第20話 あの夜、君が叫んだ名前
焼け残った廊下に、夕陽の光が長く伸びていた。
さっきまで橙色だった光が、少しずつ赤みを増していく。
焦げた壁と新しい床板、その境目をなぞるように、光の帯が揺れていた。
レオンさまは、煤けた壁に背を預けて立っている。
私はその正面、少し離れた場所に立っていた。
近すぎると、きっと息が詰まってしまう。
けれど、遠すぎると、この言葉が届かない気がして。
そんな微妙な距離だった。
「……あの夜のことを、最初から話す」
低い声が、焦げた廊下に落ちる。
私は、ごくりと唾を飲み込んで頷いた。
胸の奥で、星印と雨粒の印が、同時に増える予感がした。
◇
「昼間から、嫌な予感はしていた」
レオンさまは、遠くを見るような目で言った。
「バルドからの密使が来たのは、日が真上にあるころだ。
“今夜、王都の復興計画について話し合いたい”――そう書かれていた」
復興計画。
夜会で聞いた、あの立派な言葉が頭をよぎる。
「表向きは、協力の申し出だった。
だが文面には、“あなたが首を縦に振らなければ、復興はさらに遅れ、人々の不満はアルスター家に向かうだろう”と、遠回しな脅しが滲んでいた」
言葉だけ聞けば、礼儀正しくて、理屈も通っている。
でも、そこに見えない刃が仕込まれているのが分かる。
レオンさまは静かに続けた。
「それを読んで、あいつの本音を確かめなければならないと思った。
どこまでが噂で、どこからが本気なのか。
放っておけば、いずれ誰かの家が“整理”される」
“整理”という言葉に、ぞくりとする。
燃やして更地にすることを、そんなふうに呼ぶ人間がいる。
その事実だけで、背筋が冷える。
「フィオナは、その日、落ち着かない様子だった」
唐突に自分の名前が出て、胸がきゅっとなる。
「俺の執務室の前を、何度も行ったり来たりしていた。
扉に手をかけては離し、中に入ろうとしては、やめていた」
その光景が、不思議なくらい鮮やかに浮かんだ。
分厚い扉の前に立って、行ったり来たりする自分。
ノックをする指が震えて、「やっぱりあとで」と引っ込めてしまう姿。
覚えていないはずなのに、胸だけが、よく知っていると告げていた。
「夕方、俺が出かける支度をしているとき、君はとうとう部屋に飛び込んできた」
レオンさまの声に、少しだけ温度が混じる。
「顔色は真っ青で、目だけがやけに冴えていた。
“今夜は行かないで”――君は最初の一言で、そう言った」
喉が、ひとりでに鳴る。
「理由を聞いても、君はうまく説明できなかった。
“ひどい匂いがする気がする”“嫌な夢を見た”と繰り返していた」
嫌な夢。
胸の奥で、炎の色が揺らめく。
「“あなたがいなくなって、どこかが真っ赤に燃える夢”だと言っていた」
私の指先が、きゅっと丸まる。
覚えていない。
でも、その言葉を口にする自分の姿は、想像できてしまう。
「俺は、それを“不吉な夢”として片付けようとした。
夢に振り回されるわけにはいかない、と。
だが内心では、ざわついていた」
レオンさまは、焦げた床を見下ろした。
「それでも結局、俺は出かけることを選んだ。
“すぐ戻る。君も一緒に来るか?”――くだらない冗談でごまかして、屋敷を出ようとした」
胸の奥が、ひどく痛んだ。
そのときの自分の感情も、分かる気がした。
引き止めたいのに、うまく言葉にできないもどかしさ。
夢なんて、と笑われるのが怖くて、それでも伝えずにはいられない。
「扉をくぐろうとしたとき、君は俺の腕を掴んだ」
レオンさまの右腕に、私の視線が吸い寄せられる。
「“戻ってくるって、約束して”――君はそう言った」
空気が、一瞬止まった。
その言葉は、私の身体のどこかにも刻まれていた。
毎朝、日記を読み返すたびに、少しずつ増えていった「あなたを待つ」気持ち。
それを、昔の私は、もっと真っ直ぐな形でぶつけていたのだ。
「俺は“当たり前だ”と言って、君の手をそっとほどいた」
レオンさまは、自分の指先を見つめる。
「……それが、俺の罪の始まりだ」
ほどかれた手。
私は思わず、自分の右手を握りしめた。
握り返してくれなかった温度を、知らないまま持っている手。
◇
「バルドの屋敷での会合は、表向きは穏やかだった」
レオンさまの声が、少しだけ低くなる。
「豪奢な応接間で、ワインが並べられ、笑い声が響いていた。
あいつは、あの夜会と同じように、丁寧な言葉で“王都の未来”を語った」
私は、夜会で見たバルド侯爵の笑みを思い出した。
柔らかくて、どこか芝居じみた笑み。
目の奥だけが、冷たく光っていた。
「“焼け落ちた区画を再開発すれば、王都はもっと豊かになる”とあいつは言った。
“老朽化した地域を整理し、新しい建物を建てるべきだ”とも」
整理。
また、その言葉。
「俺は、“人の住んでいる場所を、そんなに簡単に整理とは呼べない”と返した。
家は数字ではない。
そこで暮らす人の生活ごと、燃やして塗りつぶすような真似は許せないと」
レオンさまの拳が、震えているのが見えた。
それは、今の怒りだけじゃなく、あの日の自分への怒りも混ざっている震えだ。
「バルドは、一瞬だけ目を細めた。
そして、“あなたがそう言うと思っていました”と笑った」
あなたがそう言うと思っていました――
その言葉に、ぞくっとする。
「今なら分かる。
あれは、“すでに手は打ってある”という宣告だった」
レオンさまは、自嘲するように息を吐いた。
「会合は、それ以上荒れることもなく終わった。
表向きは、な」
表と裏。
バルド侯爵という人間の、何層もの顔が見える気がする。
「屋敷を出ようとした瞬間、従者が駆け込んできた。
“公爵家の屋敷が……火事です!”」
その一言で、廊下の空気が変わった。
私の心臓も、一緒に跳ねる。
「そこから先のことは、あまり鮮明じゃない」
レオンさまは、眉間にしわを寄せた。
「とにかく、馬を飛ばした。
遠くからでも、炎が見えた。
屋敷の上に、赤い煙が立ち上っていた」
私は思わず、窓の外を振り返る。
今は夕陽だけが赤い。
でもそこに、あの日の炎が重なる。
「庭には、避難した使用人たちが集まっていた。
“奥様がまだ中に!”という叫び声が、耳に焼きついている」
奥様。
それは、私だ。
胸の奥が、じくじくと痛む。
「俺は迷わなかった。
炎の中に飛び込む以外、選択肢がなかった」
レオンさまの視線が、今私たちがいる廊下へと戻る。
「熱と煙で、肺が焼けるようだった。
それでも、“フィオナ”と叫び続けた。
名前を呼んでいないと、自分がどこにいるのか分からなくなりそうだった」
フィオナ――
炎の中で呼ばれた自分の名前を、私は今さらのように意識する。
「この廊下に辿り着いたときには、すでに炎に包まれていた。
床には、何かが撒かれていた匂いがした。
油と、香水の匂いだ」
バルド侯爵の、あの香り。
スパイスと甘さと、わずかな煙の匂い。
「それを嗅いだ瞬間、これは自然発火ではないと理解した。
誰かが、わざと火をつけたんだと」
レオンさまは、焦げた床板を足先で軽く押さえる。
「炎の向こうから、君の声がした」
息が止まる。
「“レオン!”――君は俺の名を呼んでいた。
咳き込みながら、足を引きずりながら、それでも俺の方へ走ってきた」
胸が、ぎゅっと掴まれたように痛い。
夢の中で、何度も名前を呼ぼうとしていた感覚。
喉が焼けるように熱いのに、それでも声を出そうとする切実さ。
それはきっと、あのときの自分の残り香だ。
「“来るな!”と叫んだ」
レオンさまは、まぶたをきつく閉じる。
「君を止めようとした。
だが君は、真っ直ぐにこちらへ来た。
……あの日の君は、今の君よりずっと無茶をする」
そんなことを言われても、今の私もじゅうぶん無茶をしている気がする。
でも、否定はできなかった。
「距離があと一歩で縮まる、というときだった。
天井が悲鳴を上げた」
耳の奥で、軋む音が蘇る。
「梁が落ちかけていた。
俺は“下がれ!”と言った。
だが君は逆に、俺の胸を両手で突き飛ばした」
胸のどこかが、熱を帯びる。
「“レオンは、戻ってくるって、約束したでしょ!”」
言葉が、焼きごてのように、心に押し当てられる。
約束。
昼間、手をほどかれた自分が、それでも信じた言葉。
戻ってくる、と笑って言った彼を、どうしても信じたかった気持ち。
「君はそう叫んで、俺を押しのけた。
次の瞬間、梁が落ちた」
私の背中が、うずくように痛む。
「俺は吹き飛ばされ、床に叩きつけられた。
視界の端で、君の背中に炎が噛みつくのが見えた」
息が詰まる。
「朦朧とする意識の中で、君が炎の向こうで何かを叫んでいたのを覚えている。
“レオン”――その一部だけが、俺の耳に残った」
あの夜、叫んだ名前。
私の喉が、ひとりでに震える。
「その後のことは、途切れ途切れだ。
使用人たちが駆けつけ、俺を外へ引きずり出した。
“中にまだ!”という声が遠くで響いていた」
レオンさまは、苦しそうに唇を噛む。
「次に目を覚ましたときには、君は全身を焼かれかけていて、医師が必死で魔力を注いでいた。
背中の火傷を見たとき、俺は悟った。
君は俺を庇ったのだ、と」
背中の痕に、今度は熱とともに誇りのようなものが灯る。
痛々しいけれど、ただの傷じゃない。
あの日、私が選んだ結果。
「俺は、君の“行くな”という直感を信じなかった。
君の腕をほどいて、危険の中にひとり残した。
……それが、俺の罪だ」
レオンさまの声が、焦げた廊下に落ちる。
重くて、真っ直ぐで、逃げ道のない告白だった。
◇
しばらく、何も言えなかった。
廊下のどこかで、古い木がきしむ音だけがしている。
焦げた匂いの中で、夕陽の光がゆっくりと色を変えていく。
「……わたし、そのとき」
ようやく絞り出した声は、自分で驚くほど震えていた。
「あなたの名前を、呼んだんですね」
レオンさまが、少し驚いたように私を見た。
「……ああ。
何度も。
炎の向こうから、俺を呼んでいた」
胸の奥に、何かが落ちていく音がした。
だから私は、今も夢の中で名前を探しているのだろう。
火の匂いと、焦げた壁と、一人分の背中の痛み。
それらが揃うたびに、喉が勝手に名前を呼ぼうとする。
「どうして、その部分まで、日記から破り捨てたんですか」
気づけば、口が勝手に問いを投げていた。
「わたしがあなたの名前を叫んだことまで」
レオンさまは、一瞬言葉を失ったように黙り込んだ。
やがて、苦笑とも溜息ともつかない息を吐く。
「……そこだけは、どうしても直視できなかった」
静かな声だった。
「君があの夜、最後の瞬間まで俺を信じて、名前を呼んでいたのに。
俺は君の手を取れなかった。
君を炎の中に置き去りにした、という事実が……どうしても」
その言葉には、言い訳も、逃げもなかった。
ただ自分の無力さを認める、痛々しい正直さだけがあった。
胸が、またちくりとする。
責めたい気持ちも、たしかにある。
でも、それ以上に――
「じゃあ、その責任の半分は、わたしにもください」
自分でも驚くくらい、すっと言葉が出た。
レオンさまが、はっと顔を上げる。
「……半分?」
「わたしも、危ないところへ飛び込んでいく性格なんでしょう?」
できるだけ、柔らかく笑おうとする。
「さっきの話を聞いて、よく分かりました。
あなたが止めても、わたしは走った。
“戻ってくるって約束したでしょ”なんて言いながら、勝手に押しのけた」
それは、きっと私の本質なのだと思う。
怖くても、震えていても、大事な人がそこにいるなら足を止められない性格。
「だから、あの日、あなたが約束を破ったのも事実かもしれません。
でも、わたしが無茶をしたのも事実です。
どちらか一方だけが悪いなんて、きっと違います」
レオンさまの目が、揺れた。
「君は……どうして、そんなふうに言えるんだ」
掠れた声で問われて、私は自分の胸を軽く叩いた。
「ここに、昔のわたしの“しつこさ”が残っているからだと思います」
自分で言って、少しだけ笑ってしまう。
「きっと昔のわたしなら、こう言った気がするんです。
“責任を一人で抱え込むな”って。
“約束を破った罰を受けたいなら、その罰も一緒に受ける”って」
レオンさまの肩の力が、ほんの少し抜けたように見えた。
罪悪感は消えない。
消えなくていい。
ただ、それを一人の荷物にしないでほしい。
「だから、これからは一緒に聞きましょう」
私は一歩だけ、彼に近づいた。
焦げた廊下の上で、その一歩はやけに大きく感じられた。
「誰が火をつけたのか。
どうして狙われたのか。
どうして、わたしたちの家が選ばれたのか」
レオンさまを真っ直ぐ見上げる。
「それを、あなた一人の問題じゃなくて、“わたしたち夫婦の問題”にしてください」
言いながら、自分の心臓が強く打つのを感じる。
この言葉を言うために、ここまでたどり着いた気がした。
レオンさまの目に、ゆっくりと涙が滲んでいく。
「そんなふうに、まだ……俺を夫と呼んでくれるのか」
震える声。
「毎朝“はじめまして”しても、あなたはずっと、わたしの旦那さまです」
私は胸を張って、そう言った。
「だって、わたしの指には、この指輪がはまっているから。
日記には、星印と雨粒が、あなたと一緒の日で埋まっていくから。
それはきっと、記憶よりも確かな“今”です」
夕陽が、ほとんど沈みかけていた。
焦げた壁が、赤から紫に色を変えていく。
廊下に伸びた二人分の影が、ゆっくりと重なり合う。
「……ありがとう、フィオナ」
レオンさまの声は、小さくて、でもはっきりしていた。
「俺はきっと、君に何度謝っても足りない。
それでも、君が“半分よこせ”と言うなら、その半分を抱えて進む」
「はい。ちゃんと、半分ください」
私は冗談めかして言いながら、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じていた。
レオンさまは、ほんの少しだけ笑って、視線を前に向ける。
「これからは、一緒に戦おう。
バルドが何を企んでいて、誰がこの屋敷を裏切ったのか。
君の日記と、この焼け跡と、俺たちの記憶で」
「……はい」
返事をした瞬間、胸の星印がひとつ増えた気がした。
◇
焦げた匂いの中で、夜がゆっくりと降りてくる。
窓の外に、ひとつ、ふたつと星が瞬き始める。
あの夜、炎の向こうで叫んだ名前を。
私は今も、毎朝呼び続けている。
レオン、と。




