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花嫁は毎朝、旦那さまを忘れる  作者: 妙原奇天


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20/22

第20話 あの夜、君が叫んだ名前

 焼け残った廊下に、夕陽の光が長く伸びていた。


 さっきまで橙色だった光が、少しずつ赤みを増していく。

 焦げた壁と新しい床板、その境目をなぞるように、光の帯が揺れていた。


 レオンさまは、煤けた壁に背を預けて立っている。

 私はその正面、少し離れた場所に立っていた。


 近すぎると、きっと息が詰まってしまう。

 けれど、遠すぎると、この言葉が届かない気がして。


 そんな微妙な距離だった。


「……あの夜のことを、最初から話す」


 低い声が、焦げた廊下に落ちる。


 私は、ごくりと唾を飲み込んで頷いた。

 胸の奥で、星印と雨粒の印が、同時に増える予感がした。


     ◇


「昼間から、嫌な予感はしていた」


 レオンさまは、遠くを見るような目で言った。


「バルドからの密使が来たのは、日が真上にあるころだ。

 “今夜、王都の復興計画について話し合いたい”――そう書かれていた」


 復興計画。


 夜会で聞いた、あの立派な言葉が頭をよぎる。


「表向きは、協力の申し出だった。

 だが文面には、“あなたが首を縦に振らなければ、復興はさらに遅れ、人々の不満はアルスター家に向かうだろう”と、遠回しな脅しが滲んでいた」


 言葉だけ聞けば、礼儀正しくて、理屈も通っている。


 でも、そこに見えない刃が仕込まれているのが分かる。


 レオンさまは静かに続けた。


「それを読んで、あいつの本音を確かめなければならないと思った。

 どこまでが噂で、どこからが本気なのか。

 放っておけば、いずれ誰かの家が“整理”される」


 “整理”という言葉に、ぞくりとする。


 燃やして更地にすることを、そんなふうに呼ぶ人間がいる。

 その事実だけで、背筋が冷える。


「フィオナは、その日、落ち着かない様子だった」


 唐突に自分の名前が出て、胸がきゅっとなる。


「俺の執務室の前を、何度も行ったり来たりしていた。

 扉に手をかけては離し、中に入ろうとしては、やめていた」


 その光景が、不思議なくらい鮮やかに浮かんだ。


 分厚い扉の前に立って、行ったり来たりする自分。

 ノックをする指が震えて、「やっぱりあとで」と引っ込めてしまう姿。


 覚えていないはずなのに、胸だけが、よく知っていると告げていた。


「夕方、俺が出かける支度をしているとき、君はとうとう部屋に飛び込んできた」


 レオンさまの声に、少しだけ温度が混じる。


「顔色は真っ青で、目だけがやけに冴えていた。

 “今夜は行かないで”――君は最初の一言で、そう言った」


 喉が、ひとりでに鳴る。


「理由を聞いても、君はうまく説明できなかった。

 “ひどい匂いがする気がする”“嫌な夢を見た”と繰り返していた」


 嫌な夢。


 胸の奥で、炎の色が揺らめく。


「“あなたがいなくなって、どこかが真っ赤に燃える夢”だと言っていた」


 私の指先が、きゅっと丸まる。


 覚えていない。

 でも、その言葉を口にする自分の姿は、想像できてしまう。


「俺は、それを“不吉な夢”として片付けようとした。

 夢に振り回されるわけにはいかない、と。

 だが内心では、ざわついていた」


 レオンさまは、焦げた床を見下ろした。


「それでも結局、俺は出かけることを選んだ。

 “すぐ戻る。君も一緒に来るか?”――くだらない冗談でごまかして、屋敷を出ようとした」


 胸の奥が、ひどく痛んだ。


 そのときの自分の感情も、分かる気がした。


 引き止めたいのに、うまく言葉にできないもどかしさ。

 夢なんて、と笑われるのが怖くて、それでも伝えずにはいられない。


「扉をくぐろうとしたとき、君は俺の腕を掴んだ」


 レオンさまの右腕に、私の視線が吸い寄せられる。


「“戻ってくるって、約束して”――君はそう言った」


 空気が、一瞬止まった。


 その言葉は、私の身体のどこかにも刻まれていた。


 毎朝、日記を読み返すたびに、少しずつ増えていった「あなたを待つ」気持ち。

 それを、昔の私は、もっと真っ直ぐな形でぶつけていたのだ。


「俺は“当たり前だ”と言って、君の手をそっとほどいた」


 レオンさまは、自分の指先を見つめる。


「……それが、俺の罪の始まりだ」


 ほどかれた手。


 私は思わず、自分の右手を握りしめた。

 握り返してくれなかった温度を、知らないまま持っている手。


     ◇


「バルドの屋敷での会合は、表向きは穏やかだった」


 レオンさまの声が、少しだけ低くなる。


「豪奢な応接間で、ワインが並べられ、笑い声が響いていた。

 あいつは、あの夜会と同じように、丁寧な言葉で“王都の未来”を語った」


 私は、夜会で見たバルド侯爵の笑みを思い出した。


 柔らかくて、どこか芝居じみた笑み。

 目の奥だけが、冷たく光っていた。


「“焼け落ちた区画を再開発すれば、王都はもっと豊かになる”とあいつは言った。

 “老朽化した地域を整理し、新しい建物を建てるべきだ”とも」


 整理。


 また、その言葉。


「俺は、“人の住んでいる場所を、そんなに簡単に整理とは呼べない”と返した。

 家は数字ではない。

 そこで暮らす人の生活ごと、燃やして塗りつぶすような真似は許せないと」


 レオンさまの拳が、震えているのが見えた。


 それは、今の怒りだけじゃなく、あの日の自分への怒りも混ざっている震えだ。


「バルドは、一瞬だけ目を細めた。

 そして、“あなたがそう言うと思っていました”と笑った」


 あなたがそう言うと思っていました――


 その言葉に、ぞくっとする。


「今なら分かる。

 あれは、“すでに手は打ってある”という宣告だった」


 レオンさまは、自嘲するように息を吐いた。


「会合は、それ以上荒れることもなく終わった。

 表向きは、な」


 表と裏。


 バルド侯爵という人間の、何層もの顔が見える気がする。


「屋敷を出ようとした瞬間、従者が駆け込んできた。

 “公爵家の屋敷が……火事です!”」


 その一言で、廊下の空気が変わった。


 私の心臓も、一緒に跳ねる。


「そこから先のことは、あまり鮮明じゃない」


 レオンさまは、眉間にしわを寄せた。


「とにかく、馬を飛ばした。

 遠くからでも、炎が見えた。

 屋敷の上に、赤い煙が立ち上っていた」


 私は思わず、窓の外を振り返る。


 今は夕陽だけが赤い。

 でもそこに、あの日の炎が重なる。


「庭には、避難した使用人たちが集まっていた。

 “奥様がまだ中に!”という叫び声が、耳に焼きついている」


 奥様。

 それは、私だ。


 胸の奥が、じくじくと痛む。


「俺は迷わなかった。

 炎の中に飛び込む以外、選択肢がなかった」


 レオンさまの視線が、今私たちがいる廊下へと戻る。


「熱と煙で、肺が焼けるようだった。

 それでも、“フィオナ”と叫び続けた。

 名前を呼んでいないと、自分がどこにいるのか分からなくなりそうだった」


 フィオナ――


 炎の中で呼ばれた自分の名前を、私は今さらのように意識する。


「この廊下に辿り着いたときには、すでに炎に包まれていた。

 床には、何かが撒かれていた匂いがした。

 油と、香水の匂いだ」


 バルド侯爵の、あの香り。


 スパイスと甘さと、わずかな煙の匂い。


「それを嗅いだ瞬間、これは自然発火ではないと理解した。

 誰かが、わざと火をつけたんだと」


 レオンさまは、焦げた床板を足先で軽く押さえる。


「炎の向こうから、君の声がした」


 息が止まる。


「“レオン!”――君は俺の名を呼んでいた。

 咳き込みながら、足を引きずりながら、それでも俺の方へ走ってきた」


 胸が、ぎゅっと掴まれたように痛い。


 夢の中で、何度も名前を呼ぼうとしていた感覚。

 喉が焼けるように熱いのに、それでも声を出そうとする切実さ。


 それはきっと、あのときの自分の残り香だ。


「“来るな!”と叫んだ」


 レオンさまは、まぶたをきつく閉じる。


「君を止めようとした。

 だが君は、真っ直ぐにこちらへ来た。

 ……あの日の君は、今の君よりずっと無茶をする」


 そんなことを言われても、今の私もじゅうぶん無茶をしている気がする。


 でも、否定はできなかった。


「距離があと一歩で縮まる、というときだった。

 天井が悲鳴を上げた」


 耳の奥で、軋む音が蘇る。


「梁が落ちかけていた。

 俺は“下がれ!”と言った。

 だが君は逆に、俺の胸を両手で突き飛ばした」


 胸のどこかが、熱を帯びる。


「“レオンは、戻ってくるって、約束したでしょ!”」


 言葉が、焼きごてのように、心に押し当てられる。


 約束。


 昼間、手をほどかれた自分が、それでも信じた言葉。

 戻ってくる、と笑って言った彼を、どうしても信じたかった気持ち。


「君はそう叫んで、俺を押しのけた。

 次の瞬間、梁が落ちた」


 私の背中が、うずくように痛む。


「俺は吹き飛ばされ、床に叩きつけられた。

 視界の端で、君の背中に炎が噛みつくのが見えた」


 息が詰まる。


「朦朧とする意識の中で、君が炎の向こうで何かを叫んでいたのを覚えている。

 “レオン”――その一部だけが、俺の耳に残った」


 あの夜、叫んだ名前。


 私の喉が、ひとりでに震える。


「その後のことは、途切れ途切れだ。

 使用人たちが駆けつけ、俺を外へ引きずり出した。

 “中にまだ!”という声が遠くで響いていた」


 レオンさまは、苦しそうに唇を噛む。


「次に目を覚ましたときには、君は全身を焼かれかけていて、医師が必死で魔力を注いでいた。

 背中の火傷を見たとき、俺は悟った。

 君は俺を庇ったのだ、と」


 背中の痕に、今度は熱とともに誇りのようなものが灯る。


 痛々しいけれど、ただの傷じゃない。


 あの日、私が選んだ結果。


「俺は、君の“行くな”という直感を信じなかった。

 君の腕をほどいて、危険の中にひとり残した。

 ……それが、俺の罪だ」


 レオンさまの声が、焦げた廊下に落ちる。


 重くて、真っ直ぐで、逃げ道のない告白だった。


     ◇


 しばらく、何も言えなかった。


 廊下のどこかで、古い木がきしむ音だけがしている。


 焦げた匂いの中で、夕陽の光がゆっくりと色を変えていく。


「……わたし、そのとき」


 ようやく絞り出した声は、自分で驚くほど震えていた。


「あなたの名前を、呼んだんですね」


 レオンさまが、少し驚いたように私を見た。


「……ああ。

 何度も。

 炎の向こうから、俺を呼んでいた」


 胸の奥に、何かが落ちていく音がした。


 だから私は、今も夢の中で名前を探しているのだろう。


 火の匂いと、焦げた壁と、一人分の背中の痛み。

 それらが揃うたびに、喉が勝手に名前を呼ぼうとする。


「どうして、その部分まで、日記から破り捨てたんですか」


 気づけば、口が勝手に問いを投げていた。


「わたしがあなたの名前を叫んだことまで」


 レオンさまは、一瞬言葉を失ったように黙り込んだ。


 やがて、苦笑とも溜息ともつかない息を吐く。


「……そこだけは、どうしても直視できなかった」


 静かな声だった。


「君があの夜、最後の瞬間まで俺を信じて、名前を呼んでいたのに。

 俺は君の手を取れなかった。

 君を炎の中に置き去りにした、という事実が……どうしても」


 その言葉には、言い訳も、逃げもなかった。


 ただ自分の無力さを認める、痛々しい正直さだけがあった。


 胸が、またちくりとする。


 責めたい気持ちも、たしかにある。

 でも、それ以上に――


「じゃあ、その責任の半分は、わたしにもください」


 自分でも驚くくらい、すっと言葉が出た。


 レオンさまが、はっと顔を上げる。


「……半分?」


「わたしも、危ないところへ飛び込んでいく性格なんでしょう?」


 できるだけ、柔らかく笑おうとする。


「さっきの話を聞いて、よく分かりました。

 あなたが止めても、わたしは走った。

 “戻ってくるって約束したでしょ”なんて言いながら、勝手に押しのけた」


 それは、きっと私の本質なのだと思う。


 怖くても、震えていても、大事な人がそこにいるなら足を止められない性格。


「だから、あの日、あなたが約束を破ったのも事実かもしれません。

 でも、わたしが無茶をしたのも事実です。

 どちらか一方だけが悪いなんて、きっと違います」


 レオンさまの目が、揺れた。


「君は……どうして、そんなふうに言えるんだ」


 掠れた声で問われて、私は自分の胸を軽く叩いた。


「ここに、昔のわたしの“しつこさ”が残っているからだと思います」


 自分で言って、少しだけ笑ってしまう。


「きっと昔のわたしなら、こう言った気がするんです。

 “責任を一人で抱え込むな”って。

 “約束を破った罰を受けたいなら、その罰も一緒に受ける”って」


 レオンさまの肩の力が、ほんの少し抜けたように見えた。


 罪悪感は消えない。

 消えなくていい。


 ただ、それを一人の荷物にしないでほしい。


「だから、これからは一緒に聞きましょう」


 私は一歩だけ、彼に近づいた。


 焦げた廊下の上で、その一歩はやけに大きく感じられた。


「誰が火をつけたのか。

 どうして狙われたのか。

 どうして、わたしたちの家が選ばれたのか」


 レオンさまを真っ直ぐ見上げる。


「それを、あなた一人の問題じゃなくて、“わたしたち夫婦の問題”にしてください」


 言いながら、自分の心臓が強く打つのを感じる。


 この言葉を言うために、ここまでたどり着いた気がした。


 レオンさまの目に、ゆっくりと涙が滲んでいく。


「そんなふうに、まだ……俺を夫と呼んでくれるのか」


 震える声。


「毎朝“はじめまして”しても、あなたはずっと、わたしの旦那さまです」


 私は胸を張って、そう言った。


「だって、わたしの指には、この指輪がはまっているから。

 日記には、星印と雨粒が、あなたと一緒の日で埋まっていくから。

 それはきっと、記憶よりも確かな“今”です」


 夕陽が、ほとんど沈みかけていた。


 焦げた壁が、赤から紫に色を変えていく。

 廊下に伸びた二人分の影が、ゆっくりと重なり合う。


「……ありがとう、フィオナ」


 レオンさまの声は、小さくて、でもはっきりしていた。


「俺はきっと、君に何度謝っても足りない。

 それでも、君が“半分よこせ”と言うなら、その半分を抱えて進む」


「はい。ちゃんと、半分ください」


 私は冗談めかして言いながら、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じていた。


 レオンさまは、ほんの少しだけ笑って、視線を前に向ける。


「これからは、一緒に戦おう。

 バルドが何を企んでいて、誰がこの屋敷を裏切ったのか。

 君の日記と、この焼け跡と、俺たちの記憶で」


「……はい」


 返事をした瞬間、胸の星印がひとつ増えた気がした。


     ◇


 焦げた匂いの中で、夜がゆっくりと降りてくる。


 窓の外に、ひとつ、ふたつと星が瞬き始める。


 あの夜、炎の向こうで叫んだ名前を。


 私は今も、毎朝呼び続けている。


 レオン、と。

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