第八一話 村の循環と雷韋の気持ち
雑木林に入ってから少しして、川の流れる音がさらさらと聞こえ始めた。川に辿り着くと、その川は比較的広く、たっぷりした水量があった。
紫雲の言によれば、この流れの上流に村で一番嫌われている人物がいるらしい。初め、雷韋はそれがどういう意味か分からなかったが、よくよく話を聞けば納得出来た。
上流に住んでいるのが、水車小屋を管理している粉挽き役人だったからだ。
粉挽き役人はその呼称どおり、水車の力で廻る臼を管理して村の者が持ってくる小麦を挽く者のことだ。それだとて、無償でやっているのではない。村人が持ってきた小麦の一割をさっ引いて小麦粉を挽くのだ。粉挽きは大体、各村に一人ずついて――中には二つ三つの村が、一つの粉挽き小屋を使っている場合もある――、どの村でも嫌われる存在だった。何しろ、本来なら小麦の一割を徴収するだけの筈なのに、二割、三割と本来より多くさっ引くのだから、一週間分のパンを一度に焼くつもりの村の者にとっては堪ったものではない。それでも粉を挽く水車は村に一機しかなく、それを管理している粉挽きに小麦を挽いて貰うしかないのだ。主食であるパンを焼くには粉挽き役人に頼るしかないのだから。しかも粉挽き役人は領主が派遣している正式な役人だ。村人の持ってくる小麦を挽いて、麦の質を確認する役目がある。そのほかにも、粉挽きのところからも領主へ小麦が納税されていた。それもあって、粉挽きがいくら多く小麦をさっ引いても、村人は役人である彼等に文句が言えない。それなのに、人の足下を見るようなやり方では嫌われて当然だった。
とは言え、粉挽きもさっ引く小麦がなければ収入はない。本格的な畑を持たない粉挽きが村で食品を買うとなれば、宿屋で買うしかないのだ。宿屋は村では食料品や小道具を取り扱う道具屋でもある。
粉挽き役人は村人が持ってくる小麦から取り分を取って、一部はそれで自分もパンを焼くが、税を引いた残りは宿屋でチーズや保存食、酒などを金の代わりに小麦粉で物々交換するのだ。宿屋も粉挽きが持ってくる小麦粉でパンを焼いている。宿屋で提供するパンは、粉挽きが持ってきた小麦粉で作られているのだ。
村人から徴収する小麦が粉挽きの給料であり、領主がその許可を与えていたが、粉挽き役人を管理する者などいない。いるとしたら、それは領主だ。だが、領主は粉挽きが納税すれば、ほかのことには関知しない。役人である彼等を管理する上の役人が領主となれば、文句のいいようもないのだ。だから粉挽きの取り分は彼等が好き勝手に変更する。それを領主も黙認している。本来は挽いて貰う小麦の一割が取り分だが、自然とそれが多くなっていくのだ。
生活を送る上で上手く循環しているが、それと反比例するように村人と粉挽きの関係性はどこでも悪い。言ってしまえば、悪徳役人だからだ。
その粉挽き役人が上流にいると聞いて、雷韋はあまりいい気分にはならなかった。粉挽き役人がいることを教えられて、冷めた気分で「ふぅん」と鼻を鳴らすだけだった。雷韋は性分として、不公平や不正が嫌いなのだ。そんな雷韋からしてみれば、粉挽き役人は嫌悪の対象だった。
「ちぇっ。嫌なこと聞いたな」
「とは言っても、水車小屋の機械臼を管理できるのは彼等だけですから。それに、今回のことで彼は村に尽くすことになったんですよ」
「どういうことさ」
雷韋が怪訝に眉をひそめると、紫雲は小さく笑った。
言う事には、村全体で現在あるパンを持ち寄って一気に消費したために、各家庭用の備蓄しているパンが不足してしまう事態に陥ったのだ。各家庭ごとに日を決めてパンを焼く。一度に焼くのは大概、一週間分だ。だが、それで備蓄に不足が起きた家庭がでてしまい、あちこちの家庭から大量に小麦を挽く仕事が舞い込んできた。本来なら粉挽きにとっては稼ぎ時と言えるのだが、村の一大事だ。食べるものがなければ誰もが困る。その為、急遽、粉挽きは一月の間、小麦の徴収をしないと決定したのだ。これには村の女達が喜んだ。いつもは必ず何割かさっ引かれるのに、持っていった小麦を全て持って帰れるのだから。
これを聞いても、雷韋は唇を尖らせた。
「でもさ、それって、粉挽きが一月分取らないでも食っていけるだけの小麦や小麦粉を備蓄してるって事なんだよな。粉挽きには痛くも痒くないってことなんじゃん?」
「まぁ、意地悪な見方をすれば、そう言うことになりますね」
「んでさ、一月経ったあとは取れなかった分、余分にさっ引くんじゃないかって思うんだけど」
「懐の痛み具合でそうなる可能性も出てきますね」
雷韋のあまりにもありそうな指摘に、紫雲は苦笑を零す。
「ちぇっ。粉挽きってやっぱヤな奴」
「それはそれとして、そろそろ服とシャツを脱いでください」
話が粉挽き役人に移ったことで、雷韋と紫雲の間に横たわった気持ちのすれ違いは消えていた。
雷韋は紫雲に言われたとおりに服とシャツを脱いで紫雲に手渡し、紫雲は濡らした手拭いを雷韋に渡して身体を拭くように言った。
「うぇ。胸と腹が真っ赤だ。きっと背中もだなぁ」
手拭いを使いながらの雷韋の言葉。
紫雲も早速、水を汲んできてシャツから洗い始めている。
「こちらも、石鹸を使っても綺麗にはならないでしょうね。ある程度は落ちると思いますが」
「シャツが駄目そうなら、服はもっと駄目じゃん。穴も開いてるし。刺繍のところだって、絶対に血で変色したままだぜ。あ~あ、作ったばっかりなのになぁ」
気落ちとうんざりが混ざったような声音だった。
「一応、できる限り落としてみますが、ここまで酷いと作り直した方が早いですね。陸王さんも気にしますよ」
「そっか。血の匂いだもんな。お姫さんの血だけじゃなく、俺の血の匂いもするはずだ」
言う雷韋を置いて、紫雲は新たに水を汲みに行く。
たらいの中を覗いてみれば、石けん水が真っ赤な泡を立てていた。雷韋は眉根を寄せてそれを見つめ、紫雲が戻ってくる前に服とシャツを手に取り水を捨ててしまう。
「雷韋君?」
戻ってきた紫雲が不思議そうに声をかけてきた。
「水、捨てたから。真っ赤じゃん」
どこかぶっきら棒に言う雷韋をおいて、紫雲は手桶からたらいの中に水を注ぎ、もう一度雷韋に声をかけた。
「手桶にもう一杯水を汲んできて貰えますか?」
「……もういいよ」
「え?」
「もうさ、こんなに血塗れじゃ、洗っても臭いが凄いだろ? 陸王に悪いよ。燃やして捨てっちまおうぜ」
「何を言っているんですか。そんな事をしたら君の着る服がなくなるじゃないですか」
「いいよ、夏だもん。あったかいし」
紫雲は雷韋を見て、まるっきり呆れたと言った態で溜息をついた。
「いくら暖かくても、裸でいさせるわけにはいきません」
「だったら、村の誰かに服縫って貰おうぜ? 金出して仕立てて貰えばいいじゃん。服が出来上がるまでは、俺、ほんとに大人しくしてっからさ」
「そう言う問題じゃないでしょう? それに、そんな理由で雷韋君が服を着なかったら、逆に陸王さんが気にしますよ」
「でも、血の臭いさせてる方が陸王辛いじゃん」
「いいえ。自分のせいで雷韋君の着るものがなくなったと知ったら、それこそ申し訳ないと思うでしょう」
「え……?」
何か思い当たったのか、雷韋が顔を曇らせる。
紫雲はそれを指摘する。
「ほら、思い当たったのでしょう、あの人の反応が」
「それは、ん……」
紫雲は雷韋から洗濯物を乱暴に取り上げて、代わりに手桶を突きつけた。
「はい。これに水を汲んでくる。いいですね?」
言われて、雷韋はのろのろと無言で手桶を受け取った。
紫雲はそれを確かめて、たらいの中にころりと放置されたままの石鹸をシャツに擦りつけて、再び丁寧に洗い始める。
雷韋は手桶を両腕で抱えると、「駄目だな、俺」ぽつりと零して水を汲みに行った。
その後ろ姿を見て、紫雲は困ったように溜息をつく。
陸王と長く一緒にいる雷韋の方が陸王の反応がどう出るか分かるはずなのに、と思ったのだ。互いを大切に思うからこそ、こんな見当違いなすれ違いが起こるのだろうと、仕方なくも思う。
紫雲はのろのろと川から水を汲んでいる雷韋に声をかけた。
「水を汲み終わったら洗濯が終わるまで、その辺で時間を潰しててくださいね。君の時間が潰せるようにここまで来たんですから。井戸を使って村の人に見つかっても面倒ですし」
言ってもう一度溜息をつくと、紫雲はもう洗濯をするため、手を動かすことしか考えなかった。




