第18話 夜の侵入者と盗まれかけた明日
その夜、屋敷はやけに静かだった。
いつもなら、廊下の向こうから聞こえる使用人たちの足音や、食器を片づける小さな音が、かすかに残っている時間帯だ。
けれどその日は、夜会から戻って数日が経ち、来客の予定もなくて。
みんなが一度に疲れをまとめて落としているみたいに、空気まで眠っている感じがした。
寝室のランプは、マリアが下げていった。
残っているのは、窓から差し込む月明かりと、廊下のランプの、ごく薄い光だけ。
私はベッドの上で、今日の日記を最後まで書き終えたあと、そっと表紙を閉じる。
星印がひとつ。
雨粒の印がひとつ。
赤い線が、短く一本。
指でそれをなぞってから、日記帳を枕元の小さなテーブルに置いた。
「明日の私、ちゃんと読んでね」
小さくそうつぶやいて、灯りを消す。
真っ暗というほどではない。
天蓋の布が、淡い灰色に浮かんで見えるくらいの明るさ。
私はしばらく、ぼんやりと天井を眺めていた。
やがて、瞼が重くなり、意識が水の底のほうへ沈んでいく。
炎の匂いがした。
夢の中で、私はまた、あの夜の廊下に立っていた。
壁にかけられたランプが、ひとつ、またひとつと落ちていく。
床には、紙が散らばっている。
白い紙に、黒い文字。
それを誰かの靴が、容赦なく踏みつけていく。
ざっ、と紙が破れる音。
ぎゅう、と靴底が滑る感触。
誰かが、何かを奪おうとしている。
私の手から。
私の声から。
私の明日から。
――それ、返して。
叫びたいのに、喉が焼けついて声が出ない。
代わりに聞こえてくるのは、靴音だけだ。
硬い床を踏む、規則的な音。
とん、とん、とん――。
……違う。
これは、夢の中だけの音じゃない。
どこかで、ほんとうに誰かが歩いている。
靴底が、廊下の絨毯を押しつぶす、低い音。
それから、金属の、かすかなきしむような。
カチリ。
扉の錠が、外れる音がした。
はっと目を開ける。
けれど、身体はすぐには動かなかった。
夢の中で固まっていた感覚が、そのまま続いているみたいに、手足が重い。
薄闇の中で、寝室の扉が、ほんの少しだけ開いているのが見えた。
ランプは消えているはずなのに、廊下のほうから漏れてくる光が、扉の隙間を細く縁取っている。
静かに、ゆっくりと。
その隙間を押し広げるようにして、黒い影が、するりと部屋の中に滑り込んできた。
息を呑もうとして、私は口を閉じた。
悲鳴を上げたいのに、喉がまだ夢の続きを引きずっている。
胸ばかりが早く上下して、声にならない。
その人影は、迷わなかった。
部屋の中を見回したり、家具を物色したりしない。
まっすぐに。
私の枕元の、小さなテーブルへと向かってくる。
そこに置いてあるのは――たったひとつ。
日記だけ。
ぎゅっと、胸の奥が掴まれた。
私は本能的に、シーツを握りしめる。
でも、身体はまだ動かない。
人影は、黒いフードのようなものをかぶっていた。
顔はよく見えない。
けれど、足元だけは、月明かりに照らされる。
見慣れた、黒い靴。
屋敷の使用人が履いているのと、よく似た形。
外から迷い込んだ盗賊、というより――ここに住む誰か。
そう思った瞬間、背中に冷たいものが走った。
人影の手が、テーブルの上に伸びる。
細い指が、日記の表紙に触れる。
カサリ、と紙と革の擦れる音。
その音が、どうしても耐えられなくて。
「……だれ……?」
自分でも驚くほどかすれた声が、唇から漏れた。
人影の動きが止まる。
ゆっくりと、こちらを振り向いた。
月明かりが、フードの影をすべり落ちて、顎のラインを浮かび上がらせる。
高い頬骨。
きゅっと締まった口元。
色の薄い瞳が、一瞬だけ、銀色に光った気がした。
見たことがあるような。
ないような。
頭が、ぼうっとしているせいで、輪郭だけがやけに鮮明で、名前だけが遠い。
人影は、短く舌打ちをした。
小さな音なのに、ぞわりと肌が粟立つ。
そのまま日記を掴んで、踵を返す。
扉のほうへ――ではなく、窓のほうへ。
カーテンが、ばさっと揺れた。
同時に、外から怒鳴り声が聞こえる。
「誰だ、そこ!」
夜警の兵の声だ。
中庭を見回っていた兵が、窓際の影に気づいたのだろう。
どん、と地面を蹴る足音。
追う足音と、逃げる足音が重なり合う。
私はようやく身体を動かすことができて、眼鏡も履物もないまま、ベッドから身を乗り出した。
「ま、待って――」
声を張ったつもりが、情けないほど震えている。
窓の外で、誰かが塀をよじ登る気配がした。
ガリガリと石を掴む音。
続いて、地面に着地する鈍い音。
「止まれ!」
兵の怒鳴り声。
けれど、足音はあっという間に遠ざかっていった。
私は、ベッドの上で、息を切らしながら固まっていた。
胸が痛い。
頭の奥で、炎の匂いと混ざった香水が、ふたたび渦巻く。
そのとき、勢いよく扉が開いた。
「フィオナ!」
聞き慣れた声。
寝間着の上から上着だけを羽織り、髪も乱れたままのレオンさまが、剣を腰に差して駆け込んでくる。
「大丈夫か、何が――」
言いかけた彼の目が、私の手元で止まる。
私は、無意識のうちに、日記を胸に抱きしめていた。
さっき、影が掴んだはずの日記。
逃げるときに、途中で手を滑らせたのか、それとも、私がとっさに引き寄せたのか。
よく覚えていない。
ただ、腕の中にある重みだけは、確かだった。
「誰かが……」
震える声を、なんとか絞り出す。
「誰かが、ここに入ってきて……これを、持っていこうとして……」
「日記を?」
レオンさまの顔色が、さっと変わる。
彼はベッドの近くまで来て、そっと膝をついた。
「怪我はしていないか。
どこか、痛むところは」
「からだは、だいじょうぶです」
そう答えながらも、腕に力が入る。
日記を手放したくなかった。
けれど、レオンさまの表情を見て、私は少しだけ力を緩める。
彼は、「見せてもいいか」と目で尋ねてきた。
私は、ゆっくり頷く。
腕から日記を離し、そっと差し出す。
レオンさまは両手で受け取り、表紙をじっと見つめた。
そこには、うっすらと、何かの跡がついていた。
泥のようにも見えるし、乾いた何かの染みのようにも見える。
鼻を近づければ、別の匂いも分かるのかもしれない。
今はただ、「私以外の誰かが触った」という事実だけが、目に見える形で刻まれていた。
「フィオナ様!」
廊下から、マリアやハロルドたちの声がする。
ほどなくして、数人の使用人が部屋の前に集まり、夜警の兵たちも駆けつけてきた。
屋敷中が、ひと晩で騒然となるなんて。
思ってもみなかった。
ハロルドが、深刻な顔で報告を始める。
「中庭で、不審な人影を夜警が目撃いたしました。
屋敷の塀を乗り越え、外へ逃走したと」
「顔は見えたのか」
レオンさまの声は、低く抑えられていた。
「フードで隠れていたようでございます。
ただ……」
「ただ?」
「履いていた靴が、我が屋敷の使用人用のものと、似ていたと」
部屋の空気が、ぴん、と張り詰める。
誰かが、ごくりと喉を鳴らした音がした。
「つまり、内部の者が手引きをしたか、あるいは――内部の者そのもの、という可能性ですな」
ハロルドの言葉は、慎重だったが、否定の余地がなかった。
マリアが青ざめた顔で、「そんな」と呟く。
ほかの使用人たちも、互いの顔色を伺っている。
疑うつもりはない。
けれど、「絶対に違う」と言い切れるほど、それぞれのことを知っているわけでもない。
それが余計に、胸をざわつかせた。
「フィオナ」
レオンさまが、ベッドに向き直る。
「誰かに触られたり、押さえつけられたりはしなかったか」
「いいえ。
気がついたときには、もう……」
私は、さっき見た影を思い出しながら話す。
月明かりに浮かんだ横顔。
銀色に光った瞳。
そこまで言いかけて、唇を噛んだ。
はっきりとした名前が分からないまま、誰かを指さすことが怖かった。
「ただ……その人は、まっすぐ日記に向かってきました。
部屋のものには、ほとんど触れずに」
「目的は、日記」
レオンさまは、低く呟く。
「どうして、誰かが日記を欲しがるんでしょう」
自分の声が、少し遠く聞こえた。
怖さと、怒りと、悲しさと。
いろんなものが混ざって、胸の奥で言葉を捻じ曲げる。
レオンさまは、一瞬目を伏せた。
その仕草だけで、何かを知っていると分かってしまう自分が、少し嫌だった。
「君が――あの夜、見たもの。
聞いたこと。
感じたこと」
彼は、日記の表紙をそっと撫でる。
「それが、ここに残っているからだ」
胸の内側が、じわっと熱くなった。
私が、「証人」だから。
日記が、「証言」だから。
壊されたはずの橋の、向こう側の出来事が、ここに文字として残っている。
だから。
それを消したい誰かにとって、これは邪魔なものになる。
「……破られたページも、もしかして」
思わず、口に出ていた。
レオンさまの指が、ぴたりと止まる。
その沈黙が答えだと分かってしまうのが嫌で、あえて、最後まで言葉にした。
「破られたページも、誰かに――」
「破ったのは」
レオンさまの声が、私の言葉を遮った。
低くて、乾いた声。
「俺だ」
部屋にいた全員の視線が、一斉に彼に向かうのがわかった。
誰も口を挟まない。
だけど、空気が大きく揺れたのが、肌で分かる。
私も、息をするのを忘れていた。
「……どうして、ですか」
ようやく、そう尋ねる。
怒りとも違う。
泣きそうなわけでもない。
ただ、胸の真ん中にぽっかり穴が空いた状態で、そこに言葉を落としてみる。
レオンさまは、しばらく何も言わなかった。
暖炉の火もない夜の部屋で、彼の吐く息が、やけに大きく聞こえる。
「君を守るつもりだった」
絞り出すような声だった。
「火事のあと、君はベッドの上で、震える手で日記を書いていた。
熱でうなされながら、途切れ途切れの声で、あの夜のことを――」
そこまで言って、彼は唇を噛みしめる。
そのときの光景が、彼の中でははっきりとした色を持っているのに、私の中には、何もない。
その差が、刺さる。
「君が見たもの。
“あの男たち”の会話。
床に撒かれた油の匂い。
マッチの音。
……そして――バルド侯爵の名前」
バルド侯爵。
あの夜会の、甘くて重い香水の匂いが、一瞬で蘇る。
「君はそれを、日記に書き残した。
それをこの屋敷に持っているということは、君自身に危険が及ぶ、ということだ」
レオンさまは、日記の表紙に浮かぶ薄い跡を見下ろしながら言う。
「だから俺は、名前だけでも消そうとした。
君の目から、あの夜の炎を遠ざけたかった」
「……破ったんですね」
自分の声が、少しだけ震えた。
「わたしの、記憶の一部を」
怒りと理解の間で、心がぐらぐら揺れる。
私の知らない私が、そこにはいたのだ。
炎を見て。
匂いを嗅いで。
誰かの名前を、はっきりと書いた私が。
その私を、レオンさまは「危険だから」と言って、破り捨てた。
私を守るために。
でも同時に、私から真実を奪う形で。
「そのページには、何が書いてあったんですか」
私は、どうしても聞かずにはいられなかった。
怒鳴るような声じゃない。
泣きつく声でもない。
ただ、「知る権利」を、今ここでだけは手放したくなかった。
レオンさまは、私から視線を逸らさなかった。
「君は、“二人の男の声を聞いた”と書いていた」
淡々とした説明のはずなのに、その一言一言が重い。
「ひとりは、“本当にやるつもりか”と言った。
もうひとりは、“今さらやめられるか。あとは燃えるだけだ”と答えた、と」
夢の中で聞いた会話と、ぴたりと重なる。
背中が冷たくなるのと同時に、胸の奥で何かが熱くなる。
「そして、君は“バルド侯爵”という名前を、その下に書きつけた。
“あの人の香水の匂いが、廊下に充満していた”と」
バルド侯爵の名が、日記の中で、真っ黒なインクとなって並んでいた光景が、ちらりと頭に浮かんだ。
見たこともないはずなのに。
私の手が書いた文字なのに。
「だから俺は、ページを破った」
レオンさまは、苦しそうに目を細めた。
「証拠を消すためじゃない。
君を、標的から外すためだ。
“君が何も覚えていなければ、君はただの被害者でいられる”と、そう思った」
被害者でいられる。
その言葉が、胸に刺さった。
レオンさまの気持ちは分かる。
彼はきっと、本気でそう信じていたのだ。
でも。
私は、被害者であり続けたいわけじゃない。
誰かに助けてもらうことも必要だけれど。
自分の人生を、自分の手で握っていたい気持ちだってある。
しばらく何も言えなかった。
何を言えばいいのか、分からなかった。
怒りも、感謝も、悲しさも。
全部まとめて、うまく言葉にできるような器用さは、今の私にはない。
ただひとつだけ、どうしても聞いておきたいことがある。
「……そのページが、破られていても」
私は、日記の背のほうを、そっと指で撫でた。
糸綴じのささくれをなぞる。
「誰かは、それでも、日記を欲しがるんですね」
バルド侯爵の名前が消されていても。
会話の一部が破られていても。
私という「証人」を消すより、日記という「形」を奪うほうが、まだ簡単だと判断されたのかもしれない。
レオンさまは、真剣な目で私を見た。
「そうだ」
迷いのない返事だった。
「今夜の侵入者が誰であれ――これは、もうただの記録帳ではない。
君の明日を支えるものでもあり、同時に、誰かの罪を暴く鍵でもある」
だからこそ、狙われた。
日記を抱きしめていたさっきの自分を思い出す。
私はあのとき、本能的に「奪われたくない」と思った。
明日の私のために残しているものを、今夜の誰かに奪われるのは嫌だと。
それが、ただの我儘なのか。
それとも、自分の人生を守るための、最初の抵抗なのか。
答えはまだ分からない。
ただ、ひとつだけはっきりしているのは。
私の明日は、もう私だけのものではなくて。
誰かの思惑や憎しみや罪にも、繋がっているということだ。
レオンさまは、日記の表紙に残った薄い跡と、破れ目と。
それから、ハロルドが報告した庭の泥の足跡のことを、順番に確かめるように見やった。
「手がかりは、揃いつつある」
その声には、焦りと同じくらい、固い決意が混ざっていた。
私は、まだ震えがおさまらない指先で、日記の角をそっと掴む。
奪われかけた私の明日。
それをどう守るのか。
そして、何を思い出すのか。
明日の私と、そのまた先の私に、ちゃんと託せるように。
ページの重みを、改めて確かめながら。
私は静かに、息を整えた。




