第7話 毎朝の「はじめまして」
翌朝のことを、私は知らない。
けれど、鐘の音は、いつも同じ時間に鳴るらしい。
塔の高いところから、かん、と澄んだ音が落ちてきて。
まぶたの裏に、少しずつ光が染みこんでくる。
重たいまぶたを持ち上げると、まず見えるのは、天蓋のレースだ。
そして、きちんとたたまれた布団の端と。
枕元に置かれた、一冊の革表紙のノート。
日記。
それがここにあるということは、たぶん、今日も私は「昨日の私」に助けを求めるのだろう。
「……おはよう」
掠れた声で、そうひとりごちたとき。
「おはよう、フィオナ」
いつもの声が、背後から返ってきた。
振り向く前から、誰の声か分かってしまう。
それが少し不思議で、少し安心する。
椅子に腰かけていたレオンさまが、私と目が合うなり、微笑んだ。
「気分はどうだ」
「えっと……少し、頭が重いですけど。昨日よりは、ましな気がします」
「そうか」
安堵が、ほんの少しだけ肩からこぼれたのが分かった。
彼の手が、自然な動作で日記を取って、私に差し出してくる。
「今日も、少しだけ読もう」
「はい」
私は身を起こし、枕にもたれかかりながら、ノートを受け取る。
表紙を開いた、一枚目。
ページの一番上には、丸みを帯びた字で、こう書かれている。
明日の私へ。
そして、すぐ下。
今日も元気に、旦那さま観察。
その文字に、私は思わず口元をひくつかせた。
「……これ、本当にわたしが書いたんですよね」
「他に誰が書く」
レオンさまは、咳払いをひとつして、視線をそらした。
「毎回、このタイトルから始まるんですか」
「そうだな。少なくとも、この日記を使い始めてからは、ずっとだ」
ずっと。
その言葉に、胸の奥が、かすかに痛む。
私は、ページの端をそっとなぞった。
インクの跡に、指先が触れる。
たしかに、これは私の手の大きさに合うノートで。
紙の感触も、どこか懐かしい。
「……元気に観察されていたんですね、旦那さまは」
「観察という言い方はやめてもらえないか」
むっとしたような声が返ってきて、私は思わず笑いそうになった。
そして、気づく。
こうして、日記を開いて、レオンさまと顔を合わせて。
「おはよう」と挨拶をして。
きっと、私は今日もまた、初めてこの朝を過ごしているのだろう。
けれど、彼にとっては、これは何度目もの「おはよう」なのだ。
◇
その次の朝も、鐘の音で目が覚めた。
けれど、ほんの少しだけ違っていたのは、マリアが私の髪をゆるくまとめてくれたことだ。
「少し、気分転換に」
そう言って、窓の外に咲き始めた花を挿し色にするみたいに、一本だけ白いリボンを結んでくれた。
鏡に映る自分は、やっぱりまだ頬がこけているけれど。
髪型が変わるだけで、少しだけ別人のように見える。
「お似合いですよ、奥様」
「ありがとうございます」
そうして寝台にもどると、ちょうど扉がノックされた。
レオンさまが入ってくる。
私の髪を見て、わずかに目を丸くした。
「ずいぶん、雰囲気が違うな」
「変でしょうか」
「……いや。よく似合っている」
短くそう言ってから、少しだけ視線を逸らす仕草が、どうしようもなく真面目で。
胸のあたりが、くすぐったくなった。
日記を開くと、その日の見出しも、やっぱり同じで。
明日の私へ。
今日も元気に、旦那さま観察。
「毎回、元気なんですね、過去のわたし」
「そうだったな」
「今のわたしは、ちょっと自信ないんですけど」
「今も十分だ」
レオンさまは、淡々とした声で言う。
「起きてくれるだけで、十分だ」
あっさりと告げられてしまったその言葉に。
私は、返す言葉をうまく見つけられなかった。
◇
別の朝。
窓の外は、灰色の雲で覆われていた。
雨粒が、薄くガラスを叩いていて。
庭に出ていたはずの小さな犬も、今日はどこかで丸くなっているのだろう。
そんな、少し暗い光の中。
「おはよう、フィオナ」
レオンさまは、いつもと変わらない声でそう言った。
私の気分とは関係なく、彼の「おはよう」は、毎回きちんとそこにある。
「雨の日は、わたし、好きでしたか」
ふと、そんなことを聞いてみた。
「……天気にはあまりこだわらないほうだったと思う」
「そうなんですか」
「強いて言うなら、雨の日は、猫のように眠くなる、とよく言っていたな」
「猫……」
よく分からない例えだ。
けれど、口に出してみると、しっくり来る気もする。
私は、日記のページを一枚めくった。
本の端に、丸まった猫の下手な落書きが描かれていて、「雨の日のわたし」と小さく書かれている。
思わず吹き出した。
「……本当に猫の絵が描いてあります」
「そうだろうな」
レオンさまは、眉間を指で押さえた。
「その日は一日中、あくびをしていた」
「ご迷惑をおかけしました」
「迷惑ではない」
少し間を置いて、付け加えられた。
「可愛かった」
その一言に、喉の奥が、きゅっと締めつけられる。
雨の音が、やけに大きく聞こえた。
◇
また別の朝。
この日は、目を覚ましたときに、妙な違和感があった。
レオンさまが椅子に座っているのは変わらない。
日記も、枕元にちゃんとある。
なのに。
「……あの」
「どうした」
「本当に、わたし、あなたの奥さんなんですか」
気づいたら、そんなことを口走っていた。
レオンさまは、ほんの一瞬だけ固まり。
それから、ゆっくりと片眉を上げた。
「今さらだな」
「だって、その……」
言い訳を探そうとして、うまく見つからない。
私の薬指には、細い指輪が光っている。
日記の中には、「夫」だと書かれている。
周りの人はみんな「奥様」と呼ぶ。
頭では分かっているのに、心が追いついていない。
「……証拠の書類なら山ほどあるが、見たいか」
「書類」
「婚姻証書。招待状。祝辞の山だ」
さらりと並べてから、レオンさまは、かすかに肩をすくめた。
「それとも、もっと他の証拠が必要か」
「他の……?」
「そうだな」
ほんの少しだけ考えるような間があって。
「君は、眠る前に、よくここを触る」
そう言って、レオンさまは、自分の胸のあたりを指先でとん、と叩いた。
「ここが好きだと言っていた」
「し、知りません」
全力で否定すると、彼は珍しく小さく笑った。
「そうか」
その笑い声が、思っていたよりも柔らかくて。
私の耳の奥で、いつまでも残った。
日記を開くと、その日のページの端には「レオンの胸板は反則」と、やけに率直なメモが書いてあって。
私は、穴があったら入りたい気持ちになった。
◇
そんなふうにして、いくつもの朝が、少しずつ色を変えながら過ぎていった。
髪型が違う朝。
雨の日の朝。
雲ひとつない、まぶしい朝。
でも、必ず同じなのは。
枕元の日記と。
椅子に座るレオンさまと。
「おはよう」と。
そのあとに続く、小さな「はじめまして」だった。
◇
ある朝。
日記を手に取った私の喉から、自然にあくびがこぼれた。
「……すみません」
「構わない」
レオンさまは、いつものように椅子を少しこちらへ引き寄せる。
「よく眠れたか」
「悪夢は見ませんでした、多分」
「それは何よりだ」
その声に、本当にほっとした気配がにじんでいて。
私まで、少し嬉しくなる。
日記を開くと、昨日の私が書いた文字が目に飛び込んできた。
明日の私へ。
今日も元気に、旦那さま観察。
そして、その下に。
旦那さまは意外とかわいいところがあります、と書き足されていた。
私は、思わずレオンさまを見た。
「どうした」
「昨日のわたしが……」
言い淀んで、ページを少し持ち上げる。
「あなたのことを、褒めてました」
「褒めていた?」
「ええと」
声に出して読むか迷って。
結局、小さく読み上げた。
「『旦那さまは意外とかわいいところがあります』って」
「……」
レオンさまの動きが、一瞬止まる。
「そのあとに、『特に、驚くときと、褒められたとき』って」
「もういい」
低い声で遮られた。
見ると、彼は咳払いをしながら、視線を窓のほうへそらしている。
耳の先が、ほんのり赤い。
あまりにも分かりやすくて。
私は、つい笑ってしまった。
「かわいい、だなんて」
「自分で書いておいて、よく言えるな」
「今のわたしは知りませんでした」
「言い逃れだな」
ぶつぶつと文句を言いながらも、レオンさまの声はどこか柔らかい。
そのやりとりが、どうしようもなく、愛しい日常の一部のように感じられた。
私には、昨日のことが分からない。
けれど、昨日の私が感じた「かわいい」は、こうやって文字になって残っている。
その文字を、今日の私が読み上げて。
明日の私が、また読み返すかもしれない。
それは、どこか不思議で。
でも、悪くない循環だった。
◇
扉の向こうで、小さな気配がした。
視線を向けると、隙間から、マリアのエプロンの裾が見える。
気配に気づいたレオンさまが、「どうぞ」と声をかけた。
「失礼いたします」
マリアが顔を出す。
「お薬のお時間が近いので、様子を見にまいりました」
「大丈夫です」
私は慌てて日記を閉じた。
「もう落ち着きましたから」
「そうですか」
マリアの視線が、私とレオンさまの間を行き来する。
どこか、ほっとしたような、あたたかい目だった。
「……何か」
「いえ」
首を振ってから、マリアはふっと微笑んだ。
「今日も、いい朝ですね」
その言葉が、妙に胸に残った。
マリアが一礼して出ていくと、廊下で、執事のハロルドの声がする。
「奥様のご様子は」
「ええ。今日も……毎朝の“初恋”ですわね」
小さな声だったけれど、私の耳まで届いてしまった。
毎朝の、初恋。
そう言われると。
頬が、じんわりと熱くなる。
「聞こえていますよ、マリア」
寝台から声を張ると、廊下の向こうで気まずそうな沈黙が走った。
「失礼いたしました」
慌てた声が返ってきて、レオンさまが肩を震わせる。
「笑ってませんか」
「笑ってない」
即答だったけれど、目元には、しっかり笑い皺が寄っていた。
◇
その日の朝の終わり。
薬を飲み終え、少しだけ身体の力が抜けたとき。
私は、日記の隅に、自分の字でこっそり書き足した。
今日の私は、あなたの笑った顔が少し好きだと思いました。
明日の私へ、これだけは伝えておきます。
ペン先からにじむインクが、乾いていく。
たぶん、明日の私は、この一文を読みながら、また首をかしげるのだろう。
「そんなこと、書いた覚えはない」と。
でも、それでいい。
覚えていなくても、私たちは、こうして何度でも同じ朝を迎えて。
何度でも、初めてみたいに笑い合える。
「フィオナ」
ペンを置いたタイミングで、レオンさまが私の名を呼んだ。
「はい」
「ありがとう」
「……何がですか」
「今日も起きてくれて」
簡単に言ったその一言に、胸の奥がきゅっとなる。
何度目の「ありがとう」なのか。
彼が、何度こうして私に礼を言ってきたのか。
分からない。
でも、今この瞬間の私は。
「こちらこそ、ありがとうございます」
素直に、そう答えた。
「今日も、わたしに“はじめまして”を言ってくれて」
レオンさまの灰色の瞳が、柔らかく細められる。
「なら、明日も言おう」
「明日も、ですか」
「君が何度忘れても」
迷いのない声だった。
「俺は、何度でも“おはよう、フィオナ”から始める」
その言葉が、日記のどのページよりも鮮やかに、胸に刻まれる。
たとえ、それも眠りとともに薄れてしまうとしても。
今の私には、十分すぎるほど、あたたかかった。




