第一章 いつもの朝
人は、自分の人生が変わる瞬間を知らない。
それはドラマのように劇的な音楽と共に訪れるわけでもなければ、映画のような予告があるわけでもない。
朝、目を覚ます。
家族と朝食を食べる。
仕事へ向かう。
学校へ行く。
友人と連絡を取る。
そんな、いつもと変わらない一日の中に紛れ込んでいる。
だから人は気付かない。
その日が人生最後の平穏な日になるかもしれないことを。
愛知県岡崎市の山中にある国立研究施設。
そこで発生した一つの事故が、日本を変えた。
最初は誰も信じなかった。
SNSに投稿された映像はCGだと思われた。
政府の緊急会見は大げさだと笑われた。
テレビの速報を見ながら、ほとんどの人がこう考えていた。
――自分には関係ない。
だが数時間後。
その認識は血と悲鳴によって塗り替えられる。
空想の中にしか存在しないはずだった生物たち。
神話。
伝説。
おとぎ話。
ゲームや小説で見慣れた怪物たち。
それらが現実となって現れた時、人間はどう行動するのか。
逃げるのか。
戦うのか。
家族を守るのか。
それとも、自分だけ生き残ろうとするのか。
これは英雄の物語ではない。
世界を救う勇者の物語でもない。
特別な力を持つ人間の物語でもない。
主人公はどこにでもいる三十六歳の会社員だ。
朝は家族と食卓を囲み、満員電車に揺られ、仕事の愚痴をこぼしながら生きている。
そんな普通の父親が、ある日突然、崩壊した世界の中へ放り込まれる。
彼の願いはただ一つ。
生きて家に帰ること。
それだけだった。
だが、その「当たり前」が、この日から何よりも困難な願いになる。
これは異世界が現れた物語ではない。
異世界という災害が、日本に発生した日の記録である。
そしてこれは――
父親が家族の待つ家へ帰るための物語だ。
目が覚めた時、天井はまだ薄暗かった。
神谷恒一はしばらく動かなかった。
枕元のスマートフォンには午前五時四十八分と表示されている。
目覚ましが鳴るまであと十二分。
本来なら二度寝できる時間だ。
だが一度目が覚めてしまうと、もう眠れない。
最近ずっとそうだった。
疲れているのに眠りが浅い。
歳なのかもしれない。
あるいは仕事のせいか。
天井を見上げたまま息を吐く。
今日は木曜日。
あと二日働けば休みだ。
そう考えてみるが、特に気分は軽くならなかった。
結局、金曜になれば「あと一日」、日曜になれば「明日から仕事か」と考える。
社会人になって十五年以上。
そんな繰り返しだった。
隣では妻の美沙がまだ眠っている。
静かな寝息。
その向こうの壁には、結婚式の写真が飾られている。
十年以上前。
二人とも今よりずっと若い。
恒一は少しだけ苦笑した。
あの頃は三十代なんて遠い未来だと思っていた。
実際になってみると、あっという間だった。
身体を起こす。
肩が重い。
昨日の残業が残っている。
首を回すと小さく音が鳴った。
「いてぇ……」
独り言が漏れる。
寝室のドアを開ける。
リビングから明かりが漏れていた。
もう起きているらしい。
キッチンへ向かう。
案の定、美沙が弁当を作っていた。
「おはよう」
「あ、おはよう。今日は早いね」
「目が覚めた」
「疲れてるんじゃない?」
「かもな」
冷蔵庫から麦茶を取り出す。
コップに注いで一気に飲む。
冷たさが胃に落ちた。
少しだけ頭が働き始める。
テレビでは朝の情報番組が流れていた。
天気予報。
芸能ニュース。
値上げの話。
どれも最近よく見る内容ばかりだった。
「今日も遅い?」
美沙が聞く。
「たぶん」
「最近ずっとだね」
「悪い」
「別に責めてないよ」
そう言いながら卵焼きを弁当箱へ詰めている。
本当に責めているわけではないのだろう。
だが申し訳なさは残る。
平日の子供たちの面倒はほとんど美沙任せだ。
分かっている。
けれど現実にはどうにもならない。
仕事を辞めるわけにもいかない。
給料が高いわけではないが、住宅ローンもある。
子供たちの将来だってある。
考えれば考えるほど、働くしかないという結論になる。
そこへ結菜がやってきた。
寝癖だらけだった。
「おはよー」
「おはよう」
小学四年生。
最近は少し大人びてきた。
その一方で、まだまだ子供だと思う瞬間も多い。
「今日さー」
トーストを齧りながら言う。
「社会見学なんだよ」
「ああ、水族館だっけ」
「うん」
「いいな」
「でもレポートある」
「それが勉強だろ」
「めんどくさい」
恒一は笑った。
そこへ息子の晴翔も現れる。
五歳。
まだ半分寝ている。
いや、半分どころではない。
八割くらい寝ている。
「おはよう」
「……ん」
返事とも呼べない声。
椅子に座った瞬間に船を漕ぎ始めた。
「晴翔、起きて」
「おきてる……」
「寝てるじゃん」
「おきてる……」
そのまま再び首が下がる。
結菜が吹き出した。
美沙も笑う。
恒一も笑った。
ごく普通の朝だった。
何の変哲もない。
日本中どこにでもありそうな家族の朝。
その何気ない光景を、恒一は後になって何度も思い出すことになる。
あの日の朝。
世界が変わる前の最後の朝を。
◇◇◇
午前七時十五分。
恒一はマンションを出た。
自転車へ跨る。
曇り空だった。
湿った風が吹いている。
梅雨が近い。
そんな空気だった。
港区の住宅街を抜ける。
見慣れた道。
コンビニ。
クリーニング店。
交差点。
信号待ちの車列。
何も変わらない。
いつも通りだ。
だが。
少しだけ違和感があった。
カラスがやたらと鳴いている。
電線に群れが集まっていた。
何十羽も。
騒がしい。
「なんだ……?」
思わず空を見る。
しかし理由は分からない。
そのまま駅へ向かう。
途中で耳が詰まったような感覚がした。
飛行機に乗った時のような。
気圧が変化した時のような。
耳鳴り。
数秒で治まる。
「疲れてんのかな」
独り言を呟く。
その時点では、本当にそう思っていた。
◇◇◇
あおなみ線のホーム。
朝の通勤客で混雑している。
学生。
会社員。
作業着姿の人。
みんなスマホを見ている。
恒一もポケットから取り出した。
通知が異様に多い。
Xのトレンドが荒れていた。
【岡崎研究施設消失】
【巨大な穴】
【政府緊急会見】
【CGじゃないのか】
「なんだこれ」
思わず呟く。
電車を待ちながら開いてみる。
動画が流れた。
撮影者は車の中にいるらしい。
映像が激しく揺れている。
誰かが息を切らしている。
『やばい、やばいって……』
男性の声。
その先。
山の中の研究施設。
そして。
恒一は眉をひそめた。
「……は?」
研究施設が消えていた。
正確には半分だった。
施設中央部が丸ごと存在していない。
爆発ではない。
火災でもない。
崩落とも違う。
巨大なスプーンで世界を抉り取ったように見えた。
そして。
そこに見えている景色が異常だった。
穴の向こう。
研究施設の続きではない。
森だった。
見たこともないほど巨大な木々。
赤みがかった空。
異様な植物。
そして。
遠くを何かが飛んでいる。
鳥……ではない。
翼を持つ何か。
動画はそこで終わった。
コメント欄が高速で流れている。
『AI動画』
『CGだろ』
『いやニュースでもやってる』
『自衛隊出てる』
『岡崎市民だけどヘリ飛びまくってる』
『マジで何が起きてる?』
恒一は数秒見つめた。
気味は悪い。
だが現実感がない。
映画の予告みたいだった。
最近は生成AIもある。
映像なんて簡単に作れる時代だ。
「まあ、どうせ何かの誤報だろ」
スマホをしまう。
電車がホームへ入ってきた。
周囲を見ると、他の乗客たちも似たような反応だった。
「CGだよな」
「だろうね」
「でも政府会見って書いてあるぞ」
「なんかの事故じゃね?」
その程度。
誰も慌てていない。
誰も避難しようとしていない。
誰も世界が変わるとは思っていない。
それが普通だった。
人間は理解できないものを、すぐには危険だと認識できない。
特に日常の真ん中にいる時は。
電車が動き出す。
恒一は窓の外を眺めた。
曇り空。
工場地帯。
流れていく街並み。
どこまでも普通だった。
だから。
この数時間後に、自分が血だらけになりながら知立の街を逃げ回ることになるとは。
家へ帰るだけのことが、生死を賭けた戦いになるとは。
夢にも思っていなかった。




