空を駆け抜ける。
恒一は呆然と見上げた。
自衛隊だった。
怪物が現れてから初めて見た。
人間側の反撃だった。
戦闘機はワイバーンの群れへ向かっていた。
真っ直ぐ。
迷いなく。
ワイバーン達も気付いたらしい。
群れが散開する。
空中で旋回する。
獲物を探していた時とは明らかに動きが違う。
そして。
白い線が走った。
ミサイルだった。
直後。
空で火球が膨らむ。
爆発。
ワイバーン一体が炎に包まれた。
翼が吹き飛ぶ。
巨体が回転しながら落下していく。
「倒した……」
恒一は思わず声を漏らした。
倒せる。
怪物は無敵じゃない。
その事実だけで胸が熱くなった。
だが。
次の瞬間。
別のワイバーンが急上昇した。
まるでミサイルを避ける戦闘機みたいに。
恒一は息を呑む。
おかしい。
生き物の動きじゃない。
巨大な身体なのに。
空中で信じられない機動をしている。
戦闘機が追う。
ワイバーンが逃げる。
だが。
逃げているように見えて違った。
急上昇。
急降下。
急旋回。
まるで空中そのものを蹴っているようだった。
翼で飛んでいるというより。
空を泳いでいる。
そんな動きだった。
戦闘機が背後を取る。
再びミサイル。
発射。
ワイバーンが急降下する。
避けた。
そう思った。
だが。
直後に別方向から飛来した二発目が命中した。
爆発。
ワイバーンの胸部が吹き飛ぶ。
黒い破片が空中へ散った。
落ちていく。
人類は戦えていた。
少なくとも。
一方的に狩られているわけではない。
その光景だけで少し救われる気がした。
しかし。
空はまだ怪物のものだった。
残ったワイバーン達が一斉に散開する。
三体。
四体。
いや。
もっといる。
それぞれ別方向へ飛び始める。
戦闘機も追う。
空のあちこちへ戦場が広がった。
遠くで爆発。
別の方向でも爆発。
音は遅れて届く。
ゴォン。
ドンッ。
腹に響く低音。
雷とは違う。
もっと重い。
空気そのものが震えていた。
その時だった。
一機の戦闘機が低空へ降りる。
ワイバーンを追っている。
かなり近い。
恒一にも機体の輪郭が見えるほどだった。
速い。
あまりにも速い。
だが。
追われているワイバーンも異常だった。
急降下。
そして。
急停止。
「は?」
恒一は思わず声を漏らした。
あり得ない。
巨大な身体だ。
慣性はどうした。
そう思う間もなく。
ワイバーンはその場で方向転換した。
戦闘機が追い越す。
その一瞬。
ワイバーンが飛びかかった。
牙。
爪。
衝撃。
戦闘機の翼から何かが飛び散る。
「まずい……」
佐伯が呟く。
黒煙。
機体が傾く。
持ち直そうとしているのが分かった。
だが無理だった。
戦闘機は回転しながら降下する。
遠く。
住宅街の向こう。
見えない場所へ落ちていく。
数秒後。
爆発音。
遅れて黒煙が立ち上った。
恒一は何も言えなかった。
怪物は倒せる。
だが。
簡単じゃない。
それが分かってしまった。
さらに戦闘は続く。
遠くの空。
さらに遠くの空。
戦場は移動していた。
ワイバーン達が広範囲へ散ったのだ。
戦闘機も追う。
爆発が少しずつ遠ざかっていく。
どちらが優勢なのか分からない。
恒一には判断できなかった。
ただ。
安心できる状況ではない。
それだけは分かった。
一瞬だけ。
助かるかもしれないと思った。
自衛隊が来た。
戦闘機が飛んでいる。
なら何とかなるんじゃないか。
そんな考えが頭をよぎった。
だが甘かった。
戦闘機ですら落ちる。
怪物も倒せる。
しかし簡単には終わらない。
誰かが何とかしてくれる。
そんな段階ではなかった。
結局。
自分は帰るしかない。
家族の元へ。
それしかない。
その時。
佐伯が小さく言った。
「神谷さん」
「はい」
「見てても家には着きません」
恒一は頷いた。
その通りだった。
空を見上げても。
戦闘機を応援しても。
港区は近付かない。
結菜も。
晴翔も。
美沙も。
待っている。
たぶん今も。
不安なまま。
恒一は深呼吸した。
そして空から目を離す。
戦闘はまだ続いている。
だが遠い。
今のところ。
こちらへ向かってくる様子はない。
なら。
進むしかない。
「行きましょう」
佐伯が頷く。
二人は再び自転車に跨った。
ペダルを踏む。
住宅街の細い道へ入る。
建物の影を辿りながら。
空ではまだ戦闘が続いていた。
遠くで火球が上がる。
黒煙が流れる。
だが恒一はもう見なかった。
今見るべきなのは空ではない。
曲がり角。
駐車場。
空き地。
建物の隙間。
地上だ。
そこに潜む怪物こそが。
今の自分を殺す存在なのだから。




