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花嫁は毎朝、旦那さまを忘れる  作者: 妙原奇天


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17/22

第17話 忘れられないものと、忘れてしまうもの

 診察の日は、どうしても少しだけ、朝から落ち着かない。


 体調は悪くない。

 頭痛も、ここしばらくは軽いほうだ。


 それでも、「自分のことを数字や言葉で測られる」日だと思うと、胸のあたりがそわそわしてくる。


 屋敷の一角にある小さな部屋が、診察室代わりになっている。

 窓からは中庭のハーブが見えて、薬草の匂いが微かに漂っていた。


「では、いつものようにここに」


 年配の医師が、椅子を指さす。

 私は言われた通り腰掛けて、膝の上で手を組んだ。


 斜め後ろには、レオンさま。


 今日は、「できるだけ口を挟まない」と自分で決めたらしい。

 壁際に控えるように立ち、静かにこちらを見守っている。


 心配そうな眼差しは、いつもと変わらないけれど。


「具合はいかがですか、フィオナ様」


「ここ数日は、わりと安定しています」


 私は、なるべく落ち着いた声で答える。


「頭痛も、前みたいに一日中続くことは減りました。

 ただ……やっぱり、夜に眠ると、細かいことはだんだん、霧の中に溶けていく感じがします」


「ふむ」


 医師は、私の額や目の動きを一通り確かめてから、ゆっくりと息を吐いた。


「今日は、少し違うお話をしてもよろしいですかな」


「違うお話?」


「ええ」


 医師は、目尻の皺を深くして微笑んだ。


「フィオナ様ご自身が、いろいろと考えておられるだろうと思いましてな。

 “いったい自分の記憶は、どこまで消えて、どこまで残っているのか”と」


 図星だったので、私は思わず姿勢を正した。


「……はい。

 まさに、それをお聞きしたかったんです」


 昨日の私が残した一行。

 その下に書き足した、自分自身への返事。


 ああいうものを見れば見るほど、「どこまでが今の私で、どこからが昨日の私なのか」が、分からなくなってくる。


 医師は、「では簡単に」と前置きしてから、私の目をまっすぐ見た。


「フィオナ様の脳は、強い外傷と魔力の暴走の影響を受けました」


 淡々とした声だったが、決して突き放した調子ではない。


「分かりやすく申しますと、“短い記憶を長い記憶へと橋渡しする道”がうまく働いておりません」


「橋渡し……」


「例えば、今こうしてお話ししていることは、“短期記憶”として頭の中に置かれています。

 それを、そのまま長く残しておくには、一度“眠り”という工程を挟んで、奥のほうへと運んでやらねばならない」


 医師は手を動かして、空中に見えない川と橋を描く。


「しかし、フィオナ様の場合、その橋がところどころ途切れてしまっている。

 とくに、最近経験した出来事の細かな部分――会話の言い方や、並び順などが、眠りを挟むたびに霧の中へ落ちていく」


「……だから、毎朝“初めまして”なんですね」


 私は、小さく笑ってみせる。


「はい。

 ただし」


 医師は、そこで指を一本立てた。


「すべてが消えているわけではありません」


 言葉の調子が、少しだけ明るくなる。


「頭の中の“道”が傷ついていても、身体や感覚の側に残るものがある」


「身体の……側」


「強い感情を伴った記憶。

 匂い。

 痛み。

 そして、“何度も繰り返された行動”などですな」


 医師の言葉に、胸の奥がちくりと反応した。


 炎の熱。

 あの、鼻を刺すような香水の匂い。

 レオンさまの「おはよう」「ただいま」の声。


 忘れているはずなのに、ふとした拍子に蘇る断片たちが、頭の中で繋がる。


「だから、火の匂いは、まだあんなにはっきり残っているんですね」


 自分でも驚くほど、素直に言葉が出てきた。


「そして……レオンさまの、手の温度も」


 医師は優しく頷く。


「そういうことですな。

 あの夜の痛みや恐怖、“守られた”感覚、“守ろうとした”感覚。

 また、旦那様の手の温もりや、声の調子は、頭ではなく身体のどこかに刻まれている」


 身体のどこか。


 その言い方が、妙に嬉しかった。


 傷ついたのは、頭だけじゃない。

 ちゃんと、他の場所たちは、私の味方をしてくれている。


「また」


 医師は続ける。


「同じことを何度も繰り返すと、その分だけ“道筋”が太くなります。

 毎朝の日記を読む習慣は、とても良い訓練ですよ」


「……よかった」


 じわっと、胸の内側が温かくなる。


「じゃあ、あれは無駄じゃないんですね。

 昨日の私が書いたことを、今日の私が読んで。

 それを、また明日の私が読むのは」


「無駄どころか、橋を修復するための大事な作業です」


 医師は、そう言ってくれた。


 その言葉だけで、日記帳の重さが少し変わる。

 「可哀想な補助道具」じゃなくて、「私たち三人を繋ぐ橋」みたいに思えてくる。


「ただ――」


 ここで、後ろから低い声がした。


 レオンさまだ。


「もし、その橋が繋がりすぎると……」


 彼は一瞬、言いよどんだ。


「あの夜のことまで、全部……」


 そこまで言ったところで、私のほうが先に口を挟んでいた。


「でも」


 自分でも驚くくらい、はっきりした声だった。


「忘れたくないことも、あります」


 医師ではなく、レオンさまを見て言う。


「例えば――」


 指を折りながら、ひとつずつ数えてみせる。


「夜会から帰ってきた晩、“おかえりなさい”って言ったら、“ただいま”って返してくださったこと」


 胸の奥が、ふっと温かくなる。


「青いドレスを着たときに、“とても綺麗だ”って言ってくださったこと」


 あのときの、レオンさまの目。

 見ているほうが恥ずかしくなるほど、まっすぐだった視線。


「それから、朝、怖い夢から覚めたときに、“ここに炎はない”って何度も言ってくださったこと」


 一つひとつ口に出すたびに、脳の奥のほうがくすぐったくなる。


「そういうのは、消えてほしくないです」


 レオンさまの喉が、小さく動いた。


 医師は、穏やかに頷く。


「それらは、日記に書き留めておくのが一番です。

 言葉という形にしておけば、少し霧がかかっても、また辿り直せる」


「はい」


 私はうなずく。


「毎日、そのつもりで書いています」


「……そして」


 医師は、少しだけ声を潜めた。


「もうひとつ、方法があります」


「方法?」


「特定の感情に、“合図”を紐づけるのです」


 私とレオンさま、両方の視線が医師に集まる。


「合図、ですか」


「ええ。

 例えば、“とても嬉しい”と感じた瞬間に、必ず指輪をくるりと回す。

 それから、日記の同じ場所に、小さな印をつける」


 医師は、自分の手を見ながら、くるりと指輪を回す仕草をして見せた。


「そういった儀式的な動作を繰り返すと、動作そのものが“感情の呼び水”になる。

 後から指輪に触れたときに、『ああ、ここには嬉しい記憶があったな』と、思い出しやすくなるのです」


「……面白い」


 思わず、前のめりになってしまった。


「じゃあ、わたしが“忘れたくない”と思ったものには、合図と印をつけていけばいいんですね」


「そういうことですな」


 医師は、「ただし」と続けた。


「無理に全部を抱え込む必要はありません。

 星のように輝かしいものもあれば、雨のようにしとしとと降り注ぐ痛みもある。

 どちらも“あなたの人生”ですが、抱える順番や重さは、あなたが決めてよい」


 星と、雨。


 医師が何気なく選んだ言葉が、頭の中にふわりと引っかかった。


「……ありがとうございます、先生」


 心からそう言えた。


 診察が終わって、医師がマリアに付き添われて部屋を後にする。


 扉が閉まったあともしばらく、私は椅子に座ったまま、さっきの話を反芻していた。


 レオンさまは、少し離れたところで腕を組み、黙って窓の外を見ている。


「レオンさま」


 呼びかけると、彼は顔をこちらに向けた。


「さっきの先生のお話、わたし……少し、嬉しかったです」


「嬉しかった?」


「はい。

 忘れてばかりの自分が、少しだけ“戦える”ような気がしたので」


 忘却と戦う。

 そんな言い方をした自分に、内心で驚く。


 でも、実際そうなのだ。

 私は今まで、ただ流されているだけだと思っていた。


 気づいたら忘れていて、気づいたら何も覚えていなくて。

 「仕方ない」と言われるままに、受け入れていた。


 だけど、橋を太くすることはできる。

 星や雨の形で、印を残すこともできる。


 それなら、少しは――私にもできることがある。


「……フィオナ」


 レオンさまの声は、複雑な色を帯びていた。


「君は、いつもそんなふうに前を向くな」


「そうでしょうか」


「そうだ」


 短く言い切られて、私は照れくさくなって目をそらした。


 でも、その照れくささが、嫌ではなかった。


 部屋に戻るとすぐ、私は机の上に日記帳を広げた。


 ペン立てから、いつもの黒いインクと、少しだけ特別な赤いインクを取り出す。


「印……印……」


 ぶつぶつ呟きながら、ページの端を眺める。


「そうだなぁ……」


 しばらく考えてから、私は新しいルールを紙の隅に書き始めた。


 ――とても嬉しかったこと。


「これは、星印にしよう」


 小さく五つの尖った線を描いてみる。

 少し歪んでしまったけれど、それもまた愛嬌だ。


 ――悲しかったこと、怖かったこと。


「これは……雨粒」


 丸みを帯びた小さな滴を、ページの端にひとつ。

 しとん、と音がしそうな形。


 ――どうしても覚えておきたい言葉。


「これだけは絶対忘れたくない、って思ったら」


 私は赤いインクの瓶を開け、ペン先を軽く浸した。


「その行を、赤でなぞる」


 黒い文字の下に、細い赤い線を引いてみる。

 思ったよりも、綺麗だった。


 ページの隅に、小さく書き添える。


「星印=とても嬉しかったこと。

 雨粒=悲しかったこと、怖かったこと。

 赤い線=どうしても覚えておきたい言葉」


 それを書き終えたところで、背後から声がした。


「何をしているんだ?」


 振り返ると、扉に寄りかかるようにして、レオンさまが立っていた。


 いつの間にか入ってきていたらしい。


「合図と印の、ルールです」


 私は、少し誇らしい気持ちでページを見せる。


「先生が教えてくださったでしょう?

 “儀式みたいな合図を決めると、感情を呼び起こしやすくなる”って」


「なるほど」


 レオンさまは、机に近づいてきて、身をかがめた。


 星印と雨粒、それから赤い線をじっと見つめる。


「面白い工夫だな」


「ふふ。

 でしょう?」


 嬉しくなって、私は胸を張った。


「旦那さまとのことで、星印がたくさん増えるといいな、って思っています」


 言いながら、自分で言葉の甘さに気づいて真っ赤になる。


 けれど、もう遅い。

 言ってしまったものは、戻ってこない。


 レオンさまは一瞬固まり、それから、ゆっくりと口元を緩めた。


「そうなるよう、努力しないとな」


 その声に、少しだけ笑いが混じっている。


 胸の奥が、ぽうっと熱くなる。


 けれど、その次の瞬間。


「同時に」


 自分でも意外な言葉が、口からこぼれた。


「雨粒の印も、ちゃんと残そうと思います」


 星印のページを撫でていた指先が、その隣の小さな滴をなぞる。


「悲しかったことや、怖かったことを、“なかったこと”にしてしまったら」


 昨日の私が残した一行が、頭をよぎる。


 今日の私が書き足した、もう一行も。


「きっとまた、同じことで傷つくから」


 自分で言いながら、胸の内側が少しひやりとした。


 でも、それが間違っているとは思わなかった。


 レオンさまは、少しだけ目を伏せた。


「……そうだな」


 短く同意してくれたけれど、その横顔は少し苦かった。


 星印を増やしたい気持ちと、雨粒から目を逸らしたい気持ち。

 その両方が、彼の中でぶつかっているのが分かる。


 夜。


 ベッドの上に腰掛けて、私は今日の出来事を日記に綴った。


 医師の話。

 記憶の橋のこと。

 匂いや痛みや、感情の残り方。


 書き終えたところで、ペンを置き、ページの端に小さな星印を描く。


「星、一つ」


 ささやくと、なんだかそれだけで少し誇らしい。


 今日、私は「忘れてばかりの自分」に、少しだけ希望をもらった。


 それは、確かに嬉しいことだ。


 次に、胸の奥のほうを思い出す。


 レオンさまがまだ何かを隠しているような気がして、そこが少しだけ冷たくなった瞬間。


 あれは、きっと悲しさと怖さが混ざった感情だ。


 私は、ページの端に、今度は小さな雨粒をひとつ描いた。


「雨、一つ」


 それを描きながら、心の中で呟く。


 ――これは、消さない。


 悲しいことも怖いことも、ちゃんとここにあったと認めるための印。


 最後に、赤いインクの瓶を開ける。


 今日、医師が言ってくれた言葉の中で、どうしても忘れたくない一文を思い出す。


「“同じことを何度も繰り返せば、その分だけ道筋は太くなる”」


 その行の下に、細い赤い線を引いた。


 眠る前に、ページの一番下に書き添える。


「明日の私へ。

 印の意味だけは、どうか忘れないで」


 星は嬉しいこと。

 雨は悲しいこと、怖いこと。

 赤い線は、どうしても覚えておきたい言葉。


「もし忘れていたら、ちゃんと今日の私を疑ってあげてください」


 そこまで書いてから、私は小さく笑った。


 日記を閉じると、胸の中の重さが、少しだけ形を変えているのが分かった。


 もう、「ただの真っ黒な石」ではない。


 星と、雨と、赤い線が刻まれた、小さな地図みたいな重さ。


 それなら、抱えて歩いていけるかもしれない。


 ランプを消し、ベッドに身を横たえる。


 瞼を閉じると、暗い中に、いくつもの星印が浮かんだ。


 その間に、小さな雨粒も、ちゃんと混ざっている。


 忘れられないものと、忘れてしまうもの。


 その両方を抱えたまま、私は静かに、眠りのほうへ落ちていった。

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