第6話 炎の夢、名前を呼ぶ声
その夜は、いつもより静かだった。
寝室の灯りは落とされて、残っているのは、暖炉の小さな火だけ。
ぱちり、と薪のはぜる音を聞きながら、私はまぶたを閉じた。
日記は枕元に閉じて置いてある。
今日のことを、どこまで書くべきか迷ったけれど、結局、夕食が楽しかったとだけ書いた。
それを読み返すのは、きっと明日の朝の私だ。
そう思うと、少しだけ心強くて。
私は、すうっと意識を手放していった。
◇
熱い。
次の瞬間、世界は炎の色に染まっていた。
息を吸うたびに、喉が焼けるように痛い。
空気が焦げている。
目の前の長い廊下が、炎に包まれていた。
壁にかかっていたはずの絵が、黒く歪んでいく。
第三話の日中に見た、あの花の絵が、炎に舐められて崩れていくのが見えた。
床が、ぎしぎしと悲鳴をあげている。
天井から、赤い火の粉が雨のように降ってくる。
私は、誰かの手首を掴んで、走っていた。
掴んでいる手は、骨ばっているのに、どこか頼りがいのある感触で。
ほんの少しだけ、自分より背が高い。
振り返ろうとしても、煙が邪魔をして、相手の顔は見えない。
袖口の布の質感。
背中のライン。
走るたびに揺れる、肩幅の広さ。
全部が、「知っている」人のものだった。
名前を呼ばなきゃ、と思う。
口を開く。
けれど、吸い込んだ煙が喉を焼いて、声にならない。
廊下の先が、真っ赤に揺れている。
「こっちは危ない!」
誰かの声が聞こえた。
男の人の声。
低くて、少し掠れていて。
心臓が、ぎゅっとつかまれる。
その声も、知っている気がした。
「行って」
私の口が、勝手に動く。
「あなたは、行って」
言葉を吐き出すたびに、肺の中の空気が焼けていく。
前を塞ぐように、天井がきしんだ。
次の瞬間。
大きな梁が、目の前に落ちてくる。
私は、掴んでいた手首を、力いっぱい突き飛ばした。
細い廊下の反対側へ、相手の身体が弾き出される。
そこは、まだ炎に飲み込まれていない場所だった。
代わりに、私のほうが、火の中へ飛び込む形になる。
熱い。
肌が焼ける。
髪が焦げる匂いがする。
視界の端で、誰かが私の名前を叫んだ。
私も、誰かの名前を叫ぶ。
「――!」
はっきりと、口の中で音が形になった。
けれど、耳には届かない。
炎の轟音が、すべてをかき消す。
伸ばした手が、空を掴む。
届かない。
届かない。
あの人に、届かない。
そう思った瞬間、視界が、真っ白に弾けた。
◇
「……っ」
喉から、かすれた声が漏れた。
目を開ける前に、涙がこぼれそうになる。
息がうまくできない。
胸がきゅっと縮まって、空気が入ってこない。
「やだ……熱い……」
自分の声が、どこか遠くから聞こえた。
身体じゅうが汗で濡れている。
シーツを掴む手に、力が入りすぎて、指が震えた。
暗闇の中で、何かが動く気配がした。
すぐそばで、椅子が鳴る小さな音。
足音が、こちらに近づいてくる。
「フィオナ」
聞き慣れた、低い声。
ベッドの縁が沈み、その重みだけで誰かが座ったのが分かった。
「まただな」
小さな呟き。
それが耳に届いたとき、私はようやく「これは夢なのだ」と理解する。
「火が……」
喉がひりひりして、言葉がうまく出てこない。
「火が、来て……誰かが……」
「大丈夫だ」
額に、ひんやりとしたものが触れた。
包帯ごしに伝わる、冷たい手のひら。
さっきまで夢の中で感じていた熱が、少しずつ溶けていく。
「ここには炎はない。廊下も燃えていない。君は、もう安全だ」
ゆっくりと、繰り返すように。
暗闇に慣れてきた目に、レオンさまの輪郭が浮かび上がる。
シャツのボタンは上まで留められていなくて、ネクタイも外されていた。
きっと、すぐに飛び起きてきてくれたのだろう。
灰色の瞳の下に、いつもより濃い影が見える。
眠れていなかったのだ、と鈍い頭でも分かった。
「息をして」
そう言われて、私はようやく、自分が息を止めていたことに気づく。
吸って。
吐いて。
レオンさまの手が、額から頬へ、そして肩へと移動する。
「ここに、炎はない」
もう一度。
さっきと同じ言葉を、少しだけ違う声色で。
「君の周りには、何も燃えていない」
言葉のひとつひとつが、胸の奥に沈んでいく。
焼け焦げた夢の残り香を、少しずつ洗い流してくれるみたいに。
◇
少し落ち着いてから、水を一口飲んだ。
手が震えて、コップの縁が歯に当たる。
「すみません……また」
「謝る必要はない」
レオンさまは、短く言い切った。
「……また、ということは」
「こうして君がうなされるのは、初めてではないというだけだ」
静かな口調だったけれど、その瞳の奥には、深い疲れがにじんでいる。
きっと、それも、私のせいだ。
「夢を見ました」
寝台の背に身を預けながら、ぽつりと口を開く。
「廊下が、燃えていて。息が、全然できなくて」
話しているうちに、さっきの熱が蘇りそうになって、思わず胸元を押さえた。
「誰かの手を、握っていた気がします。すごく、怖がっていて」
「……そうか」
「わたし、突き飛ばしたんです」
言葉にすると、喉の奥がじわっと痛む。
「前を塞いだ梁から、その人を離そうとして。代わりに、わたしが火のほうへ……」
そこまで言いかけて、唇を噛んだ。
記憶が、そこで途切れる。
さっき夢の中で呼んだはずの名前は、やっぱり思い出せない。
「誰かの名前を、呼んだ気がするんです」
苦しいのを我慢して、続けた。
「とても大事な人で。絶対に、失いたくなくて」
胸の奥が、ずきずきと痛む。
涙とは違う、痛みだ。
名前も、顔も、声も曖昧なのに。
「大事な人だった」という感覚だけが、はっきりしている。
「でも、起きたら何も思い出せなくて」
自分でも情けないと思うほど、声が震えていた。
「わたし、誰を……助けようとしていたんでしょう」
レオンさまは、すぐには答えなかった。
暗闇の中で、彼の横顔が、ゆっくりと伏せられるのが見える。
喉仏が、小さく上下した。
「無理に思い出す必要はない」
やがて、低い声が落ちてくる。
「あの夜のことは、忘れていられるなら、そのほうがいい」
「あの夜……」
やっぱり、あれはただの悪夢ではなく、本当にあった出来事なのだ。
頭のどこかは、それを分かっていたつもりなのに。
言葉にされると、心臓が冷たくなる。
「でも」
私は、両手をぎゅっと握りしめた。
「夢の中のわたしは、怖くて、苦しくて。でも、誰かを守ろうとしていた気がします」
炎に飛び込む直前、心の中にあったのは、ただひとつの想いだった。
その人を生かしたい。
それだけ。
「……わたし、誰かを助けたんですか」
怖かった。
聞いたら、戻れない気がした。
それでも、聞きたかった。
レオンさまは、長く息を吐いた。
椅子の背にもたれていたはずの身体が、ほんの少し身を乗り出す。
私の手を包むように、ぎゅっと握った。
いつもより、強い力だった。
「そうだ」
一言だけ。
短い返事。
それなのに、その中に、どれだけの重さが詰め込まれているのか。
握られた手から、全部伝わってきそうで、息が詰まりそうになる。
「君は、いつもそうだ」
レオンさまは、視線を落としたまま続けた。
「自分より先に、他人を守ろうとする」
「いつも……?」
「孤児院の子どもたちが喧嘩をすれば、真っ先に間に入って」
「使用人が怪我をしそうなときは、自分が前に出て」
「俺が無茶な仕事をすれば、止めに来て」
淡々と並べられていく言葉が、胸に刺さる。
覚えていないはずの出来事なのに、「ああ、やりそうだ」と思ってしまう自分がいる。
「だから、あの夜も」
そこで、言葉が途切れた。
レオンさまの指先が、わずかに震える。
いつも冷静で、ほとんど表情を変えない人が、こんなふうに感情を見せるのを、私は初めて見た。
「君は、あの夜もそうした」
ようやく紡がれた言葉は、掠れていた。
「その結果として、今、こうしてここにいる」
それ以上は、語られない。
けれど、その短い言葉だけで、十分だった。
私が誰かを庇って炎に飛び込み。
そのせいで、記憶を失ったのだと。
その「誰か」が誰なのか。
なぜレオンさまが、こんな顔をするのか。
そこまで理解するには、まだ少し時間がかかりそうだった。
でも。
「よかった」
自分でも意外な言葉が、口をついて出た。
「よかった……わたし、誰も見捨てなかったんですね」
「フィオナ」
「わたしは、きっと、前のわたしと同じようにできる自信はないですけど」
握られている手に、そっと力を返す。
「それでも、あのときのわたしが誰かを助けたなら、今のわたしも、その人のことを大事にしたいです」
レオンさまの指が、一瞬きゅっと強くなる。
何かを、堪えるように。
でも、やっぱり、誰を、とは言わなかった。
「今はまだ、休め」
少しだけかすれた声で、そう言う。
「夢の続きは、今度でいい」
「はい」
今度、と言われても、明日の朝にはまた忘れてしまうかもしれない。
それでも、そう約束してくれるのが嬉しかった。
ベッドに身体を横たえると、シーツの冷たさが、ようやく心地よく感じられる。
レオンさまは、まだベッドのそばから離れなかった。
椅子に座り直し、私の手を離さないまま、じっと見守っている。
「……レオンさま」
まぶたが重くなっていく中で、私は小さな声で呼んだ。
「はい」
「炎の夢を、見てもいいですか」
自分でも変なことを言っていると思う。
さっきまで、あんなに怖かったのに。
でも、夢を拒むことは、あの夜の自分を拒むことのような気がした。
「……見たくないなら、見なくていい」
少しだけ間を置いて、レオンさまは答える。
「見てもいいと思えるなら、そのときは、またここで起こされればいい」
私がうなされたら、またこうして駆けつけてくれるのだろう。
何度だって。
そう確信できてしまう自分がいて、少しだけ笑いたくなった。
「ありがとうございます」
目を閉じる。
さっきまで暴れていた心臓が、ゆっくりと落ち着いていく。
熱に焼かれた記憶の奥に、ひんやりとした手の感触が重なる。
炎と。
冷たい手と。
その二つが重なった場所が、今の私の避難場所なのだと思った。
そのまま、意識が、再び浅い眠りへと沈んでいく。
◇
どこか遠くで、声がした気がした。
聞き慣れた声。
でも、さっきよりずっと小さくて、ひとりごとのようで。
「君があの夜のことを全部思い出したとき」
誰かが、そう言った。
「俺を許してくれるだろうか」
返事をしようとしても、口は動かない。
まぶたも、腕も、もう重くて動かなかった。
だから私は、代わりに、握られている手に、ほんの少しだけ力を込めた。
届いたかどうかは分からない。
それでも、その夜。
レオンさまの手は、朝まで私の手を離さなかった。




