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花嫁は毎朝、旦那さまを忘れる  作者: 妙原奇天


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19/22

第19話 燃え残った廊下で

 翌朝の屋敷は、いつもより足音が少なかった。


 食堂へ向かう廊下も、掃除の音がやけに控えめで、誰もが息をひそめているみたいに感じる。


 昨夜の侵入騒ぎのせいだ、と頭では分かっていた。


 けれど、胸の奥のざわざわは、それだけが理由じゃない。


 私の枕元にあった日記は、かろうじて無事だった。

 表紙には、今も薄く、誰かの手の跡が残っている。


 触るたびに、あの黒い影と、月明かりに光った横顔を思い出す。


「フィオナ」


 午前のひと仕事がひと段落したころ、寝室の扉が軽く叩かれた。


 返事をすると、レオンさまが顔をのぞかせる。


 昨夜と同じように、どこか疲れた目をしているのに、それでもきちんとした服に着替えていて、いつもの公爵さまの顔だった。


「少し、時間をもらってもいいか」


「はい」


 私は本を閉じて立ち上がる。


 彼はすぐには部屋に入ってこなくて、敷居のところで一瞬だけ迷うように立ち止まった。


「……話したい場所があるんだ。来られそうか」


 場所。


 普通なら、ソファのある小さな客間か、庭のベンチだろう。


 けれど今の言い方は、「ここでは話せないことがある」と告げているように聞こえた。


「歩けます。そんなに遠くないところなら」


「遠くはない」


 短くそう言って、レオンさまは先に立つ。


 私はマリアに軽く声をかけてから、その背中を追いかけた。


     ◇


 どれくらい歩いただろう。


 屋敷の中でも、人があまり来ない一角に入っていく。


 だんだんと、見覚えのある絵画が減っていって、代わりに何も掛かっていない壁が増えていく。


 廊下の空気も、どことなくひんやりしていた。


 突き当たりに、「立ち入り禁止」と書かれた札のかかった扉がある。


 古びた木の扉。

 誰かに長いあいだ触られていないような、静かな気配。


 レオンさまはその前で立ち止まり、鍵束から一本を抜き取った。


 金属の触れ合う澄んだ音がして、錠前が回る。


「フィオナ。少し、匂いがきついかもしれない」


 振り返った彼の目は、いつになく真剣だった。


「気分が悪くなりそうなら、すぐに言ってくれ」


 匂い。


 その言葉だけで、胸の奥がきゅっと縮む。


 私は唾を飲み込んで、こくりと頷いた。


 扉が開く。


 閉じ込められていた空気が、こちら側へと流れ込んできた。


 焦げた木の匂い。

 もう何ヶ月も、あるいは何年も前のはずなのに、まだ消えきっていない。


 そこに、かすかに石と土の冷たい匂いが混じっている。


 足が、一歩目を踏み出す前から、震えた。


「ここが」


 レオンさまが、低く言う。


「……あの日、最初に炎に包まれた廊下だ」


 眼前に広がる光景が、ゆっくりと目に馴染んでいく。


 壁の上半分は、黒く煤けている。

 ところどころ、塗装が剥がれ落ち、木の地肌がむき出しだ。


 床も、一部は新しい板に張り替えられているけれど、古い部分には褐色の染みが残っていた。


 窓は新しいガラスに入れ替えられているのに、枠の隅にはまだ、焼け焦げた跡がくっきりと残っている。


 喉の奥が熱くなる。


 ここを、私は知っている。


 頭では覚えていないはずなのに、身体のどこかが「知っている」と叫んでいる。


 足元が、ぐらりと揺れたように感じて、私は慌てて壁に手をついた。


 ざらざらとした感触。

 指先に黒い粉がつく。


 そのざらつきが、夢の中の感覚と重なる。


 炎に炙られた壁。

 熱で乾いた空気。


 視界の端が、じりじりと赤く染まりかける。


「大丈夫か」


 肩に、温かい手が触れた。


 レオンさまが、すぐ隣に立っている。


 私は小さく頷きながら、喉の奥からこぼれそうな言葉を、必死に整理した。


「……この場所、夢で見たのと、同じです」


 自分の声が、思いのほかはっきりしていて、少し驚く。


「ときどき、夜中にうなされて……炎の中の廊下を、走っている夢を見ます。

 あれはただの悪夢だと思っていましたけど」


 ここだったんだ。


 そう付け足す前に、レオンさまが静かに頷いた。


「悪夢じゃない。

 君が見たのは、現実だ」


 胸の奥で、なにかが、ぱきんと音を立てて割れた気がした。


     ◇


 レオンさまは、焦げ跡の残る廊下を、ゆっくりと歩き出した。


 私はその少し後ろについていく。


 歩くたびに、床板が小さく軋む。

 その音が、妙に生々しい。


「……あの日、俺は、バルド侯爵の邸に呼び出されていた」


 ぽつり、と。


 背中越しに落ちてきた言葉は、思ったよりも淡々としている。


「王都の復興計画について、話がしたいと。

 正式な会合ではなく、“気心の知れた者同士で腹を割って話そう”と、そういう名目だった」


 王都の復興。

 夜会で聞いた言葉と繋がる。


 でもそのときの私は、ただ「立派なひとたちの難しい話」としか受け取れなかった。


 今は、その裏に、別の意味が潜んでいたのだと分かる。


「行くべきではないと、どこかで分かっていた」


 レオンさまの声が、少しだけ掠れる。


「バルドが俺を好いていないことも分かっていたし、利権の話には毒が混じる。

 それでも、俺が行かなくてはならないと思った。

 ……あのときは、そう信じていた」


 彼はうつむいて、焦げた床板の一部を視線でなぞる。


「出かける前に、君は俺を止めようとした」


 私が。


 レオンさまを。


「“嫌な匂いがする”と言っていた。

 “今夜は行かないで。今日はどうしても、行ってほしくない”と」


 胸の奥が、急にあたたかくなって、すぐに冷える。


 そんなことを言った自分を、私は覚えていない。


 けれど、そのときの感覚だけが、ふっと蘇った。


 理由は説明できないのに、心と身体が警鐘を鳴らす感じ。


 青いドレスの布を掴んで、誰かの袖を離さないでいる、あの夜の記憶。


「俺は、それを“過保護な心配”だと受け取った」


 レオンさまは、自嘲するように笑った。


「君は、いつも俺の体を気遣ってくれていたからな。

 仕事をしすぎるとか、食事を抜くだとか。

 その延長だと、安易に解釈したんだ」


 そのときの自分を、彼が責めているのが分かった。


 私は、何も覚えていない自分が、急に情けなくなる。


「だから俺は、君に“すぐに戻る”とだけ言って、出て行った」


 歩みが止まる。


 私たちは、廊下のほぼ中央に立っていた。


 片側の壁は、とくに酷く煤けている。

 そこだけ、火が舐めるように走った跡が、斜めに残っていた。


「戻ってきたときには、すでにこの廊下は炎に包まれていた」


 彼の言葉と同時に、視界が揺れる。


 光が、赤く滲んだ。


     ◇


 目の前の煤けた壁が、ぱちぱちと音を立てる。


 黒い焦げ跡の上に、真っ赤な舌のような炎が、何本も重なる。


 熱風が、頬を刺した。

 肺に入る空気が熱くて、咳が止まらない。


 誰かの手を、私は掴んで走っていた。


 自分の手よりも、少し大きな右手。


 その手を離したくなくて、でも、煙で視界が曇って、どこがどこか分からなくなっていく。


「フィオナ!」


 遠くで呼ぶ声。


 今のレオンさまの声と、夢の中の声が、重なる。


 床に、油のような液体がこぼれている。

 炎がそこに移り、瞬く間に広がっていく。


 誰かの足音。

 梁がきしむ音。


 頭の上から、ぱらぱらと何かが落ちてきて。


 次の瞬間、鈍い音とともに、世界の一部が崩れ落ちる。


「……っ!」


 私は、自分でも驚くほど素早く、誰かの体を押しのけていた。


 背中に、焼けた木の破片が当たる。

 熱と衝撃が一度に来て、視界が真っ白になった。


 痛い。

 怖い。


 だけどそれよりも――


 この人を、ここで失いたくない。


     ◇


 現実の廊下に引き戻されたとき、私は手すりを掴んでいた。


 指先が白くなるくらい力が入っている。


 膝が笑って、うまく立っていられない。


 レオンさまがすぐ側にいて、私の肘を支えてくれていた。


「今……」


 声が、かすれる。


「ここで、わたし……誰かを押しました」


 言葉にした瞬間、確信に変わる。


 あのとき押したのは、間違いなく――


「俺だ」


 レオンさまが、静かに言った。


「君は、ここで俺を押しのけた。

 俺の代わりに、落ちてきた梁を背中で受けた」


 背中の火傷の痕が、じんわりと熱を持ったように感じる。


 痛みというより、そこに「理由」が流れ込んでくる感覚。


「君が俺を突き飛ばさなければ、今ここに立っていたのは、君ではなく俺だった」


 私は、足元の床を見た。


 一部だけ、新しい板に張り替えられている場所。


 そこに、夢の中の炎が重なる。


 あのときの自分が、その場所まで走っていって、レオンさまの背中を押した姿が、頭の中に鮮明に浮かぶ。


 怖かった。

 息が苦しかった。

 それでも足は止まらなかった。


 ――だから、背中にあの痕が残ったんだ。


 胸の奥に、妙な納得と、遅れてやってきた痛みが、同時に広がる。


「どうして、そんなことが……」


 私は、掠れた声で問う。


「火事は、ただの事故じゃないんですよね」


 レオンさまは、短く息を吐いた。


 諦めとも、覚悟ともつかない、重たい息。


「……放火だ」


 廊下の空気が、さらに冷たくなった気がした。


 知っていた。


 頭のどこかでは、とっくに気づいていた。


 床に撒かれた液体。

 マッチを擦る音。

 誰かの会話。


 それでも、言葉として聞かされると、全身の血の巡りが変わる。


「バルド侯爵の名前が、日記にあったと、君は言ったな」


 レオンさまが、私を見る。


 私は頷いた。


「はい。

 “あの人の香水の匂いが、廊下に充満していた”って、書いていたそうです」


 レオンさまは目を伏せ、焦げ跡の残る壁に視線を滑らせた。


「バルドは、王都の復興利権を巡って、俺と対立していた。

 焼けた土地に新しい建物を建て、そこから利益を得ようとしていた」


 言葉自体は簡単だ。


 けれど、その中に含まれたものは、簡単じゃない。


「金になる土地を手に入れるために、“ちょうどいい規模の火事”を起こす。

 そういう噂は前からあった。

 だが、証拠はどこにも残らない。

 ――本来なら、な」


 本来なら。


 私は、自分の胸に手を当てた。


 ここに、ひとり分の証言が残ってしまったから。


 だから、日記が狙われた。


「わたしは、その話をどこかで聞いてしまったんですね」


 自分で言いながら、ぞくりとする。


「ばらしたら困る話を。

 だから、狙われた?」


 レオンさまは、ゆっくりと頷いた。


「おそらくは」


 その返事は、曖昧さを含んでいても、否定ではなかった。


「だからこそ、俺は君から日記を遠ざけようとした。

 君が“何も覚えていない”なら、標的から外れると、そう思った」


 昨日聞いたばかりの言葉が、ここでもう一度繰り返される。


 私は、そのたびに胸の奥がちくりとするのを、自分で確かめる。


 守りたかった。

 でも、隠された。


 その二つの感情が、同じ場所でぶつかり合っている。


「……これ以上は、今の君には重すぎるかもしれない」


 レオンさまが、ふと視線を落とした。


「政治のことも、権力争いも。

 俺がどこで、どんな判断を誤ったかも。

 話せば、君はきっと、俺を――」


「それを決めるのは、わたし自身です」


 気づけば、言葉が彼の声を遮っていた。


 自分でも驚くくらい、はっきりとした声だった。


 レオンさまが、目を見開く。


「わたしは、もう……火の中で、あなたを庇った人間なんですよね」


 背中の痕が、再びじんとする。


「そのとき、何を思って押したのかは、覚えていません。

 でも、結果として――わたしは、自分の身体で、あなたの明日を守る選択をした」


 その「選択」を、今の私が否定したくはなかった。


「だったらせめて、そのときの自分が何を見て、何を怖がっていたのか。

 どうしてそんなことになったのか。

 それくらいは、ちゃんと知りたいです」


 私は、煤けた廊下を見渡した。


「あなたの奥さんとして。

 ここに住む人間として。

 そして、あの日の証人として」


 静かな廊下に、自分の声だけが響く。


 レオンさまは、しばらく何も言わなかった。


 ただ、焦げた壁と、差し込む光と、私の顔を、順番に見る。


 その瞳の奥で、何かが揺れているのが分かった。


 罪悪感。

 恐れ。

 それから、諦めたくないという意地のようなもの。


 やがて、彼はゆっくりと目を閉じ、深く息を吸い込んだ。


「……分かった」


 吐き出された息には、さっきまでの迷いが、少しだけ薄れていた。


「逃げるのは、ここまでにしよう。

 君からも、あの日からも」


 その言葉の重さに、胸がぎゅっと締め付けられる。


「全部話す。

 俺がどこで間違えて、君をどんな危険にさらしてしまったのか。

 バルドが何を企んでいて、誰がこの屋敷を裏切ったのか」


 全部。


 その一言に、喉が詰まりそうになる。


 知りたい。

 でも、怖い。


 昨日の日記に書いた、「あなたのことが分からなくて、怖くなりました」という言葉が、頭の片隅をよぎる。


 それでも。


 私は、日記に新しく決めた印のことを思い出す。


 星印と、雨粒の印。


 嬉しいことだけじゃなく、怖かったことも、ちゃんと残すと決めた自分を。


「……聞かせてください」


 そう言うと、レオンさまはまっすぐに私を見た。


 その目には、逃げ場を探す色はもうなかった。


「分かった」


 短く、けれどはっきりと頷く。


「準備をさせてくれ。

 証拠になるものも、見せたい。

 君の身体が、今日みたいに少しでも楽な時間を選ぶ。

 そのときに――すべてを話す」


 すべて。


 燃え残った廊下に、夕方の光が差し込み始めていた。


 焦げた壁の黒と、新しい床板の淡い色と。

 そのあいだを、オレンジ色の光が、そっと撫でていく。


 焼けてしまったものと。

 焼け残ったものと。


 失われた記憶と。

 まだ手の届く真実と。


 その境目に、今、私たちは立っている。


 ここからが、本当の始まりなのだと。


 焦げた匂いの中で、私は静かに、そう感じた。

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