第8話 それでも、今日のあなたを好きになる
その日の夕方、私は二階の廊下の窓辺に立っていた。
大きな窓の向こうには、中庭が見える。
整えられた花壇と、濃い緑の生け垣。
真ん中の石畳には、昼間の陽射しがまだかすかに残っていて。
そこに、ぽつり、ぽつりと、雲の影が落ちていた。
レオンさまは、昼前に城へ出かけて行ったきり戻っていない。
仕事だから。
公爵という立場だから。
忙しいのは、当然のことなのに。
胸の奥が、そわそわと落ち着かなかった。
「奥様、こちらにいらしたのですね」
背後から声をかけられて振り向くと、マリアが大きな盆を抱えて立っていた。
「お茶のお片付けをしようと思いましたら、お部屋にお姿が見えませんでしたから」
「ごめんなさい。少し、歩きたくなって」
「いいえ、とんでもございません」
マリアは窓の外にちらりと目を向け、それから、ほんの少し表情を曇らせた。
「坊ちゃまは、今夜は遅くなるかもしれません」
「……お仕事、ですものね」
「ええ。それに」
言いよどんでから、彼女は静かに続ける。
「最近は、奥様のことでずっと気を張っておられますから。無理をなさっていないかと、どうしても気になってしまいます」
その言葉が、妙に胸に引っかかった。
レオンさまが、私のことで気を張っている。
当たり前のようでいて。
どこか現実味がない。
私は窓の外から視線をはずした。
「……今夜は、帰りが遅いのですか」
「そうかもしれません。城から伝令が来ておりましたから」
「そうですか」
頭では、「忙しいなら仕方ない」と分かっている。
けれど。
それからしばらくのあいだ、私は廊下の大時計を、何度も見上げることになった。
◇
暖炉の火が燃える客間で、本を開いてみる。
マリアがお気に入りだと言っていた恋物語だ。
ページを開けば、文字が並んでいる。
恋人たちが喧嘩したり、仲直りしたりしている。
けれど、目で追っているだけで、頭の中には入ってこない。
一段落読む。
ふと、窓のほうを見てしまう。
また一段落読む。
今度は、扉のほうに耳を澄ませてしまう。
そんなことの繰り返しだった。
こんなふうに、誰かの帰りを待つ時間は、昔の私にもあったのだろうか。
日記には、レオンさまの仕事の愚痴を聞いた話が、何度も書かれている。
「今日も仕事が大変だった」とか。
「書類の山と戦っていた」とか。
そこには必ず、「帰ってきた旦那さま」と書かれていた。
ということは。
私は、帰ってきた姿を、何度も見ているはずなのに。
そのとき、どんな気持ちで玄関に立っていたのか。
どんな顔で、どんな言葉で出迎えていたのか。
何ひとつ、思い出せない。
時計の針が、ひと目盛り進むたび。
胸の奥で、何かがきゅう、と細く締まっていくようだった。
◇
窓ガラスに、最初の雨粒が当たったのは、日がすっかり傾いた頃だった。
ひとつ、ふたつ。
そのうち、細かな線のように、いくつもの雨が落ちてきて。
屋根を叩く音が、静かな客間に広がる。
火のはぜる音と、雨の音。
外は冷たく、部屋の中だけが、少しだけあたたかい。
そんな空気の中で。
私の頭の中には、見たことのないはずの光景が浮かんでいた。
ずぶ濡れになったマントを脱ぎ、髪から水滴を落としながら、玄関に立つレオンさま。
冷たい雨に打たれて、肩が少しだけ重く見える。
その背中に、「おかえりなさい」と声をかけている私。
そんなイメージだった。
「……どうして、そんなこと」
自分で思い描いておきながら、戸惑う。
私は、本当に、前にもこうして、この人の帰りを待っていたのだろうか。
暖炉の火を見つめていると、マリアが静かに入ってきた。
「奥様。お休み前のお飲み物をお持ちしました」
湯気のたつカップが、テーブルに置かれる。
甘い薬草茶の香りがふわりと広がった。
「もうこんな時間です。お部屋でお休みになりながらお待ちになりますか?」
そう尋ねられて。
私は、首を横に振った。
「……ここで、待っていてもいいですか」
「もちろんです」
マリアは一瞬だけ、やわらかく微笑む。
「きっと坊ちゃまも、お帰りになったとき、奥様が笑って迎えてくださったら、お疲れが半分は飛んでいきますわ」
「笑って、迎える……」
「はい。昔から、そうでしたから」
「昔から」という一言が、胸に刺さる。
私には見えないはずの時間を、マリアはずっと見守ってきたのだ。
私は薬草茶に口をつける。
舌の上に広がる、ほんのり甘い味。
喉を通る温かさ。
少しだけ気持ちが落ち着く。
けれど、耳はやっぱり、玄関のほうの気配を探していた。
◇
さらに時間が過ぎて、客間の時計の針が、何度も上と下を指した頃。
ようやく。
屋敷のどこかで、重い扉が開く音がした。
風が、ひやりと廊下を抜けていく気配。
靴音。
心臓が、大きく跳ねた。
私は、座っていたソファから、思わず立ち上がる。
足が、勝手に廊下へ向かっていた。
客間の扉を開けると、玄関ホールへ続く廊下が見える。
その奥で、使用人が慌ただしく動き、マントを受け取っている。
濡れた外気が、少しだけこちらまで流れてきた。
その空気の中に。
レオンさまがいた。
濃い色のマントは、雨で重たくなっている。
髪も、前髪の端が額に張り付いていて。
靴の先には、水滴がきらりと光っていた。
顔つきは、いつもより少し険しい。
きっと、仕事で疲れているのだろう。
けれど、私の姿に気づいた瞬間。
その表情が、ほんの少しだけ、崩れた。
「……フィオナ」
低い声が、廊下に落ちる。
「こんな時間まで起きていたのか」
眉間に、うっすらと皺が寄る。
叱るというより、心配している顔だった。
私は、その顔を見て、胸がきゅっとなった。
自分でも、どうしてこんなにほっとしているのか分からない。
ただ。
口の中に浮かんできた言葉を。
私は、止めることができなかった。
「おかえりなさい」
静かな廊下に、自分の声がすっと伸びていく。
言った瞬間、体の奥から何かがふるえて。
それが、嬉しいような、怖いような、不思議な気持ちを連れてきた。
レオンさまは、その場で固まった。
ほんの一拍。
それから、ゆっくりと目を細める。
疲れと安堵と、少し信じられないものが混じったような表情で。
「……ああ」
息のような声で、彼は言った。
「ただいま」
その言葉だけで、胸がいっぱいになった。
さっきまで、冷たい雨に打たれていたはずなのに。
彼の声は、暖炉の火みたいに、あたたかかった。
「そう言って出迎えてくれるのは、久しぶりな気がする」
「そうなんですか?」
「ああ。前はもっと、遠慮なく」
少しだけ目線をそらしてから、彼は続けた。
「『遅い』と怒鳴ってきていた」
「……それは、ご迷惑を」
「迷惑ではない」
きっぱりと否定された。
「怒鳴られるくらい、元気なほうがいい」
そんなふうに言われてしまっては、返す言葉がない。
代わりに、私の頬がじわじわと熱くなっていく。
そのとき、マリアがタオルと温かい飲み物を持って現れた。
「坊ちゃま、お戻りでしたか。お疲れさまでございます。こちら、温かいものを」
「ありがとう、マリア」
「では、わたくしはこれで失礼いたします。奥様、あとは坊ちゃまにお任せしてよろしいですわね」
最後の一言だけ、どこか意味ありげで。
そう言うなり、マリアはさっと身を引いた。
玄関ホールには、私とレオンさまだけが残される。
◇
暖炉のある客間に戻ると、外の雨音が、少し遠くなった。
火の前で、レオンさまはマントを外し、ハロルドに預ける。
シャツの袖を捲り、濡れた手首を布で拭う。
その手首には、小さな傷跡がいくつも刻まれていた。
剣の鍛錬でついたものか。
書類の紙で切ったものか。
指の節は固く、綺麗に整えられた爪の周りには、細かな傷。
私は、その手から目が離せなくなっていた。
「どうした」
視線に気づいたのか、レオンさまが不思議そうに首を傾げる。
「いえ……」
慌てて視線をそらしながらも、胸の中で言葉が浮かぶ。
今日の私は、この手が、少し心配だ。
こんなふうに傷だらけになるまで働いて。
こんな時間まで、雨の中を帰ってきて。
「眠れないのか」
ソファの前に腰を下ろした私に、レオンさまが尋ねる。
私は、少しだけ迷って。
正直に答えた。
「……あなたが帰ってくるまで、眠りたくなかったんです」
口に出した途端、心臓がどきんと跳ねた。
自分で自分の言葉に驚いているのが分かる。
けれど、それが嘘ではないことも、分かっていた。
レオンさまの喉が、かすかに動く。
灰色の瞳が、私をまっすぐに見つめた。
「そうか」
それだけ。
けれど、その二文字にこめられたものの重さは、想像以上だった。
声が、少しだけ震えている。
目元には、ほんのわずかに光が浮かんでいるように見えた。
私は、それを見て、胸の奥があたたかくなるのを感じた。
これは、日記の中の誰かの感情ではない。
今ここで、私が私として抱いている気持ちだ。
日記に書かれていた「好き」とか、「かわいい」とか。
昔の私の言葉は、正直、少し他人事のようだった。
でも、今、目の前にいるこの人を見ていると。
疲れている顔が心配で。
雨に濡れた肩が気になって。
帰ってきてくれたことが、こんなにも嬉しい。
その全部が、「今の私」のものだった。
◇
レオンさまが湯気の立つ飲み物に口をつけているあいだに。
私は、そっと日記を膝の上に開いた。
「少し、書いてもいいですか」
「ああ」
「あの……隣で、見られると恥ずかしいので」
「覗かない」
即答されて、少し笑ってしまう。
ペンを取り、今日の日付の欄の一番下に、ゆっくりと文字をつづった。
明日の私へ。
今日の私は、旦那さまの「ただいま」が、とても好きでした。
忘れてしまっても大丈夫。
でも、この気持ちが本物だったことだけは、ここに残しておきます。
書き終えた行を見つめる。
インクが、少しずつ紙に染み込んでいく。
その様子を見ていると、胸の奥に、静かなあたたかさが広がった。
「書けたか」
「はい」
私は日記を閉じて、胸に抱きしめる。
「……忘れてしまうかもしれないけれど」
ぽつりと、こぼれた言葉は。
自分自身への言い訳みたいでもあった。
「それでも、今日のわたしは、あなたが帰ってきてくれて嬉しかったです」
レオンさまが、少しだけ目を見開く。
そして、ゆっくり、微笑んだ。
「そう言ってもらえるのなら」
暖炉の火が、彼の横顔をやわらかく照らす。
「今日、遅くまで城にいた甲斐があった」
「お疲れさまです」
「ありがとう」
そのやりとりが、とても自然で。
どこか、長く続いてきた夫婦の会話みたいで。
私は、そのことが、なんだか嬉しかった。
◇
その夜。
寝室のベッドにもぐりこみ、枕元に日記を置いて。
灯りを落とす直前に、私は日記の表紙をそっと撫でた。
明日の私は、きっと、今日のことを覚えていない。
玄関で「おかえりなさい」と言ったことも。
「ただいま」と返ってきた声のあたたかさも。
ぜんぶ、霧に溶けてしまうのかもしれない。
それでも。
今日のこの気持ちが、本物だったことは、消えない。
書き残した文字と。
胸に残る、かすかなぬくもりが、それを証明してくれる。
そう思えたから。
「おやすみなさい、レオンさま」
誰もいない寝室で、小さくそうつぶやく。
その声を聞いたかのように。
廊下の向こうで、椅子が軋む気配がした。
きっと、彼も今ごろ、同じ夜を抱きしめているのだろう。
私は、穏やかな気持ちで目を閉じた。
たとえ明日、すべてを忘れてしまうとしても。
私はまた、きっと。
「はじめまして」から、この人に恋をするのだと思いながら。




