第5話 初めてじゃない夕食
その日の夕方、医師の先生が診察を終えたあとで、静かに告げた。
「体力は、だいぶ戻ってきていますね。長時間でなければ、食堂で食事をとっても構いませんよ」
「本当ですか」
思わず声が大きくなって、慌てて口元を押さえる。
寝台と寝室だけの世界から一歩出られる、と言われたのが、思った以上に嬉しかった。
マリアが、嬉しそうに目を細める。
「よかったですね、奥様。階段はまだ無理ですが、食堂まではほとんど段差もございませんから」
「ご迷惑を……」
「迷惑なんて、とんでもございません」
きっぱりと言い切られて、私は小さく息を吐く。
緊張と期待が、胸の中でまざり合っていた。
◇
寝間着から、簡素だけれどきちんとしたドレスに着替える。
マリアが鏡の前でリボンを結びながら、「よくお似合いです」と声をかけてくれた。
鏡の中の私は、まだ頬が少しこけていて。
額には包帯が覗き、背中側には、自分では見えない火傷の痕がある。
けれど、ウエストのリボンを結ぶマリアの手つきは、慣れたものだった。
「いつも、このくらいの色を選んでいたんですか」
薄い水色の布を見下ろしながら、なんとなく尋ねる。
「ええ。奥様は、淡い色がよくお似合いになりますから」
あまりにも迷いのない返事に、私のほうが戸惑ってしまう。
自分の好みさえ、わからないのに。
それでも、鏡の中の姿は、嫌いではなかった。
マリアに手を借りて立ち上がり、歩き出す。
今日は杖もいらない、と医師が言った。
ゆっくりと廊下を進むたびに、足元から、石の床の冷たさと安定した固さが伝わってくる。
昼間に歩いたときよりも、心臓が早く打っていた。
食堂までの道のりは、思ったより近かった。
高い扉の前で足を止めると、マリアが軽くノックしてから扉を押し開ける。
「失礼いたします、旦那様。奥様をお連れしました」
すぐには返事がなかった。
「旦那様は、少し遅れると仰っていました。お席までご案内いたしますね」
どうやら、先に行くのは私だけらしい。
ひとりで入るのが急に心細くなって、指先に力が入る。
◇
食堂は、想像していたよりも広かった。
長い長いテーブルが、窓から窓へと伸びている。
高い天井からは、大きなシャンデリアが下がっていて、いくつもの蝋燭の火がゆらめいていた。
けれど、料理が並んでいるのは、そのテーブルの端の、ごく一部だけだ。
白いクロスの上に、二人分の皿とグラス。
中央には、小さな花瓶に庭の花が活けてある。
豪奢なのに、どこかこじんまりとしていて。
それがかえって、胸を締め付けた。
ここは、きっと、ふたりの場所だったのだ。
「こちらへどうぞ、奥様」
マリアに椅子を引いてもらい、そっと腰を下ろす。
自然と、手が動いた。
ナプキンを取り、膝の上に広げる。
フォークとナイフの並びを一度だけ見て、右手と左手に正しいものを取る。
頭で考える前に、身体が動いていた。
「……あれ」
自分でも、少しだけ驚く。
孤児院で過ごしていたはずの私は、こんな正式な場で食事をしたことがあっただろうか。
本当に「初めて」なら、もっとぎこちなく、緊張で手が震えていてもおかしくない。
けれど、指先は、ほんの少しの迷いもなく道を選んでいく。
「さすがでございますね」
マリアが、誇らしげに微笑んだ。
「さすが……?」
「奥様は、最初からすぐに慣れていらっしゃいましたから。わたくしの出る幕など、ほとんどございませんでした」
やはり、過去の私は、ここで何度も食事をしていたのだろう。
椅子の高さ。
テーブルとの距離。
ナプキンの手触り。
全部が「知っている」感覚で迫ってくる。
私は、膝の上の布を指先でつまみながら、ゆっくりと深呼吸をした。
◇
扉のほうから、足音が聞こえた。
マリアが一礼して下がるのが見える。
「待たせた」
短くそう言って、レオンさまが入ってきた。
昼間と同じ、きちんとした服装。
けれど、ネクタイの結び目は少しゆるめられていて、肩のあたりにわずかな疲れがにじんでいる。
思わず、立ち上がりかけた。
すぐに、「座っていて」と手で制される。
「まだ無理をするな」
「あ、はい」
その言い方も、仕草も。
まるで、何度も同じやりとりをしてきたかのように自然だった。
レオンさまが向かいの椅子に腰をおろす。
視線が合って、少しだけ胸が跳ねる。
「どうだ。ここまで来て、疲れてはいないか」
「大丈夫です。……思ったより近かったので」
「それはよかった」
そう言って、彼は口元だけでわずかに笑った。
その笑いを見ていると、少しだけ肩の力が抜ける。
◇
前菜が運ばれてきた。
白い皿の上に、美しく盛り付けられた白身魚と、彩りのよい野菜。
透明なソースから、レモンのさわやかな香りが立ちのぼる。
「……おいしそう」
思わずこぼした言葉に、レオンさまが小さく頷く。
「君の好きなものを頼んでおいた」
「わたしの、好きなもの」
「魚は、白身ばかり選ぶからな」
さらりと言われて、私は一瞬だけ固まった。
そうだっただろうか。
魚と聞いて、孤児院で食べた干し魚や、スープに沈んだ小さな身を思い出す。
白身が好きだったか、青魚が好きだったかなんて、考えたこともなかった。
フォークで、一切れを口に運ぶ。
柔らかな身が、舌の上でほろりと崩れた。
レモンの酸味と、ハーブの香りが広がっていく。
「……やっぱり、白身が好き、かもしれません」
口が、勝手にそう言っていた。
自分で自分の言葉に驚いて、慌てて唇に手をあてる。
「今、わたし……」
「そうだ」
レオンさまは、目を細めて小さく息を吐いた。
「前からそう言っていた」
確認するような、安堵するような響き。
彼の視線が、ほんの一瞬だけ揺れたのが見えた。
「君は、骨の少ない白身魚が一番好きだと、何度も言っていたよ」
「そう……なんですね」
頭のどこかが、ちくちくとする。
思い出せないくせに、味だけは確かだ。
こんな上等な魚を食べた経験が、自分にあるのかどうかさえわからないのに。
それでも舌は、「知っている」と告げていた。
◇
食事は、静かに進んでいった。
マリアたち使用人は、少し離れた位置に控えていて、必要なときだけ音もなく近づいてくる。
会話は、ほとんどが私とレオンさまのものだった。
「お仕事は、お忙しいんですか」
当たり障りのない質問しか、思いつかない。
「まあ、そこそこに」
レオンさまは、ナイフを動かしながら、あっさりと答える。
「王都の情勢が少々落ち着かなくてね。こう見えて、公爵という肩書には、面倒ごとがつきまとう」
「大変そうです」
「君は昔からそうやって、俺に仕事の愚痴を言わせるのが上手かった」
「愚痴を」
「茶を出して、何も言わずに座っているだけで、なぜか色々話したくなる」
それは、きっと褒め言葉なのだろう。
けれど、私は少しだけ首をかしげる。
「今のわたしにも、そんなことができるでしょうか」
「さっそく、こうしてさせられている」
淡々と返されて、思わず笑ってしまう。
確かに、彼は今、自分の忙しさの話をしてくれている。
戸惑いながらも、そのことが嬉しかった。
◇
メインが下げられたあと、マリアが赤い液体の入った瓶を運んできた。
「少しだけなら、どうだ」
レオンさまが、私のグラスにワインを注いでくれる。
透明なガラスの中で、深い色が揺れた。
グラスを持ち上げた瞬間、鼻先をくすぐる香りがする。
重すぎず、どこか甘い香り。
思わず、息を止めた。
「この香り……知っている気がします」
ぽつりと漏らすと、レオンさまの手がぴたりと止まる。
ほんの一瞬だけ、灰色の瞳が見開かれた。
「火事の前夜」
静かな声が、落ちてくる。
「君が“これが一番好き”だと言っていたものだ」
「前夜……」
喉の奥が、きゅっと硬くなった。
火災の記憶は、炎と崩れる天井と、どうしようもない熱さと。
そこから先は、真っ白に飛んでいる。
けれど「前夜」と言われると、その言葉だけで胸がざわついた。
「飲めそうか」
「……はい。少しだけ」
グラスを唇に傾ける。
ワインが舌を滑り、喉を通り過ぎていく。
熱くはないのに、胸の奥がじんと温かくなった。
その温かさに、別の熱がまとわりついてくる。
誰かと向かい合って、このワインを飲んでいた気がする。
笑いながら。
少しだけ酔って。
どうでもいい話を、永遠に続けられると思っていた夜。
ぼやけた輪郭だけが浮かび上がって、すぐに霧の中へ消えていく。
「……不思議ですね」
「何が」
「知らないはずなのに。懐かしい味がするんです」
グラスをテーブルに戻しながら言うと、レオンさまはわずかに微笑んだ。
「君がそう感じるなら、それでいい」
意味が分かるような、分からないような答えだった。
◇
デザートが運ばれてきたのは、その少しあとだった。
真っ白な皿の上に、ふんわりと焼き上がったスポンジケーキ。
クリームと、小さなベリーが飾られている。
「今日は焦がしていないんですね」
「……え」
自分の口から出た言葉に、私が一番驚いた。
何を言っているのだろう。
目の前のケーキは、どこからどう見てもきれいに焼けている。
焦げた様子など、どこにもない。
「い、いえ、あの、今のは」
慌てて手を振る私を見て、レオンさまが小さく息をのんだ。
そして。
ほんの少し間を置いてから、ふっと笑った。
「そうだな」
肩が、わずかに揺れる。
「今日は、焦がしていない」
「……?」
「前に一度、君がケーキを真っ黒にした日があった」
ナイフを取りながら、彼は過去を思い出すように視線を宙に向ける。
「台所中を甘い匂いと焦げた匂いでいっぱいにして、泣きそうな顔で『食べられますか』と聞いてきた」
「わたしが、ですか」
「ああ。もちろん食べた」
落ち着いた声で、さらりと言う。
「砂糖と塩を間違えたらしくて、二切れ目を食べるのはさすがにきつかったが」
「それは……本当に申し訳ありません」
今さらになって、耳まで熱くなる。
顔から火が出そうだ。
でも、その情景は、はっきりとは浮かばない。
ただ、「ああ、やりそうだ」と妙に納得している自分がいた。
「君はそのあと、焼き直してくれた」
ケーキを切り分けながら、レオンさまは続ける。
「今度はとても上手くいって、しばらく得意げに『あのケーキは忘れないでくださいね』と言っていた」
「そんなことを」
「何度も言われたから、忘れようがない」
皿に置かれたケーキが、私の前に差し出される。
フォークで一口分を取って口に運ぶ。
やわらかな甘さが、舌に広がった。
さっき飲んだワインとは違う種類の温かさが、胸の中に残る。
忘れてしまっているはずなのに、「きっとあの日のケーキも、こんなふうに甘かったのだろう」と思えてしまう。
◇
夕食が終わるころには、身体のほうが先に疲れを訴え始めていた。
椅子から立ち上がろうとして、足元がふわりと揺れる。
「っ」
思わずテーブルに手をついたその瞬間。
腕を、腰のあたりからしっかりと支えられた。
「大丈夫か」
レオンさまの声が、すぐそばで聞こえる。
さっきより、少し低く、掠れた声。
私は、その胸に寄りかかる形になっていた。
耳のすぐ近くで、どくどくと心臓の音がする。
思ったより、速い。
私自身の鼓動と、どちらの音か分からなくなる。
「す、すみません」
「君のせいだ」
「え」
顔を上げると、レオンさまがすこしだけ困ったように笑っていた。
「心臓が速くなるのは」
軽い冗談のように言われた言葉に、胸の奥がきゅっと縮まる。
冗談だと分かっているのに。
その半分くらいは、本当にそうなのだろうと思ってしまう。
支えてくれている腕の力が、ゆっくりと緩む。
「無理はするな。まだ、長く立っているには早い」
「はい」
歩き出す前に、私は一度だけ食堂を振り返った。
長いテーブル。
輝くシャンデリア。
片側の端に並んだ、二人分の食器。
初めてのはずなのに。
ここで「おかえりなさい」と言い、「ただいま」と返されてきた時間が、確かにあったのだと感じた。
◇
寝室へ戻る途中、窓の外には、夕闇がゆっくりと降りていた。
馬車の車輪の音が遠くに聞こえる。
街の灯りがひとつ、またひとつと増えていく。
隣を歩くレオンさまの横顔を、こっそりと盗み見る。
疲れた表情。
けれど、時折こちらを気遣う視線。
日記の中の「わたし」が、何度も何度も見つめていた横顔だ。
今の私は、まだそこまでうまく彼を見られない。
けれど、確かなことがひとつだけあった。
今日、こうして同じテーブルで食事をして。
くだらない会話を少しだけして。
ワインの香りに戸惑って、ケーキの話で笑い合って。
その全部が、楽しかった。
「……今日のわたしは」
ベッドに戻ってから、そっと目を閉じる。
日記の中の「わたし」のことは、正直まだうまく好きになれない。
眩しすぎて、怖い。
でも。
「今日のわたしは、あなたと食事ができて、嬉しかった」
これは、誰のものでもない、今の私の気持ちだ。
明日の朝、また忘れてしまうかもしれない。
それでも、この瞬間だけは確かにここにあるのだと、胸の奥で強く思いながら。
私は静かに、まぶたを閉じた。




