第16話 昨日の私が残した傷あと
朝の鐘の音で、目が覚めた。
いつものように、天蓋の布が視界に入る。
薄いレース越しに、柔らかい朝の光が差し込んでいた。
けれど、胸のあたりが、妙に重い。
息がしづらいほどではない。
でも、そこだけ暗い石を抱え込んでいるみたいに、じん、と痛む。
「……変な夢、見てた気がする」
そう呟いてみても、何も戻ってこない。
炎の夢ではない。
あの、焼けつくような熱さや煙の苦しさは、今朝は残っていなかった。
残っているのは、もっと別の。
誰かと、何か大事なことを話さなきゃいけなかったのに、言えなかったような。
あるいは、言いすぎてしまったような。
そんな、やり場のない後悔だけだ。
枕元には、いつもの日記帳とペンが置かれていた。
マリアが毎晩のように並べていってくれる、大事な相棒。
いつもなら、目を覚ましてすぐに手を伸ばす。
なのに今日は、指先が少しだけ止まってしまった。
表紙に触れる前から分かってしまう。
――読んだら、あまり楽しくないことが書いてありそうだ。
そんな予感だけが、やけに鮮明だった。
そのとき。
コン、と扉がやさしく叩かれる音がした。
「フィオナ。入ってもいいか」
レオンさまの声。
条件反射みたいに、私は返事をしていた。
「どうぞ」
言ってから、あ、と思う。
自分の声が、いつもより少し硬かった気がした。
けれど、違いに気づいているのは、多分、私だけだ。
扉が開いて、レオンさまが入ってくる。
朝の光の中で、彼の顔がよく見えた。
目の下には、薄く隈ができている。
声も、ほんの少しだけ掠れていた。
昨夜、あまり眠れなかったのだろうということが、一目で分かる。
けれど、どうして眠れなかったのか。
今の私には、その理由が分からない。
「……おはよう」
そう言おうとして、彼は少しだけ言葉を飲み込んだように見えた。
「具合はどうだ」
代わりに出てきたのは、どこかよそゆきの言葉だった。
いつもの、「おはよう、フィオナ」ではなくて。
「体調は、悪くないです」
私は、正直に答える。
「頭も、それほど痛くありません。でも……」
胸のあたりを、そっと押さえた。
「少しだけ、ここが苦しい感じがします」
何かを詰め込んだまま、寝てしまったときのような。
言い忘れた言葉が、胸の中で渋滞しているような。
「何か、とても大事な話をしなきゃいけない気がするのに、それが何だったのか思い出せなくて」
言いながら、自分でおかしくなってくる。
そんなこと、いつものことなのに。
毎朝、何かを忘れて目を覚ますくせに。
今日は、その「忘れている」感覚だけが、やけに生々しかった。
レオンさまの横顔が、きゅっと強張るのが見えた。
「……昨日も少し、無理をさせたからな」
彼は、静かに言う。
「夜会のあとで、疲れが出たのだろう」
それ以上は、何も言わない。
私が何故そんなふうに感じているのか。
彼には、分かっているような表情だった。
分かっていて、あえてそこから目を逸らそうとしている。
そんな印象だけが、ぼんやりと胸に残る。
枕元の日記帳が、視界の端に映った。
今朝は、その存在が少しだけ怖い。
でも、知らないままでいるのは、もっと怖い。
私は、そっと手を伸ばした。
表紙に触れた瞬間、指先が小さく震える。
「……読んでも、いいでしょうか」
思わず、レオンさまのほうを向いて尋ねていた。
本来なら、聞く必要なんてない。
日記は、私のものだ。
だけど、昨夜の私がどんな言葉を残したのか。
それを、彼の前で確かめてもいいのかどうか。
それが怖かった。
レオンさまは、一瞬、視線を落とした。
迷っているのが伝わってくる。
その迷いが、かえって答えを教えてくれる。
――あまり、優しいことは書いてないんだろうな。
胸の重石が、また少し沈んだ。
やがて、レオンさまは顔を上げる。
「君のものだ」
静かな声だった。
「君が決めるべきことだ。俺が、止めるべきじゃない」
その言葉に、私は小さく息を吐いた。
「ありがとうございます」
震えそうになる声をごまかすように、表紙を開く。
ぱらり、とページをめくっていくと、昨日の日付が出てくる。
夜会のこと。
ダンスのこと。
バルド侯爵の香りのこと。
丁寧な文字で、いくつかの出来事が綴られていた。
そして、一番下の行。
そこに書かれていた一文が、真っ先に目に飛び込んできた。
「……」
喉の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
声に出してしまえば、逃げ道がなくなる。
そう分かっていながら、私はゆっくりと読み上げた。
「『今日の私は、あなたのことが分からなくて、怖くなりました』」
綺麗な字だった。
震えた様子もなく、まっすぐに書かれている。
紙の上だけ見れば、淡々とした一行。
でも、そこに詰まっている感情の重さは、読んでいるだけで分かった。
胃のあたりが、きゅうっと痛む。
何を、どう言ったのだろう。
どこまで、踏み込んでしまったのだろう。
「怖くなりました」と書いた相手が、今、目の前に座っている。
その人の顔を見ているのに。
何を怖がったのか、自分では分からない。
この状況そのものが、一番怖い。
「……そっか」
呟くと、声が少し掠れた。
レオンさまが、慎重に言葉を選ぶように口を開く。
「昨日は……」
彼は、私を真っ直ぐに見つめた。
「君にひどい思いをさせてしまった」
それだけ言って、視線を落とす。
具体的なことは、何も言わない。
どちらが何を言ったのか。
誰が傷つけたのか。
何ひとつ説明しないまま、ただ「ひどい思いをさせた」とだけ謝られる。
私は、とっさに首を振っていた。
「謝らないでください」
ほとんど条件反射だった。
「悪いのは、きっと昨日の私です」
だって、この一行だけ見れば、そう思ってしまう。
「分からなくて、怖くなりました」と書くほど追い詰めたのは、多分、私だ。
昨日の私が、今の私の好きな人を、責めてしまったのだ。
そう考えた瞬間、顔から血の気が引いていく。
けれど、次の瞬間。
本当に、そうだろうか、という声が胸の中から浮かび上がる。
「でも、本当に、そうなんでしょうか」
思わず、口の中でこぼしていた。
「……え?」
レオンさまが、顔を上げる。
私は、日記と彼の顔を行ったり来たりしながら、自分の中のぐちゃぐちゃを掬い上げるように言葉を探した。
「わたしは、昨日の自分をかばいたい気持ちもあって」
日記を書いた本人の味方でいてあげたい。
きっと、泣きながらこの一行を書いたのだろうから。
「でも同時に、責めたい気持ちもあります。どうして、あなたのことを怖いなんて書いたの、って」
胸の中に、矛盾した気持ちがふたつ、ぎゅうぎゅうに詰まっていた。
どちらもほんとうで。
でも、どちらも根拠がない。
だから、苦しい。
客間の空気が重くなるのとは違って、今朝の寝室の空気は、ひたすらに「やり場のない重さ」で満ちていた。
これ以上そこに沈んだら、きっと動けなくなる。
そう思って、私は大きく深呼吸をした。
肺の奥まで空気を入れて、ゆっくり吐き出す。
そして、日記を見つめながら、口を開いた。
「昨日の私は、あなたを怖いと思ったみたいです」
それは、否定できない事実だ。
「でも、今の私は、あなたを怖いとは思っていません」
顔を上げて、レオンさまを見る。
眠れていない目。
掠れた声。
それでも、ここに来て謝ってくれたこと。
その全部が、「怖い」とは全然違う。
レオンさまの瞳が、大きく揺れた。
「……本当に?」
信じたいけれど、信じきれない、そんな声音だった。
「はい」
私はうなずく。
「だって、あなたは今、こんな顔をして謝ってくれているから」
飾り気のない服。
少し乱れた髪。
普段よりずっと弱そうに見える横顔。
昨日の私は、その顔を見ていたのだろうか。
それとも、もっと違う顔を、彼にさせてしまったのだろうか。
分からない。
だからこそ、せめて今の私が見ているものだけは、きちんと受け止めたかった。
私はペンを握り直し、昨日の一文の下に、新しく文字を書き足す。
インクが紙に染み込む感触が、指先に伝わってくる。
「明日の私へ」
まず、そう書いて。
続けて、一気にペンを滑らせる。
「昨日の私は怖かったけれど、今日の私はあなたを怖いとは思っていません」
書き終えてから、息をついた。
紙の上を見つめていると、胸の中の重石が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
「……これで、明日の私も、少しは救われるかもしれません」
できるだけ冗談めかして言おうとしてみたけれど、声がうまく上がらない。
笑おうとして、うまく笑えなかった。
唇だけが、ぎこちなく動いて。
目のほうは、勝手に潤んでしまう。
レオンさまは、私の書いた一行をじっと見つめていた。
「君は、本当に……強いな」
掠れた声で、そう呟く。
「強くなんて、ないです」
思わず、首を横に振る。
強いなら、昨日のことを忘れたまま、何もなかったふりをして笑っていられたはずだ。
私がしているのは、その逆だ。
思い出せない痛みを、わざわざ紙に留めて。
明日の自分に押しつけている。
「でも」
そこで、言葉を選び直す。
「昨日の私が残した傷あとを、なかったことにはしたくありません」
胸の痛みも。
「怖い」と書いた一行も。
全部が、確かにここにあったということだけは、消したくない。
それは、昨日の自分への、せめてもの礼儀のような気がした。
しばらく沈黙が続いたあとで、私はペンを置いた。
「レオンさま」
できるだけ穏やかな声で、名前を呼ぶ。
「いつか、昨日の私が何を怖がったのか、ちゃんと教えてください」
日記の中の“昨日の私”だけじゃなくて。
炎の中の私も、破られたページの向こうの私も。
全部まとめて、私に戻してほしい。
「その“いつか”が、遠くないといいなって、思っています」
言いながら、自分でも少しだけ笑えた。
お願いというより、宣言に近い言葉だった。
レオンさまは、しばらく黙っていた。
暖炉の火が、ぱちぱちと小さな音を立てる。
窓の外からは、朝の鳥の声がかすかに聞こえる。
その中で、彼はようやく口を開いた。
「……分かった」
短い言葉。
でも、その中に、昨夜よりは少しだけ前に進んだ何かが、確かに混じっている気がした。
足りない。
まだ全然、足りない。
だけど、この朝の会話が、彼のどこかに、小さな種を落としてくれたらいい。
いつかその種が芽を出して、あの夜の真実を、ちゃんと私に話してくれる日が来るなら。
それまで、私は日記を書き続ける。
忘れてしまった昨日の私と、今日の私と、まだ見えない明日の私を。
一本の線で、どうにか繋いでいけるように。




