第六四話 光と闇の精霊
「なぁ、雷韋。本当にここで一人でいるって事は出来んか? 下の連中を追い払ったら、すぐに戻ってくる」
少し困った風に陸王は言うが、雷韋は頭をぶんぶんと振って拒否する。
「一人なんて、無理だ。精霊達が怖い」
「お前なぁ。精霊使いがいちいち精霊に怯えててどうする」
「違う……違うんだ、陸王。闇の精霊は怖い。誰の命令も聞かないから」
「そりゃ、どういうこった」
この世の基本となる精霊は大きく分けて六つある。地、水、火、風、空、識だ。ほかの様々な小さく存在する精霊は、この六つから派生している。岩石の類いと植物の精霊なら地から派生し、氷の精霊なら風の精霊が水の精霊に干渉して、水から派生するという具合だ。基本の六つを六識と言い、これに光と闇の精霊を加えたものを八識と言う。
だが、光と闇の精霊はこの世で最も遅くに生まれた精霊でもある。混沌の胡乱な光しかなかった世界に、光神・天慧と闇神・羅睺が現れてから生まれたものだからだ。
この光と闇の精霊は天慧達が現れたことによって発生したが、精霊と言う形にしたのはこの世界の大地である原初神・光竜だ。六識の精霊は天と地が生まれたあとに自然発生したが、光と闇は光竜が精霊として創り上げたものなのだ。それ故、光と闇の精霊に主はいない。光竜以外の誰の命令も聞かない。光竜が直接創ったが故に、内包する力が大きすぎて人族の手に余るのだ。逆に、六識には主がいると言われている。どこの誰かは知らないが、そう伝えられている。
そんな大きな力を持つ闇の精霊が狂気を孕めばどうなるか。取り憑かれて、人は狂って凶暴化してしまう。
狂戦士と呼ばれる者がいるが、あれは人族にそれぞれに従う守護精霊が発する『精霊障壁』を破った精霊に取り憑かれた者のことだ。どんな精霊にであっても、憑かれたら死ぬまで破壊することしか念頭になくなる。火であっても水であっても大地であっても、精霊が取り憑けばば狂戦士になる。飲み食いのことまで忘れて暴れ回るのだ。だから、精霊に取り憑かれた者は寿命が短く、せいぜい数日間の生命だ。その為、ほとんどその存在が認められない。時に噂として残るくらいだ。狂戦士に変えてしまうのは闇の精霊だけではない。どんな精霊であっても、憑かれると狂戦士になってしまう。
今は闇の精霊が特に凶暴化しているから、それの影響が精霊使いの雷韋に出やすいだけだ。特に、精霊の声を聞くことに秀でている獣の眷属は取り憑かれやすい。だが、取り憑かれやすいだけに、障壁も天慧・羅睺の系譜よりもずっと分厚くもなっているのだが。それを防ぐために守護精霊達は『精霊障壁』を張る。今、雷韋を護っているのは火の精霊達だ。必死に闇の精霊に抗している。
雷韋はそのことを細い声で必死に陸王に伝えた。闇の精霊は精霊使いであっても制御できない、ある意味、とても不安定で危険なものだと。ほかの精霊であれば、ある程度、術者自身が勢いを弱めることも出来る。
闇の精霊は常態であれば人族に安らぎを与えてくれる優しい精霊なのだが、今は違う。
だからこそなのだ。だからこそ、雷韋は怖がる。取り憑かれたら終わりだ。障壁が破られそうだと怯えている。雷韋は精霊使いだから狂戦士になるとしたら、魔術を使って生命の限り破壊を尽くすだろう。それは大いなる厄災と同義だ。精霊魔法そのものには限りがない。術者が己の許容量を知っているからこそ、それ以上の力が出せないだけで、狂戦士にでもなったら一線を越えてしまう。もしかしたら一線を越えることで、たちまち死んでしまうかも知れない。
精霊達を操る許容量を超えれば、生命を一瞬にして燃やし尽くしてしまう力が精霊にはあるのだ。世界の力を際限なく使うからだ。
雷韋が怖がっているわけは、ただ死ぬからだけではない。当然だが、自分が死ぬのも怖いが、村人達まで巻き込んでしまわないかとこの期に及んでも心配していた。
陸王は雷韋の恐怖の芯を知って、思わず少年の頭を抱き寄せた。誰がそんな事をさせるかとばかりに。こればかりはどうしようもなかった。打つ手がないのだ。陸王が雷韋にしてやれることと言えば、魂の共鳴を感じさせてやることだけだった。
魂の共鳴は、傍にいればいるほど強くなる。この場合、頭を抱きしめてやることで、強く共鳴を感じさせることが出来る。
雷韋の頭を抱きしめていると、丁度、少年の額の辺りから強い不安が魂を通して伝わってきた。雷韋が怯えているのがよく分かる。陸王もそれを感じて、苦い溜息をつくしかなかった。
今の雷韋を護れるのは陸王だけなのだ。
その時、階下から大きな声が聞こえてきた。
「いい加減になさい!」
紫雲の声だ。
その声に、雷韋の身体がびくりと跳ねた。
陸王は雷韋を宥めるように頭を撫でて落ち着かせたが、それ以降、紫雲の怒鳴り声は聞こえてこなかった。その代わり、どかどかとわざと足音を鳴らして外へ出て行くような音が聞こえてくる。
下にはどのくらいの男達がいたのだろうか。足音が随分と続いていた。
最後の一人分が消えていくのと同時に、雷韋の身体から急に震えが消えていった。精霊が多少なりとも散ったのかも知れない。
「雷韋。もう大丈夫か?」
「うん。みんないなくなって、精霊の声も小さくなった。でも、ごめん。我が儘言った」
「いいさ」
見上げてくる雷韋の瞳は、もとの深い琥珀色に戻っていた。
陸王は瞳の色の変化に安堵し、苦笑を見せ、少年の頬をぺちぺちと軽く叩いて励ましてやった。
雷韋もそうされて、少し照れたように笑う。それでも、その笑顔には影があった。まだ完全に安心出来るわけではないようだ。
陸王が雷韋の頭を離したとき、紫雲が戻ってきた。一目見て、ぐったりしている感じで。その様子からして、よほど下で面倒があったのだと知れる。
「よぉ、下では随分と大変だったみてぇじゃねぇか」
陸王が振り返り様に聞くと、紫雲はうんざりした顔を見せる。
「まぁ、ね。それよりも、雷韋君は大丈夫でしたか?」
紫雲が問うと、陸王の陰から雷韋がちょこんと顔を出して頷く。
「ん。もう平気だ。闇の精霊がみんなにくっついて散っちまったから、今はさっきほど煩くないよ」
「皆について行ったとは?」
そこで雷韋は光と闇の精霊のこと、それに連なる狂戦士のことなどを掻い摘まんで説明した。
紫雲は真剣な顔でそれらを聞いて、いっそ心配になったようだ。
「人についていったと言う事は、誰かが狂戦士になる可能性があると?」
「いや、ないよ。狂戦士になるには、さっきくらいの人と闇の精霊が集まってなきゃ変貌しない。下に、二〇人くらいいなかったか?」
「えぇ、そのくらいはいました。ですが、どうして人数を知ってるんです?」
霊の集まり方から、かなぁ。あれくらいの人数の周りにいる闇の精霊が感化されて、誰か一人に対して集まらなきゃ狂戦士になんかならない。俺、ちょっと危なかったけど。でも、もう大丈夫だ」
続けて言うには、皆について行ったのは少しずつで、家に帰る道すがらにも勝手に散ってしまうから、村の者は大丈夫とのことだった。
それでも雷韋は、さっきまでの精霊の集まり具合は怖かったという。あの場に雷韋がいたら、どうにかなっていただろうと。ここにいてさえ闇の精霊の声が響き渡って、陸王の魂に共鳴していなかったら、やはりどうなっていたか分からなかったとも言う。
「そんなに酷い状態だったんですか?」
「うん。今だって大分ましにはなったけど、残ってる闇の精霊が煩いよ。なぁ、ランプあと二つくらいあったよな? 両方とも火点けてくれないか? 闇を祓うには、やっぱり光の精霊しかいないから。明るくなれば、闇の精霊も散りやすくなるし」
紫雲はそれに頷いて、片付けてある二つのランプを卓の上に持ってきて火を点けた。
計で三つのランプに火が入ると、広い大部屋の中は格段に明るくなった。
「さっきよりはましになったか?」
「どうですか、雷韋君」
陸王と紫雲が問うと、雷韋は「すっごく楽になった」と安堵しきった面持ちで返してくる。肩からも力が抜けるのがはっきりと分かった。
「なぁ、二人ももう寝るよな? 昨日から全然寝てないし、今日だって大変な騒ぎになっちまって休むどころじゃなかったもんな」
「そうですね。休むどころじゃありませんでした」
「雷韋、お前はもう寝ろ。疲れただろう」
「うん。すっごい疲れた。怖い目にも遭ったし」
「なら、寝ろ。時間もいつもより遅いからな」
その言葉を受けて、雷韋は靴を脱いで大人しく寝台の中に潜り込んだ。それを見た紫雲が慌てて雷韋の髪を縛っている結い紐に手をかける。
「雷韋君、髪を結ったままですよ。このまま寝ては、明日、大変なことになります」
言いながら、結い紐を全て解いて、雷韋の少し癖のある飴色の髪を手櫛で梳いてやる。
「はい、もういいですよ」
雷韋は、へへっと笑って、あんがとと言うと、一度陸王の方を見てから素直に目を瞑る。それを確認して、陸王は雷韋の前髪をくしゃくしゃと掻き混ぜてやった。
「ちょっ、やめろよ。眠れないし、髪ぐちゃぐちゃにすんな」
いつもの調子が戻っている雷韋に安堵して、陸王は「はいはい」とやる気のなさそうな声で返してから、隣にある自分の寝台に戻っていった。
「そんじゃ俺、寝るかんな。うっさくしないでくれよ?」
「一度寝ちまったら、煩くしようが何しようが、目なんざ醒まさしゃしねぇだろうが」
「うっさい! 寝る!」
文句を言う雷韋に、紫雲がお休みの挨拶を伝えると、雷韋も嬉しげに返した。
陸王が無言で寝台に腰をかけたまま腕を組み、片手の親指をこめかみに押しつけたときには、雷韋は早くも眠りの淵に落ちていた。
「本当に寝付きだけはいいよな、このサルガキ。さっきまで大騒ぎしていやがったくせに」
「またそんな憎まれ口を」
苦笑めいて返すと、陸王は存外真剣な顔をして紫雲を見ていた。それを見止めて、紫雲も些か真剣な面持ちになる。
「村の連中、下でなんだと騒いでいた。話せ」
「益体もない話ですよ」
雷韋を挟んだ向こうの寝台に紫雲は腰を下ろし、馬鹿らしいとばかりに肩を竦める。
「益体もない話ってのはどんな話だ。教えろ」
「あまりにも馬鹿馬鹿しいですが、そんなに聞きたいですか?」
「あぁ」と返して、陸王は紫雲を真正面から見つめる。
紫雲はそこで一度溜息をつき、呆れたように言った。
「私達を雇いたいんだそうで。領主を殺すために」
言う際に、片手の平をちらっと見せて、馬鹿らしいだろうと同意を求める。
陸王は頭が痛いとでも言う風に、こめかみに当てた親指でそこを強く揉み込んだ。こんなもの、馬鹿を通り過ぎて阿呆らしいとしか言いようがない。
紫雲も階下に降りて領主を恨む村の者達から話は聞かされた。しかし、領主をどうするか決めるのは、おそらく各村の村長達になるだろう。それを話して落ち着けさせようとしたがそんなもの、子や妻や親を失ったレイザスの者には通用しなかった。どうやら、目には目をと言う事らしい。
身内を人質に取られて苦しい気持ちは分かるが、レイザスを差し出すことにした領主はどうしても許せないと言うのだ。当然だ。紫雲にもその気持ちが分からないわけではない。陸王など、領主と同じ立場になったら、人質が殺される前に己の手で殺そうとまで考えていたのだから。
誰も彼も辛い。だからと言って、領主を恨んで、領主を殺しても何もいいことはない。起こってしまった結果は変わらないのだ。
それを諄々と諭したが、村の者は「だったらあんた達を雇うから、自分達の代わりに領主を殺してくれ」ときた。「金が手に入るならそれでいいじゃないか」と。その結果が、紫雲の怒鳴り声に繋がったらしい。「いい加減にしろ」と。
その遣り取りを店主も女将も、苦々しい思いで聞いていたらしい。「その人達を雇う金があるなら、うちのツケを払ってからにしろ」と助け船を出してくれたそうだ。自分達だって思うところは色々あるはずなのに。
それで男達は面白くない思いで店を出て行った。
これが事の顛末だ。




