第9話 破られたページ
翌朝の光は、少しだけやわらかかった。
厚めのカーテンの隙間から、細い帯のようになって差し込んで。
枕もとに落ちた光が、昨日閉じたはずの日記の表紙を、やさしく撫でている。
目を覚ました私は、ぼんやりと天蓋のレースを見上げた。
布の透けた模様が揺れる。
遠くで、塔の鐘が一度鳴る。
次の瞬間、寝台の横から、落ち着いた声がした。
「おはよう、フィオナ。気分はどうだ」
声の主を見なくても、誰かは分かる。
けれど、胸の奥に、少しだけ不安が走った。
私はゆっくり顔を向ける。
椅子に腰掛けていたレオンさまが、いつものように、少し疲れた目でこちらを見ていた。
「……おはようございます」
自分の声が、目覚めたばかりの部屋に広がる。
「頭痛は」
「少し重たいですけれど、大丈夫です」
「そうか」
彼は、いつもより少しだけ柔らかい表情を見せた。
そして、枕もとの日記を手に取る。
「今日も、これから始めよう」
革表紙をなでる指先が、とても大事なものを扱う手つきで。
私は上半身をゆっくりと起こし、枕に寄りかかった。
日記を受け取りながら、ふと、昨日の夜のことが頭をよぎる。
玄関で言った「おかえりなさい」。
返ってきた「ただいま」。
その一瞬だけ、胸の奥がかすかに熱くなる。
けれど、そのあとの細かなことは、霧がかかったみたいに曖昧だった。
私は、日記を開く。
一番新しいページの下のほうに、見慣れない文字が並んでいた。
いや、本当は、私自身の字なのだけれど。
それでも、初めて読む文章のように見えた。
『明日の私へ。
今日の私は、旦那さまの「ただいま」が、とても好きでした。
忘れてしまっても大丈夫。
でも、この気持ちが本物だったことだけは、ここに残しておきます』
そこまで目で追って、私は息を飲む。
「……昨日の私、ずいぶん、はっきり書いたんですね」
思わずこぼした私の言葉に、レオンさまが小さく笑う。
「そうだな。読んだとき、少し驚いた」
「恥ずかしいです」
「俺は、嬉しかった」
迷いなく言われて、胸がどきんと鳴る。
視線を日記に戻すと、インクはもう完全に乾いていて。
紙の上で、あの時の気持ちだけが静かに残っていた。
昨日の私と、今の私。
二人が、同じ人間だという実感が、少しだけ胸の中に芽生える。
◇
日記のページを一枚、めくる。
「旦那さまのくしゃみは三回連続」だとか。
「甘いものを食べるときの顔が子どもっぽい」だとか。
軽い文章が続いていて、思わず笑いそうになる。
昨日も読んだはずなのに。
やっぱり新鮮に感じるのは、不思議な感覚だった。
「毎回、このタイトルから始まるんですね」
見出しに書かれた文字を指先でなぞりながら、私は言った。
「『今日も元気に、旦那さま観察』って」
「……それは、昔の君の趣味だ」
途端に、レオンさまが咳払いする。
「別に、毎日が元気とは限らない」
「でも、なんだか楽しそうです」
「書いている本人は、相当楽しんでいたらしい」
そう言いながらも、彼の目尻はかすかに緩んでいる。
このやりとりも、何度目なのだろう。
そう考えると、どこかくすぐったい気持ちになった。
ページをめくり続けていく。
「……あれ?」
ふと、指に伝わる紙の感触が変わった。
ぺらり、ぺらりと進めてきた中で、ある箇所だけ、妙に軽い。
厚みが、急にやせたような感触だった。
「どうした」
「いえ、今……」
私は、日記の真ん中あたりで、ページ番号に目を落とす。
三十四、三十五。
その次のページをめくると。
そこには、三十九の数字が印刷されていた。
三十六と、三十七と、三十八が、どこかへ消えている。
めくった真ん中の綴じ目を、指でそっとなぞる。
糸で綴じられた部分に、細かなささくれがあって。
そこだけ、紙の端がきれいに切り取られていた。
「……ここ」
私は、レオンさまを見上げた。
「何か、書いてあったんですよね」
一瞬。
本当に一瞬だけ。
レオンさまの顔から、表情が消えた。
灰色の瞳が、日記から離れて、窓のほうへと泳ぐ。
ゆっくりと息を吸い込む音がした。
「火事のときに、焦げてしまってね」
選ぶように、彼は言葉を紡ぐ。
「読める部分だけ、切り離したんだ」
「焦げて……」
「残っていたところも、真っ黒で。君に見せるには、あまりにひどい状態だった」
声は淡々としている。
けれど、私の手首を包む指先の力が、ほんのわずかに強くなっていた。
気づかないふりをすれば、きっと、そのまま通り過ぎてしまうくらいの違い。
でも、一度感じてしまうと。
耳の奥で、心臓の音が大きくなる。
「そう、ですか」
私は、とりあえず、口ではそう答えた。
火事。
あの夜。
炎に包まれた廊下の夢が、胸の奥でかすかにうごめく。
でも、目の前の日記の破れ目は。
焦げてもいない。
すすけてもいない。
紙の端は、とてもきれいだった。
「気にすることはない」
レオンさまが、そっと日記を閉じる。
「君が自分で書いた部分は、まだたくさん残っている」
「はい……」
「今日は、外の空気を吸いに出てみないか」
彼は、まるでそれが自然な流れであるかのように、話題を変えた。
「庭の花が、ちょうど見頃だ」
その誘い方が、少しだけ不自然に感じられたのは。
私が、彼の手の強ばりを知ってしまっていたからだと思う。
◇
庭の空気は、朝のうちだけ、少しひんやりしていた。
石畳を歩くたび、ドレスの裾がかすかに揺れる。
花壇には、色とりどりの花が咲いていた。
黄色い花。
淡い紫。
濃い赤。
花の名前は、すぐには出てこないのに。
鼻をかすめる香りだけは、懐かしく感じる。
「ここは、奥様がお好きだった区画ですのよ」
隣を歩くマリアが、やさしく教えてくれた。
「いつも、季節ごとに、植え替える花を一緒に選んでくださいました」
「そう、でしたか」
「はい。『難しい名前の花より、かわいく咲く花がいい』と仰って」
そう言って、彼女は笑う。
私は、花びらを指先でそっと撫でた。
触れた感覚も、悪くない。
けれど。
どこか遠くから、自分の手を眺めているような心地がした。
少し離れたところで、レオンさまが執事のハロルドと短く話している。
仕事の報告だろうか。
難しい顔をしている。
その横顔を眺めながら。
私は、花壇の前で、小さな声で呟いた。
「……破られたページには、どんなことが書かれていたんでしょうね」
「奥様?」
マリアが、聞き返す。
「日記の真ん中あたりのページです。きれいに、何枚か抜けていて」
マリアの顔が、わずかにこわばった。
ほんの一瞬。
眉が寄って、すぐに元に戻る。
「そうでしたわね……」
「火事で焦げてしまったからだって、レオンさまは仰っていましたけれど」
「……坊ちゃまが、そのように?」
「はい」
マリアは、唇を結んだ。
何かを言いかけて、飲み込むような表情。
「マリア?」
「奥様」
彼女は、言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「坊ちゃまにも、お話ししづらいことがおありなのだと思います」
「話しづらいこと……」
「ええ。奥様のことを、守ろうとしていらっしゃるのは、確かですから」
守るための沈黙。
そう言われると、これ以上は踏み込んではいけないような気もしてしまう。
けれど、胸の奥では、別の思いがひっそりとうずく。
守られているのは、きっと私だ。
でも、その「守られている私」の過去を、私だけが知らない。
あの破られたページには。
きっと、私自身のことが書かれていたはずなのに。
レオンさまも。
マリアも。
ハロルドも。
皆が「あの頃の私」を知っていて。
その記憶を、共有していて。
その輪の中に、今の私はいない。
「……なんだか、変ですね」
思わず、本音がこぼれた。
「変、でございますか?」
「私のことが書かれたページなのに、私だけが、そこに何があったか知らないなんて」
マリアが、悲しそうに目を伏せる。
「奥様」
「記憶を失ったのは、私なのに。皆が、私の知らない“奥様”の話をしているみたいで」
日記に綴られているのは、たしかに私の文字だ。
けれど、日記の中の私は、よく笑って、よくからかって。
レオンさまのことを、まっすぐ「好き」と書いていた。
その彼女と自分を重ねるには、もう少し時間が必要だと感じている。
そこへさらに、「破られたページ」が加わる。
その部分だけ、私の目から隠されている現実が。
胸の奥に、じわりと暗い影を落とした。
「……ごめんなさい。変なことを言いました」
「いえ」
マリアは、そっと私の背中に手を添える。
「奥様が、ご自分のことを知りたいと願われるのは、当然のことですわ」
「そう、でしょうか」
「ええ。ですから、いつか坊ちゃまがお話しになるときまで、どうか無理はなさらないで」
いつか。
いつになるのだろう。
私は、庭の真ん中に立つ木を見上げた。
枝の間からこぼれる光が、まぶしくて。
同時に、どこか遠く感じられた。
◇
その日の夜。
私は、寝室のベッドにもぐりこみ、枕もとのランプだけを灯していた。
レオンさまは、書斎に戻っている。
日記を膝の上に載せ、破られたページの近くを、もう一度開く。
三十五の数字。
次には、三十九。
それだけ見れば、単なる印刷の抜け落ちにも見えるかもしれない。
でも、綴じ目の紙は、違った。
私は、指先でそっとそこを撫でる。
紙の端は、まっすぐに切り揃えられていた。
焦げ跡は、どこにもない。
端が丸まっているわけでもない。
インクがにじんだ痕跡も、すすの黒い粉も、残っていない。
まるで、冷たい刃物で、一息に断ち切られたようなライン。
目を閉じる。
炎の夢が、瞼の裏に浮かぶ。
燃える廊下。
崩れ落ちる梁。
誰かの名前を叫ぶ自分。
炎が、壁の絵を飲み込んでいく光景は、何度も見た。
あの熱。
あの煙。
あんな中で、紙の端だけが、こんなに都合よく、きれいに揃うだろうか。
――違う。
胸の奥で、はっきりとした声がした気がした。
これは、炎が奪った跡じゃない。
誰かの手が。
意図を持って、ここを破り取ったのだ。
私は、ゆっくりと目を開けた。
ランプの光の中で、白い紙が静かに光っている。
ページとページのあいだに空いた、細い空白。
そこに、私の知らない言葉たちが、かつて並んでいた。
その事実だけが、確かな重みを持って、胸の中に沈んでいく。
「……炎じゃない」
誰にも聞こえないような声で、私は呟いた。
「私から、それを奪ったのは、炎じゃない」
日記を閉じる指先に、少しだけ力が入る。
レオンさまの嘘。
マリアの言い淀み。
そして、きれいすぎる破れ目。
それらがひとつにつながっていく感覚が、静かに、けれどはっきりと広がった。
私は、日記を胸に抱きしめる。
このノートは、私と過去をつなぐ橋だと思っていた。
でも、そこには、すでに誰かの手による「編集」がある。
見せたいものと、見せたくないものを分けるための、誰かの意志が。
それが、誰の意志なのかは。
今はまだ、確かめる術がない。
けれど。
いつか、知りたいと思う。
炎の夜に、何があったのか。
破られたページに、何が書かれていたのか。
そして、どうして私だけが、それを知らないままでいるのか。
胸の奥で、生まれたばかりの小さな疑問が。
静かな夜の中で、ゆっくりと形を持ちはじめていた。




