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花嫁は毎朝、旦那さまを忘れる  作者: 妙原奇天


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第4話 日記の中の恋するフィオナ

 その日の夜、レオンさまはまだ執務室から戻ってこなかった。


 夕食のあと、マリアに助けられてベッドに戻り、身体を拭いてもらって。

 灯りを落とした寝室には、今は暖炉の火と、ベッド脇の小さなスタンドだけが灯っている。


 ぱちぱちと薪がはぜる音と、ページをめくる音だけが、静かに響いていた。


 膝の上には、あの革表紙のノート。


 明日の私へ、で始まる日記帳。


「少しだけなら」


 自分にそう言い訳をしながら、私はそっと表紙を開いた。


 今日は歩き回って、思ったよりも疲れているはずだ。

 けれど、瞼はまったく重くならない。


 頭のどこかが、はっきりと冴えている。


 さっき廊下で見た黄色い花の絵も。

 シナモンの体温も。

 転びかけたところで支えてくれた腕の重さも。


 全部いっしょに、胸の奥でまだ揺れていた。


     ◇


 ぱらり、と数ページをめくる。


 今日のことや、火災の前の日付ではなく、もっとずっと前のところ。

 インクの色が少しだけ薄く、筆圧も軽い。


 そこに、小さく見出しが書き込まれていた。


 今日の旦那さま観察記。


「観察記」


 思わず、声が漏れる。


 日付の横に、小さなハートの落書きまで添えてある。

 自分で描いたはずなのに、その浮かれた感じに、少しだけ顔が熱くなった。


 本文を追う。


 今日も庭で剣の稽古をしていた、まじめな旦那さまへ。


 窓からこっそり見ていたら、汗だくでも真面目に剣を振っていて、思わず声をかけ損ねました。


 だって、かっこよすぎます。


 途中まで書いてから、「かっこよすぎ」の部分にぐりぐり線を引いて、横に「内緒」と書き足している。

 あとから恥ずかしくなって消そうとした跡だろうか。


 文字を追うたびに、庭の景色が目に浮かぶようだった。


 日差しの強い昼下がり。

 シャツの袖をまくったレオンさまが、真剣な顔で剣を振るっている姿。


 ただの想像のはずなのに。

 剣が空気を切る音や、額ににじんだ汗の光り方まで、やけに具体的だった。


 日記は続く。


 途中でこちらに気づいて、すこしだけ剣を振るスピードを落としていたの、気づいていますよ。


 本気を出したら、もっとすごいんでしょう?


「……」


 おそらく、そのときの私の顔も、きっとこんなふうににやけていたのだろう。


 今の私は、窓から覗いた記憶は持っていない。


 でも、胸の奥が、読んでいるだけでむずむずする。


「本当に、こんなことを書いていたんですね、私」


 誰もいない部屋で、ひとりごとを言ってしまう。


 返事の代わりに、暖炉の火が小さく爆ぜた。


     ◇


 次のページには、少し違うタイトルが書かれていた。


 旦那さま、初めて笑った日。


 わざわざ線で囲ってある。


 その下に並ぶ文字は、さっきよりもいっそう軽やかだった。


 今日は大事件です。


 あの堅物な旦那さまが、とうとう声を出して笑いました。


 原因は、わたしです。


 堂々と言い切っている自分に、少しだけ感心する。


 読み進める。


 お菓子を焼こうとして、塩と砂糖を盛大に間違えました。


 見た目だけはおいしそうなケーキの、ひとくち目で、旦那さまが盛大にむせました。


 少しだけ申し訳ないけれど、その顔が面白すぎて、笑いをこらえきれませんでした。


 怒られるかと思ったのに、旦那さまもつられて笑ってくれて。


 あれはきっと、「初めて」の笑顔でした。


 ケーキは大失敗だったけれど、今日はいい日です。


「……」


 目の前に、その光景が浮かぶ。


 こげ茶色のケーキ。

 真剣な顔でフォークを口に運ぶレオンさま。

 次の瞬間、盛大にむせて、眉間に皺を寄せる。


 ひと拍おいてから、堪えきれずに吹き出した笑い。


 笑った顔がどんなだったのかまでは、はっきりしない。

 けれど、胸のあたりがじんと熱くなる。


「塩と砂糖を間違えるなんて」


 そんな初歩的な失敗を、本当に自分がしたのだろうか。

 料理は好きだったのか。

 得意だったのか、苦手だったのか。


 知らないことだらけなのに、笑い声だけが、確かなものとして胸の奥に残っている気がした。


     ◇


 ページを送る指先が、だんだんと早くなる。


 今日の旦那さま観察記は、ほかにもいくつか続いていた。


 仕事で疲れて帰ってきた日のこと。


 玄関でコートを脱ぐ手つきで、その日の機嫌が分かる、と書かれているページ。


 好きなもののリスト。


 甘い焼き菓子。

 紅茶はすこし薄め。

 猫より犬派。

 硬いクッションより、柔らかいソファ。


 嫌いなもののリスト。


 無駄な会議。

 人前で騒がれること。

 自分のことを何も見ようとしない人。


 そして、最後に小さく。


 嫌いではないもの。


 わたし。


 と、書かれていた。


「嫌いではない、って」


 なんとも言えない言い回しに、思わず笑ってしまう。

 嫌いではない、は、きっと大好きとほとんど同じ意味だ。


 ページの片隅には、「たぶん」と小さく付け足してある。

 疑い深いのか、照れくさいのか。


 日記の中の私は、よくしゃべる。

 よく相手を観察して、よく自分のことも書いている。


 それが、妙にうらやましい。


     ◇


 少し先の日付に、違う調子の文字が並んでいた。


 今日は、レオンにひどいことを言ってしまった。


 使い慣れた名前で書かれている。


 レオン。


 旦那さまと書くよりも、近い響き。


 私は、無意識にその字面を指でなぞった。


 本文を読む。


 仕事が忙しいのは分かっているのに。


 約束の時間になっても戻ってこなくて、心配と寂しさがぐちゃぐちゃになって。


 「そんなに仕事ばかりなら、わたしのことなんて、いなくてもいいんでしょう?」なんて、言ってしまった。


 あの人は何も言わずに、部屋を出ていった。


 当然だ。


 ひどいことを言ったのは、わたしだ。


 でも、本当は、わたしのほうこそ「いなくなったら困る」と言ってほしかった。


 明日ちゃんと謝ろう。


 そこまで読んで、思わずページを閉じかける。


 胸の中で、きゅっと何かが縮まる。

 息が少しだけ苦しくなる。


 喧嘩の記憶はないのに。

 謝りに行った記憶もないのに。


 「いなくてもいいんでしょう?」と口にしたときの、胃の奥が冷たくなる感覚だけが、じわじわと蘇ってくる。


 それは、孤児院で過ごしていた頃の、自分とも重なった。


 ここにいなくても、誰も気づかないのではないか。

 そんなことを、一度も考えなかったわけじゃない。


 だからこそ、日記の「わたし」の言葉が、痛いほど分かる。


「明日ちゃんと謝ろう、か」


 震える指先で、翌日の日付へとページをめくる。


 昨日、ひどいことを言ってしまったので、玄関でちゃんと待つことにした。


 レオンが帰ってきたとき、いつもより少しだけ疲れて見えた。


 「おかえりなさい」と言って、土間で頭を下げた。


 「昨日はごめんなさい」と言ったら、何も言わずに頭をぽん、と撫でられた。


 ずるい。


 泣きそうになった。


 結局、夕食のあと、何でもない話をしながら一緒に紅茶を飲んだ。


 やっぱり、レオンが家にいると落ち着く。


 最後の一文に、小さなハートがついている。


 ふざけているようで、必死だったのだろう。

 許されたことが嬉しくて、息が抜けて、そんな印をつけてしまったのかもしれない。


「許して、もらえたんですね」


 声に出すと、その瞬間に、涙がにじんだ。


 日記の中の「わたし」は、自分の失言をちゃんと覚えていて。

 次の日には、そのことをちゃんと背負って、「ごめんなさい」と言いに行っている。


 それを聞いて、何も言わずに頭を撫でる人がいる。


 謝れなかった過去の自分に対して、日記の「わたし」は少しだけ大人に見えた。


 今の私はどうだろう。


 ここ数日、レオンさまに「ごめんなさい」と言ってばかりだ。

 でもそれは、謝っているようでいて、ただ怖くて言っているだけかもしれない。


 誰かに嫌われるのが怖くて。

 ここから追い出されるのが怖くて。


 日記の中の「わたし」は、その怖さをちゃんと知ったうえで、その人のところへ歩いていっている。


 羨ましくて、少し憎らしい。


「彼女なんて」


 心の中で、そう呼びそうになって。

 慌てて言い直す。


 私。


 これは、私の日記だ。

 ここに書かれているのは、知らない誰かの恋ではなく、私が選んだ時間だ。


 そう思おうとすると、その分だけ苦しくなる。


     ◇


 ぱたん、と軽い足音が、廊下の向こうから聞こえてきた。


 ノックが鳴る前に、私はとっさに日記を閉じてしまう。


 胸の上に置いたまま、布団を引き寄せる。

 まるで、秘密を隠すみたいに。


「フィオナ。入ってもいいか」


「……どうぞ」


 扉の向こうから聞こえる声は、いつも通り落ち着いていた。


 執務用の黒い上着を脱いだレオンさまが、静かに部屋に入ってくる。

 暖炉の火に照らされた横顔は、昼間より少し疲れて見えた。


「起きていたんだね」


「はい。少し、眠れなくて」


「そうか」


 視線が自然に、私の胸もとへと落ちる。

 そこにある革表紙を見て、彼はふっと目を細めた。


「読んでいたのか」


「……はい」


 隠しごとは、あまり得意ではないらしい。

 私は、観念してノートを持ち上げる。


「昔の、わたしのことが、たくさん書いてありました」


「君が書いたからね」


 レオンさまはベッドのそばの椅子に腰をおろした。

 距離は近いのに、きちんと一定の間をあけてくれている。


「どうだった?」


「どう、というのは」


「日記の中の君は」


 問いかけられて、少しだけ言葉に詰まる。


 羨ましい。

 眩しい。

 憎たらしいくらい、誰かのことが好きで。


 でも、そういう言葉をそのまま口にしてしまうのは、なんだか悔しい。


「……わたしは」


 それでも、勇気を振り絞って言う。


「あなたのことが、昔は、好きだったみたいですね」


 最後に「みたい」をつけることで、ほんの少し逃げ道を残した。


 「今は」と続けることができない。

 いまの私は、自分の気持ちに名前をつけるほど、まだこの感情を扱い慣れていない。


 レオンさまは、一瞬だけ目を伏せた。


 暖炉の火が揺れる。

 影が、彼の頬をやわらかくなぞる。


「ああ」


 短い相づちに、いろいろな感情が混じっていた。


「昔の君は、よく俺にしがみついてきていた」


「しがみついて」


「うるさいくらい、気持ちをぶつけてきたよ」


 言い方は少し自虐的で。

 でも、声の色は、どこまでも優しかった。


 その「昔の君」という言い方に、胸がちくりとする。


 今の私は、その中に入れてもらえていないのだろうか、なんて。

 そんな子どもじみた考えが、一瞬頭をかすめた。


「今のわたしは」


 聞いてはいけない、と頭のどこかが止めているのに。

 舌のほうが先に動いてしまう。


「今のわたしは、どう、ですか」


 レオンさまは、少しだけ目を見開いた。


 それから、ゆっくりと息を吐き出す。


「そうだね」


 考えるふりをしたあと、わざとらしく肩をすくめてみせた。


「今の君も、違う形で俺のことを困らせている」


「困らせて」


「毎朝、俺の心臓を何度も止めかけているんだからな」


 あっさりとした冗談めいた言い方だった。


 でも、「心臓を止めかけている」というのは、きっと本音に近いのだろう。


「……ごめんなさい」


 反射的に謝ってしまう。


 目を覚ますたびに、彼のことを忘れてしまう。

 そのたびに、「はじめまして」からやり直させてしまう。


 そう思うと、申し訳なさで胸がいっぱいになる。


「謝らなくていい」


 すぐに、そう返ってきた。


 レオンさまは、肘を膝に乗せて、両手をゆっくりと組む。

 その仕草は、執務室で考えごとをするときと同じなのかもしれない。


「こうしてまた、君と同じ日記を読めている」


 静かな声だった。


「それだけで、充分だ」


 充分。


 その言葉が、あたたかくて、少し苦しい。


「でも、わたしは……」


「君がどう感じているかは、君が決めればいい」


 私の言葉を、彼はやんわりと遮る。


「昔の君と、今の君は、同じで、少し違う」


 灰色の瞳が、まっすぐにこちらを見た。


「どちらも、俺にとっては正真正銘のフィオナだ」


 あっさりと言い切られてしまう。


 そんなふうに言われたことに、どう反応すればいいのか分からない。


 嬉しい。

 でも、怖い。


 この人はきっと、私がどんなふうになっても、「フィオナ」として受け入れてしまうのだろう。


 そんな人のことを、私はどうやって好きになって、どうやって傷つけずにいられるのだろう。


「……難しいですね」


「何が」


「日記の中のわたしと、今のわたしを、同じ人間だと信じるのが」


 ぽろりとこぼした言葉に、レオンさまは少しだけ笑った。


「そりゃあ、難しいだろうね」


 認めてくれるその一言が、少し救いになる。


「だから、急がなくていい」


 彼は椅子から立ち上がる。


「そろそろ休んだほうがいい。明日も、きっとたくさん歩くだろう」


「……はい」


 日記を胸に抱えたまま、私はうなずいた。


「おやすみなさい、レオンさま」


「おやすみ、フィオナ」


 部屋を出ていく背中を見送ってから、私はもう一度ノートを開く。


     ◇


 さっきのページを、指でそっと撫でる。


 明日ちゃんと謝ろう。


 明日も一緒にいたいから。

 明日も同じ家で「おかえり」と言いたいから。


 そう書いた「わたし」が、そこにいる。


「この中の私が選んだ人を」


 小さな声が、薄く灯った部屋の中に溶ける。


「今の私も、選べるのだろうか」


 返事は、まだ出ない。


 日記帳を閉じる音だけが、静かに響いた。

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