第5話「飢餓の軍勢と黒き刃」
吹き抜ける風が、黄金色に波打つ麦の穂を優しく揺らす。
アルトは畑の土に深く指を差し込み、地中を巡る水脈の温度を確かめる。
冷たすぎず、熱すぎない、生命を育むのに最適な温もりが指先から伝わってくる。
豊かな土の匂いが鼻腔を満たす。
村人たちの穏やかな笑い声が遠くから風に乗って届く。
平和な昼下がりだ。
だが、アルトの指先に触れていた土の粒子が、不意に小刻みな震えを始める。
『なんだ。このひどく冷たい波長は』
アルトは立ち上がり、北の荒野へと続く地平線に視線を向ける。
空は青く晴れ渡っているのに、そこから吹き下ろす風には冬の夜のような鋭い冷気が混じっている。
足の裏から伝わる大地の震えは、獣の群れが起こすような乱雑なものではない。
一定のリズムを保ち、重く、そしてどこか悲痛な響きを伴って近づいてくる。
「アルト。北の街道から、何かが来るわ」
背後から近づいてきたセリアが、目を細めて地平線の彼方を指差す。
彼女の青い瞳はすでに異変を捉え、その声にはわずかな緊張が混じっている。
アルトは無言で頷く。
地平線の向こうから、土煙とともに黒い影の集団が姿を現す。
太陽の光を吸い込むような漆黒の鎧をまとった、異形の兵士たちだ。
彼らの頭部には山羊のように曲がりくねった太い角が生え、灰色の肌が兜の隙間から覗いている。
人間の国とは異なる、魔界と呼ばれる荒れ地からやってきた魔族の軍勢だ。
金属がすれ違う鈍い音と、乾いた土を踏みしめる重い足音が村の入り口に迫る。
彼らの隊列は乱れがないものの、その足取りはどこか重く、引きずるようにも見える。
先頭を歩くのは、他の兵士よりも一回り以上大きな体躯を持つ男だ。
男の漆黒の鎧はあちこちがひび割れ、深い傷跡が無数に刻まれている。
彼が立ち止まると、背後の軍勢も一糸乱れぬ動きでピタリと足を止める。
男は兜を脱ぎ、白髪交じりの短い髪と、鋭い黄金色の双眸をあらわにする。
彼の額から伸びる一本の太い角には、戦いで欠けたような生々しい断面がある。
「我は魔王軍第三軍団長、ゼクス。この地に満ちる豊かな生命の匂いを辿り、ここまで来た」
ゼクスの声は低く、地を這うように響く。
だが、その声の端には、隠しきれないかすれがあった。
アルトはゼクスの全身を静かに観察する。
彼の剣だこが分厚く刻まれた手は、柄を握りしめながらもわずかに震えている。
兜を脱いだ顔の頬は深くこけ、唇は水分を失ってひび割れている。
背後に控える兵士たちの様子も同じだ。
彼らの目は血走り、真っ直ぐに立つことすらつらそうに膝を小さく揺らしている者もいる。
彼らが放つのは、戦意や殺意というよりも、飢えと渇きからくる切実な執念だ。
大地の奥底から伝わってくる彼らの足音の響きが悲痛だった理由を、アルトは理解する。
彼らは略奪を楽しむために来たのではない。
ただ生き延びるため、食べるものを求めて限界の状態でここまで歩き続けてきたのだ。
「その背後にある作物を、すべて我らに引き渡してもらおう。抵抗するなら、力ずくで奪うまでだ」
ゼクスが背中の大剣に手を伸ばす。
刃が鞘から滑り出る乾いた音が、静まり返った空気を引き裂く。
魔族の兵士たちも一斉に武器を構え、その切っ先をアルトたちに向ける。
村人たちの間から恐怖の悲鳴が上がり、彼らは身を寄せ合って後退する。
セリアが一歩前に出ようとするのを、アルトは手で制する。
「待ってくれ。戦う必要はない」
アルトは武器を持たない両手を軽く上げ、ゆっくりとゼクスに近づく。
「なんだと。貴様ら人間が、我ら魔族に慈悲をかけるとでも言うのか」
ゼクスの黄金色の瞳が鋭く細められ、大剣の切っ先がアルトの喉元に向けられる。
刃から放たれる冷たい冷気が、アルトの肌を粟立たせる。
しかし、アルトの足取りに迷いはない。
彼は剣の届く距離まで歩み寄り、ゼクスの目を真っ直ぐに見つめ返す。
「あんたたちは、ひどく腹を空かせている。その震える手で剣を振るえば、命を落とすのはあんたたちのほうだ」
アルトの言葉に、ゼクスの顔がわずかに歪む。
図星を突かれた怒りと、部下たちを思いやる苦悩が入り交じった表情だ。
「魔界の土は枯れ果てている。我らの同胞は、泥を啜り、枯れ木をかじって飢えを凌いでいるのだ。この作物を持ち帰らねば、我らの未来はない」
ゼクスの握る大剣の柄から、彼の手のひらを通して赤い血が滲み出ている。
力任せに握りしめすぎた傷が開いたのだ。
彼の吐く息は熱く、焦燥に満ちている。
アルトは足元の大地に意識を向ける。
地中深くの根のネットワークを通じて、村の作物を守るための巨大な壁を作り出すことは容易い。
だが、それをしてしまえば、目の前で飢えに苦しむ彼らを土の塊の下に沈めることになる。
アルトは静かに息を吐き出し、視線をゼクスから外して北の空を仰ぐ。
冷たく乾いた風が、彼の髪を揺らす。
彼に必要なのは、目の前の敵を排除する力ではない。
大地の恵みを、最も必要としている者たちに届ける方法だ。
アルトはゆっくりと身をかがめ、足元の黒く湿った土を一掴みすくい上げる。
土の冷たさと温かさが、彼の手のひらで交差する。
『俺の土への声は、魔界の荒れ地にも届くのだろうか』
アルトは土を握りしめ、目を閉じる。
彼の鼓動が、大地のリズムと深く同調していく。




