第11話 侯爵家の夜会への招待状
執務室の扉は、いつも少しだけ開いている。
中の空気が、廊下まで流れてくるみたいに。
紙の擦れる音。
ペン先が走るかすかな気配。
低く短い、レオンさまの息づかい。
私は廊下の角に身を寄せて、その隙間から、そっと中を覗き込んでいた。
重たそうな机。
高い書棚。
窓から差し込む朝の光に、紙束の角だけが白く光る。
その真ん中で、レオンさまが椅子に腰掛けていた。
片肘を机につき、書類に目を通しながら、ペンを走らせる手つきは迷いがない。
あそこに、昔の私は、勝手にお茶を持って入っていったらしい。
マリアから聞いた話を思い出しながら、私はそっと自分の手を握った。
「……今の私にも、できるのかな」
ノックもせずに、扉を開けて。
「休憩しましょう」と笑って。
そんなふうに、当たり前みたいな顔で、彼の隣に立てるだろうか。
足が、一歩、前に出かけたところで。
「失礼いたします、坊ちゃま」
反対側から、落ち着いた声が割り込んできた。
執事のハロルドだ。
扉が、内側から少しだけ大きく開く。
私はあわてて壁に寄り、影の中に身を隠した。
中の様子は見えない。
でも、声はよく通る。
「どうした」
「バルド侯爵家より、夜会の招待状が届いております」
聞いたことのない名前。
けれど、その名が空気を変えたのは、すぐ分かった。
紙を持つ、レオンさまの指先に、目に見えない力がこもる。
封蝋が、きしりと音を立ててひび割れた。
「……バルド、か」
いつもの穏やかな声より、少し低い。
「あの男が、今さら何の用だ」
刺すような言い方だった。
私は思わず、胸の前で指を組む。
バルド侯爵。
私の記憶には、まったく出てこない名前。
でも、レオンさまがこんな声を出す相手なら――きっと、ただの知り合いではない。
「文面を、お読みいたしますか」
「要点だけでいい」
「はい。『王都の復興を祝し、主要な諸侯を集めた夜会を催したく――』」
復興。
その言葉に、心が引っかかった。
何が、どう復興したのだろう。
火事の夜。
燃えあがる廊下。
崩れる天井。
そこから先の、王都の姿を、私は知らない。
ハロルドの落ち着いた声が続く。
「『今後の協力体制についても、改めて確認したく存じます』」
「協力、ね」
レオンさまの声には、少しだけ苦味が混じっていた。
「それから、『先日の不幸な火事の件につきましても、改めてお詫びとお見舞いを申し上げたく』と」
私の指先が、ひやりと冷たくなる。
不幸な火事。
他人事みたいな、その言い方。
私の世界が燃えた日のことを、招待状の一文で片付けてしまうような。
「招待客の名簿は」
「アルスター家をはじめ、王都の主要な貴族の名が並んでおります。侯爵閣下も、陛下への顔見せを兼ねておられるのでしょう」
「顔だけ見せれば済む話なら、どれほど楽か」
深く息を吐いた気配がした。
私は、扉の隙間から、そっと中を覗く。
レオンさまは、封を切った招待状を指で挟んだまま、じっと紙面を睨んでいた。
いつも柔らかく見える横顔が、きつく引き締まっている。
そこに、政の顔がある。
私の知らない、公爵としての彼。
「坊ちゃま、いかがなさいますか」
「……断りたいが」
短く切り捨てるように言ってから、彼は少しだけ視線を上げた。
「この状況で、アルスター家だけが出席を拒めば、余計な憶測を呼ぶだろう」
「はい」
「出席の返事を出すしかないな」
「かしこまりました」
紙が鳴る音。
ハロルドの足音が近づいてくる。
このままでは、扉が開く。
逃げるべきか、正面から立つべきか。
一瞬迷って、私は結局、扉の前から下がらなかった。
してはいけないことを、してしまった子どもの気分で。
「フィオナ?」
扉が開いた瞬間、真正面から名前を呼ばれた。
逃げ遅れた。
「あ、その……」
ごまかそうとしても、きっとうまくいかない。
私は観念して、両手を前で組んだ。
「少しだけ、聞こえてしまいました」
「少しどころではなさそうだが」
レオンさまは、苦笑ともため息ともつかない顔をした。
でも、怒っているようには見えない。
「ごめんなさい」
「いや。隠し事が上手いほうではないからな、俺は」
そう言って、手元の招待状をひらりと持ち上げる。
「城で夜会が開かれる。バルド侯爵の主催でな」
「夜会……」
「王都の復興を祝う会、だそうだ」
復興という言葉が、また胸にひっかかる。
私の知らない「その後」が、城の広間で語られるのだろうか。
私の焼けた夜と、光の中で笑う人々の差が、急に怖くなる。
「君の容体を考えれば、断ってもかまわない。人の多い場は、きっと疲れる」
そう言いながら、レオンさまの指が、紙を押しつぶしそうなほど強く招待状を握っていた。
行きたくないのは、きっと彼のほうだ。
政敵の懐に飛び込むこと。
火事の話題を、薄笑いとともに差し出されるかもしれない場に立つこと。
それがどれだけ嫌なことか、想像に難くない。
「でも、きっと行くんですよね」
「立場上な」
レオンさまは、窓の外にちらりと視線を向けた。
「アルスター家が姿を見せなければ、王都は余計な噂でいっぱいになる」
「……わたしは」
言葉が喉の奥で絡まる。
怖い。
知らない人たち。
知らない顔。
きっと私よりずっと私のことを知っている人たち。
その中に立つのは、たやすいことじゃない。
でも。
ベッドと、屋敷の廊下と、庭だけで完結した世界に、私は一生閉じこもるのだろうか。
炎の夢は、きっとそこでしか薄れてくれないのだろうか。
「――わたし」
自分の声が、思っていたよりはっきり聞こえた。
「行ってみたいです」
レオンさまの目が、驚いたように見開かれる。
「フィオナ」
「怖いのは、少しありますけど」
胸の前でぎゅっと手を握りしめる。
「でも、王都が今どうなっているのか、この目で見てみたいんです」
復興という言葉の意味を。
火事の夜の続きが、どんな景色の中にあるのか。
「それに」
一度言葉を切って、息を吸う。
「ベッドとお部屋と、この屋敷の中だけが、わたしの全部になってしまうのは……嫌です」
火事の前の私は、きっともっと広い世界を歩いていた。
城の廊下。
夜会の広間。
知らない街の路地。
その全部を忘れてしまったとしても。
今の私には、今の私の足で立てる場所が欲しい。
「……人の多い場は、本当に疲れるぞ」
レオンさまは、やわらかく眉をひそめる。
「それでも、一緒に行きたいんです」
まっすぐに、彼の顔を見る。
灰色の瞳に、私が映る。
ほんの数秒。
長い沈黙。
そのあいだに、彼の目の奥を何かがよぎった気がした。
きらびやかな光。
笑い声が渦巻く大広間。
その中で、誰かの腕にしがみついて離れない私――そんな光景が一瞬、脳裏に浮かぶ。
それが記憶なのか、想像なのか。
判断できるほど、私はまだ自分を知っていない。
「……そうか」
やがて、レオンさまは小さく息を吐いた。
「分かった。ただし」
「ただし?」
「途中で辛くなったら、すぐに帰る」
穏やかな声に、はっきりとした条件が乗せられる。
「それを約束してくれるなら、共に出席しよう」
「……約束します」
迷わずうなずいた。
無理をして倒れてしまったら、きっとまた誰かを心配させる。
それだけは、もう嫌だった。
「ハロルド」
「はい、坊ちゃま」
扉のそばで控えていた執事が、一歩前に出る。
「招待状には、出席の返事を。日取りはいつだ」
「十日後でございます。詳細な時刻と、当日の式次第は、後ほど使いが参るとのことです」
「十日か」
レオンさまは、短くうなずいた。
「『アルスター公爵レオン、およびその妻フィオナ、出席いたします』と返してくれ」
「承知いたしました」
ハロルドが、手早くメモを取り、頭を下げて下がっていく。
その背中を見送ってから、レオンさまがふと私を見た。
「無理はするなよ」
「さっき約束したばかりです」
「君は、自分のことになると平気で破りそうだからな」
「……そんなに信用ないですか」
「昔の君を知っているから言っている」
少しだけ口元をゆるめてから、彼は真面目な顔に戻った。
「夜会は、飾りだけではない」
「はい」
「言葉の刃と、笑顔の鎧が飛び交う場だ」
その説明は、少し物騒で、少しおかしくて。
でも、たぶん本当なのだろう。
「俺のそばから離れないこと」
「それは……」
「昔もそうだったから、できるだろう?」
さりげなく言われて、鼓動が跳ねた。
昔の私。
夜会のざわめきの中で、彼の袖をぎゅっと掴んでいたのだろうか。
「……やってみます」
「頼もしいな」
私の返事に、レオンさまは、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
◇
部屋に戻って、しばらくのあいだ、私は鏡の前で固まっていた。
「夜会、かあ……」
鏡の中の自分は、寝間着がわりの淡いガウン姿。
包帯の覗く額。
少しやつれた頬。
背中には、まだ完全に癒えていない火傷がある。
こんな自分が、王都の夜会なんて場所に立てるのだろうか。
「そもそも、わたし、夜会に着ていけるドレスなんて持ってるのかしら」
思わず、ひとりごとが漏れる。
火事で、たくさんのものを失ったと聞いた。
屋敷の一部。
書類。
使用人たちの部屋。
私のドレスも、きっとその中に含まれているはずで。
「奥様」
控えめなノックとともに、聞き慣れた声がした。
「マリア?」
「お入りしてもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
扉が開き、メイド長が静かに入ってくる。
私が鏡の前で困った顔をしていたからか、マリアはすぐに状況を察したようだった。
「坊ちゃまから伺いました。夜会に、ご出席なさるとか」
「……はい。大丈夫でしょうか」
思わず不安が漏れる。
「何がでございます?」
「こんな私が、侯爵家の夜会なんて。失礼にあたらないかなって」
「失礼なのは、奥様ではなく、奥様を招いた側のほうかもしれませんわ」
さらりと毒を含ませてから、マリアは柔らかく微笑んだ。
「それに、心配は要りません」
「心配いらない?」
「奥様のお気に入りのドレスは、ちゃんと火事から守っておきましたから」
胸の奥が、ぱっと明るくなる。
「お気に入り……」
その言い方が、くすぐったい。
「そんなもの、私にあったんですね」
「たくさんございましたよ」
マリアは少し誇らしげに言った。
「中でもひときわ大事にしておられた一着を、ちゃんと保管しております」
「どんなドレス、なんでしょう」
「それは、当日までのお楽しみで」
わざと焦らすような言い方に、思わず頬がゆるむ。
火事の夜を越えてなお、残っている何か。
炎に呑まれずに済んだ、私の断片。
「そのドレスが、昔の私と今の私を繋いでくれるかもしれませんね」
つぶやくと、マリアが静かにうなずいた。
「きっと、そうなさいますよ、奥様は」
鏡の中で、私の目が少しだけ輝いて見えた。
王都の夜会。
政敵の侯爵。
火事の話。
怖いことも、痛いことも、きっと待っている。
でもその中に、昔の私の笑い声や、レオンさまの知らない一面が、隠れているかもしれない。
十日後。
私の世界は、また少しだけ広くなる。
そのとき、どんな自分でいたいか。
考えるだけで、胸が少しだけ高鳴った。




