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花嫁は毎朝、旦那さまを忘れる  作者: 妙原奇天


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12/22

第12話 ドレスと、旦那さまの視線

 ベッドの上に、色とりどりの海が広がっていた。


 淡い桜色。

 落ち着いた生成り。

 夜の湖みたいな、深い青。


 マリアが大きなクローゼットから次々と箱を運び出して、その中身を布の上に並べていくたび、部屋の空気が少しずつ華やかになっていく。


「これ、全部……私の、なんですよね」


「もちろんでございます、奥様」


 マリアは、埃ひとつ許さない手つきでドレスの裾を整えながら、誇らしそうにうなずいた。


「どれも、奥様が悩みに悩んでお選びになったものです。ひとつ残らず、思い出付きでございますよ」


「思い出付き、ですか」


 その言葉が、少しだけ胸に刺さる。


 思い出のない私が、思い出のある服を着る。


 それは、ちょっとだけ借り物みたいで。

 でも、ほんの少しだけ、うらやましくもあった。


「まずは、こちらからお召しになってみますか」


 マリアが差し出したのは、淡いピンクのドレスだった。


 ふんわりした袖。

 胸元には、小さな花を模した刺繍。

 スカートの裾は、歩くたびに空気をはらんで揺れそうだ。


「これは、坊ちゃまと初めて夜会にご出席なさったときのものです」


「初めて……」


 胸の奥が、ふっと温かくなる。


 初めての夜会。

 初めて、レオンさまと並んで立った大広間。


 何も覚えていないのに、言葉だけで胸がざわめくのは不思議だ。


「お手伝いいたしますね」


 マリアに促されて、私は寝間着を脱ぎ、慎重にピンクの布を身にまとった。


 背中にひやりとした裏地が触れる。


 肌を包み込む感覚は、思っていたより安心するものだった。


「失礼いたします」


 背中側で、マリアが紐を締める。


 ぐい、と軽く締め付けられて、胸の下あたりがきゅっと持ち上がった。


 鏡の前に立つと、そこには、知らないようで知っている誰かが映っていた。


 頬はまだ少しやつれているけれど。

 ピンクの色に照らされて、青い瞳が少しやわらかく見える。


「……なんだか、可愛いですね」


 思わず口から漏れた言葉に、自分で少し驚く。


 マリアがくすっと笑った。


「そのお言葉、そのままお返しいたします」


「このときの私は、どんな顔をして夜会に行ったんでしょう」


「そうですねえ……」


 マリアは懐かしそうに目を細めた。


「緊張なさってはいましたが、『大丈夫、私が笑わせればあの人も怖くない』と、おっしゃっておいででしたよ」


「……ずいぶん強気ですね、昔の私」


 思わず苦笑がこぼれる。


 今の私には、とてもそんなこと言えそうにない。


 けれど少しだけ、その女の人がうらやましい。


 誰かの隣に立つことを、怖がるより先に楽しみにできた自分が、たしかにここにいたのだ。


「では、お次は」


 マリアが、別のドレスを取り上げる。


 深い湖の色をした、青。


 さきほどのピンクより少し重い生地で、光の加減によって黒にも紺にも見える。


 胸元には銀糸で細かな模様が縫い込まれ、裾には星のように小さなビーズが散っていた。


「これは……?」


「火事の前、最後にお召しになっていたドレスです」


 その言葉と同時に、心臓がどくんと大きく鳴った気がした。


 火事の前夜。

 最後に、私が選んだ服。


「お辛ければ、別のものをご用意いたしますが」


 マリアが、そっと様子を伺う。


 私は青い布に指先を触れた。


 ひんやりとした感触が、肌の上を滑る。


 指先でつまんだ裾を持ち上げると、布は水みたいにしなやかに流れた。


 怖い、と思う。


 あの夜に繋がる何かを、身にまとうことが。


 でも同時に。


 このドレスを避けてしまったら、ずっと火事の夜に背中を向けたままな気がした。


「……着てみてもいいですか」


 自分の声が、思っていたより落ち着いて聞こえる。


「もちろんでございます」


 ピンクのドレスを脱ぎ、慎重に青をまとっていく。


 こちらのドレスは、背中が深く開いていた。


 肩甲骨のあたりまで露わになって、空気がそこだけ冷たく触れる。


「紐を締めますね」


「お願いします」


 マリアの手が、背中の真ん中あたりで止まった。


 一瞬、呼吸が止まるような沈黙。


 その意味を、理解するまでに少し時間がかかった。


 鏡に映る自分の背中を、そっと振り返る。


 白い肌の上に、赤黒い痕が広がっていた。


 葉脈のように、炎の枝が走った跡。


 触れていないのに、そこだけじんと熱を思い出す。


 でも、痛みはもう、ほとんどない。


「ここ……」


 思わず、指先を伸ばしそうになって、途中でやめた。


 火の気配はどこにもない。

 焦げた匂いもしない。


 代わりにあるのは、静かな痕跡だけ。


「火の中で、何かが倒れてきて」


 夢で見た光景が、断片的に蘇る。


 崩れる天井。

 落ちてくる梁。

 誰かを突き飛ばした、自分の手。


 背中に炎がかぶさったときの、焼け付くような熱。


 そこから先を思い出そうとして、頭の奥がずきりと痛んだ。


 私は息を吸い直し、そっと目を閉じる。


 怖い。


 でも――ここに痕があるということは。


「わたしは、逃げなかったんですね」


 思ったことが、口から零れていた。


「どなたかを、お庇いになりました」


 マリアの声は、いつもより少しだけ震えていた。


「詳しいことは、坊ちゃまからいつか……きっと、お聞きになるべきでございます」


 その「いつか」が、遠い未来なのか、すぐ近くなのかは分からない。


 けれど少なくとも、私が火の中で背を向けたのは、誰かから逃げるためではなかった。


 守ろうとしたのだ。


 誰かを。


 たぶん、とても大事な人を。


「……この痕、嫌いじゃないかもしれません」


 鏡に映る自分の背中を見ながら、私はそっと言った。


「綺麗事かもしれないけれど。ここにあるってことは、わたし、ちゃんと誰かを守れたってことだから」


 マリアが、ふっと息を呑む気配がした。


「奥様は、本当に」


「?」


「昔も今も、変わられませんね」


 そう言って、彼女はもう一度紐を締め直した。


 きゅっと布が身体に沿う。


 鏡の中に、青いドレスの女が立っていた。


 背中には傷跡。

 胸元には、深い青と銀の縫い取り。


 怖さも、不安も、全部ひっくるめて、今の私だ。


「このドレスにします」


 気づいたら、そう言っていた。


「本当によろしいのですか」


「はい。火事の夜に向き合うなら、きっとここから逃げちゃいけない気がして」


 自分でも、少し無茶を言っている自覚はある。


 でも、あの夜をまるごと他人事みたいに扱うほうが、きっと後で苦しくなる。


「とても……よくお似合いです、奥様」


 マリアの言葉は、決してお世辞ではない響きだった。


 頬がじんわりと熱くなる。


 鏡の中の私は、まだ頼りないけれど。

 どこか、少しだけ凛として見えた。


     ◇


 夜会当日の夕方。

 支度を終えて、部屋にひとり残されたとき、急に心臓が早くなり始めた。


 髪は、マリアたちが丁寧にまとめてくれた。


 首筋がすっと見えるようにアップにして、小さな青い石の髪飾りが差してある。


 耳元には、揺れるイヤリング。

 喉元には細い銀のネックレス。


 鏡に映る自分が、自分ではないみたいだ。


 こんなふうに、誰かの隣に立っていたのだろうか。

 炎に呑まれる前の、私。


 扉がノックされたのは、そんなときだった。


「フィオナ、支度は――入っていいか」


「どうぞ」


 声が少し上ずってしまったのが、自分でも分かる。


 扉が開く。

 そこに立っていたレオンさまの足が、ぴたりと止まった。


 数秒。


 本当に、時間が止まったみたいだった。


 普段ならすぐに言葉を選ぶ人が、何も言えなくなっているのが、見なくても分かる。


 私は、どうしていいか分からなくなって、反射的にスカートの裾をつまんだ。


「あの、その……」


 言い訳を探すみたいに、早口になる。


「似合っていなかったら、すぐに着替えますから。ピンクのほうがよかったとか、もっと落ち着いた色のが、とか、もしあれば――」


「フィオナ」


 名前を呼ばれただけで、口を塞がれたみたいに言葉が止まった。


 レオンさまは、ゆっくりと息を吸って、それからひと言だけ落とす。


「……とても、綺麗だ」


 胸の奥が、ばくんと跳ねた。


 綺麗。


 そんな、まっすぐな言葉を向けられる準備なんて、まったくできていなかった。


「え、と、その……ありがとうございます」


 顔が一気に熱くなる。


 耳まで真っ赤になっている自信があった。


「青が、よく似合う」


 レオンさまは少しだけ目を伏せ、それからまたこちらを見る。


「君の瞳と、よく合っている」


 瞳。


 そんなところまで、見られていたのだと気づいた瞬間、視線のやり場に困ってしまう。


 私の視線は、彼の胸元や肩をさまよって、それから逃げるように床へ落ちた。


「……座ったままでいい」


 レオンさまが、私の背後に回る気配がした。


「ドレスの紐がちゃんと結べているか、確認させてくれ」


「マリアが、締めてくれましたけど」


「念のためだ」


 指先が、背中に触れる。


 火傷の痕の、すぐ際をなぞるような場所。


 布越しなのに、そこだけ温度が違って感じた。


 レオンさまの指が、途中でぴたりと止まる。


 息を呑む音が、すぐ近くで聞こえた。


「……痛まないか」


 低く抑えた声に、言い知れないものが混じっていた。


 罪悪感。

 悔しさ。

 それから――どうしようもないほどの、優しさ。


 私は少しだけ考えてから、ゆっくりと首を横に振る。


「痛くないです」


 嘘ではない。

 今ここにあるのは、焼けるような痛みではなく、鈍いしこりのような感覚だけだ。


「きっと、守ったから」


 言ってから、自分でも驚く。


「守った?」


「誰かを、庇ったから。ここに、痕が残ってるんだと思います」


 誰を、とは言わない。


 でも、二人とも心の中で、同じ名前を思い浮かべている気がした。


 背後で、レオンさまの喉が大きく動く。


「君は……本当に、いつもそうだな」


「いつも?」


「自分のことより、他人のことを先に考える」


 私の肩に触れた手が、少しだけ強くなった。


「そういうところは、どうか少しは……加減してほしい」


「それは、昔の私に言ったほうがよかったんじゃないですか」


 冗談めかして返すと、背後で小さく笑う気配がした。


「もう何度も言ったが、聞いてくれなかった」


「……今のわたしなら、少しは聞くかもしれません」


「期待してもいいか」


「半分だけなら」


 自分でも、驚くくらい自然に、そんなやりとりができた。


 鏡の中で、青いドレスの女が笑う。


 その笑い方は、あの頃と同じかどうか分からない。


 でも、少なくとも今は、鏡の中の私を少しだけ好きだと思えた。


     ◇


 玄関ホールには、いつもより多くの人がいた。


 使用人たちが一列に並び、私たちを見送るために集まっている。


 大きな扉の向こうには、夜の空気がひっそりと待っていた。


「奥様、どうかお気をつけて」


「坊ちゃま、奥様をよろしくお願いいたします」


「いってらっしゃいませ」


 あちこちから声がかかる。


 私は緊張で指先が冷たくなっていて、でも、その冷たさすらどこか心地よかった。


 自分が今、ひとつの物語の節目に立っているのだと、嫌でも実感させられる。


「フィオナ」


 横で、レオンさまが手を差し出した。


 手袋をしていない、素の手。


 長くて、少し節くれだった指。


 たくさんの書類と剣とを握ってきた手。


 私は深呼吸をひとつしてから、その手を取った。


 温かい。


 それだけで、足元のぐらつきが少しだけ収まる。


「行きましょうか」


 今度は、私のほうから言った。


 レオンさまの眉が、わずかに驚いたように動き、すぐに柔らかく下りる。


「ああ」


 扉が開く。


 夜の空気が、青いドレスの裾をふわりと揺らした。


 石畳の上には馬車が待っている。


 黒い車体に、アルスター家の紋章。

 車輪の金具が、月明かりを受けてほのかに光る。


 乗り込むと、クッションの効いた座席が軽く身体を受け止めた。


 窓の外で、屋敷が遠ざかっていく。


 見慣れはじめていた屋根と、塔と、庭のシルエット。


 そこから視線を移すと、街灯の列が、夜の街を縁取っていた。


 馬車の揺れが、胸の高鳴りと同じリズムで続いていく。


 私はそっと、自分の背中に意識を向ける。


 青い布の下で、火傷の痕が静かに息をしている。


 逃げなかった証。

 守ろうとした証。


 それを連れて、私はまた、火の夜に繋がる場所へ向かっている。


「フィオナ」


「はい」


「怖くなったら、言え」


「言います」


「途中で引き返しても、誰も責めはしない」


「……わたし自身も?」


 思わず、問い返していた。


 レオンさまは少し黙って、それからゆっくりとうなずく。


「君が自分を責めそうなら、俺が全力で止める」


「それは、ずるいですね」


「ずるい男だからな」


 そんな会話をしながら、馬車は夜の石畳を走っていく。


 窓の外、遠くに、侯爵家の屋敷の明かりが見え始めていた。


 まるで、炎のように揺れる光の群れ。


 その光の中で、何を思い出すのか。


 何を知り、何を失い、何をもう一度手に入れるのか。


 まだ何も分からない。


 でも、ひとつだけはっきりしている。


 私は今、傷を含めた自分の身体ごと、前に進もうとしている。


 青いドレスの裾をそっと握りしめながら、私は胸の奥で、もう一度だけ静かに呟いた。


 ――行こう。


 過去の私と、今の私が出会う、あの場所へ。

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