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花嫁は毎朝、旦那さまを忘れる  作者: 妙原奇天


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8/22

第8話 それでも、今日のあなたを好きになる

 その日の夕方、私は二階の廊下の窓辺に立っていた。


 大きな窓の向こうには、中庭が見える。


 整えられた花壇と、濃い緑の生け垣。

 真ん中の石畳には、昼間の陽射しがまだかすかに残っていて。

 そこに、ぽつり、ぽつりと、雲の影が落ちていた。


 レオンさまは、昼前に城へ出かけて行ったきり戻っていない。


 仕事だから。

 公爵という立場だから。

 忙しいのは、当然のことなのに。


 胸の奥が、そわそわと落ち着かなかった。


「奥様、こちらにいらしたのですね」


 背後から声をかけられて振り向くと、マリアが大きな盆を抱えて立っていた。


「お茶のお片付けをしようと思いましたら、お部屋にお姿が見えませんでしたから」


「ごめんなさい。少し、歩きたくなって」


「いいえ、とんでもございません」


 マリアは窓の外にちらりと目を向け、それから、ほんの少し表情を曇らせた。


「坊ちゃまは、今夜は遅くなるかもしれません」


「……お仕事、ですものね」


「ええ。それに」


 言いよどんでから、彼女は静かに続ける。


「最近は、奥様のことでずっと気を張っておられますから。無理をなさっていないかと、どうしても気になってしまいます」


 その言葉が、妙に胸に引っかかった。


 レオンさまが、私のことで気を張っている。


 当たり前のようでいて。

 どこか現実味がない。


 私は窓の外から視線をはずした。


「……今夜は、帰りが遅いのですか」


「そうかもしれません。城から伝令が来ておりましたから」


「そうですか」


 頭では、「忙しいなら仕方ない」と分かっている。


 けれど。


 それからしばらくのあいだ、私は廊下の大時計を、何度も見上げることになった。


     ◇


 暖炉の火が燃える客間で、本を開いてみる。


 マリアがお気に入りだと言っていた恋物語だ。


 ページを開けば、文字が並んでいる。

 恋人たちが喧嘩したり、仲直りしたりしている。


 けれど、目で追っているだけで、頭の中には入ってこない。


 一段落読む。

 ふと、窓のほうを見てしまう。


 また一段落読む。

 今度は、扉のほうに耳を澄ませてしまう。


 そんなことの繰り返しだった。


 こんなふうに、誰かの帰りを待つ時間は、昔の私にもあったのだろうか。


 日記には、レオンさまの仕事の愚痴を聞いた話が、何度も書かれている。

 「今日も仕事が大変だった」とか。

 「書類の山と戦っていた」とか。


 そこには必ず、「帰ってきた旦那さま」と書かれていた。


 ということは。

 私は、帰ってきた姿を、何度も見ているはずなのに。


 そのとき、どんな気持ちで玄関に立っていたのか。

 どんな顔で、どんな言葉で出迎えていたのか。


 何ひとつ、思い出せない。


 時計の針が、ひと目盛り進むたび。

 胸の奥で、何かがきゅう、と細く締まっていくようだった。


     ◇


 窓ガラスに、最初の雨粒が当たったのは、日がすっかり傾いた頃だった。


 ひとつ、ふたつ。

 そのうち、細かな線のように、いくつもの雨が落ちてきて。


 屋根を叩く音が、静かな客間に広がる。


 火のはぜる音と、雨の音。

 外は冷たく、部屋の中だけが、少しだけあたたかい。


 そんな空気の中で。


 私の頭の中には、見たことのないはずの光景が浮かんでいた。


 ずぶ濡れになったマントを脱ぎ、髪から水滴を落としながら、玄関に立つレオンさま。


 冷たい雨に打たれて、肩が少しだけ重く見える。


 その背中に、「おかえりなさい」と声をかけている私。


 そんなイメージだった。


「……どうして、そんなこと」


 自分で思い描いておきながら、戸惑う。


 私は、本当に、前にもこうして、この人の帰りを待っていたのだろうか。


 暖炉の火を見つめていると、マリアが静かに入ってきた。


「奥様。お休み前のお飲み物をお持ちしました」


 湯気のたつカップが、テーブルに置かれる。

 甘い薬草茶の香りがふわりと広がった。


「もうこんな時間です。お部屋でお休みになりながらお待ちになりますか?」


 そう尋ねられて。


 私は、首を横に振った。


「……ここで、待っていてもいいですか」


「もちろんです」


 マリアは一瞬だけ、やわらかく微笑む。


「きっと坊ちゃまも、お帰りになったとき、奥様が笑って迎えてくださったら、お疲れが半分は飛んでいきますわ」


「笑って、迎える……」


「はい。昔から、そうでしたから」


 「昔から」という一言が、胸に刺さる。


 私には見えないはずの時間を、マリアはずっと見守ってきたのだ。


 私は薬草茶に口をつける。


 舌の上に広がる、ほんのり甘い味。

 喉を通る温かさ。


 少しだけ気持ちが落ち着く。


 けれど、耳はやっぱり、玄関のほうの気配を探していた。


     ◇


 さらに時間が過ぎて、客間の時計の針が、何度も上と下を指した頃。


 ようやく。


 屋敷のどこかで、重い扉が開く音がした。


 風が、ひやりと廊下を抜けていく気配。

 靴音。


 心臓が、大きく跳ねた。


 私は、座っていたソファから、思わず立ち上がる。


 足が、勝手に廊下へ向かっていた。


 客間の扉を開けると、玄関ホールへ続く廊下が見える。


 その奥で、使用人が慌ただしく動き、マントを受け取っている。

 濡れた外気が、少しだけこちらまで流れてきた。


 その空気の中に。


 レオンさまがいた。


 濃い色のマントは、雨で重たくなっている。

 髪も、前髪の端が額に張り付いていて。

 靴の先には、水滴がきらりと光っていた。


 顔つきは、いつもより少し険しい。

 きっと、仕事で疲れているのだろう。


 けれど、私の姿に気づいた瞬間。


 その表情が、ほんの少しだけ、崩れた。


「……フィオナ」


 低い声が、廊下に落ちる。


「こんな時間まで起きていたのか」


 眉間に、うっすらと皺が寄る。

 叱るというより、心配している顔だった。


 私は、その顔を見て、胸がきゅっとなった。


 自分でも、どうしてこんなにほっとしているのか分からない。


 ただ。


 口の中に浮かんできた言葉を。


 私は、止めることができなかった。


「おかえりなさい」


 静かな廊下に、自分の声がすっと伸びていく。


 言った瞬間、体の奥から何かがふるえて。


 それが、嬉しいような、怖いような、不思議な気持ちを連れてきた。


 レオンさまは、その場で固まった。


 ほんの一拍。


 それから、ゆっくりと目を細める。


 疲れと安堵と、少し信じられないものが混じったような表情で。


「……ああ」


 息のような声で、彼は言った。


「ただいま」


 その言葉だけで、胸がいっぱいになった。


 さっきまで、冷たい雨に打たれていたはずなのに。

 彼の声は、暖炉の火みたいに、あたたかかった。


「そう言って出迎えてくれるのは、久しぶりな気がする」


「そうなんですか?」


「ああ。前はもっと、遠慮なく」


 少しだけ目線をそらしてから、彼は続けた。


「『遅い』と怒鳴ってきていた」


「……それは、ご迷惑を」


「迷惑ではない」


 きっぱりと否定された。


「怒鳴られるくらい、元気なほうがいい」


 そんなふうに言われてしまっては、返す言葉がない。


 代わりに、私の頬がじわじわと熱くなっていく。


 そのとき、マリアがタオルと温かい飲み物を持って現れた。


「坊ちゃま、お戻りでしたか。お疲れさまでございます。こちら、温かいものを」


「ありがとう、マリア」


「では、わたくしはこれで失礼いたします。奥様、あとは坊ちゃまにお任せしてよろしいですわね」


 最後の一言だけ、どこか意味ありげで。

 そう言うなり、マリアはさっと身を引いた。


 玄関ホールには、私とレオンさまだけが残される。


     ◇


 暖炉のある客間に戻ると、外の雨音が、少し遠くなった。


 火の前で、レオンさまはマントを外し、ハロルドに預ける。

 シャツの袖を捲り、濡れた手首を布で拭う。


 その手首には、小さな傷跡がいくつも刻まれていた。


 剣の鍛錬でついたものか。

 書類の紙で切ったものか。


 指の節は固く、綺麗に整えられた爪の周りには、細かな傷。


 私は、その手から目が離せなくなっていた。


「どうした」


 視線に気づいたのか、レオンさまが不思議そうに首を傾げる。


「いえ……」


 慌てて視線をそらしながらも、胸の中で言葉が浮かぶ。


 今日の私は、この手が、少し心配だ。


 こんなふうに傷だらけになるまで働いて。

 こんな時間まで、雨の中を帰ってきて。


「眠れないのか」


 ソファの前に腰を下ろした私に、レオンさまが尋ねる。


 私は、少しだけ迷って。

 正直に答えた。


「……あなたが帰ってくるまで、眠りたくなかったんです」


 口に出した途端、心臓がどきんと跳ねた。


 自分で自分の言葉に驚いているのが分かる。


 けれど、それが嘘ではないことも、分かっていた。


 レオンさまの喉が、かすかに動く。


 灰色の瞳が、私をまっすぐに見つめた。


「そうか」


 それだけ。


 けれど、その二文字にこめられたものの重さは、想像以上だった。


 声が、少しだけ震えている。

 目元には、ほんのわずかに光が浮かんでいるように見えた。


 私は、それを見て、胸の奥があたたかくなるのを感じた。


 これは、日記の中の誰かの感情ではない。


 今ここで、私が私として抱いている気持ちだ。


 日記に書かれていた「好き」とか、「かわいい」とか。

 昔の私の言葉は、正直、少し他人事のようだった。


 でも、今、目の前にいるこの人を見ていると。


 疲れている顔が心配で。

 雨に濡れた肩が気になって。


 帰ってきてくれたことが、こんなにも嬉しい。


 その全部が、「今の私」のものだった。


     ◇


 レオンさまが湯気の立つ飲み物に口をつけているあいだに。

 私は、そっと日記を膝の上に開いた。


「少し、書いてもいいですか」


「ああ」


「あの……隣で、見られると恥ずかしいので」


「覗かない」


 即答されて、少し笑ってしまう。


 ペンを取り、今日の日付の欄の一番下に、ゆっくりと文字をつづった。


 明日の私へ。


 今日の私は、旦那さまの「ただいま」が、とても好きでした。


 忘れてしまっても大丈夫。

 でも、この気持ちが本物だったことだけは、ここに残しておきます。


 書き終えた行を見つめる。


 インクが、少しずつ紙に染み込んでいく。

 その様子を見ていると、胸の奥に、静かなあたたかさが広がった。


「書けたか」


「はい」


 私は日記を閉じて、胸に抱きしめる。


「……忘れてしまうかもしれないけれど」


 ぽつりと、こぼれた言葉は。

 自分自身への言い訳みたいでもあった。


「それでも、今日のわたしは、あなたが帰ってきてくれて嬉しかったです」


 レオンさまが、少しだけ目を見開く。


 そして、ゆっくり、微笑んだ。


「そう言ってもらえるのなら」


 暖炉の火が、彼の横顔をやわらかく照らす。


「今日、遅くまで城にいた甲斐があった」


「お疲れさまです」


「ありがとう」


 そのやりとりが、とても自然で。

 どこか、長く続いてきた夫婦の会話みたいで。


 私は、そのことが、なんだか嬉しかった。


     ◇


 その夜。


 寝室のベッドにもぐりこみ、枕元に日記を置いて。


 灯りを落とす直前に、私は日記の表紙をそっと撫でた。


 明日の私は、きっと、今日のことを覚えていない。


 玄関で「おかえりなさい」と言ったことも。

 「ただいま」と返ってきた声のあたたかさも。


 ぜんぶ、霧に溶けてしまうのかもしれない。


 それでも。


 今日のこの気持ちが、本物だったことは、消えない。


 書き残した文字と。

 胸に残る、かすかなぬくもりが、それを証明してくれる。


 そう思えたから。


「おやすみなさい、レオンさま」


 誰もいない寝室で、小さくそうつぶやく。


 その声を聞いたかのように。

 廊下の向こうで、椅子が軋む気配がした。


 きっと、彼も今ごろ、同じ夜を抱きしめているのだろう。


 私は、穏やかな気持ちで目を閉じた。


 たとえ明日、すべてを忘れてしまうとしても。


 私はまた、きっと。


 「はじめまして」から、この人に恋をするのだと思いながら。

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