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花嫁は毎朝、旦那さまを忘れる  作者: 妙原奇天


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18/22

第18話 夜の侵入者と盗まれかけた明日

 その夜、屋敷はやけに静かだった。


 いつもなら、廊下の向こうから聞こえる使用人たちの足音や、食器を片づける小さな音が、かすかに残っている時間帯だ。


 けれどその日は、夜会から戻って数日が経ち、来客の予定もなくて。

 みんなが一度に疲れをまとめて落としているみたいに、空気まで眠っている感じがした。


 寝室のランプは、マリアが下げていった。

 残っているのは、窓から差し込む月明かりと、廊下のランプの、ごく薄い光だけ。


 私はベッドの上で、今日の日記を最後まで書き終えたあと、そっと表紙を閉じる。


 星印がひとつ。

 雨粒の印がひとつ。

 赤い線が、短く一本。


 指でそれをなぞってから、日記帳を枕元の小さなテーブルに置いた。


「明日の私、ちゃんと読んでね」


 小さくそうつぶやいて、灯りを消す。


 真っ暗というほどではない。

 天蓋の布が、淡い灰色に浮かんで見えるくらいの明るさ。


 私はしばらく、ぼんやりと天井を眺めていた。

 やがて、瞼が重くなり、意識が水の底のほうへ沈んでいく。


 炎の匂いがした。


 夢の中で、私はまた、あの夜の廊下に立っていた。


 壁にかけられたランプが、ひとつ、またひとつと落ちていく。

 床には、紙が散らばっている。


 白い紙に、黒い文字。

 それを誰かの靴が、容赦なく踏みつけていく。


 ざっ、と紙が破れる音。

 ぎゅう、と靴底が滑る感触。


 誰かが、何かを奪おうとしている。


 私の手から。

 私の声から。

 私の明日から。


 ――それ、返して。


 叫びたいのに、喉が焼けついて声が出ない。


 代わりに聞こえてくるのは、靴音だけだ。

 硬い床を踏む、規則的な音。


 とん、とん、とん――。


 ……違う。


 これは、夢の中だけの音じゃない。


 どこかで、ほんとうに誰かが歩いている。


 靴底が、廊下の絨毯を押しつぶす、低い音。

 それから、金属の、かすかなきしむような。


 カチリ。


 扉の錠が、外れる音がした。


 はっと目を開ける。


 けれど、身体はすぐには動かなかった。

 夢の中で固まっていた感覚が、そのまま続いているみたいに、手足が重い。


 薄闇の中で、寝室の扉が、ほんの少しだけ開いているのが見えた。


 ランプは消えているはずなのに、廊下のほうから漏れてくる光が、扉の隙間を細く縁取っている。


 静かに、ゆっくりと。


 その隙間を押し広げるようにして、黒い影が、するりと部屋の中に滑り込んできた。


 息を呑もうとして、私は口を閉じた。


 悲鳴を上げたいのに、喉がまだ夢の続きを引きずっている。

 胸ばかりが早く上下して、声にならない。


 その人影は、迷わなかった。


 部屋の中を見回したり、家具を物色したりしない。


 まっすぐに。


 私の枕元の、小さなテーブルへと向かってくる。


 そこに置いてあるのは――たったひとつ。

 日記だけ。


 ぎゅっと、胸の奥が掴まれた。


 私は本能的に、シーツを握りしめる。

 でも、身体はまだ動かない。


 人影は、黒いフードのようなものをかぶっていた。

 顔はよく見えない。


 けれど、足元だけは、月明かりに照らされる。


 見慣れた、黒い靴。


 屋敷の使用人が履いているのと、よく似た形。


 外から迷い込んだ盗賊、というより――ここに住む誰か。


 そう思った瞬間、背中に冷たいものが走った。


 人影の手が、テーブルの上に伸びる。

 細い指が、日記の表紙に触れる。


 カサリ、と紙と革の擦れる音。


 その音が、どうしても耐えられなくて。


「……だれ……?」


 自分でも驚くほどかすれた声が、唇から漏れた。


 人影の動きが止まる。


 ゆっくりと、こちらを振り向いた。


 月明かりが、フードの影をすべり落ちて、顎のラインを浮かび上がらせる。

 高い頬骨。

 きゅっと締まった口元。

 色の薄い瞳が、一瞬だけ、銀色に光った気がした。


 見たことがあるような。

 ないような。


 頭が、ぼうっとしているせいで、輪郭だけがやけに鮮明で、名前だけが遠い。


 人影は、短く舌打ちをした。


 小さな音なのに、ぞわりと肌が粟立つ。


 そのまま日記を掴んで、踵を返す。

 扉のほうへ――ではなく、窓のほうへ。


 カーテンが、ばさっと揺れた。


 同時に、外から怒鳴り声が聞こえる。


「誰だ、そこ!」


 夜警の兵の声だ。


 中庭を見回っていた兵が、窓際の影に気づいたのだろう。


 どん、と地面を蹴る足音。

 追う足音と、逃げる足音が重なり合う。


 私はようやく身体を動かすことができて、眼鏡も履物もないまま、ベッドから身を乗り出した。


「ま、待って――」


 声を張ったつもりが、情けないほど震えている。


 窓の外で、誰かが塀をよじ登る気配がした。

 ガリガリと石を掴む音。

 続いて、地面に着地する鈍い音。


「止まれ!」


 兵の怒鳴り声。

 けれど、足音はあっという間に遠ざかっていった。


 私は、ベッドの上で、息を切らしながら固まっていた。


 胸が痛い。

 頭の奥で、炎の匂いと混ざった香水が、ふたたび渦巻く。


 そのとき、勢いよく扉が開いた。


「フィオナ!」


 聞き慣れた声。


 寝間着の上から上着だけを羽織り、髪も乱れたままのレオンさまが、剣を腰に差して駆け込んでくる。


「大丈夫か、何が――」


 言いかけた彼の目が、私の手元で止まる。


 私は、無意識のうちに、日記を胸に抱きしめていた。


 さっき、影が掴んだはずの日記。


 逃げるときに、途中で手を滑らせたのか、それとも、私がとっさに引き寄せたのか。


 よく覚えていない。


 ただ、腕の中にある重みだけは、確かだった。


「誰かが……」


 震える声を、なんとか絞り出す。


「誰かが、ここに入ってきて……これを、持っていこうとして……」


「日記を?」


 レオンさまの顔色が、さっと変わる。


 彼はベッドの近くまで来て、そっと膝をついた。


「怪我はしていないか。

 どこか、痛むところは」


「からだは、だいじょうぶです」


 そう答えながらも、腕に力が入る。


 日記を手放したくなかった。


 けれど、レオンさまの表情を見て、私は少しだけ力を緩める。


 彼は、「見せてもいいか」と目で尋ねてきた。


 私は、ゆっくり頷く。


 腕から日記を離し、そっと差し出す。


 レオンさまは両手で受け取り、表紙をじっと見つめた。


 そこには、うっすらと、何かの跡がついていた。


 泥のようにも見えるし、乾いた何かの染みのようにも見える。

 鼻を近づければ、別の匂いも分かるのかもしれない。


 今はただ、「私以外の誰かが触った」という事実だけが、目に見える形で刻まれていた。


「フィオナ様!」


 廊下から、マリアやハロルドたちの声がする。


 ほどなくして、数人の使用人が部屋の前に集まり、夜警の兵たちも駆けつけてきた。


 屋敷中が、ひと晩で騒然となるなんて。

 思ってもみなかった。


 ハロルドが、深刻な顔で報告を始める。


「中庭で、不審な人影を夜警が目撃いたしました。

 屋敷の塀を乗り越え、外へ逃走したと」


「顔は見えたのか」


 レオンさまの声は、低く抑えられていた。


「フードで隠れていたようでございます。

 ただ……」


「ただ?」


「履いていた靴が、我が屋敷の使用人用のものと、似ていたと」


 部屋の空気が、ぴん、と張り詰める。


 誰かが、ごくりと喉を鳴らした音がした。


「つまり、内部の者が手引きをしたか、あるいは――内部の者そのもの、という可能性ですな」


 ハロルドの言葉は、慎重だったが、否定の余地がなかった。


 マリアが青ざめた顔で、「そんな」と呟く。

 ほかの使用人たちも、互いの顔色を伺っている。


 疑うつもりはない。

 けれど、「絶対に違う」と言い切れるほど、それぞれのことを知っているわけでもない。


 それが余計に、胸をざわつかせた。


「フィオナ」


 レオンさまが、ベッドに向き直る。


「誰かに触られたり、押さえつけられたりはしなかったか」


「いいえ。

 気がついたときには、もう……」


 私は、さっき見た影を思い出しながら話す。


 月明かりに浮かんだ横顔。

 銀色に光った瞳。


 そこまで言いかけて、唇を噛んだ。


 はっきりとした名前が分からないまま、誰かを指さすことが怖かった。


「ただ……その人は、まっすぐ日記に向かってきました。

 部屋のものには、ほとんど触れずに」


「目的は、日記」


 レオンさまは、低く呟く。


「どうして、誰かが日記を欲しがるんでしょう」


 自分の声が、少し遠く聞こえた。


 怖さと、怒りと、悲しさと。


 いろんなものが混ざって、胸の奥で言葉を捻じ曲げる。


 レオンさまは、一瞬目を伏せた。


 その仕草だけで、何かを知っていると分かってしまう自分が、少し嫌だった。


「君が――あの夜、見たもの。

 聞いたこと。

 感じたこと」


 彼は、日記の表紙をそっと撫でる。


「それが、ここに残っているからだ」


 胸の内側が、じわっと熱くなった。


 私が、「証人」だから。

 日記が、「証言」だから。


 壊されたはずの橋の、向こう側の出来事が、ここに文字として残っている。


 だから。


 それを消したい誰かにとって、これは邪魔なものになる。


「……破られたページも、もしかして」


 思わず、口に出ていた。


 レオンさまの指が、ぴたりと止まる。


 その沈黙が答えだと分かってしまうのが嫌で、あえて、最後まで言葉にした。


「破られたページも、誰かに――」


「破ったのは」


 レオンさまの声が、私の言葉を遮った。


 低くて、乾いた声。


「俺だ」


 部屋にいた全員の視線が、一斉に彼に向かうのがわかった。


 誰も口を挟まない。

 だけど、空気が大きく揺れたのが、肌で分かる。


 私も、息をするのを忘れていた。


「……どうして、ですか」


 ようやく、そう尋ねる。


 怒りとも違う。

 泣きそうなわけでもない。


 ただ、胸の真ん中にぽっかり穴が空いた状態で、そこに言葉を落としてみる。


 レオンさまは、しばらく何も言わなかった。


 暖炉の火もない夜の部屋で、彼の吐く息が、やけに大きく聞こえる。


「君を守るつもりだった」


 絞り出すような声だった。


「火事のあと、君はベッドの上で、震える手で日記を書いていた。

 熱でうなされながら、途切れ途切れの声で、あの夜のことを――」


 そこまで言って、彼は唇を噛みしめる。


 そのときの光景が、彼の中でははっきりとした色を持っているのに、私の中には、何もない。


 その差が、刺さる。


「君が見たもの。

 “あの男たち”の会話。

 床に撒かれた油の匂い。

 マッチの音。

 ……そして――バルド侯爵の名前」


 バルド侯爵。


 あの夜会の、甘くて重い香水の匂いが、一瞬で蘇る。


「君はそれを、日記に書き残した。

 それをこの屋敷に持っているということは、君自身に危険が及ぶ、ということだ」


 レオンさまは、日記の表紙に浮かぶ薄い跡を見下ろしながら言う。


「だから俺は、名前だけでも消そうとした。

 君の目から、あの夜の炎を遠ざけたかった」


「……破ったんですね」


 自分の声が、少しだけ震えた。


「わたしの、記憶の一部を」


 怒りと理解の間で、心がぐらぐら揺れる。


 私の知らない私が、そこにはいたのだ。


 炎を見て。

 匂いを嗅いで。

 誰かの名前を、はっきりと書いた私が。


 その私を、レオンさまは「危険だから」と言って、破り捨てた。


 私を守るために。

 でも同時に、私から真実を奪う形で。


「そのページには、何が書いてあったんですか」


 私は、どうしても聞かずにはいられなかった。


 怒鳴るような声じゃない。

 泣きつく声でもない。


 ただ、「知る権利」を、今ここでだけは手放したくなかった。


 レオンさまは、私から視線を逸らさなかった。


「君は、“二人の男の声を聞いた”と書いていた」


 淡々とした説明のはずなのに、その一言一言が重い。


「ひとりは、“本当にやるつもりか”と言った。

 もうひとりは、“今さらやめられるか。あとは燃えるだけだ”と答えた、と」


 夢の中で聞いた会話と、ぴたりと重なる。


 背中が冷たくなるのと同時に、胸の奥で何かが熱くなる。


「そして、君は“バルド侯爵”という名前を、その下に書きつけた。

 “あの人の香水の匂いが、廊下に充満していた”と」


 バルド侯爵の名が、日記の中で、真っ黒なインクとなって並んでいた光景が、ちらりと頭に浮かんだ。


 見たこともないはずなのに。

 私の手が書いた文字なのに。


「だから俺は、ページを破った」


 レオンさまは、苦しそうに目を細めた。


「証拠を消すためじゃない。

 君を、標的から外すためだ。

 “君が何も覚えていなければ、君はただの被害者でいられる”と、そう思った」


 被害者でいられる。


 その言葉が、胸に刺さった。


 レオンさまの気持ちは分かる。

 彼はきっと、本気でそう信じていたのだ。


 でも。


 私は、被害者であり続けたいわけじゃない。


 誰かに助けてもらうことも必要だけれど。

 自分の人生を、自分の手で握っていたい気持ちだってある。


 しばらく何も言えなかった。

 何を言えばいいのか、分からなかった。


 怒りも、感謝も、悲しさも。

 全部まとめて、うまく言葉にできるような器用さは、今の私にはない。


 ただひとつだけ、どうしても聞いておきたいことがある。


「……そのページが、破られていても」


 私は、日記の背のほうを、そっと指で撫でた。

 糸綴じのささくれをなぞる。


「誰かは、それでも、日記を欲しがるんですね」


 バルド侯爵の名前が消されていても。

 会話の一部が破られていても。


 私という「証人」を消すより、日記という「形」を奪うほうが、まだ簡単だと判断されたのかもしれない。


 レオンさまは、真剣な目で私を見た。


「そうだ」


 迷いのない返事だった。


「今夜の侵入者が誰であれ――これは、もうただの記録帳ではない。

 君の明日を支えるものでもあり、同時に、誰かの罪を暴く鍵でもある」


 だからこそ、狙われた。


 日記を抱きしめていたさっきの自分を思い出す。


 私はあのとき、本能的に「奪われたくない」と思った。

 明日の私のために残しているものを、今夜の誰かに奪われるのは嫌だと。


 それが、ただの我儘なのか。

 それとも、自分の人生を守るための、最初の抵抗なのか。


 答えはまだ分からない。


 ただ、ひとつだけはっきりしているのは。


 私の明日は、もう私だけのものではなくて。

 誰かの思惑や憎しみや罪にも、繋がっているということだ。


 レオンさまは、日記の表紙に残った薄い跡と、破れ目と。

 それから、ハロルドが報告した庭の泥の足跡のことを、順番に確かめるように見やった。


「手がかりは、揃いつつある」


 その声には、焦りと同じくらい、固い決意が混ざっていた。


 私は、まだ震えがおさまらない指先で、日記の角をそっと掴む。


 奪われかけた私の明日。


 それをどう守るのか。

 そして、何を思い出すのか。


 明日の私と、そのまた先の私に、ちゃんと託せるように。


 ページの重みを、改めて確かめながら。

 私は静かに、息を整えた。

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