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花嫁は毎朝、旦那さまを忘れる  作者: 妙原奇天


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第14話 火の匂いの記憶

 夜会も、半分くらい終わった頃だったと思う。


 人のざわめきが、さっきより少し柔らかくなっていた。

 ワインのせいか、笑い声も高くなっている。

 楽団の曲も、激しいものから、ゆるやかなものに変わっていた。


 私は、大広間の片隅にあるテラスのそばで、ひとり椅子に座っていた。


 開け放たれた窓から、夜の風が入り込んでくる。

 外の空気はひんやりしていて、熱を持った頬に気持ちよかった。


「お加減は、いかがですか」


 さっきまでそばにいてくれたレオンさまが、政治の話で呼び止められた。

 王都の復興についてだとか、税の配分だとか。

 難しそうな単語が、私の知らないところで飛び交っている。


「少し、休んでいます。ちゃんと戻ってきてくださいね」


「もちろんだ」


 そう言って、レオンさまは人の輪のほうへ向かっていった。


 私は、その背中をしばらく目で追いかけてから、深く息を吐いた。


 胸の前で軽く手を組む。

 さっきのダンスの余韻が、まだ足先に残っている。


 音楽。

 光。

 レオンさまの手の感触。


 楽しかった、と思う。


 怖さもあったけれど、それと同じくらい、心がふわっと浮かび上がるような瞬間があった。


 私は、その気持ちをこぼしてしまわないように、そっと胸の奥にしまう。


 と、そのとき。


「人の多い場所は、お疲れになりますでしょう」


 低く、よく通る声が、横からかかった。


 顔を上げると、そこにはバルド侯爵が立っていた。


 手には、琥珀色の液体の入ったグラス。

 いつも通りの、柔らかい笑み。


 けれど、私は反射的に背筋を伸ばしていた。


「……少し、休んでいるだけです」


 私がそう答えると、侯爵は穏やかにうなずいた。


「王都の大きな夜会は、ただ座っているだけでも骨が折れますからね。復興を祝うという名目も、半分は口実です。皆、久しぶりに集まりたいだけでしょう」


「そういうもの、なのですね」


 当たり障りのない返事をしながら、私は無意識に距離を測った。


 大広間の中央では、まだ人々が談笑している。

 レオンさまは、遠くのほうで数人の貴族に囲まれていた。

 ここから声をかけたら、気づいてくれるだろうか。


 そんなことを考えたちょうどそのとき。


 バルド侯爵が、一歩、近づいた。


 ドレスの裾と裾が、かすかに触れ合うくらいの距離。


 その瞬間、鼻先に、強い香りが流れ込んできた。


 濃いスパイス。

 甘い樹脂。

 それから、ごく微かな、焦げたような匂い。


 次の瞬間、頭の奥が、きゅうっと締めつけられた。


 視界の端が、ふっと暗くなる。


 胸の中で、何かが弾けた。


 ――同じ匂いだ。


 暗い廊下。

 赤黒く染まった床。

 壁紙に染みついた熱。


 ひやりとした石の床を、かかとで蹴る音。

 誰かが慌てて走っていく足音。


 鼻をつく、濃厚な匂い。


 スパイスのような、甘い樹脂。

 それに混ざる、油の匂い。

 床に、何かの液体がばしゃりとこぼれる。


「本当に、やるつもりか」


 囁き声がする。


 男の声。

 誰かの喉を震わせた、低く押し殺した音。


「今さらやめられるか」


 別の声が返す。

 怒りとも焦りともつかない、ざらついた響き。


 マッチを擦る音が、ひっそりと空気を裂く。


 火花。

 小さな炎。

 それが、床に広がった液体の上に落ちる。


 燃え上がる音は、想像していたよりも静かだった。


 じゅ、と何かが焦げる音。

 次の瞬間には、熱が一気に押し寄せてきて。


 視界の端で、誰かが振り返った。


 その人の袖に、今と同じ香りが絡みついている。


 ……そこで、映像はぶつりと切れた。


「っ……」


 私は、現実に引き戻される。


 手に持っていたグラスが、かたかたと震えた。

 琥珀色の液体が、表面で波打つ。


「おや」


 バルド侯爵の手が、さっと伸びる。


 グラスが落ちる前に、その底を支えられた。

 同時に、反対側の手が、私の肩に触れる。


 その掌の重さに、全身の毛穴が一斉に凍り付いた。


「失礼。少し、香りがきつすぎましたかな」


 冗談めかした言い方。

 けれど、彼が口にした「香り」という言葉が、私の頭の中で「火の匂い」に重なる。


 胸が、ずきずきと痛んだ。


「……少し、気分が悪くなっただけです」


 私は、侯爵の手から距離を取るように、一歩後ろへ下がった。


 椅子の背が、腰に当たる。

 それ以上下がれなくて、グラスを握る指先に力が入った。


 バルド侯爵は、笑みの形を崩さない。


「大変申し訳ない。奥様はまだ、ご無理をなさっているのでしょう。私のほうが、配慮に欠けていました」


 配慮、という言葉が、どこか上滑りして聞こえる。


 私の内側では、さっきの光景がまだ燃え続けていた。


 床に撒かれた液体。

 マッチの音。

 「今さらやめられるか」という声。


 それから、同じ匂い。


 この人と、火の夜とを繋ぐ、糸。


「フィオナ!」


 聞き慣れた声が、ざわめきの向こうから飛んできた。


 振り向くと、レオンさまが、こちらへ急いで歩いてくるのが見えた。


 人の間を、ほとんど駆けるようにして。

 さっきまでの落ち着いた歩幅とは、明らかに違っていた。


「これはこれは」


 バルド侯爵が、わざとらしく一歩下がる。


「奥様の具合が、少し優れないようでしたので、様子をうかがっていたところです」


 言い訳のような言葉。

 それを聞きながら、レオンさまは私の側に膝をついた。


「フィオナ、どこか痛むか」


 真剣な目で、私の顔を覗き込む。


 近くで見るその瞳は、さっきまでの優しい色ではなく、不安と苛立ちを押し殺したような濃い影を宿していた。


「だいじょうぶ……ただ、その……」


 息を整える。

 頭の奥の鈍い痛みは、少しだけ引いていた。


「匂いが、前にも、同じ匂いを嗅いだ気がして」


「匂い」


「火の夜みたいな……スパイスと、甘いのと、それから……煙みたいな」


 うまく言葉にできないのが、もどかしい。


 けれど、レオンさまは一度、短く目を伏せた。


「……バルドの香水か」


 低く漏らした声には、明らかな敵意が混じっていた。


 侯爵の名を口にしたとき、レオンさまの肩がぴんと張る。


 私は、さっきのフラッシュバックを、途切れながらも話した。


「廊下で……誰かが、床に液体を撒いていて。マッチの音がして。誰かが、『本当にやるつもりか』って言ってて……『今さらやめられるか』って返して……。全部、その匂いがしてたんです」


 話しながら、自分の声が少し震えているのが分かった。


 でも、止めたくなかった。


 あの夜を、ちゃんと捕まえたい。


 散らばっている断片を、ひとつでも多く掬い上げたい。


 レオンさまの拳が、ゆっくりと握られる。


 指の関節が、白く浮かび上がる。


「やはり、あれは――」


 そこまで言いかけて、レオンさまは言葉を切った。


 視線が、周囲をかすめる。

 まだ、貴族たちはそれぞれの輪で談笑しているが、こちらに興味を向けている人もいる。


 バルド侯爵は、少し離れた場所で、別の客と談笑していた。

 けれど、その視線は時折こちらに滑ってくる。


 レオンさまは、ゆっくりと立ち上がった。


「もう帰ろう」


 耳元で、小さな声。


「ここで話すことじゃない」


「でも……」


「君の頭が落ち着いてからでいい。今は、これ以上この匂いの中に君を置きたくない」


 その言い方が、妙に切実で。


 私は反射的にうなずいていた。


「はい」


 立ち上がると、足元が少しふらついた。

 レオンさまの腕が、すぐに支えてくれる。


「失礼、アルスター公爵。もうお帰りかね」


 いつの間にか近づいてきていたバルド侯爵が、笑みを浮かべて声をかけてきた。


「妻の体調が思わしくない。これ以上は無理をさせられないので」


 レオンさまの言い方は丁寧だが、その中に固い壁があった。


「それはそれは。奥様、どうかご自愛ください。またゆっくりと、お話しできる日を楽しみにしております」


 侯爵は、グラスを軽く持ち上げて見せる。


 その動きに合わせて、またあの香りが揺らいだ。


 胸の奥で、何かがぞわりと逆立つ。


 私はそれを表に出さないように、ただ静かに一礼した。


「お招き、ありがとうございました」


 それだけ言って、レオンさまとともに大広間を後にする。


 廊下を歩いている間も、鼻の奥に、あの香りがこびりついていた。


 馬車に乗り込むと、扉が閉まる音がして、外の喧騒が少し遠ざかる。


 車輪が動き出し、夜会の明かりが窓の外を流れていった。


 私は、座席にもたれかかる。


 頭が重くて、首を支えるのも少ししんどい。


「……ごめんなさい」


 静かな車内で、最初に出てきた言葉はそれだった。


「せっかくのお仕事の場だったのに、私のせいで」


「謝ることじゃない」


 レオンさまは、少しきつめの声で言った。


「むしろ感謝している」


「感謝、ですか」


「君が思い出してくれたことは、どれも重要だ」


 窓の外を見つめていた彼の視線が、私に戻る。


「君は火の夜に、誰かの企みを見た。その匂いも、その声も」


「企み……」


「詳しい話は、もう少し君の体調が戻ってからにしよう」


 そう言って、レオンさまは言葉を濁した。


「今は頭を休めてくれ」


 休めて、と言われても、頭の中はさっきからずっとざわざわしている。


 液体を撒く音。

 マッチの火。

 「今さらやめられるか」という声。


 それから、スパイスと甘さと、煙の混じった匂い。


「……わたしは、火事の夜、何を見たんでしょう」


 ぽつりと問うと、レオンさまは短く目を閉じた。


「君は、大事なものを見た」


「大事なもの」


「だから、狙われた」


 狙われた。


 その言葉が、胸の中で重く沈んだ。


 巻き込まれたのではなく。

 たまたまそこにいただけでもなく。


 誰かが、誰かを狙って火をつけて。

 その中に、私もいた。


 揺れる馬車の中で、私は窓の外を見た。


 遠ざかっていく侯爵邸の明かりが、夜空に浮かぶ炎みたいに見える。

 屋根の向こうに、ほんの少しだけ、煙のようなものが立ちのぼっている気がした。


 それが現実なのか、私の頭が勝手に見せている残像なのかは分からない。


 けれど、ひとつだけはっきりしていた。


 あの香りを、私はもう、二度と「ただの香水」としては嗅げない。


 スパイスと甘さと、わずかな煙の匂い。


 それは、火の夜の匂いだ。


 放火の匂いであり。

 誰かを傷つけようとした人間の匂いであり。


 私の背中に、消えない痕を残した夜の匂いだ。


 私は、ぎゅっと拳を握った。


 目を閉じても、あの香りは消えない。


 だからこそ――私は、絶対に忘れない。


 あの香りを。

 火の匂いを。

 そしてあの夜、何があったのかを。


 全部思い出して、自分の目で確かめる。


 それまで、この匂いを、胸の奥に焼きつけておく。

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