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花嫁は毎朝、旦那さまを忘れる  作者: 妙原奇天


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10/22

第10話 私のことを、もっと教えて

 朝の光は、昨日より少しやわらかかった。


 まぶたの裏に白が差し込んできて、ゆっくりと目を開ける。


 天蓋のレース。

 淡い模様。

 塔の鐘が、遠くで一度だけ鳴る。


 ここは、公爵家の寝室で。

 私は、この屋敷の奥様で。

 でも、昨日までのことは、やっぱりうまく思い出せない。


「……おはようございます」


 誰にともなく呟いた声に、すぐ返事が返ってきた。


「おはよう、フィオナ」


 ベッドの横。

 いつもの椅子に、レオンさまが腰掛けている。


 少し乱れた前髪。

 目の下には、薄い影。

 けれど、その灰色の瞳は、まっすぐに私を見ていた。


「体調はどうだ」


「頭は、少しぼんやりしますけど……大丈夫です」


「そうか」


 ほっとしたように目を細めてから、彼は手を伸ばす。


 枕もとの革表紙に触れ、いつものように、それを持ち上げた。


「今日も、最初はこれからだな」


 私のための。

 私の、取扱説明書。


 あの日から、毎朝のはじまりは、日記のページを開くところからだ。


 私は背中に枕を当ててもらい、上体を起こす。


 レオンさまが、日記を両手でそっと渡してくる。


「……ありがとうございます」


「昨日の君が、何を書いたのか。今日の君と一緒に確認しよう」


 その言い方が、少しおかしくて。

 少し、切なくて。


 私はこくりとうなずき、表紙を開いた。


     ◇


 一番新しいページの、一番下。


 そこに、見覚えのない――けれど、間違いなく自分の字が並んでいた。


『破られたページが、気になる』


『誰かが意図して、ここを空白にした気がする』


『明日の私へ。もし同じところでひっかかったら、それは「気のせい」じゃないと思う』


 読み終えた瞬間、胸の奥が、ひやりと冷たくなる。


 昨日の私が抱いた違和感が。

 言葉になって、ここに残されている。


 そして今日の私は。

 何も知らないはずの今日の私は。


 やっぱり、同じ場所で、同じようにひっかかっていた。


「……昨日の私は、随分としつこいみたいです」


 冗談めかして言ってみると、レオンさまが小さく息を吐いた。


「疑問を、きちんと言葉にして残しておくのは、悪いことじゃない」


「記憶は、こうして消えてしまうのに」


「全部が消えているわけじゃないさ」


 日記の文字を見下ろしていた彼の目が、ふっと優しくなる。


「君は、昨日も、今日も。きっと明日も、同じ場所で立ち止まるんだろう」


「……それは、あまり成長していないってことでは?」


「いや」


 首を振る仕草は、驚くほど迷いがなかった。


「同じところで疑問を抱けるのは、芯が変わっていない証拠だ」


 芯。


 その言葉が、胸の中に、あたたかく沈む。


 記憶は、毎晩のように霧に包まれていく。


 でも、疑問や違和感。

 好きとか、怖いとか。


 そういう感情の形だけは、意外としぶとく残ってしまうのかもしれない。


「今日は、仕事で城に出なければならない」


 レオンさまが、少し申し訳なさそうに続けた。


「ここ数日は、屋敷を空けすぎたからな」


「そう、なんですね」


「昼までには出る。夕方には戻るつもりだが、少し遅くなるかもしれない」


 昨夜の「おかえりなさい」が、頭に浮かぶ。


 胸の奥が、ふわりと熱くなって。

 けれど私は、あえて落ち着いたふりをした。


「お仕事ですから、仕方ないですよね」


「……あまり無理はしない」


「それは、私よりレオンさまに言うべき言葉じゃないですか」


 ぽろりと出た言葉に、自分で驚く。


 レオンさまも目を瞬いたけれど、すぐに口元をゆるめた。


「昔の君も、よく似たことを言っていたよ」


「そうなんですか」


「ああ。『あなたが倒れたら困るのは、私なんですから』と、よく怒られた」


 想像してみる。


 眉をつり上げて、腕を組んで。

 真面目な公爵さまを相手に、遠慮なく言いたい放題の私。


 あり得ないようでいて。

 不思議と、頭の中では違和感がなかった。


 私の中に、そういう自分が、きっといたのだ。


「……レオンさま」


「なんだ」


「私、自分のことを、もっと知りたいです」


 日記を閉じながら、そっと告げる。


「火事の前の私が、どんなふうに笑って、どんなふうに怒っていたのか」


 レオンさまの目が、少しだけ揺れた。


 でも、拒まれることはなかった。


「分かった」


 短く、けれどしっかりと。


「俺がいないあいだ、マリアやハロルドに、いくらでも聞くといい」


「いいんですか」


「君のことだ。君には、その権利がある」


 その言葉は、思っていたよりずっと重かった。


 胸の奥にある「破られたページ」の空白。


 それを埋められるかどうかはまだ分からない。


 でも、自分のことくらい、自分で知りたい。


 そんな当たり前の願いに、ようやく名前がついた気がした。


     ◇


 午前中、レオンさまは執務の書類に目を通し、そのまま城へ向かった。


 玄関で見送ったとき、濃紺の外套の背中が、やけに遠く感じた。


 けれど今日は、その寂しさに飲み込まれるつもりはなかった。


「マリア」


「はい、奥様」


 廊下を歩いていたメイド長に声をかける。


 彼女はいつものように、背筋をぴんと伸ばしていたが。

 その目は、どこか心配そうに揺れている。


「少し……お時間をいただけますか」


「もちろんでございます」


「人の少ないところがいいです」


「では、厨房の奥に、小さなテーブルがございます。そちらでよろしければ」


 案内されて、私は初めて「客間ではない場所」に足を踏み入れた。


     ◇


 厨房は、朝の仕込みでにぎやかだった。


 パンの焼ける香り。

 煮込みの鍋から立ちのぼる湯気。

 大きなまな板に、野菜を刻む音。


 そんな喧騒から少し離れた隅に、小さな木のテーブルが置かれていた。


 マリアが白い布を敷き、小さなポットとカップを二つ用意してくれる。


「奥様は、こちらへ」


「ありがとうございます」


 椅子に腰かけると、窓から差し込む光が、テーブルの上に丸い輪を作った。


 マリアは向かいに座り、姿勢を正す。


 いつもより少し緊張しているように見えるのは、気のせいだろうか。


「それで、奥様」


「はい」


「お話しというのは……」


「わたしは、火事の前、どんな人だったんでしょうか」


 まっすぐに尋ねると。


 マリアの目が、丸くなった。


「……まあ」


 驚いたように口元に手を当て、すぐにその手を下ろす。


「おかしな質問ですか」


「いえ。ただ、坊ちゃまがそのように仰ってくださったのだと思うと……」


 マリアは一度目を閉じ、小さく息を整えた。


「奥様は、そうですね……」


 静かに、言葉を探すように。


「とても、まっすぐなお方でした」


「まっすぐ」


「良く言えば真っ直ぐ、悪く言えば無茶でございますわね」


 きっぱりと言われて、思わず苦笑がこぼれる。


「そんなに、ですか」


「はい」


 迷いなくうなずかれて、少しショックだった。


「例えば……孤児院からこちらにいらしたばかりの頃」


 マリアは、懐かしそうに目を細めた。


「台所のお手伝いをなさると仰って。誰も止める間もなく、鍋の前に立たれて」


「なんだか、嫌な予感しかしません」


「見事に、大鍋のスープを吹きこぼしてくださいました」


 やっぱりだ。


「床一面、洪水でございます。火元も危険でしたし、料理も台無しで」


「それは……本当に、申し訳ありません」


 反射的に頭を下げると、マリアがあわてて首を振った。


「いえ、もう済んだことでございますし。それに、あのとき奥様は、ずぶ濡れになりながら、真っ先に叫ばれたのです」


「叫んだ?」


「『やけどしてない?』『足、滑ってない?』と。自分の失敗より、周りの怪我ばかり気にしていらして」


 その光景が、頭の中に浮かぶ。


 大鍋。

 熱いスープ。

 慌てふためく使用人たち。


 その真ん中で、水浸しになりながら、誰かの腕をつかんでいる自分。


 記憶の断片と言うには薄すぎるけれど。

 でも、まったくの他人事にも思えなかった。


「……迷惑ばかりかけていましたね」


「確かに、あのときは大騒ぎでしたが」


 マリアは微笑む。


「それ以来、厨房の者たちは、奥様に『何かあったら真っ先に飛び込んで来てくださるお方』という印象を持つようになりました」


「それは、いい印象なんでしょうか」


「もちろんでございます」


 即答されて、少しだけ胸が軽くなる。


「坊ちゃまに対しても、そうでした」


「レオンさまにも?」


「はい。坊ちゃまは、昔から働き詰めで。執務室に籠もると、食事の時間でさえ忘れてしまわれることが多くて」


 今も、そんなところはある。


 書類の山とにらめっこしている横顔を、何度か見た。


「ある日、奥様は突然、執務室に押しかけていらしたのです」


「押しかけて」


「夕食も召し上がらず、窓も開けず、ろくに水も飲まずにいらっしゃる坊ちゃまを見て」


 マリアは、両手を腰に当てる仕草をしてみせた。


「『いいから、今すぐ休憩してください』と」


 まるで、その場にいたかのような口調だった。


「……強いですね、わたし」


「ええ、とても」


「本当に、私なんでしょうか」


「そうでございますとも」


 マリアはくすりと笑う。


「坊ちゃまは最初、とても困った顔をなさっていました。『仕事が』と仰いましたが」


「言いそうです」


「奥様が『仕事より、今ここにいるあなたのほうが大事です』と仰って」


 胸の奥が、きゅっと縮まる。


 そんなことを、本当に言ったのだろうか。


「……それで、レオンさまは?」


「長い沈黙のあと、観念したように椅子から立ち上がりましたわ」


 マリアの目尻が、優しく下がる。


「それ以来でございます。執務室には、奥様専用のティーセットが置かれるようになったのは」


 執務室の前を通るたび、扉の向こうからかすかに茶葉の香りがした理由が、少しだけ分かった気がした。


「他にも、ございます」


 マリアは楽しそうに続ける。


「庭師の子どもたちが遊びに来たときなど、奥様はいつも一緒になって泥だらけになっていらして」


「泥だらけ」


「ええ。服も髪も、土まみれで。『子どものころにしかできない遊びは、今のうちにしておかないと損でしょ』と仰って」


 思わず笑ってしまう。


 自分で自分を笑うというのは、なんだか変な気分だった。


「私、本当に、そんなことばかり……」


「そんな奥様が、大好きでした」


 マリアの言い方は、とても自然だった。


 お世辞でも、慰めでもない。

 長い時間を一緒に過ごした人だけが持つ、あたたかい響きがあった。


「奥様は、とても真っ直ぐで。人のためなら、自分を平気で危険に晒す方でした」


「……そのせいで?」


 思わず、続きを口にしてしまう。


「そのせいで、火事の夜も」


 マリアの言葉が、そこで途切れた。


 唇を噛み、視線を落とす。


「すみません。これは、私の口からお話ししていいことではないと思うのです」


「レオンさまの……」


「はい」


 私は、膝の上で手を組んだ。


 火の夜のこと。


 夢の中の炎。

 崩れ落ちる梁。

 叫ぼうとして、いつも途中で途切れてしまう名前。


 その全部を、誰かが知っている。


 でも今は、まだ扉が閉じられたまま。


「……私、無茶ばかりしていたんですね」


「そうかもしれません」


 マリアは苦笑しながらも、すぐに首を振る。


「ですが、人の痛みに誰より敏感で。自分より先に、周りのことを考える方でした」


 その評価は、少し、くすぐったかった。


 でも、まったく知らない誰かの話として、受け止めることはできなかった。


「今の私も」


 ぽつりと、言葉がこぼれる。


「庭で子どもを見かけると、自然に声をかけてしまいます。足を痛めている使用人を見ると、つい手を出したくなる」


 昨日、廊下で足を引きずっていた若いメイドに声をかけた自分を思い出す。


「それは、以前と変わっておりませんね」


「……少しだけ、安心しました」


 私の中には、あの頃の私と共通する何かが、まだ残っている。


 全部失ったわけじゃない。


「坊ちゃまの前では、もっとやんちゃでいらっしゃいました」


 マリアが、いたずらっぽく笑った。


「レオンさまの前で?」


「はい。よく仰っていましたわ。『あなたが笑わないから、私が笑わせるしかないでしょ』と」


 胸の奥で、何かが、静かに震える。


 レオンさまの笑った顔。


 最近、ようやくほんの少しだけ、見ることができるようになってきた。


 日記の中の私は、その笑顔を何度も何度も引き出そうとして、あれこれ仕掛けていたのだろう。


 その姿が、少しだけ待ち遠しくて。

 少しだけ、羨ましい。


「……私、そんなにレオンさまのことが好きだったんですね」


 自分で言って、また顔が熱くなる。


「今も、そう見えますよ」


 マリアは、さらりと言った。


「えっ」


「昨夜、坊ちゃまのお帰りを、玄関でお待ちになっていたでしょう」


 見られていた。


「奥様が『おかえりなさい』と仰った時の坊ちゃまのお顔……。あれは、そう簡単に見られるものではございません」


「そんなに、ですか」


「はい。長く仕えておりますが、あのように心からほっとした坊ちゃまの表情は、そう何度も覚えがありません」


 胸の奥が、またあたたかくなる。


 恥ずかしさと、うれしさと。

 よく分からない感情が、ぐるぐると混ざり合う。


「今の私は……」


 言葉を探しながら、ゆっくり続ける。


「あの頃の私と同じくらい、誰かのことを好きになれるのか、まだ分かりません」


 昨日の日記に書かれていた「好き」の文字。


 今朝読んだばかりなのに、それは、少しだけ他人の告白のように見えた。


「でも、知りたいと思います」


「奥様」


「あの頃の私が、どんなふうに笑っていたのか。どんなふうに泣いていたのか」


 そして、どんなふうにレオンさまの名前を呼んでいたのか。


「今の私が、その人と同じなのか、違うのか。それも、ちゃんと知りたいです」


 マリアは、まっすぐに私を見つめた。


 その瞳の奥には、長い年月の重みと。

 私の知らない日々の記憶が、静かに宿っている。


「いつか、火事の夜のことも、お話ししなければならないでしょう」


 彼女は、ゆっくりと言った。


「ですが、それだけは……坊ちゃまの口から聞いていただきたいのです」


「……分かりました」


 私は、しっかりとうなずいた。


「その時まで、私は」


 自分の手を、そっと握りしめる。


「今の自分のことを、ちゃんと知っておきます」


 どんなふうに笑うのか。

 どんな言葉で人を慰めるのか。

 何を好きになって、何を嫌うのか。


 それを知らずに、過去の自分と向き合うのは、きっと失礼だから。


「奥様は、強いお方です」


「そんなことないです」


「いいえ」


 マリアは、穏やかに首を振る。


「ご自分を知ろうとする方は、皆、強いのですよ」


     ◇


 部屋に戻ると、鏡の前が、少しだけ違って見えた。


 いつもは、寝ぐせを直したり、包帯の具合を確かめたりするだけの場所。


 けれど今は、そこに映る自分の顔が、とても不思議な存在に見える。


「……あの頃の私」


 鏡の中の私に、話しかけてみる。


「あなた、レオンさまを笑わせる役目を、自分で選んだんですね」


 少しだけ口角を上げてみる。


 思っていたよりもぎこちなくて、自分でも笑ってしまった。


「こんな感じ、だったのかな」


 もう少し口を大きく開いてみる。

 目尻を下げてみる。

 眉を少し上げてみる。


 どれも、しっくり来ない。


 でも、試しているうちに、なんだかおかしくなってきて。


「ふふ……」


 自然に漏れた笑い声は、さっき鏡の前で作ろうとした笑い方より、ずっと自分らしく感じられた。


 鏡の中の自分が、少しだけ柔らかい顔をしている。


「……これも、悪くないかも」


 誰かの真似じゃなくて。

 日記の中の「彼女」の模倣でもなくて。


 今の私が、今の顔で浮かべた笑顔。


 それを「悪くない」と思えたことが。

 少しだけ誇らしかった。


     ◇


 夕方、窓の外の空が、淡い橙色に染まり始めたころ。


 私は机に向かい、新しいページを開いた。


 ペンを取り、少しだけ迷ってから、書き始める。


『今日の私は』


 そこで一度手を止めて、自分の胸のあたりに意識を向ける。


 過去の私の話を聞いて。

 無茶で、うるさくて。

 でも、人のことばかり気にしていた、少し困った私。


 そんな彼女と、自分を重ねてみても。


 不思議と、嫌悪感はなかった。


『自分のことを、少しだけ好きになれました』


 最後まで書ききってから、そっと息を吐く。


 紙の上の文字が、じんわりと目に染みてきた。


 誰かにそう言ってもらったわけじゃない。


 自分で自分に向けて書いた、「好き」の言葉。


 日記を閉じるとき、胸の奥に広がった温かさは。


 昨夜「ただいま」を聞いたときとは、また少し違う種類のものだった。


 レオンさまが帰ってくるまでに。


 私は、こんなふうに、自分のことをひとつひとつ、拾い集めていくのだろう。


 過去の私と今の私。


 そのあいだに橋をかけるのは、きっと誰でもなく。


 私自身なのだと。


 そんなふうに思えた一日だった。

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