第六話 杣道(そまみち)の先
陸王と紫雲が宿を発ったのは、陽がすっかり沈んだ頃だった。
その頃には村の男達の気配も、少しは和らいだものになっていた。
そんな中で、雷韋だけがぽつりと浮いたように席についていたが。
陸王と紫雲が宿を出て行く際、雷韋は二人の後ろ姿を目で追っていただけで、特に見送るようなことはしなかった。心配と不安が一緒くたになって、腹の中でぐずぐずと煮立っていたが、黙って二人の後ろ姿を見つめていた。
陸王も最後に、「俺が戻るまで、この村から動くんじゃねぇぞ」と念押ししただけで、紫雲と共に別れの挨拶も交わさない。生きて戻ってくることに、なんの疑いもなかったからだ。それだけ、陸王にも紫雲にも生きて戻る自信があった。陸王にとってあと一つ問題なのは、金銭的なことだけだった。それ如何によっては、さっさと手を引くと言っていた。
それを思い起こしながら、雷韋は二階の窓から覗ける星空へ視線を馳せていた。
昼間の陽が明るい時には世界を細く閉ざすように尖った雷韋の瞳孔が、夜の暗い中ではまん丸に開いている。角度によっては、開いた瞳孔が光を反射する雷韋の猫目だ。暗い中にも星明かりさえあれば、雷韋の視界は開かれる。今、目の前にしている暗い世界も、雷韋には昼間のようにはっきり明るく見えた。
この同じ星空の下で陸王と紫雲が、吸血鬼に襲われているという噂のレイザス村に向かって歩いていると思うと、なんだか不思議な感じがした。下弦の月がそろそろ新月になろうとしているこの空に、星を満天にちりばめてどこまでも続いている。
雷韋は陸王と紫雲の無事を願っているし、二人は問題解決に動いている。
そこに含まれる方向性は、二人、多少なりと違うとしても。
二人のことを思っている雷韋の頬を、風が緩く撫でていく。ランプに灯った灯をも揺らして。
灯りが揺らいだのを見て、雷韋ははっとした。
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夜の真っ暗な中、鬱蒼と茂った森の中に通った杣道を、陸王と紫雲は西へ道なりに進んでいく。灯りは言霊で操る根源魔法で作った光の球だ。陸王が作った。
地図は分かりやすく、簡便に描かれている。街道の途中から森の中を行く道なので、目印となるものが数カ所に書かれている。行く道の合間合間に、木の実がなっている茂みや大きめのブナの木が数カ所記されていた。ほかには別れ道が途中に二本あったが、地図にはその先に何があるのかも文字ではっきりと記されている。簡便だが、実にわかりやすい地図であり、この地図を見るに、宿の主人が読み書き出来たことで大いに助けられた。
時刻は既に晩堂課(午後九時)を過ぎただろう頃、それまで必要最小限しか口を利いていなかった陸王と紫雲の間に会話が生まれた。
「雷韋君、今頃どうしているでしょうか。もう寝ていますかね」
陸王はちらと空を見上げてから答える。
「すっかり眠りこけているだろう」
陸王の答えに紫雲はくすりと笑って、
「案外、誰かさんがいないと寂くて、眠れないんじゃないでしょうか」
冗談口調で言うが、それが陸王の気に障った。反射的に紫雲を睨め付ける。
「誰がなんだって? そんなくだらねぇ話しか出来んのなら、独り言でも喋ってろ」
「そんなに嫌がらなくてもいいでしょう。実際、雷韋君は貴方のことが大好きなようですから。勿論、変な意味ではなく」
「あ?」
思い切り不機嫌な声が出た。それでも紫雲は構わず続ける。
「貴方だって、普通の意味であの子のことが好きでしょう?」
「どこをどう見たらそうなる」
「普通に見ていてそう感じます。宿で雷韋君と同室になると、あの子は貴方の話ばかりですよ。貴方だって、あの子を大切に扱っているじゃありませんか。一見、乱暴に見えますが、実は細かく面倒を見ている。私にはそう見えますがね」
「そりゃ、お前の妄想だ。俺達が対だという色眼鏡だろう」
「貴方がそう思うのなら、そうなのかも知れませんね」
陸王に言われて、紫雲は案外あっさりと引き下がった。それでも言葉の端々には何かを臭わせる調子がある。
それを感じ取って陸王は眉根を寄せたが、敢えて何も言わなかった。何か言ったところで、無駄な気がしたからだ。
「それより、この道で間違っていないんだろうな。随分と歩いてきたぞ」
雷韋の話よりも、陸王は本来の話題を持ち出した。紫雲も陸王の言葉に頷いて返してくる。
「地図には大きなイチイの木の傍に別れ道があって、そこを真っ直ぐ右へ行くと目的の村に辿り着くとあります。実際、イチイの木を確認してそれからこの道へ入ったでしょう」
「あぁ、まぁな」
紫雲は手にしていた地図を再確認して辺りを見遣った。光の球が照らしている地面には細い道が通っている。それを確かめてから陸王に声をかけてきた。
「道は細いですが、獣道ではなく杣道のようですし、これであっているのだと思います」
「そうか」
短く返答を返し、陸王は紫雲と共に更に奥へと向かって行った。
それから少しの間、特に二人の間に会話はなく黙々と歩いて行ったが、遠くの木立の影に橙色の光が見えた。いくつも連なっている光の様子に、それが松明の明かりだと窺い知れた。
こちらから向こうの灯りが見えるということは、こちらの光の球の光も向こうから見えるという事だ。松明よりもずっと明るく辺りを照らしているのだから、余計だ。
一旦その場に止まって松明の進行方向を見ていると、こちらに向かってきているようだった。陸王と紫雲も、松明の明かり目指して歩いて行く。
互いに近づいていき、陸王達から松明の明かりに人影が浮き上がって見えた頃、阻止の声が聞こえてきた。
「そこで止まれ! お前達は何者だ!」
誰何する声はまだ若い男のものだったが、高ぶった緊張感が感じられた。
おそらく、相手からは陸王達の姿は完全に見えているのだろう。なんと言っても、光量が違う。そこは松明の灯りと魔術で顕した灯りの差だった。
陸王は誰何されたことに対して、どう答えを返すか一瞬だけ考えた。それもすぐに答えが出る。
「旅のもんだが、怪しいもんじゃないって言うのが定番だろうが、そいつぁ余計怪しく感じるな。だから、ここへ来たのは吸血鬼が出るって話を聞いたからだと言うのが正確なところか」
「吸血鬼の話? どこでその話を聞いた」
同じ男の声だったが、更に緊張感を高めたようだった。陸王は彼を刺激しないように慎重に言う。
「近辺の村で噂になってる。行商がやって来て、その時に屍食鬼の始末をつけただろう。それを見た行商が慌てて戻った村で、この村に吸血鬼が出ると伝えていったそうだ」
「それを知ったからなんだって言うんだ。村に来てどうする」
「吸血鬼を狩りに来た」
なんの装飾もない言葉を返す。問われたから答えただけ。ほかに意図はないのだから、ありのまま言った方がいいと陸王は判断したのだ。ただ、最後に一言だけ付け加えた。
「吸血鬼を狩ると言っても、金にならんようなら俺は戻るがな。金如何によらず、こっちの男は残る」
言って、隣に立つ紫雲を顎を呷って示した。
「金にならなければ、あんたは帰るって言うのか」
「そうだ。ただで人助けしてやる謂れはねぇ。しかも相手は上位魔族の変異種だ。生命を賭けるのに、ただってのもおかしな話だろうが。俺は雇われ侍だからな、生命を賭けるには相応の対価を要求する」
陸王の言葉に、男達がざわめいた。その中から、さっきの男とは違う声が響いてくる。
「侍? こんな辺鄙な村だ。あんたを雇うだけの金は用意出来ないぞ」
「だろうな。だから、まずはこの辺りを治めている領主と交渉するつもりだ。そいつが決裂したら、村と交渉する。その時は多少、負けてやるよ」
「もう一人の兄さんはどうなんだ」
さっきと同じ男が紫雲に問うてくる。
「私は修行僧ですから、金銭を支払う必要はありません。魔物や魔族を調伏するのは私の使命だからです。ですからこうして、ここの話を聞いてやって来ました」
「それじゃあ、これにも答えて貰う。あんたらの傍に浮いてる光の球はなんだ?」
紫雲は思わず、え? と傍らの光を見た。だが、男の声に応えたのは陸王だった。
「根源魔法で顕した光の球だ。この程度の魔術なら使える。気になるってんなら消すが」
陸王の返答に、再び男達はざわめいた。
魔道士がいることは知っていても、魔術を見るのは初めてなのかも知れない。普通はそうだろう。
魔道士は実験に使う材料などを採取する時に稀に旅に出るが、旅先で魔術を使うことはほぼない。よほどの困りごとが起きたか、魔物にでも出会したのであれば、その限りではないが。しかし、通常はごく普通の旅人と同じだ。商人や旅芸人などと一緒に街から街へ、村から村へと門限どおりに渡り歩く。だから、魔導士が魔導士である事を知る者は少ない。
魔導士とはそう言う存在だから男達の様子は再びざわめいて、そのまま何事かを相談し合うような空気に変わっていった。
陸王も紫雲も、ここで悶着は起こしたくない。彼等の出方を待つことにした。もしここに雷韋がいたら、男達に詰め寄っていただろう。魔族を狩るために来たのだと言って、突っ込んでいくはずだ。陸王と一緒にいるのが雷韋ではなく紫雲だから、大人しく相手の出方を待っていられるのだ。
陸王もこれでいいと思いはするが、傍らにいるのが雷韋ではなく紫雲だからか、その違いでどんな結果になるか予測が出来ず、少しばかり不安になった。
二人が黙って男達の相談事が纏まるのを待っていると、人影が少しずつ近づいてきた。用心深くではあるが、こちらに向かってきたのだ。
陸王が顕した光の球の灯りが男達に届く場所までやってくると、男達は全部で四人いるのが分かった。しかもその手には熊手や鉈を持って構えている。
陸王と紫雲の二人はそんな得物はなんら恐ろしくはなかったが、男達がなけなしの勇気を振り絞って構えているのが、腰の引け方で充分に分かった。
それも当然だろう。これまで、人に対して余計な警戒心など抱くはずもなかった人生だったのだ。それが急に化け物に襲われて、外から来る相手に警戒心を抱かなくてはならなくなったのだから。殺意に近い警戒心を持って、他人に熊手やらの殺傷能力のあるものを向けなくてならない。
平穏に生きてきた者達だからこそ、腰も引けようものだ。