第12話 ドレスと、旦那さまの視線
ベッドの上に、色とりどりの海が広がっていた。
淡い桜色。
落ち着いた生成り。
夜の湖みたいな、深い青。
マリアが大きなクローゼットから次々と箱を運び出して、その中身を布の上に並べていくたび、部屋の空気が少しずつ華やかになっていく。
「これ、全部……私の、なんですよね」
「もちろんでございます、奥様」
マリアは、埃ひとつ許さない手つきでドレスの裾を整えながら、誇らしそうにうなずいた。
「どれも、奥様が悩みに悩んでお選びになったものです。ひとつ残らず、思い出付きでございますよ」
「思い出付き、ですか」
その言葉が、少しだけ胸に刺さる。
思い出のない私が、思い出のある服を着る。
それは、ちょっとだけ借り物みたいで。
でも、ほんの少しだけ、うらやましくもあった。
「まずは、こちらからお召しになってみますか」
マリアが差し出したのは、淡いピンクのドレスだった。
ふんわりした袖。
胸元には、小さな花を模した刺繍。
スカートの裾は、歩くたびに空気をはらんで揺れそうだ。
「これは、坊ちゃまと初めて夜会にご出席なさったときのものです」
「初めて……」
胸の奥が、ふっと温かくなる。
初めての夜会。
初めて、レオンさまと並んで立った大広間。
何も覚えていないのに、言葉だけで胸がざわめくのは不思議だ。
「お手伝いいたしますね」
マリアに促されて、私は寝間着を脱ぎ、慎重にピンクの布を身にまとった。
背中にひやりとした裏地が触れる。
肌を包み込む感覚は、思っていたより安心するものだった。
「失礼いたします」
背中側で、マリアが紐を締める。
ぐい、と軽く締め付けられて、胸の下あたりがきゅっと持ち上がった。
鏡の前に立つと、そこには、知らないようで知っている誰かが映っていた。
頬はまだ少しやつれているけれど。
ピンクの色に照らされて、青い瞳が少しやわらかく見える。
「……なんだか、可愛いですね」
思わず口から漏れた言葉に、自分で少し驚く。
マリアがくすっと笑った。
「そのお言葉、そのままお返しいたします」
「このときの私は、どんな顔をして夜会に行ったんでしょう」
「そうですねえ……」
マリアは懐かしそうに目を細めた。
「緊張なさってはいましたが、『大丈夫、私が笑わせればあの人も怖くない』と、おっしゃっておいででしたよ」
「……ずいぶん強気ですね、昔の私」
思わず苦笑がこぼれる。
今の私には、とてもそんなこと言えそうにない。
けれど少しだけ、その女の人がうらやましい。
誰かの隣に立つことを、怖がるより先に楽しみにできた自分が、たしかにここにいたのだ。
「では、お次は」
マリアが、別のドレスを取り上げる。
深い湖の色をした、青。
さきほどのピンクより少し重い生地で、光の加減によって黒にも紺にも見える。
胸元には銀糸で細かな模様が縫い込まれ、裾には星のように小さなビーズが散っていた。
「これは……?」
「火事の前、最後にお召しになっていたドレスです」
その言葉と同時に、心臓がどくんと大きく鳴った気がした。
火事の前夜。
最後に、私が選んだ服。
「お辛ければ、別のものをご用意いたしますが」
マリアが、そっと様子を伺う。
私は青い布に指先を触れた。
ひんやりとした感触が、肌の上を滑る。
指先でつまんだ裾を持ち上げると、布は水みたいにしなやかに流れた。
怖い、と思う。
あの夜に繋がる何かを、身にまとうことが。
でも同時に。
このドレスを避けてしまったら、ずっと火事の夜に背中を向けたままな気がした。
「……着てみてもいいですか」
自分の声が、思っていたより落ち着いて聞こえる。
「もちろんでございます」
ピンクのドレスを脱ぎ、慎重に青をまとっていく。
こちらのドレスは、背中が深く開いていた。
肩甲骨のあたりまで露わになって、空気がそこだけ冷たく触れる。
「紐を締めますね」
「お願いします」
マリアの手が、背中の真ん中あたりで止まった。
一瞬、呼吸が止まるような沈黙。
その意味を、理解するまでに少し時間がかかった。
鏡に映る自分の背中を、そっと振り返る。
白い肌の上に、赤黒い痕が広がっていた。
葉脈のように、炎の枝が走った跡。
触れていないのに、そこだけじんと熱を思い出す。
でも、痛みはもう、ほとんどない。
「ここ……」
思わず、指先を伸ばしそうになって、途中でやめた。
火の気配はどこにもない。
焦げた匂いもしない。
代わりにあるのは、静かな痕跡だけ。
「火の中で、何かが倒れてきて」
夢で見た光景が、断片的に蘇る。
崩れる天井。
落ちてくる梁。
誰かを突き飛ばした、自分の手。
背中に炎がかぶさったときの、焼け付くような熱。
そこから先を思い出そうとして、頭の奥がずきりと痛んだ。
私は息を吸い直し、そっと目を閉じる。
怖い。
でも――ここに痕があるということは。
「わたしは、逃げなかったんですね」
思ったことが、口から零れていた。
「どなたかを、お庇いになりました」
マリアの声は、いつもより少しだけ震えていた。
「詳しいことは、坊ちゃまからいつか……きっと、お聞きになるべきでございます」
その「いつか」が、遠い未来なのか、すぐ近くなのかは分からない。
けれど少なくとも、私が火の中で背を向けたのは、誰かから逃げるためではなかった。
守ろうとしたのだ。
誰かを。
たぶん、とても大事な人を。
「……この痕、嫌いじゃないかもしれません」
鏡に映る自分の背中を見ながら、私はそっと言った。
「綺麗事かもしれないけれど。ここにあるってことは、わたし、ちゃんと誰かを守れたってことだから」
マリアが、ふっと息を呑む気配がした。
「奥様は、本当に」
「?」
「昔も今も、変わられませんね」
そう言って、彼女はもう一度紐を締め直した。
きゅっと布が身体に沿う。
鏡の中に、青いドレスの女が立っていた。
背中には傷跡。
胸元には、深い青と銀の縫い取り。
怖さも、不安も、全部ひっくるめて、今の私だ。
「このドレスにします」
気づいたら、そう言っていた。
「本当によろしいのですか」
「はい。火事の夜に向き合うなら、きっとここから逃げちゃいけない気がして」
自分でも、少し無茶を言っている自覚はある。
でも、あの夜をまるごと他人事みたいに扱うほうが、きっと後で苦しくなる。
「とても……よくお似合いです、奥様」
マリアの言葉は、決してお世辞ではない響きだった。
頬がじんわりと熱くなる。
鏡の中の私は、まだ頼りないけれど。
どこか、少しだけ凛として見えた。
◇
夜会当日の夕方。
支度を終えて、部屋にひとり残されたとき、急に心臓が早くなり始めた。
髪は、マリアたちが丁寧にまとめてくれた。
首筋がすっと見えるようにアップにして、小さな青い石の髪飾りが差してある。
耳元には、揺れるイヤリング。
喉元には細い銀のネックレス。
鏡に映る自分が、自分ではないみたいだ。
こんなふうに、誰かの隣に立っていたのだろうか。
炎に呑まれる前の、私。
扉がノックされたのは、そんなときだった。
「フィオナ、支度は――入っていいか」
「どうぞ」
声が少し上ずってしまったのが、自分でも分かる。
扉が開く。
そこに立っていたレオンさまの足が、ぴたりと止まった。
数秒。
本当に、時間が止まったみたいだった。
普段ならすぐに言葉を選ぶ人が、何も言えなくなっているのが、見なくても分かる。
私は、どうしていいか分からなくなって、反射的にスカートの裾をつまんだ。
「あの、その……」
言い訳を探すみたいに、早口になる。
「似合っていなかったら、すぐに着替えますから。ピンクのほうがよかったとか、もっと落ち着いた色のが、とか、もしあれば――」
「フィオナ」
名前を呼ばれただけで、口を塞がれたみたいに言葉が止まった。
レオンさまは、ゆっくりと息を吸って、それからひと言だけ落とす。
「……とても、綺麗だ」
胸の奥が、ばくんと跳ねた。
綺麗。
そんな、まっすぐな言葉を向けられる準備なんて、まったくできていなかった。
「え、と、その……ありがとうございます」
顔が一気に熱くなる。
耳まで真っ赤になっている自信があった。
「青が、よく似合う」
レオンさまは少しだけ目を伏せ、それからまたこちらを見る。
「君の瞳と、よく合っている」
瞳。
そんなところまで、見られていたのだと気づいた瞬間、視線のやり場に困ってしまう。
私の視線は、彼の胸元や肩をさまよって、それから逃げるように床へ落ちた。
「……座ったままでいい」
レオンさまが、私の背後に回る気配がした。
「ドレスの紐がちゃんと結べているか、確認させてくれ」
「マリアが、締めてくれましたけど」
「念のためだ」
指先が、背中に触れる。
火傷の痕の、すぐ際をなぞるような場所。
布越しなのに、そこだけ温度が違って感じた。
レオンさまの指が、途中でぴたりと止まる。
息を呑む音が、すぐ近くで聞こえた。
「……痛まないか」
低く抑えた声に、言い知れないものが混じっていた。
罪悪感。
悔しさ。
それから――どうしようもないほどの、優しさ。
私は少しだけ考えてから、ゆっくりと首を横に振る。
「痛くないです」
嘘ではない。
今ここにあるのは、焼けるような痛みではなく、鈍いしこりのような感覚だけだ。
「きっと、守ったから」
言ってから、自分でも驚く。
「守った?」
「誰かを、庇ったから。ここに、痕が残ってるんだと思います」
誰を、とは言わない。
でも、二人とも心の中で、同じ名前を思い浮かべている気がした。
背後で、レオンさまの喉が大きく動く。
「君は……本当に、いつもそうだな」
「いつも?」
「自分のことより、他人のことを先に考える」
私の肩に触れた手が、少しだけ強くなった。
「そういうところは、どうか少しは……加減してほしい」
「それは、昔の私に言ったほうがよかったんじゃないですか」
冗談めかして返すと、背後で小さく笑う気配がした。
「もう何度も言ったが、聞いてくれなかった」
「……今のわたしなら、少しは聞くかもしれません」
「期待してもいいか」
「半分だけなら」
自分でも、驚くくらい自然に、そんなやりとりができた。
鏡の中で、青いドレスの女が笑う。
その笑い方は、あの頃と同じかどうか分からない。
でも、少なくとも今は、鏡の中の私を少しだけ好きだと思えた。
◇
玄関ホールには、いつもより多くの人がいた。
使用人たちが一列に並び、私たちを見送るために集まっている。
大きな扉の向こうには、夜の空気がひっそりと待っていた。
「奥様、どうかお気をつけて」
「坊ちゃま、奥様をよろしくお願いいたします」
「いってらっしゃいませ」
あちこちから声がかかる。
私は緊張で指先が冷たくなっていて、でも、その冷たさすらどこか心地よかった。
自分が今、ひとつの物語の節目に立っているのだと、嫌でも実感させられる。
「フィオナ」
横で、レオンさまが手を差し出した。
手袋をしていない、素の手。
長くて、少し節くれだった指。
たくさんの書類と剣とを握ってきた手。
私は深呼吸をひとつしてから、その手を取った。
温かい。
それだけで、足元のぐらつきが少しだけ収まる。
「行きましょうか」
今度は、私のほうから言った。
レオンさまの眉が、わずかに驚いたように動き、すぐに柔らかく下りる。
「ああ」
扉が開く。
夜の空気が、青いドレスの裾をふわりと揺らした。
石畳の上には馬車が待っている。
黒い車体に、アルスター家の紋章。
車輪の金具が、月明かりを受けてほのかに光る。
乗り込むと、クッションの効いた座席が軽く身体を受け止めた。
窓の外で、屋敷が遠ざかっていく。
見慣れはじめていた屋根と、塔と、庭のシルエット。
そこから視線を移すと、街灯の列が、夜の街を縁取っていた。
馬車の揺れが、胸の高鳴りと同じリズムで続いていく。
私はそっと、自分の背中に意識を向ける。
青い布の下で、火傷の痕が静かに息をしている。
逃げなかった証。
守ろうとした証。
それを連れて、私はまた、火の夜に繋がる場所へ向かっている。
「フィオナ」
「はい」
「怖くなったら、言え」
「言います」
「途中で引き返しても、誰も責めはしない」
「……わたし自身も?」
思わず、問い返していた。
レオンさまは少し黙って、それからゆっくりとうなずく。
「君が自分を責めそうなら、俺が全力で止める」
「それは、ずるいですね」
「ずるい男だからな」
そんな会話をしながら、馬車は夜の石畳を走っていく。
窓の外、遠くに、侯爵家の屋敷の明かりが見え始めていた。
まるで、炎のように揺れる光の群れ。
その光の中で、何を思い出すのか。
何を知り、何を失い、何をもう一度手に入れるのか。
まだ何も分からない。
でも、ひとつだけはっきりしている。
私は今、傷を含めた自分の身体ごと、前に進もうとしている。
青いドレスの裾をそっと握りしめながら、私は胸の奥で、もう一度だけ静かに呟いた。
――行こう。
過去の私と、今の私が出会う、あの場所へ。




