第15話 あなたは何を隠しているの
屋敷に戻ったときには、足元がふわふわしていた。
馬車を降りて玄関ホールを抜けるあいだ、私はずっとレオンさまの腕にすがっていた。
シャンデリアの光が、少し眩しすぎて。
さっきまでいた夜会の余韻が、まだ目の裏に焼きついている。
けれど、一番強く残っているのは、やっぱりあの匂いだった。
スパイスと、甘さと、煙の混じった匂い。
それに重なる、床に撒かれた液体と、マッチの音。
思い出すたびに、頭の奥がずきんと痛む。
「フィオナ、まずは横になれ」
寝室の前まで来たところで、レオンさまが言った。
「頭が痛むだろう。医師を呼ばせる」
「……大丈夫です。少し、休めば」
そう返しながらも、私は心の中で別の焦りを抱えていた。
今のこの痛みも、匂いも、恐怖も。
きっと数日もすれば、ぼやけてしまう。
日記に書き残したとしても、今の自分が抱えている、この「分からない」苦しさは、今日の私にしか分からない。
だったら――今、聞かなきゃ。
足を止める。
寝室の扉に手をかけかけたところで、私は振り返った。
「あの、レオンさま」
「何だ」
「話したいことがあります」
自分の声が、思ったより真剣で。
少しだけ、震えていた。
レオンさまは一瞬目を瞬かせ、それから穏やかな声で言う。
「話なら明日でも――」
「明日じゃ、だめなんです」
思わず、言葉をかぶせてしまった。
驚いたように、レオンさまの目が見開かれる。
私も、自分で自分に驚いていた。
けれど、もう止まらない。
「明日になったら、わたしは今日のこの気持ちを覚えていられないかもしれません」
喉の奥が、ひりひりする。
「怖かったことも、悔しかったことも、分からないって思ったことも……全部、薄くなってしまうかもしれない。でも、今のわたしは、それをちゃんと覚えていたいんです」
レオンさまは、しばらく黙って私を見つめていた。
その視線が、痛いくらい真っ直ぐで。
逃げたくなるくらい優しくて。
やがて、彼は静かに息を吐いた。
「……分かった」
短くそう言って、寝室の扉から手を離す。
「ここでは落ち着かない。客間へ行こう」
私たちは、廊下を少し戻り、暖炉のある小さな部屋に入った。
夜の客間は、静かだった。
暖炉には小さな火が残っていて、オレンジ色の光が、壁の絵や本棚の影を揺らしている。
窓は厚手のカーテンで閉ざされていて、外の夜会の喧騒は、もうずっと遠い。
私はソファに腰を下ろした。
レオンさまは少し離れたところにある一人掛けの椅子に座る。
たったそれだけの距離なのに、さっきまで腕を組んで歩いていたときより、遠く感じた。
「……どこから話そうか」
沈黙を破ったのは、私のほうだった。
膝の上で手を組み、ぎゅっと指を絡める。
「わたし、火の匂いを覚えています」
レオンさまの目が、わずかに揺れた。
「夢の中で、何度も見た火と、今日の夜会で嗅いだ香りが、繋がりました。床に撒かれた液体とか、マッチの音とか、“今さらやめられるか”っていう声とか……はっきりじゃないけど、断片が少しずつ、形になってきていて」
言葉にすると、胸の奥が少しだけ軽くなる。
同時に、怖さも増していくけれど。
「それから」
私は一度息を整え、続けた。
「日記の、破られたページのことも、気になっています」
レオンさまの視線が、ほんの少し鋭くなるのが分かった。
「……誰から聞いた」
「誰からも聞いていません。わたしが触って、見て、そう思っただけです」
綴じ目の、綺麗すぎるささくれ。
焦げた紙じゃない、まっすぐな切り口。
「火で焦げた紙だったら、あんなふうには破れないと思います」
レオンさまは、黙ったままだった。
暖炉の薪が、ぱち、と小さくはじける音だけが響く。
「レオンさま」
名前を呼ぶと、彼はゆっくりと私を見た。
その瞳の中に映る自分が、少しだけ強く見える。
「あなたは、わたしに、何かを隠していますか」
自分でも、驚くくらい真っ直ぐな問いだった。
回りくどく言うこともできたのに。
遠回しに探ることもできたはずなのに。
でも、それではきっと、何も変わらない。
レオンさまは、すぐには答えなかった。
視線を落とし、指先で肘掛けを一度だけ叩く。
そして、ゆっくりと言った。
「隠している、というより……話すべきではないことがある」
「話すべきではないこと」
言葉を繰り返すと、胸の奥がひゅっと冷えた。
「それは、わたしのことでしょう」
自分の声が、少し掠れる。
「火事の夜、わたしに何があったのか。そのあと、どんなふうにここに運ばれたのか。誰がわたしを見つけて、誰が医師を呼んだのか。全部、わたしの身に起きたことなのに、どうして教えてもらえないんですか」
レオンさまの指が、肘掛けを握りしめる。
関節が、白く浮き上がった。
「君は、もう十分苦しんだ」
低い声だった。
「これ以上、あの日のことを背負わせたくない。忘れていられるなら、それでいい。君は、明日を生きてくれればそれで――」
「忘れているからこそ、怖いんです」
思わず、言葉を割り込ませた。
胸の奥が熱くなって、泣きそうで。
でも、涙はまだこぼしたくなかった。
「知らないまま、あなたを好きになっていいのか、分からないんです」
言ってから、自分で顔が真っ赤になるのが分かった。
でも、もう遅い。
レオンさまの目が、大きく見開かれる。
暖炉の火が揺れて、その表情に複雑な影を落とした。
「……フィオナ」
「日記を読んでいると、分かります。昔のわたしは、あなたのことが好きで、笑わせたくて、勝手に執務室に押しかけて、お茶を出して……きっと、たくさん迷惑もかけたんだと思います」
それでも、と続ける。
「今のわたしも、あなたが帰ってくるのを待ってしまうし、『ただいま』って言ってくれると嬉しいし、あなたの笑った顔が好きだって思います」
指先に、じんわりと力が入る。
「でも、その“好き”が、本当に今のわたしのものなのか、それとも、昔のわたしの残り香みたいなものなのか。あの夜、何があって、あなたが何をして、何をしなかったのかを知らないまま、全部受け取ってしまっていいのか。分からないんです」
レオンさまは、じっと私を見ていた。
何かを言おうとして、言葉を飲み込むように、喉が動く。
やがて、彼は視線を暖炉に向けた。
「君が見たもの」
ぽつりと、始まる。
「君が叫んだ言葉。君があの夜、どうやって俺を押しのけたのか。火の中で何を選んだのか。全部、話そうと思えば話せる。覚えている」
その声は、とても苦しそうだった。
「でも、話したくない」
その一言が、胸に鋭く刺さる。
「……話したくない、ですか」
思わず、問い返してしまう。
私のことなのに。
私の人生なのに。
話したくない。
その言葉が、こんなに痛いなんて。
「それを聞いた君が、俺をどう見るかが怖い」
レオンさまは、顔をしかめた。
「俺は、君を守れなかった。あの夜、俺は――」
言いかけて、唇を噛む。
暖炉の火が、ぱち、と音を立てる。
静かな客間に、その音だけが落ちた。
守れなかった。
それはきっと、レオンさまにとっても傷なのだと、頭では分かる。
分かるけれど。
「守れなかったことを、わたしに隠すことで、“なかったこと”にしようとしているんですか」
気づいたら、口が勝手に動いていた。
自分でも、かなりきつい言い方だと思う。
けれど、それぐらい言わなければ、届かない気がした。
「そんなつもりは――」
「じゃあ、どういうつもりなんですか」
息が荒くなっていく。
「わたしは、あなたの奥さんなんですよね」
はっきりと、言葉にした。
日記の中で何度も見てきた、その呼び方。
「奥さんだから危ない目に遭わせたくないって言ってくれるのは、もちろん嬉しいです。でも、奥さんだからこそ、一番危ないところを隠されるのは、違うと思います」
視界が、じわっと滲んだ。
「わたしのことを、大事な人だって思ってくれるのは、本当に嬉しい。でも、わたしを“子ども”みたいに扱うのは、やめてください」
私の人生は、私のものだ。
たとえ、記憶が毎朝リセットされてしまうとしても。
今、ここにいる私が感じていることは、私のものだ。
それを、誰かの善意で勝手に軽く扱われたくない。
レオンさまは、顔を伏せた。
「……すまない」
絞り出すように、小さな声で言う。
その謝罪は、本気なのだと思う。
分かるからこそ、余計に苦しかった。
「謝ってほしくて言ったわけじゃないんです」
私は、ゆっくりと立ち上がった。
膝が少し震える。
怒りなのか、悲しみなのか、自分でもよく分からない感情が、足元から這い上がってくる。
「でも、今のわたしには、これ以上あなたの顔を見ていたら、きっと泣いてしまいます」
できれば、泣き顔を見せたくなかった。
怒りながら泣くと、自分の言葉まで嘘みたいになってしまう気がして。
「すみません。今日は、ここまでにしてください」
そう言って、頭を下げる。
レオンさまが、椅子から立ち上がる気配がした。
「フィオナ」
一歩、こちらに近づいたところで、彼は足を止めた。
私の背中を、何か言いたげな視線が刺す。
でも、その言葉は最後まで形にならなかった。
代わりに、壁を打つ音がした。
振り返らなくても分かる。
レオンさまが、拳を固く握りしめている姿が、頭に浮かんだ。
私は、振り向かなかった。
客間を出て、廊下を歩く。
足音が、やけに大きく響く。
寝室に戻ると、ベッドの端に腰を下ろした。
少しのあいだ、何も考えられずに座っていたけれど。
やがて、ゆっくりと日記帳を手に取る。
ペンを持つ指が、まだ少し震えていた。
「今日の私は――」
そう書きかけて、ペン先が止まる。
何から書けばいいのか分からない。
火の匂いのこと。
バルド侯爵の香水のこと。
馬車の中で聞いた、「狙われた」という言葉。
それから、客間でぶつかった言葉たち。
全部を書こうとすると、胸がぎゅうっと締め付けられて、呼吸が苦しくなる。
私は、深く息を吸った。
そして、ゆっくりと一行だけ書く。
「今日の私は、あなたのことが分からなくて、怖くなりました」
それだけで、ページを閉じる。
文字が、滲んだ。
涙が落ちたのだと気づくまで、少し時間がかかった。
「……明日のわたしは、この痛みを覚えていられるのかな」
ぽつりと、独り言が漏れる。
もしかしたら、忘れてしまうのかもしれない。
日記を読み返して、「昨日の私はこんなことを書いたんだ」と、どこか他人事みたいに笑うのかもしれない。
それでもいい。
今日の私が確かにここにいて、この言葉を書いたという事実だけは、紙の上に残る。
私は、日記帳を胸に抱きしめた。
痛みも、怒りも、分からなさも。
全部抱えたまま、ゆっくりと目を閉じる。
暗闇の向こうで、燃えるような匂いと、レオンさまの声が、遠くで混ざり合っていた。




