第13話 夜会のダンスは、二度目のはずなのに
侯爵邸の門は、夜空よりも高くそびえていた。
黒い鉄の柵に、金色の紋章。
その向こうに広がる庭には、いくつもの馬車が月明かりとたいまつの光を受けて並んでいる。
馬車の窓からその光景を見た瞬間、私は思わず息を呑んだ。
「……すごい」
言葉にした途端、自分の声が小さく震えているのが分かる。
隣に座るレオンさまが、ちらりとこちらを振り向いた。
「圧迫感があるか」
「いいえ。ただ……本当に来ちゃったんだなって」
私の返事に、レオンさまは目線を正面に戻しながら、ゆっくりと息を吐いた。
「今さら引き返すなら、まだ間に合うぞ」
「もうここまで来てしまいましたし」
私は、ぎゅっと膝の上で手を握りしめる。
「それに……きっと、前にも来たことがある気がするんです。この門も、この灯りも、全部」
具体的には思い出せない。
でも、胸の奥のどこかがざわざわしている。
懐かしいのか、怖いのか、自分でもうまく言葉にできない感覚で。
「そうだな」
レオンさまは短くうなずいた。
「君は、ここで何度か俺の袖を掴んで離さなかった」
「袖を掴んで、ですか」
「人の顔と名前を覚えるのが苦手だと言って、延々と俺の後ろに隠れていた」
「……それ、すごく図々しくないですか、昔のわたし」
思わず突っ込むと、レオンさまがわずかに口元を緩めた。
「図々しいというより、正直だった」
馬車が止まる。
外から御者の声がして、扉の前に階段が掛けられた音がした。
「着いた」
レオンさまが先に立ち上がり、扉が開く。
冷たい夜気が、青いドレスの裾をふわりと揺らした。
「フィオナ」
差し出された手は、昼間と同じ温度だった。
私は一度だけ深呼吸をしてから、その手を取る。
馬車を降りると、目の前に広がる石畳が、思っていたよりずっと白く見えた。
たいまつの炎と、窓から漏れる灯りが混ざり合って、あたりの空気が少しだけ暖かい。
それでも、私の指先はひんやりしていた。
「足元に気をつけて」
レオンさまの腕に、そっと手を添える。
その動きが、自分でも驚くほど自然だった。
何度も繰り返したことのある仕草みたいに、迷いなく。
堂々とした玄関の前で、扉番が礼を取る。
「アルスター公爵夫妻、ご到着です」
その声が、あたりにいた人々の耳に届く。
いくつもの視線が、一斉にこちらを向いた。
心臓が、どくんと跳ねる。
視線の重さに押しつぶされそうになった瞬間、腕に添えた手に、少しだけ力がこもった。
「大丈夫だ」
レオンさまの低い声が、耳のすぐ近くで囁く。
それだけで、不思議なくらい呼吸が整う。
玄関ホールを抜けると、大広間が口を開けて待っていた。
高い天井から吊るされたシャンデリア。
壁に並ぶ、先祖たちの肖像画。
奥の一段高い場所には、楽団の奏者たち。
香水とワインと料理の匂いが、空気の中で複雑に混ざり合っている。
色とりどりのドレス。
黒い燕尾服。
笑い声と、グラスが触れ合う音。
そのすべてを一度に浴びた瞬間、胸の奥に、はっきりとした感覚が走った。
――知っている。
ここを、私は知っている。
この光。
この音。
この床の冷たさ。
きちんと覚えていないはずなのに、身体のほうが先に、そう断言していた。
「ようこそ、おいでくださいました」
柔らかな声が、喧噪の中からするりと近づいてきた。
振り向くと、そこに立っていたのは、品の良い笑みを浮かべた男だった。
年の頃は、父と同じくらいだろうか。
落ち着いた色の衣服に、控えめな装飾。
髪には白いものが混じり始めていて、それがかえって落ち着いた印象を与えている。
「バルド侯爵」
レオンさまの声が、ほんの少しだけ低くなる。
男――バルド侯爵は、まるでその変化を楽しむように、ゆっくりと笑みを深めた。
「アルスター公爵。お顔を拝見できて、何よりです。そして……フィオナ様」
私に向き直った彼の視線が、一瞬だけ上から下へと滑り落ちる。
深い青のドレス。
露出を抑えた背中。
ドレスの隙間から、かすかに覗く火傷の痕。
彼の目が、そこに触れた瞬間が分かった。
皮膚の上を、冷たい刃物で撫でられたみたいな感覚。
「ご快復されたと伺い、心から安心いたしました」
言葉だけを聞けば、ただの見舞いの挨拶だ。
けれどその声色には、どこか芝居がかった響きがあった。
私は、決まり通りに裾を摘まんで一礼する。
「お心遣い、ありがとうございます。フィオナ・アルスターと申します。本日は、お招き感謝いたします」
「これは丁寧に」
侯爵は、にこやかに頭を下げ返す。
その笑みの奥に何があるのか、私には読み取れない。
ただひとつ分かるのは、私の背中に向けられた視線が、好奇心とも同情とも違う色をしていたことだ。
レオンさまが、さりげなく一歩前に出る。
私を、自分の影の中に入れるような位置取り。
「妻は、まだ本調子ではありません。長居はできないかもしれませんが」
「もちろんでございますとも」
侯爵は、手をひらひらと振ってみせた。
「奥様に無理をさせるつもりなど、毛頭ございません。あの日の埋め合わせを、少しでもさせていただければと存じましてね」
「あの日」
曖昧なはずのその二文字の意味を、私は無意識に火の色と重ねていた。
天井から落ちてくる炎。
焦げる匂い。
誰かの名前を叫んだ自分の声。
頭の奥がずきりと痛んで、私は知らないうちに眉を寄せていた。
「フィオナ」
レオンさまが、ほんのわずかに腕を引く。
視線を上げると、彼の横顔が見えた。
普段は穏やかな瞳が、今は静かに冷えている。
「ご挨拶はこのくらいに。妻を少し、会場に慣れさせたい」
「ええ、ええ。どうぞごゆっくりお楽しみください」
侯爵は、笑みを崩さないまま、一礼して離れていった。
その背中を目で追いながら、背筋に残るぞわりとした感覚が完全には消えない。
「……あの方が」
「バルド侯爵だ」
レオンさまが短く答えた。
「王都の復興を取り仕切っている、表向きは有能な貴族だ」
「表向きは、ですか」
「裏は、いつも見えにくい」
それ以上は、簡単に言葉にできない何かがあるようで。
レオンさまは、それきり口を閉ざした。
そのタイミングを待っていたかのように、楽団が新しい曲を奏で始める。
軽やかなワルツ。
司会役の声が、大広間に響いた。
「では、最初のダンスを。アルスター公爵夫妻に、場をお開きいただきましょう」
一斉に、視線がまたこちらに向く。
さっきよりも、もっと強く。
胸がぎゅっと縮こまる。
「最初って、今のことですか」
「そういうことだ」
レオンさまが、静かに私の前に立つ。
手を差し出す仕草は、昼間と同じなのに、なぜだか少し違って見える。
「踊れそうか」
すぐには答えられなくて、私は自分の足先を見る。
白い靴。
少し高めのヒール。
つま先が、石の床をかすかに感じている。
怖い。
でも――ここで逃げたら、きっと後悔する。
「……やってみます」
そう言って、私はその手を取った。
輪の中心に向かって歩き出すと、周囲の人々が自然と道を開ける。
円の真ん中に立たされたとき、頭の中が真っ白になりそうになった。
「深呼吸」
レオンさまが、小さく囁く。
言われた通りに息を吸い込んで、ゆっくり吐き出す。
楽団の音が、耳に入ってくる。
一、二、三。
一、二、三。
規則的なリズム。
「最初の一歩だけ、意識しろ」
レオンさまの手が、私の背中に添えられる。
もう片方の手が、私の指を包む。
「あとは、身体に任せていい」
そう言われて、少しだけ肩の力を抜いた。
レオンさまの足が、ゆっくりと前に出る。
それに合わせて、私は左足を出した。
――あれ。
今の感覚、知っている。
ほんの少しの重心の移動。
床を滑る靴底。
ドレスの裾が、足首をかすめる感触。
回転するときの、スカートの広がり方。
次にどちらの足を出せばいいのか、頭で数えるより先に、身体が動く。
右足を引いて、左足を揃える。
手を少しだけ上げて、遠心力に逆らわないように回る。
気づけば、私は音楽に合わせて、ちゃんと踊れていた。
「……本当に、踊れてます?」
「見事に」
レオンさまの口元が、少しだけ綻ぶ。
「最初にここで踊ったときは、最初の三歩で俺の足を踏んだ」
「それは、本当に申し訳ないです」
「今のところ、無傷だ」
ほんの短いやりとりでも、緊張が薄れていくのが分かる。
視線を上げると、レオンさまの肩越しに、大広間の景色がくるくると変わっていくのが見えた。
壁に掛けられた、大きな湖の絵。
その隣にある、金色の額縁の風景画。
奥に見える、大きな窓。
窓の向こうには、夜の庭が広がっている。
回転するたびに、同じ位置にあるはずの景色が、少しずつ違って見える。
そして、そのひとつひとつに、妙な懐かしさを覚えた。
この絵の前で、誰かとぶつかりそうになって笑った。
あの窓の外で、夜風に当たった。
シャンデリアの光を、「お菓子みたい」と言ってレオンさまに呆れられた。
根拠もないのに、そんな光景が、頭の奥にふっと浮かんでは消えていく。
「フィオナ」
レオンさまが、私の耳元に顔を寄せる。
吐息が、首筋に少し触れた。
「君は、前にもここで俺と踊った」
低い声が、音楽のすき間を縫うように聞こえる。
「覚えていなくてもいい。今、また同じ場所で、同じように踊っている」
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
同じ場所。
同じ人。
違う私。
何度も繰り返された「はじめまして」の、少し長いバージョンみたいだ。
足取りが、自然と軽くなった。
身体が先に覚えているなら、それを信じてもいいのかもしれない。
ワルツの最後の一節。
音楽が収束していく気配を感じて、レオンさまの手に添えた力を少し抜く。
くるりと最後の回転をして、ぴたりと止まる。
その瞬間、周囲から拍手が沸き起こった。
音の波が、私とレオンさまを包み込む。
「……はあ」
思わず、息が漏れた。
足は少し重く、胸はどきどきしている。
それでも、さっきまでのような息苦しさはない。
「大丈夫か」
「はい。怖いかと思ったんですけど」
言葉を探して、少し考える。
「……怖いだけじゃなかったです」
レオンさまが、ふっと目を細めた。
「それは、良かった」
ダンスの輪から離れて、人の波の少し外れた場所へ移動する。
すぐに給仕がやってきて、グラスに水を注いでくれた。
私はそれを受け取り、喉を潤す。
冷たい水が、身体の熱を少しだけ下げてくれた。
「前にもここで踊ったとしたら」
グラスの縁を指でなぞりながら、ふと口を開く。
「そのときの私は、どんな気持ちだったんでしょう」
レオンさまは、少しだけ遠くを見るような目をした。
「信じられないくらい、楽しそうだった」
「……そんなに、ですか」
「俺の足を何度も踏んで、笑いながら謝りもしなかった」
「ひどい」
思わず笑ってしまう。
ひどい、のに。
その光景が、なぜか愛おしく感じられた。
「前の君は、怖がりのくせに、人前ではやたらと強がった」
レオンさまが、少し肩をすくめる。
「『私が笑わせるから、あなたは笑っていればいいの』なんて、よく言っていた」
「そんなこと、言ってたんですか」
「ああ」
そう言って、彼はほんの少しだけ微笑んだ。
その笑顔もまた、胸のどこかをくすぐる。
私はグラスを置いて、少しだけレオンさまの顔を見上げる。
「今の私は」
自分でも驚くくらい、素直な言葉が出てきた。
「あなたの足を踏まずに踊れて、ほっとしました」
「そこか」
「それと」
さっき、ダンスの最中に感じたことを、うまく掬い上げたいと思った。
「今の私も、少しだけ楽しかったです」
言った瞬間、顔が熱くなる。
そこまで言うつもりはなかったのに、口が勝手に動いた。
レオンさまの横顔が、柔らかい光の中でわずかに揺れる。
彼はすぐには何も言わなかった。
代わりに、そっと私の手から空になったグラスを取り上げ、給仕に返す。
「それは、俺もだ」
しばらくしてから、静かにそう続けた。
「君とまた、こうして踊れて……助かった気がする」
「助かった?」
「ただのわがままだ」
レオンさまは、視線を私から外して、大広間を見渡した。
熱気と笑い声の中で、遠くのほうから、別の楽曲が流れ始める。
その影になった場所で、誰かがこちらをじっと見ていることに気づいた。
視線が絡んだ、気がした。
黒い服の男。
侯爵の側近だろうか。
表情は読めないのに、目だけがやけに鋭く光っている。
背筋に、さっきとは違う冷たさが走った。
火の熱とは逆の、ひやりとしたもの。
「フィオナ」
すぐそばから呼ばれて、私は意識を戻す。
「人が多い場所は、それだけで疲れる。無理はするな」
「はい」
私は、胸の前でそっと手を組む。
怖さも、不安も、ここには確かにある。
でもそれと同じくらい、今の自分が感じた「楽しかった」という気持ちも、本物だ。
忘れてしまうかもしれない。
明日の私は、また何も知らない顔で、この夜会の話を聞くのかもしれない。
それでも。
今、ここで、あなたと踊ったことを。
音楽に合わせて身体が自然に動いたことを。
あなたの手の温度と、耳元で笑った声を。
今日の私は、ちゃんと覚えていたい――そう思った。




