第五二話 戦々恐々
激しく咳き込む陸王の頭の中に、紫雲が必死に声を届かせる。陸王の名を何度も繰り返し呼んで、今にもどこかへ持って行かれそうな意識を繋ぎ止めてくれた。だが、紫雲もそれが精一杯と言う感じだ。まだ解呪が終わらないのだと伝えられる。
紫雲は吸血された玄史の手当を一番に行っていた。毒という形になっている呪を解くのは楽な作業ではなかった。玄史の中に送り込まれた毒の量が、予想より多すぎたのだ。失血死手前まで血液を抜き取られ、その分、屍食鬼へと変化させる毒が送り込まれていたのだから。
とにかく、玄史の手当に時間がかかっている。魔気を受けた者はそれほど深刻ではないとは言え、時間が経つごとに心身にじわじわと影響が現れる。誰一人として軽視できなかった。陸王を助けたかったが、魔気を受けた者達の手当が先だった。特に玄史はなるべく早く処置したい。放っておけば屍食鬼になってしまう。
悔しいが、どうしても動けない。紫雲は自分の体たらくに歯噛みする思いだった。修行僧として吸血鬼を滅するどころか、矢面に立ってくれた陸王を救えもしないのだから。
陸王は相変わらず苦しげに咳き込んでいる。それも徐々に息遣いが弱くなっていった。ごぼりと上がってくる血に溺れそうだった。元々気管を遡ってくる血だ。呼吸が上手く行えていない。
吸血鬼は陸王の様子を用心深く窺っている。徐々に弱まる咳の音と、それに反比例するように大量に吐き出される血液の量を勘定しているのだ。吸血鬼の頭の中に、これで侍は死ぬという考えがよぎった。
陸王は完全に長剣も刀も手放してしまっている。これは一歩間違えれば死ぬかもな、と陸王の中で弱音に近い言葉が形を表し、吸血鬼は陸王のもとまで近寄ってきた。弱い咳に押されて血をごぼごぼと吐き出している陸王の肩口を軽く蹴ると、そのまま仰向けに転がす。
吸血鬼は陸王の傍に落ちている自分の左手を拾い上げ、肘の付け根に直接押し当てた。それは随分と不格好な様だったが左手が肘の辺りで拳を強く握ると、失われた部分の腕が生えてきた。と言っても、骨と筋肉が剥き出しの状態だ。そこへ己の片手を翳し、吸血鬼は小さく息をついた。再生の術が既に言霊封じになっているのだ。術は発動し、掌を翳した部分から皮膚が再生していく。皮膚が完全に再生すると、今度は左腕を軽く振る。振り終わったときには、服の袖が出来上がっていた。切り落とされていた外套の端を掴んで軽く引っ張ってやれば、灰となって失われていた部分も復活する。
これで吸血鬼は元通りの姿に戻った。
彼は二度、三度と左手を握ったり開いたりしていたが、やがて満足がいったのか、今度は血泡を吹いている半死人状態の陸王を見下ろした。このまま黙って待っていても陸王は死ぬだろうと言う確信はあった。未だに人間達の手当てをしている紫雲も、その場を動くことが出来なければ殺すことは容易い。紫雲はまず放っておいていいだろうと吸血鬼は判じた。神聖魔法で雁字搦めにされるやも知れぬという危機感は持っていたが、今は人間の手当をするので精一杯のようだったからだ。それよりも自分を追い詰めた日ノ本の侍が吸血鬼には憎くて堪らなかった。
銀の長剣分の借りは返してやろうと、陸王の脇に転がっている刀を手に取った。
その様子を、陸王は黒い瞳で呆然と眺めている。
「貴方には借りも恨みもありますよ。よくぞ吸血鬼である私を追い詰めてくれました。このまま放っておいても貴方は死ぬでしょうが、私も恨みを晴らしたい。ですが、一欠片だけ情けをかけてあげましょう。この刀で一息に殺してあげますよ」
そこまで言ってから、小さく笑い声を上げた。小さかったが、とてつもなく楽しげに。
いいだけ笑い続けて、一つ呼吸をおくと、再び陸王に声をかけた。最後の言葉だ。
「では、さようなら。侍殿」
吸血鬼は手に持った吉宗の切っ先を陸王の眉間に定めると、一気に突き刺した。
吉宗の刃は鋭い。ほとんどなんの抵抗もなく切っ先は眉間に沈んだ。
陸王から断末魔はでなかった。
その代わりとばかりに声を上げたのは紫雲だった。最早、詠唱も途絶えている。
「なんと言うことを!」
「貴方は黙って人間達の手当でもしていなさい。侍を殺して、私の溜飲も下がりました。……見逃してあげますよ。ただし、姫君に余計な事はしないで貰いましょう。私がいただいてゆくのです。『花嫁』として飼ってあげるために」
言って、くつくつと笑っている中に、微かな声が聞こえた。誰かの名を呼んだような響きだ。
そのとき、なんの前触れもなく吸血鬼の身体がいきなり弾き飛ばされて、壁に磔になる。彼の魔族を磔にしているのは、赤い刃の武器だった。組紐が巻き付いた柄のような持ち手が中央にあり、その両翼からは炎のように赤い刃が伸びている。刃の長さは両方とも一メートルほどだろうか。吸血鬼を磔ている方の刃は、半ばまで深々と突き刺さっていた。彼の足も宙に浮いている。
吸血鬼に突き刺さったのは、雷韋の武器、火の精霊が凝った火影だ。
「な、これは……!」
吸血鬼はあまりのことに、驚きを隠しもせずに柄の部分を掴んだ。
吸血鬼が吹っ飛ばされる直前、紫雲の目に映ったのは、赤い武器が陸王の胸元から一気に飛び出してきたところだった。まるで、陸王の懐に最初から火影が忍ばせてあったかのように。
紫雲も吸血鬼同様、驚いていたのだ。何が起こったのか、理解が追いついていない。
そんな紫雲を余所に、陸王から小さく咳き込む音が聞こえてきた。
思わず紫雲が陸王に目を遣ると、彼は自分の頭に刺さっている吉宗の刃を無視して、上体を起こすところだった。
「馬鹿が。吉宗は持ち主に俺を選んだ神剣だぞ。扱えるのは俺のみ。俺が柄に触って、やっと他人を、俺自身を傷をつけられるんだ。ほかの連中が吉宗を扱えるかよ」
弱々しいが、陸王の声がはっきりと聞こえた。いや、弱々しい声音と言うよりは、疲れ切った声だった。どこかに呆れも滲んでいる。
吉宗を床から引き抜き、陸王がゆっくりと立ち上がった。
「陸王さん……」
紫雲が思わずと言った風に呟くと、陸王は不機嫌そうに眉根を寄せた。
「お前、俺が殺されかけてたってのに、それでも人間の手当が先決だったかよ」
「あ、それは、申し訳ありません。どちらを取ると言う事もなく、実は何も出来なかったんです」
紫雲の言葉に、陸王は鋭く息を吐き出してから言った。
「お前は心底信用ならんな。雷韋の方が辛抱強く、我慢が利いていたぞ」
「それは一体……」
「もういい。まだ解呪が終わっとらんのだろう。さっさと片をつけろ。刻一刻と状態は悪くなるんだろうが」
陸王は吸血鬼に向き直りながら、紫雲から顔を逸らした。
吸血鬼に眉間を串刺しにされる前から、今までもずっと陸王は胸に手を当てている。その間、回復魔法をかけ続けていたのだ。今ではもう、咳き込む様子もない。
陸王は吉宗を鞘に収め、改めて銀の長剣を手に取った。手に取り、壁に磔になっている吸血鬼にゆっくりと近寄っていく。
「おま……、おま、えは……」
吸血鬼は陸王が生きていたことにもかなりの衝撃を受けているようで、まともな言葉が出ないばかりではなく、声も掠れていた。
それを無視して、陸王は火影の突き刺さり方をまじまじと眺めている。左ではなく、右胸に刺さっていたからだ。魔族の生命力は高いが、吸血鬼ならばほかの魔族と比べてどうなのだろうと思ったのだ。
生命力の強さのことだ。
右肺に火影が突き刺さっていることで、肺からの吐血はあったのだろう。口周りが血で汚れている。それだけでなく、火影の刃を伝って血も流れ出していた。
「上位の魔族は心臓を破壊したり、首を刎ねたりすれば死ぬな。急所はほとんど人と同じだ。手前ぇも同じか?」
陸王は顎に手を当てて、半ば考え込むように、半ば吸血鬼に質問するように言葉を零した。
それを聞いて吸血鬼は血相を変えて火影を抜き去ろうとしたり、宙に浮く足をばたつかせたりする。
もう自分に勝ち目がないことが分かってしまったのだろう。ついさっきまでは陸王の方が棺桶に片足を突っ込んでいた状態だったのに、今は立場が逆転している。日ノ本の人間がこれほど頑丈だと知らなかったのだろう。今更恐怖しているのだ。
実際には陸王は魔人であって、種族としては吸血鬼の仲間のようなものだが。
「よぉ、手前ぇ。どこかの魔物と同じで、銀が苦手のようだな。流石の俺も、もし手前ぇが長剣でとどめを刺しに来たらどうしようかと思ったが、やはり苦手なものには触りもしなかったな。……で? 銀の長剣で手前ぇの心臓を一突きにしたらどうなる」
残酷なことをなんでもないことのように、軽く言い遣る。
吸血鬼は首を必死で振ってみせた。声も出せないでいる。
この反応からして、死ぬのは確実なようだった。
陸王は一度、吸血鬼から距離を取って、昆虫の標本のようになっている夜の魔物を見遣った。吸血鬼を見る眼差しは、妙に冷えている。はっきり言って、感情らしき感情が黒い瞳から抜けているのだ。怒りも哀れみも何もない。
吸血鬼の標本を目の前にして、陸王は首を振りながら溜息をついた。
と思った瞬間、標本の左胸に銀の長剣が深々と突き刺さっていた。陸王がいきなり突き刺したのだ。
吸血鬼からは断末魔の悲鳴が上がった。
紫雲も驚きのあまり、詠唱を止めて振り返る。
長剣が刺さった部分からは肉の焼ける嫌な臭いが発され、小さく燃える肉と灰になる肉が零れ落ちていった。長剣の肉に触れている部分は、白く煤けている。
それらを確認して、陸王は低く言葉を発した。
「雷韋、今だ」
静かに発されたその言葉に合わせて、吸血鬼だけではなく、陸王までも巻き込んだ小規模の爆発が起こった。
「陸王さん!」
紫雲が叫ぶも、いくら小規模とは言え、爆発が起こったのだ。爆音に声は簡単に掻き消された。
爆発は外に向けてのようで室内にはほとんど石壁の破片は飛び散っては来なかったが、塔の一部が完全に崩れていた。崩れた部分から、室内に風が唸りを上げて入ってくる。しかしそのお陰で、爆煙はすぐに外へと連れ去られていった。
紫雲は崩れた部分から身を乗り出すようにして塔の外を窺ったが、まだ外は暗く、地上では爆発に驚いたらしき兵士達が持つ松明の明かりが集まってくるのが確認出来ただけだった。
「陸王さん!」
再び陸王の名を叫ぶも、声は風に巻き上げられて、地上までは届かない。逆に、地上の声も聞こえなかった。
と、その時、紫雲ははっとした。遠くの空が、僅かに白け始めていたのだ。
長い夜が明けようとしている。




