20話 それでも笑って
影が薄くなっている、と知った次の日から、
この屋敷の空気は、ほんの少しだけ変わりました。
目に見えて大きく変わったわけではありません。
けれど、廊下に差し込む朝の光の中で、
私は、あちこちの影が、そっと私に寄り添ってくるような感覚を覚えたのです。
◇◇◇
「書類は、事前にこちらで仕分けておきました」
朝一番。
執務室の扉が開く直前、
ガイルさんが腕に抱えた書類の束を、手際よく机の上に並べていました。
「急ぎ、確認のみ、他者に回せるもの。
分けておけば、閣下も奥様も、少しは楽でしょう」
淡々と言いながらも、
その目は一度だけ、窓辺に落ちた私の影をかすめます。
私は、そっと彼の足元まで滲み寄りました。
ありがとう、と伝えたくて。
けれど、ガイルさんは何も言いません。
ただ、いつもより少しだけ柔らかい手つきで、
書類の山を整えるだけでした。
◇◇◇
「奥様。今日はお庭のお散歩、
短めにして、お部屋でお話ししませんか」
廊下を進む途中、
リーナがそう提案してきたのは、昼前のことでした。
いつもなら、「お庭の薔薇がきれいなんですよ」とか、
「新しく咲いた花を見に行きましょう」と誘ってくれるのに。
今日は、窓の外をちらりと見てから、
わざとそう言ったのが、すぐに分かりました。
「……外に出たいですか?」
床に落ちた私の影を見下ろして、
リーナが少し不安そうに尋ねます。
私は、ほんの少しだけ、左右に揺れました。
どちらでもない。
彼女の誘いに、合わせたい。
そういうつもりの揺れでした。
「では、少しだけ。
すぐ戻って、あとはお部屋でおしゃべりしましょうね」
リーナはふわりと笑い、
私の影と並ぶように足を踏み出します。
足音が、ゆっくりとしたリズムになる。
私の歩幅に合わせてくれているのが、
なんとなく、影越しにも分かりました。
◇◇◇
「今日は香りのいいスープだぞ」
昼食の準備で慌ただしい厨房。
大きな鍋から立ち上る湯気は、
いつもよりずっと豊かな匂いを運んできました。
ハーブ。
根菜。
少しだけバターの甘い香り。
私は、壁際の影の中から、
鍋の周りを忙しく動き回る人たちを眺めます。
「奥様にも、楽しんでいただかんとな。
味は無理でも、香りくらいはな」
コック長が笑いながら、
鍋の蓋を少しだけ開けました。
香りが、ふわっと広がって、廊下まで流れていきます。
影の私は、味を知ることはできません。
それでも、香りだけでなんとなく、
どんな温かさなのかを想像することはできるのです。
胸の奥に、小さな灯りがともるような感じ。
それが、私にとっての「スープの味」でした。
◇◇◇
みんな、気づかないふりをしながら、
少しずつ、私の負担を減らそうとしてくれている。
ガイルさんは、事前に仕事を整理して。
リーナは、散歩の時間を短くして。
コックたちは、香りで楽しめる料理を用意して。
きっと他にも、
見えないところで何かを調整してくれている人がいるのでしょう。
それが分かるたびに、
私は嬉しさと、申し訳なさの間で揺れました。
――私が、消えてしまうかもしれないから。
そう思うからこそ、
みんなはこんなふうに優しくしてくれている。
その事実が、少しだけ胸をちくりと刺します。
私は、誰かに心配されるためだけに、
ここにいるわけじゃないのに。
ちゃんと、役にも立ちたい。
頼られたい。
……でも。
心の中でもう一度、その「でも」に触れると、
リーナの言葉がふっと浮かび上がりました。
『優しさをそのまま受け取るのも、奥様のお仕事ですよ』
あのとき、彼女は笑ってそう言ったのです。
誰かが差し出してくれた好意を、
「ごめんなさい」と突き返してばかりいたら。
きっと、その人はいつか、
自分がしていることに自信をなくしてしまう。
私は、あの家で、
何度もそれを見てきました。
だから今度は、
自分から否定しないと決めたのです。
優しさを、そのまま受け取ること。
それもまた、今の私にできる、大事なことのひとつ。
そう思い直すと、
影の輪郭が、照れくさそうにふわふわと揺れました。
◇◇◇
「奥様、最近……前よりも、よく笑っておいでですね」
午後。
自室で、ティーカップの香りを楽しんでいたとき。
リーナがふとそんなことを言って、
私は思わず動きを止めました。
笑う、なんて。
私はもう顔も持っていないのに。
「影なのに、分かるんですか」
言葉にはできない疑問を、
床の上で小さく跳ねることで伝えます。
リーナは、くすっと笑いました。
「分かりますよ。
奥様の影、表情豊かですから」
「ひょうじょう……」
「落ち込んでいるときは、
端っこが尖って見えるんです。
ほら、あの日、実家からお手紙が届いたときみたいに」
彼女は指で、小さな三角形を描きます。
「でも、楽しいときは、もっと丸くて。
ふわふわしていて、あったかい感じに見えるんです」
私の影が、恥ずかしさに耐えられず、
じたばたと床の上を揺れました。
「今みたいに」
リーナは嬉しそうに笑います。
「だから、最近はよく笑っておられるな、って。
公爵様と一緒にいるときなんて、特に」
その言葉に、余計に落ち着きがなくなってしまい、
床の黒い渦が、くるくると回ります。
「大丈夫ですよ。
奥様の笑った影、私、大好きですから」
リーナは、そっと掌を床に置きました。
彼女の手の影に、私の影の端が触れる。
それだけで、
胸の中のざわめきが、少しずつ静かになっていきました。
◇◇◇
その日の夕方、公爵様は、
いつもよりさらに早く執務室の扉を開けました。
廊下で待機していたガイルさんとリーナが、
少し驚いた顔を見合わせます。
「……どうかなさいましたか、閣下」
「何か緊急の報告が?」
「いや」
短く首を振ってから、
公爵様は言いました。
「今日は、皆で食堂で食べよう」
「皆で……ですか?」
リーナの目が、真ん丸になります。
ガイルさんも、わずかに眉を上げました。
公爵様は、あくまで平然としたまま、
足元の私の影に、ほんの一瞬だけ視線を落とします。
――みんなで。
その言葉の意味が、
ゆっくりと胸に広がりました。
私は、彼の足元からするりと抜け出し、
先に食堂へと向かいます。
テーブルの下には、
座るための椅子がいくつも並んでいて。
私は、その足元を一つひとつなぞるように、
ゆっくりと広がりました。
今日の席は、ここ。
みんなの足元をつないで、
同じテーブルを囲む。
それが、影の私なりの「着席」です。
◇◇◇
やがて、続々と人が集まってきました。
ガイルさんが、いつものように公爵様の斜め後ろに。
リーナは、給仕をしやすい位置に。
コック長までが、珍しく前掛け姿のまま端の席に座り、
下働きの子たちも、一番端っこを遠慮がちに占めました。
公爵様は、テーブルの上を静かに見渡します。
こうして皆が一堂に会している光景は、
この屋敷では、きっと久しぶりなのでしょう。
「……どうした。食べないのか」
やがて、彼が穏やかに促しました。
それを合図にしたように、
賑やかな声が一斉に上がります。
「今日のスープ、いつもより香りがいいですね!」
「パンも焼き立てですよ」
「こら、口に入れてから喋るな」
ガイルさんの呆れた声も、
どこか楽しそうです。
私は、テーブルの下で、
ひとりでこっそり笑っていました。
食べることはできないけれど。
スープの香りも、パンの温かさも、
人の笑い声も、椅子のきしみも。
全部まとめて、
“家の音”に聞こえたからです。
公爵様は、いつも通り口数は少ないまま。
それでも、
リーナの失敗談に小さく「そうか」と相槌を打ったり、
コック長の新作メニューの説明に、
「客人にも出せそうだな」と感想を添えたりしていました。
私の影は、テーブルの下で、
彼の椅子の足元から、他の椅子の影へと、そっと伸びていきます。
ここも。
ここも。
誰かが笑っている場所と、
確かにつながっている。
そう思えることが、
たまらなく幸せでした。
◇◇◇
食事が終わると、
皆が立ち上がり、自然と片付けを始めます。
皿が重なり合う音。
椅子が引かれる音。
その中で、公爵様だけが少しだけ残って、
テーブルの影を見つめていました。
私は、その影の中で静かに揺れます。
楽しかった、と伝えたくて。
「……楽しかったか」
不意に、低い声が落ちました。
周囲の喧噪に紛れるほどの、小さな問い。
けれど、私には、はっきりと届きました。
影が、元気よく揺れます。
はい、と何度も頷く代わりに、
テーブルの下でくるりと丸くなってから、
また彼の足元へと戻りました。
公爵様の口元が、ほんの少しだけ、
柔らかく持ち上がります。
その笑みが、自分に向けられたものだと思った瞬間、
私の影は、これ以上ないほどふわりと広がりました。
◇◇◇
――この光景を、失いたくない。
心の中で、そっと呟きます。
ガイルさんの、不器用な優しさ。
リーナの、まっすぐな笑顔。
コックたちの、誇らしげな料理。
そして、公爵様の、ささやかな微笑み。
全部、全部。
私にとって、大切な「日常」になっていました。
いつか、この影が完全に消えてしまう日が来るとしても。
そのときまでに、
守りたいものが、はっきりと見えた気がします。
この屋敷の、温かな空気。
同じテーブルを囲む人たちの笑い声。
公爵様が、少しだけ肩の力を抜いて座れる場所。
――この時間を守るためなら、私はきっと、戦える。
影のままでも。
人の姿を取り戻せなくても。
私にできることを全部使って。
立ちはだかるものがあるのなら、
どうにかして、それを退かしてみせたい。
そう思いながら、私は静かに、
公爵様の足元の影に身を寄せました。
薄くなりかけた輪郭でも。
まだ、ここにいる。
この家の、誰かの隣にいられるうちは――。
私は、何度だって笑うつもりです。
影にだって、笑顔はあるのだと。
そのことを、私自身が一番強く信じるために。




