第19話 燃え残った廊下で
翌朝の屋敷は、いつもより足音が少なかった。
食堂へ向かう廊下も、掃除の音がやけに控えめで、誰もが息をひそめているみたいに感じる。
昨夜の侵入騒ぎのせいだ、と頭では分かっていた。
けれど、胸の奥のざわざわは、それだけが理由じゃない。
私の枕元にあった日記は、かろうじて無事だった。
表紙には、今も薄く、誰かの手の跡が残っている。
触るたびに、あの黒い影と、月明かりに光った横顔を思い出す。
「フィオナ」
午前のひと仕事がひと段落したころ、寝室の扉が軽く叩かれた。
返事をすると、レオンさまが顔をのぞかせる。
昨夜と同じように、どこか疲れた目をしているのに、それでもきちんとした服に着替えていて、いつもの公爵さまの顔だった。
「少し、時間をもらってもいいか」
「はい」
私は本を閉じて立ち上がる。
彼はすぐには部屋に入ってこなくて、敷居のところで一瞬だけ迷うように立ち止まった。
「……話したい場所があるんだ。来られそうか」
場所。
普通なら、ソファのある小さな客間か、庭のベンチだろう。
けれど今の言い方は、「ここでは話せないことがある」と告げているように聞こえた。
「歩けます。そんなに遠くないところなら」
「遠くはない」
短くそう言って、レオンさまは先に立つ。
私はマリアに軽く声をかけてから、その背中を追いかけた。
◇
どれくらい歩いただろう。
屋敷の中でも、人があまり来ない一角に入っていく。
だんだんと、見覚えのある絵画が減っていって、代わりに何も掛かっていない壁が増えていく。
廊下の空気も、どことなくひんやりしていた。
突き当たりに、「立ち入り禁止」と書かれた札のかかった扉がある。
古びた木の扉。
誰かに長いあいだ触られていないような、静かな気配。
レオンさまはその前で立ち止まり、鍵束から一本を抜き取った。
金属の触れ合う澄んだ音がして、錠前が回る。
「フィオナ。少し、匂いがきついかもしれない」
振り返った彼の目は、いつになく真剣だった。
「気分が悪くなりそうなら、すぐに言ってくれ」
匂い。
その言葉だけで、胸の奥がきゅっと縮む。
私は唾を飲み込んで、こくりと頷いた。
扉が開く。
閉じ込められていた空気が、こちら側へと流れ込んできた。
焦げた木の匂い。
もう何ヶ月も、あるいは何年も前のはずなのに、まだ消えきっていない。
そこに、かすかに石と土の冷たい匂いが混じっている。
足が、一歩目を踏み出す前から、震えた。
「ここが」
レオンさまが、低く言う。
「……あの日、最初に炎に包まれた廊下だ」
眼前に広がる光景が、ゆっくりと目に馴染んでいく。
壁の上半分は、黒く煤けている。
ところどころ、塗装が剥がれ落ち、木の地肌がむき出しだ。
床も、一部は新しい板に張り替えられているけれど、古い部分には褐色の染みが残っていた。
窓は新しいガラスに入れ替えられているのに、枠の隅にはまだ、焼け焦げた跡がくっきりと残っている。
喉の奥が熱くなる。
ここを、私は知っている。
頭では覚えていないはずなのに、身体のどこかが「知っている」と叫んでいる。
足元が、ぐらりと揺れたように感じて、私は慌てて壁に手をついた。
ざらざらとした感触。
指先に黒い粉がつく。
そのざらつきが、夢の中の感覚と重なる。
炎に炙られた壁。
熱で乾いた空気。
視界の端が、じりじりと赤く染まりかける。
「大丈夫か」
肩に、温かい手が触れた。
レオンさまが、すぐ隣に立っている。
私は小さく頷きながら、喉の奥からこぼれそうな言葉を、必死に整理した。
「……この場所、夢で見たのと、同じです」
自分の声が、思いのほかはっきりしていて、少し驚く。
「ときどき、夜中にうなされて……炎の中の廊下を、走っている夢を見ます。
あれはただの悪夢だと思っていましたけど」
ここだったんだ。
そう付け足す前に、レオンさまが静かに頷いた。
「悪夢じゃない。
君が見たのは、現実だ」
胸の奥で、なにかが、ぱきんと音を立てて割れた気がした。
◇
レオンさまは、焦げ跡の残る廊下を、ゆっくりと歩き出した。
私はその少し後ろについていく。
歩くたびに、床板が小さく軋む。
その音が、妙に生々しい。
「……あの日、俺は、バルド侯爵の邸に呼び出されていた」
ぽつり、と。
背中越しに落ちてきた言葉は、思ったよりも淡々としている。
「王都の復興計画について、話がしたいと。
正式な会合ではなく、“気心の知れた者同士で腹を割って話そう”と、そういう名目だった」
王都の復興。
夜会で聞いた言葉と繋がる。
でもそのときの私は、ただ「立派なひとたちの難しい話」としか受け取れなかった。
今は、その裏に、別の意味が潜んでいたのだと分かる。
「行くべきではないと、どこかで分かっていた」
レオンさまの声が、少しだけ掠れる。
「バルドが俺を好いていないことも分かっていたし、利権の話には毒が混じる。
それでも、俺が行かなくてはならないと思った。
……あのときは、そう信じていた」
彼はうつむいて、焦げた床板の一部を視線でなぞる。
「出かける前に、君は俺を止めようとした」
私が。
レオンさまを。
「“嫌な匂いがする”と言っていた。
“今夜は行かないで。今日はどうしても、行ってほしくない”と」
胸の奥が、急にあたたかくなって、すぐに冷える。
そんなことを言った自分を、私は覚えていない。
けれど、そのときの感覚だけが、ふっと蘇った。
理由は説明できないのに、心と身体が警鐘を鳴らす感じ。
青いドレスの布を掴んで、誰かの袖を離さないでいる、あの夜の記憶。
「俺は、それを“過保護な心配”だと受け取った」
レオンさまは、自嘲するように笑った。
「君は、いつも俺の体を気遣ってくれていたからな。
仕事をしすぎるとか、食事を抜くだとか。
その延長だと、安易に解釈したんだ」
そのときの自分を、彼が責めているのが分かった。
私は、何も覚えていない自分が、急に情けなくなる。
「だから俺は、君に“すぐに戻る”とだけ言って、出て行った」
歩みが止まる。
私たちは、廊下のほぼ中央に立っていた。
片側の壁は、とくに酷く煤けている。
そこだけ、火が舐めるように走った跡が、斜めに残っていた。
「戻ってきたときには、すでにこの廊下は炎に包まれていた」
彼の言葉と同時に、視界が揺れる。
光が、赤く滲んだ。
◇
目の前の煤けた壁が、ぱちぱちと音を立てる。
黒い焦げ跡の上に、真っ赤な舌のような炎が、何本も重なる。
熱風が、頬を刺した。
肺に入る空気が熱くて、咳が止まらない。
誰かの手を、私は掴んで走っていた。
自分の手よりも、少し大きな右手。
その手を離したくなくて、でも、煙で視界が曇って、どこがどこか分からなくなっていく。
「フィオナ!」
遠くで呼ぶ声。
今のレオンさまの声と、夢の中の声が、重なる。
床に、油のような液体がこぼれている。
炎がそこに移り、瞬く間に広がっていく。
誰かの足音。
梁がきしむ音。
頭の上から、ぱらぱらと何かが落ちてきて。
次の瞬間、鈍い音とともに、世界の一部が崩れ落ちる。
「……っ!」
私は、自分でも驚くほど素早く、誰かの体を押しのけていた。
背中に、焼けた木の破片が当たる。
熱と衝撃が一度に来て、視界が真っ白になった。
痛い。
怖い。
だけどそれよりも――
この人を、ここで失いたくない。
◇
現実の廊下に引き戻されたとき、私は手すりを掴んでいた。
指先が白くなるくらい力が入っている。
膝が笑って、うまく立っていられない。
レオンさまがすぐ側にいて、私の肘を支えてくれていた。
「今……」
声が、かすれる。
「ここで、わたし……誰かを押しました」
言葉にした瞬間、確信に変わる。
あのとき押したのは、間違いなく――
「俺だ」
レオンさまが、静かに言った。
「君は、ここで俺を押しのけた。
俺の代わりに、落ちてきた梁を背中で受けた」
背中の火傷の痕が、じんわりと熱を持ったように感じる。
痛みというより、そこに「理由」が流れ込んでくる感覚。
「君が俺を突き飛ばさなければ、今ここに立っていたのは、君ではなく俺だった」
私は、足元の床を見た。
一部だけ、新しい板に張り替えられている場所。
そこに、夢の中の炎が重なる。
あのときの自分が、その場所まで走っていって、レオンさまの背中を押した姿が、頭の中に鮮明に浮かぶ。
怖かった。
息が苦しかった。
それでも足は止まらなかった。
――だから、背中にあの痕が残ったんだ。
胸の奥に、妙な納得と、遅れてやってきた痛みが、同時に広がる。
「どうして、そんなことが……」
私は、掠れた声で問う。
「火事は、ただの事故じゃないんですよね」
レオンさまは、短く息を吐いた。
諦めとも、覚悟ともつかない、重たい息。
「……放火だ」
廊下の空気が、さらに冷たくなった気がした。
知っていた。
頭のどこかでは、とっくに気づいていた。
床に撒かれた液体。
マッチを擦る音。
誰かの会話。
それでも、言葉として聞かされると、全身の血の巡りが変わる。
「バルド侯爵の名前が、日記にあったと、君は言ったな」
レオンさまが、私を見る。
私は頷いた。
「はい。
“あの人の香水の匂いが、廊下に充満していた”って、書いていたそうです」
レオンさまは目を伏せ、焦げ跡の残る壁に視線を滑らせた。
「バルドは、王都の復興利権を巡って、俺と対立していた。
焼けた土地に新しい建物を建て、そこから利益を得ようとしていた」
言葉自体は簡単だ。
けれど、その中に含まれたものは、簡単じゃない。
「金になる土地を手に入れるために、“ちょうどいい規模の火事”を起こす。
そういう噂は前からあった。
だが、証拠はどこにも残らない。
――本来なら、な」
本来なら。
私は、自分の胸に手を当てた。
ここに、ひとり分の証言が残ってしまったから。
だから、日記が狙われた。
「わたしは、その話をどこかで聞いてしまったんですね」
自分で言いながら、ぞくりとする。
「ばらしたら困る話を。
だから、狙われた?」
レオンさまは、ゆっくりと頷いた。
「おそらくは」
その返事は、曖昧さを含んでいても、否定ではなかった。
「だからこそ、俺は君から日記を遠ざけようとした。
君が“何も覚えていない”なら、標的から外れると、そう思った」
昨日聞いたばかりの言葉が、ここでもう一度繰り返される。
私は、そのたびに胸の奥がちくりとするのを、自分で確かめる。
守りたかった。
でも、隠された。
その二つの感情が、同じ場所でぶつかり合っている。
「……これ以上は、今の君には重すぎるかもしれない」
レオンさまが、ふと視線を落とした。
「政治のことも、権力争いも。
俺がどこで、どんな判断を誤ったかも。
話せば、君はきっと、俺を――」
「それを決めるのは、わたし自身です」
気づけば、言葉が彼の声を遮っていた。
自分でも驚くくらい、はっきりとした声だった。
レオンさまが、目を見開く。
「わたしは、もう……火の中で、あなたを庇った人間なんですよね」
背中の痕が、再びじんとする。
「そのとき、何を思って押したのかは、覚えていません。
でも、結果として――わたしは、自分の身体で、あなたの明日を守る選択をした」
その「選択」を、今の私が否定したくはなかった。
「だったらせめて、そのときの自分が何を見て、何を怖がっていたのか。
どうしてそんなことになったのか。
それくらいは、ちゃんと知りたいです」
私は、煤けた廊下を見渡した。
「あなたの奥さんとして。
ここに住む人間として。
そして、あの日の証人として」
静かな廊下に、自分の声だけが響く。
レオンさまは、しばらく何も言わなかった。
ただ、焦げた壁と、差し込む光と、私の顔を、順番に見る。
その瞳の奥で、何かが揺れているのが分かった。
罪悪感。
恐れ。
それから、諦めたくないという意地のようなもの。
やがて、彼はゆっくりと目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
「……分かった」
吐き出された息には、さっきまでの迷いが、少しだけ薄れていた。
「逃げるのは、ここまでにしよう。
君からも、あの日からも」
その言葉の重さに、胸がぎゅっと締め付けられる。
「全部話す。
俺がどこで間違えて、君をどんな危険にさらしてしまったのか。
バルドが何を企んでいて、誰がこの屋敷を裏切ったのか」
全部。
その一言に、喉が詰まりそうになる。
知りたい。
でも、怖い。
昨日の日記に書いた、「あなたのことが分からなくて、怖くなりました」という言葉が、頭の片隅をよぎる。
それでも。
私は、日記に新しく決めた印のことを思い出す。
星印と、雨粒の印。
嬉しいことだけじゃなく、怖かったことも、ちゃんと残すと決めた自分を。
「……聞かせてください」
そう言うと、レオンさまはまっすぐに私を見た。
その目には、逃げ場を探す色はもうなかった。
「分かった」
短く、けれどはっきりと頷く。
「準備をさせてくれ。
証拠になるものも、見せたい。
君の身体が、今日みたいに少しでも楽な時間を選ぶ。
そのときに――すべてを話す」
すべて。
燃え残った廊下に、夕方の光が差し込み始めていた。
焦げた壁の黒と、新しい床板の淡い色と。
そのあいだを、オレンジ色の光が、そっと撫でていく。
焼けてしまったものと。
焼け残ったものと。
失われた記憶と。
まだ手の届く真実と。
その境目に、今、私たちは立っている。
ここからが、本当の始まりなのだと。
焦げた匂いの中で、私は静かに、そう感じた。




