第21話 星印だらけの日記から始めよう
翌朝の光は、いつもより少しだけ澄んでいるように見えた。
眩しいというより、静かに背中を押してくるような、そんな明るさだった。
私はベッドの上で膝を立てて座り、その上に日記帳をそっと乗せる。
表紙の革は、昨夜レオンさまが拭いてくれたせいか、どこか心なしか頼もしげに見えた。
「……さて」
小さく息を整えて、私はひとりごとのように口を開く。
「ここからは、“真相ノート”としても働いてもらいますからね」
向かいの椅子に座っているレオンさまが、くすっと笑った。
「昇格だな。日記から、真相ノートへ」
「お給金は上がりませんけれど」
「そこは俺が、内容で埋め合わせよう」
軽い冗談を交わしていても、胸の奥には昨夜の言葉が残っている。
炎の廊下。
“約束したでしょ”と叫んだ私。
それでも戻ってきてくれた人と、今、同じノートを覗き込もうとしている。
そう思うだけで、指先に少しだけ温度が宿った。
「じゃあ、始めましょうか」
私は日記を開きながら、机の上の道具たちを見回す。
しおり代わりの細い紐。
色の違うインク。
メモ用の小さな紙。
普段の私なら、こういう準備で満足してしまいそうだけれど、今日は違う。
ここから、この道具たちをちゃんと“武器”に変えなくてはいけない。
「まずは……星印の多いページから見るのがいいと思うんです」
「星印?」
レオンさまが首をかしげる。
「はい。とても嬉しかった日につける印、でしたよね。
嬉しかった記憶のほうが、細かいことも思い出しやすいかなって。
体調とか、誰に会ったとか、匂いとか」
「なるほど。入口は明るいほうがいい、というわけだ」
そう言って、レオンさまは少しだけ表情をゆるめた。
私はページをぱらぱらとめくる。
紙の匂いとインクの匂いが混ざった、落ち着く感覚。
その中に、ときどき小さな星の形が、ひょっこり顔を出す。
「あ、ここ。星印が三つも続いています」
「三日連続で嬉しいことがあったのか」
「……そうみたいです。いいですね、三連続」
ちょっと誇らしい気持ちで、そのページを開く。
そこには、自分の字でこう書いてあった。
『旦那さまが、初めて自分から日記に一文書いてくださった。
“明日の俺へ。フィオナを頼む”と。
あまりに真面目で、笑った。』
読み上げたあと、頬がじわっと熱くなる。
「わあ……」
どう反応すればいいか分からなくて、私は曖昧な声を出した。
「そんなこと、書きましたっけ、レオンさま」
「覚えていないのか」
「……すみません、まったく」
正直に言うと、レオンさまは咳払いをひとつした。
「俺も、書いた内容までは忘れていた」
「え」
「だが、覚えていなくても、こうして証拠が残っている。
少なくとも、その日俺が“真面目すぎる一文”を書いたのは事実らしい」
からかうような口調なのに、耳までうっすら赤い。
その様子が面白くて、ちょっとだけ胸が軽くなった。
「この日の体調は……“少し頭が重いけれど、気分は軽い”と書いてあります」
「誰か屋敷に来ていたか?」
「えっと……“昼間に、医師の先生が来てくれた。
ハロルドが、珍しくお茶を淹れてくれた。
旦那さまは、そのあと執務室にこもりきり”……ですね」
私は別の紙に、ひとつずつ書き写していく。
「日記の内容、体調、訪問者。
この三つを並べてみるんだったな」
「はい。あと、匂いや音で気になったことがあったら、それも」
そんなふうに話していると、ちょうどそのとき、扉を叩くノックの音がした。
「失礼いたします。奥様、坊ちゃま」
聞き慣れた落ち着いた声。
扉の向こうから、執事のハロルドが顔を出した。
「今、少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「ちょうどいい。入ってくれ」
レオンさまが促すと、ハロルドはきちんと一礼して部屋に入ってきた。
手には数冊の帳簿と、薄い日誌。
その姿は、まるでどこかの役所から派遣された“記録の精霊”みたいだった。
「……おや」
ハロルドの視線が、テーブルの上の道具と、開かれた日記に止まる。
「この並び……もしや、捜査会議でございますか」
わずかに口元を緩めながらの言葉に、私は思わず吹き出してしまった。
「捜査会議、です」
レオンさまが、どこか誇らしげに頷く。
「フィオナの日記と、君の台帳と、俺の記憶を重ねる。
真相に近づくための会議だ」
「それはまた、光栄なお役目を頂戴しましたな」
ハロルドは穏やかな笑みを浮かべ、机の端に帳簿を並べた。
「屋敷の出入りの記録と、各使用人の勤務表を持って参りました。
奥様の日記と照らし合わせれば、何か見えてくるかもしれません」
「心強いです」
私は本音でそう告げる。
私一人では、きっと星印と雨粒を眺めて満足してしまう。
こうして、違う角度から見てくれる人がいるのは、とても心強かった。
◇
三人で机を囲む形になった。
私の前には日記。
ハロルドの前には、屋敷の出入り台帳。
そしてレオンさまの前には、王都の予定が書かれた小さな手帳が置かれる。
「では、星印の多い日から順に」
私は、さきほどのページに指を置いた。
「この日は――レオンさまの“明日の俺へ”事件の日ですね」
「そんな名前がついていたのか」
少しむっとしたような声に、ハロルドが咳払いをして誤魔化す。
「出入り台帳を拝見しますと……医師殿の来訪が一件。
ほかは特に変わった来客はございませんな」
「俺の予定も、医師と少し話をしたほかは、通常の執務だけだ。
バルドとも会っていない」
「では、この日は“平和な星印”ですね」
そう言って、私はメモに小さな星を描いた。
次の星印のページをめくる。
「ここは……“青いドレスを褒めてくれた日”だそうです」
声に出した途端、顔が一気に熱くなった。
「……あのドレスか」
レオンさまも、分かりやすく視線を逸らす。
『青いドレスを着たら、旦那さまが少しだけ目を丸くした。
“とても、綺麗だ”と言ってくれて、胸がいっぱいになった。
星印。』
自分で書いた文章なのに、読み上げると恥ずかしさが倍になる。
「この日は……」
私は慌てて星印の横に話題を逸らした。
「体調は、“少し緊張していたけれど、楽しい一日”とあります。
夜会の準備の日、ですね」
「出入り台帳には……仕立て屋と、馬車の整備係が来ておりますな」
ハロルドが指を動かしながら言う。
「バルド侯爵側の使者の出入りは?」
「この日には、記録されておりません」
「では、ここも“平和な星印”だな」
レオンさまがそうまとめる。
私は、その言葉に少しだけほっとした。
星印が、火や匂いの記憶と結びついていたら……
きっと、それだけで胸が苦しくなってしまっていたから。
「次は……ここです」
日記のページを慎重にめくっていくと、今度は星印と雨粒が隣り合っている日が現れた。
「星印と雨粒の両方?」
「はい。“嬉しいけれど、少し怖かった日”なのかもしれません」
私は、声を整えてその日の文章を読む。
『旦那さまが珍しく遅く帰ってきた。
でも、扉を開けるとすぐに“ただいま”と言ってくれた。
それが嬉しくて、星印。
服から、少しだけ嫌な匂いがした。
覚えのあるような、甘くて重い香り。
胸がざわざわして、雨粒。』
読み終えたあと、私は自分の胸に手を当てた。
覚えていない。
だけど、文字を追っているだけで、胸の奥がざわめく感覚が蘇る。
「……その匂いの正体が、今は分かる」
レオンさまが静かに言った。
「バルドと会っていた日だ」
手帳を開いた彼の指が、その日の欄を押さえる。
「王都の外れで非公式の会談があった。
あいつはいつも、あの香水をつけてくる」
「出入り台帳にも、“バルド侯爵家より使者一名来訪”と記録がございます」
ハロルドが、別の帳簿から読み上げた。
「坊ちゃまのお帰りの少し前に、使者殿が退出しておりますな」
「ということは」
私はペンを握り直す。
「この日記の“嫌な匂い”は、バルド侯爵の香りだった可能性が高い、ということですよね」
自分で言いながら、背筋に冷たいものが走る。
あの夜会で嗅いだ香り。
火の夢と重なった、あの匂い。
それが、火事のずっと前から、この屋敷の中に入り込んでいた。
「星印がついているのが、また皮肉ですわね」
無理に笑いながら言うと、レオンさまが首を振った。
「いや、むしろ救いだ。
嫌な匂いに気づけたのは、“ただいま”が嬉しかったからだろう」
「え?」
「嬉しかったからこそ、匂いの違和感にも敏感になれた。
どちらか片方しか感じていなかったら、こうして記録には残らなかったかもしれない」
その視点は、今まで考えたことがなかった。
「……そうかもしれません」
私は、星印と雨粒の印を、少し愛おしいもののように眺めた。
嫌なことだけを書いていたら、きっと読むのが怖くて開けなくなっていた。
嬉しいこととセットだったから、今こうしてページをめくれている。
◇
そのあとも、星印と雨粒を頼りに、日記と台帳を照らし合わせていった。
ある日には――
『日記の表紙に、不思議な跡がついていた。
誰かが触ったような気がする。雨粒』
と書いてあるページが見つかった。
「その翌日……」
ハロルドが台帳をめくる。
「庭師の一人が、理由を告げて急に辞めております。
家族の病気のためと申しておりましたが……」
「今となっては、不自然かもしれませんね」
私は、日記の表紙についた痕跡を、指の腹でなぞった。
泥とも、香水ともつかない、薄い跡。
あの夜、侵入者が触れていった痕に似ている。
「当時の君は、その違和感にちゃんと気づいていた」
レオンさまが、日記の一文を見つめながら言う。
「ただ“誰が”と“なぜ”までは考えなかっただけだ」
「……考える前に忘れたのかもしれません」
そう言ったあとで、私は自分の言葉に苦い顔をした。
忘れた。
また、その言葉に頼ろうとしている。
でも、そのとき、ハロルドが静かな声で口を開いた。
「いいえ、奥様」
「はい?」
「もし、奥様が忘れてしまわれるご性質でなかったなら、そもそもこの日記は存在しなかったかもしれません」
思ってもいなかった言葉に、目を瞬かせる。
「忘れてしまうからこそ、“書き残しておこう”とお考えになった。
そのおかげで、今こうして我々は、点と点を線で結ぶことができております」
ハロルドは、日記と台帳を指先でそっと叩いた。
「忘却は確かに、奥様から多くのものを奪いました。
ですが同時に、奥様に“記録を残す”という習慣を与えた。
その記録が今、この屋敷と坊ちゃまを守る盾になりつつあります」
胸の奥に、じんと熱いものが広がった。
忘れてしまう自分を、ずっと責めてきた。
大事なものを落としてばかりの、欠けた器だと思っていた。
でも――
「……忘れる私だからこそ、残せたものもある、ってことですね」
自分で言ってみて、その言葉が少しだけ胸に馴染む。
「はい、奥様」
ハロルドは、いつも通りの穏やかな笑みを向けてくれた。
レオンさまも、小さく頷く。
「君が燃え残してくれたものだ」
「燃え残して、ですか?」
「火事で全部が燃え尽きたわけではない。
この廊下のように、焼け跡が残り、そこに新しい床板が張られた場所もある。
君の日記は、記憶の中の“燃え残り”だ。
それを今、俺たちが形にしようとしている」
燃え残り。
たしかに、日記の一文一文は、どこか焦げ跡みたいに見える。
切り取られた断面から、当時の匂いや音が少しだけ漏れ出しているような。
「……じゃあ、これは、わたしの記憶の燃え残りですね」
私は日記を閉じて、そっと抱きかかえた。
「燃え残りでできた地図、っていうのも、ちょっとかっこいいかもしれません」
そう言うと、レオンさまが笑う。
「なら、その地図の端っこに、新しい印をつけるか」
「新しい印?」
「真実に近づいた日につける印だ。
星印でも雨粒でもない、“炎の印”はどうだ」
「炎の印……」
私は少し考えてから、インク壺にペン先を浸した。
星でも涙でもない、ちいさな形。
紙の端に、ちょん、と描く。
尖ったしずくが、逆さに揺れているような、簡単なマーク。
「これが、“真実の火”の印です」
自分で決めた名前を口にすると、不思議と背筋が伸びる気がした。
「これから先、何かが繋がった日には、これをつけていきます。
燃え広がる炎じゃなくて、灯していく火として」
「いい名だ」
レオンさまが、素直にそう言ってくれた。
「君が灯した火なら、俺は何度でも守ろう」
その言葉に、星印がまたひとつ増える予感がした。
◇
捜査会議は、まだ本格的な結論には届かない。
バルド侯爵の香水の匂い。
急に辞めた庭師。
雨粒の印がついた日の、不穏な足音。
それらが細い糸のように繋がり始めただけだ。
それでも――
「ここから始めましょう」
私は日記の最後のページを開いて、新しい一行を書き始めた。
『今日の私は、あなたと一緒に、星印だらけの日記を地図に変えました。』
書き終えてから、少しだけ迷う。
星印をひとつ描き足す。
その隣に、ちいさな炎の印を、そっと添えた。
『明日の私へ。
この印の意味だけは、どうか忘れないで。』
ペンを置いた私を、レオンさまとハロルドが静かに見守っている。
ページを閉じる音が、やけに心地よく響いた。
星印だらけの日記から始まる物語が、今やっと、“わたしたちが選んだ物語”になりつつある。
忘れるたびに、読み返せばいい。
読むたびに、また新しい印をつけていけばいい。
そうやって、何度でも。
私はきっと、何度でも同じ名前を書き続けるのだろう。
このページの最後に。
――レオンと、一緒に。




