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花嫁は毎朝、旦那さまを忘れる  作者: 妙原奇天


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21/22

20話 それでも笑って

 影が薄くなっている、と知った次の日から、

 この屋敷の空気は、ほんの少しだけ変わりました。


 目に見えて大きく変わったわけではありません。


 けれど、廊下に差し込む朝の光の中で、

 私は、あちこちの影が、そっと私に寄り添ってくるような感覚を覚えたのです。


◇◇◇


「書類は、事前にこちらで仕分けておきました」


 朝一番。


 執務室の扉が開く直前、

 ガイルさんが腕に抱えた書類の束を、手際よく机の上に並べていました。


「急ぎ、確認のみ、他者に回せるもの。

 分けておけば、閣下も奥様も、少しは楽でしょう」


 淡々と言いながらも、

 その目は一度だけ、窓辺に落ちた私の影をかすめます。


 私は、そっと彼の足元まで滲み寄りました。


 ありがとう、と伝えたくて。


 けれど、ガイルさんは何も言いません。


 ただ、いつもより少しだけ柔らかい手つきで、

 書類の山を整えるだけでした。


◇◇◇


「奥様。今日はお庭のお散歩、

 短めにして、お部屋でお話ししませんか」


 廊下を進む途中、

 リーナがそう提案してきたのは、昼前のことでした。


 いつもなら、「お庭の薔薇がきれいなんですよ」とか、

 「新しく咲いた花を見に行きましょう」と誘ってくれるのに。


 今日は、窓の外をちらりと見てから、

 わざとそう言ったのが、すぐに分かりました。


「……外に出たいですか?」


 床に落ちた私の影を見下ろして、

 リーナが少し不安そうに尋ねます。


 私は、ほんの少しだけ、左右に揺れました。


 どちらでもない。

 彼女の誘いに、合わせたい。


 そういうつもりの揺れでした。


「では、少しだけ。

 すぐ戻って、あとはお部屋でおしゃべりしましょうね」


 リーナはふわりと笑い、

 私の影と並ぶように足を踏み出します。


 足音が、ゆっくりとしたリズムになる。

 私の歩幅に合わせてくれているのが、

 なんとなく、影越しにも分かりました。


◇◇◇


「今日は香りのいいスープだぞ」


 昼食の準備で慌ただしい厨房。


 大きな鍋から立ち上る湯気は、

 いつもよりずっと豊かな匂いを運んできました。


 ハーブ。

 根菜。

 少しだけバターの甘い香り。


 私は、壁際の影の中から、

 鍋の周りを忙しく動き回る人たちを眺めます。


「奥様にも、楽しんでいただかんとな。

 味は無理でも、香りくらいはな」


 コック長が笑いながら、

 鍋の蓋を少しだけ開けました。


 香りが、ふわっと広がって、廊下まで流れていきます。


 影の私は、味を知ることはできません。


 それでも、香りだけでなんとなく、

 どんな温かさなのかを想像することはできるのです。


 胸の奥に、小さな灯りがともるような感じ。


 それが、私にとっての「スープの味」でした。


◇◇◇


 みんな、気づかないふりをしながら、

 少しずつ、私の負担を減らそうとしてくれている。


 ガイルさんは、事前に仕事を整理して。


 リーナは、散歩の時間を短くして。


 コックたちは、香りで楽しめる料理を用意して。


 きっと他にも、

 見えないところで何かを調整してくれている人がいるのでしょう。


 それが分かるたびに、

 私は嬉しさと、申し訳なさの間で揺れました。


 ――私が、消えてしまうかもしれないから。


 そう思うからこそ、

 みんなはこんなふうに優しくしてくれている。


 その事実が、少しだけ胸をちくりと刺します。


 私は、誰かに心配されるためだけに、

 ここにいるわけじゃないのに。


 ちゃんと、役にも立ちたい。

 頼られたい。


 ……でも。


 心の中でもう一度、その「でも」に触れると、

 リーナの言葉がふっと浮かび上がりました。


『優しさをそのまま受け取るのも、奥様のお仕事ですよ』


 あのとき、彼女は笑ってそう言ったのです。


 誰かが差し出してくれた好意を、

 「ごめんなさい」と突き返してばかりいたら。


 きっと、その人はいつか、

 自分がしていることに自信をなくしてしまう。


 私は、あの家で、

 何度もそれを見てきました。


 だから今度は、

 自分から否定しないと決めたのです。


 優しさを、そのまま受け取ること。


 それもまた、今の私にできる、大事なことのひとつ。


 そう思い直すと、

 影の輪郭が、照れくさそうにふわふわと揺れました。


◇◇◇


「奥様、最近……前よりも、よく笑っておいでですね」


 午後。


 自室で、ティーカップの香りを楽しんでいたとき。


 リーナがふとそんなことを言って、

 私は思わず動きを止めました。


 笑う、なんて。


 私はもう顔も持っていないのに。


「影なのに、分かるんですか」


 言葉にはできない疑問を、

 床の上で小さく跳ねることで伝えます。


 リーナは、くすっと笑いました。


「分かりますよ。

 奥様の影、表情豊かですから」


「ひょうじょう……」


「落ち込んでいるときは、

 端っこが尖って見えるんです。

 ほら、あの日、実家からお手紙が届いたときみたいに」


 彼女は指で、小さな三角形を描きます。


「でも、楽しいときは、もっと丸くて。

 ふわふわしていて、あったかい感じに見えるんです」


 私の影が、恥ずかしさに耐えられず、

 じたばたと床の上を揺れました。


「今みたいに」


 リーナは嬉しそうに笑います。


「だから、最近はよく笑っておられるな、って。

 公爵様と一緒にいるときなんて、特に」


 その言葉に、余計に落ち着きがなくなってしまい、

 床の黒い渦が、くるくると回ります。


「大丈夫ですよ。

 奥様の笑った影、私、大好きですから」


 リーナは、そっと掌を床に置きました。


 彼女の手の影に、私の影の端が触れる。


 それだけで、

 胸の中のざわめきが、少しずつ静かになっていきました。


◇◇◇


 その日の夕方、公爵様は、

 いつもよりさらに早く執務室の扉を開けました。


 廊下で待機していたガイルさんとリーナが、

 少し驚いた顔を見合わせます。


「……どうかなさいましたか、閣下」


「何か緊急の報告が?」


「いや」


 短く首を振ってから、

 公爵様は言いました。


「今日は、皆で食堂で食べよう」


「皆で……ですか?」


 リーナの目が、真ん丸になります。


 ガイルさんも、わずかに眉を上げました。


 公爵様は、あくまで平然としたまま、

 足元の私の影に、ほんの一瞬だけ視線を落とします。


 ――みんなで。


 その言葉の意味が、

 ゆっくりと胸に広がりました。


 私は、彼の足元からするりと抜け出し、

 先に食堂へと向かいます。


 テーブルの下には、

 座るための椅子がいくつも並んでいて。


 私は、その足元を一つひとつなぞるように、

 ゆっくりと広がりました。


 今日の席は、ここ。


 みんなの足元をつないで、

 同じテーブルを囲む。


 それが、影の私なりの「着席」です。


◇◇◇


 やがて、続々と人が集まってきました。


 ガイルさんが、いつものように公爵様の斜め後ろに。


 リーナは、給仕をしやすい位置に。


 コック長までが、珍しく前掛け姿のまま端の席に座り、

 下働きの子たちも、一番端っこを遠慮がちに占めました。


 公爵様は、テーブルの上を静かに見渡します。


 こうして皆が一堂に会している光景は、

 この屋敷では、きっと久しぶりなのでしょう。


「……どうした。食べないのか」


 やがて、彼が穏やかに促しました。


 それを合図にしたように、

 賑やかな声が一斉に上がります。


「今日のスープ、いつもより香りがいいですね!」


「パンも焼き立てですよ」


「こら、口に入れてから喋るな」


 ガイルさんの呆れた声も、

 どこか楽しそうです。


 私は、テーブルの下で、

 ひとりでこっそり笑っていました。


 食べることはできないけれど。


 スープの香りも、パンの温かさも、

 人の笑い声も、椅子のきしみも。


 全部まとめて、

 “家の音”に聞こえたからです。


 公爵様は、いつも通り口数は少ないまま。


 それでも、

 リーナの失敗談に小さく「そうか」と相槌を打ったり、


 コック長の新作メニューの説明に、

 「客人にも出せそうだな」と感想を添えたりしていました。


 私の影は、テーブルの下で、

 彼の椅子の足元から、他の椅子の影へと、そっと伸びていきます。


 ここも。

 ここも。


 誰かが笑っている場所と、

 確かにつながっている。


 そう思えることが、

 たまらなく幸せでした。


◇◇◇


 食事が終わると、

 皆が立ち上がり、自然と片付けを始めます。


 皿が重なり合う音。

 椅子が引かれる音。


 その中で、公爵様だけが少しだけ残って、

 テーブルの影を見つめていました。


 私は、その影の中で静かに揺れます。


 楽しかった、と伝えたくて。


「……楽しかったか」


 不意に、低い声が落ちました。


 周囲の喧噪に紛れるほどの、小さな問い。


 けれど、私には、はっきりと届きました。


 影が、元気よく揺れます。


 はい、と何度も頷く代わりに、

 テーブルの下でくるりと丸くなってから、

 また彼の足元へと戻りました。


 公爵様の口元が、ほんの少しだけ、

 柔らかく持ち上がります。


 その笑みが、自分に向けられたものだと思った瞬間、

 私の影は、これ以上ないほどふわりと広がりました。


◇◇◇


 ――この光景を、失いたくない。


 心の中で、そっと呟きます。


 ガイルさんの、不器用な優しさ。

 リーナの、まっすぐな笑顔。


 コックたちの、誇らしげな料理。


 そして、公爵様の、ささやかな微笑み。


 全部、全部。


 私にとって、大切な「日常」になっていました。


 いつか、この影が完全に消えてしまう日が来るとしても。


 そのときまでに、

 守りたいものが、はっきりと見えた気がします。


 この屋敷の、温かな空気。


 同じテーブルを囲む人たちの笑い声。


 公爵様が、少しだけ肩の力を抜いて座れる場所。


 ――この時間を守るためなら、私はきっと、戦える。


 影のままでも。


 人の姿を取り戻せなくても。


 私にできることを全部使って。


 立ちはだかるものがあるのなら、

 どうにかして、それを退かしてみせたい。


 そう思いながら、私は静かに、

 公爵様の足元の影に身を寄せました。


 薄くなりかけた輪郭でも。


 まだ、ここにいる。


 この家の、誰かの隣にいられるうちは――。


 私は、何度だって笑うつもりです。


 影にだって、笑顔はあるのだと。


 そのことを、私自身が一番強く信じるために。

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