第四九話 擾乱(じょうらん)
「紫雲、詠唱を始めろ。兵士は退け。邪魔だ」
陸王が言うも、兵士達は退こうとはしなかった。それどころか言い返してくる。
「貴様が退け! 姫の安全は我らが護る!」
「姫! 姫! ご無事でございますか!?」
陸王に言い返したかと思えば、別の者が姫の様子を窺う。けれど、帳の下りた寝台からは何の返答も返ってこない。時刻的に寝台にいるのは分かり切っているが、これだけ騒いでいるというのに、眠り続けているのはおかしい。
と、その時、吸血鬼の目が笑った。陸王がそう見た瞬間、何かが眼前を横切り、壁に叩き付けられる派手な音がしたのだ。
はっとして何かが叩き付けられた壁の方へ視線を移すと、そこには十一歳か十二歳ほどの少女が白い夜着のまま触手に巻かれて逆さに張り付いていた。父親譲りの白っぽい長い金の髪の毛が乱れて、床の方へと垂れ下がっている。
「「姫!!」」
兵士達から悲鳴が上がる。
陸王だけではなく、吸血鬼の前では目を瞑っているはずの紫雲も音の鳴った方を見て、磔られた少女の姿に言葉をなくしていた。
小さな姫君の身体を這うように取り付いている触手は、もとを辿れば吸血鬼の左の指先から伸びた血管のようだった。左手の爪が剥がれて浮き上がり、そこから五本の触手が長く伸びているのだ。
少女は叩き付けられたときの衝撃さえもなかったもののように、こんこんと眠り続けている。うっすらとでも瞼を開く気配もなかった。
「さて、姫君をどうしましょうか。血液を吸う際は、別に牙で傷をつけなくとも吸血は出来るのですよ? どうすると思いますか?」
少女を楯にして、吸血鬼は再び余裕ある態度を取った。
その態度に焦ったのは陸王だった。
つと視線を少女に向けると、数本の血管が首筋を這い回っている。今にも首の柔らかい皮膚に穴を開けそうに見えたのだ。肉色の血管が肌から首の内側に押し入って、そのまま動脈に食らい付くような予感がある。
兵士達も触手の動きにおぞましいものを感じ取り、身動きを封じられてしまっていた。
紫雲も少女の方へ目を向けていたが、手元では印契を組んでいる。いつでも詠唱を始められる状態なのは、先から変わりない。
触手の先端は、血管だというのに鋭利に尖っている。柔らかそうでいて、固そうでもあるのだ。もし首に潜り込むことがあれば、簡単に突き刺さるだろう。
紫雲は思わず奥歯を噛み締めたが、すぐに小さく口を開こうとした。が、
「修行僧殿よ。やめた方がいい、詠唱をするのは。貴公が一言神聖語を発すると同時に、姫君の首に我が触手が潜り込むことになる。僅かな時間であれば、私も神聖魔法を耐えられることをお忘れなく」
続けて、「もし吸血することになれば、私は彼女に毒を使うことでしょう。……そう、傷をつけるだけでは吸血するには効率がよろしくない。だから私達は毒液を送り込むことで溢れ出す血液を啜るのですよ」とどこか楽しげに、どこか惜しむように複雑な調子で言う。
紫雲は思わず吸血鬼に目を遣っていた。目を合わせれば魔気を食らってしまう危険を忘れてしまったかのように。
暗褐色の瞳が食い入るように紅い瞳を見つめた。紫雲の瞳に宿った光は、絶望を示している。吸血方法の単純さと残酷さを同時に理解したからだ。
吸血鬼が吸血する方法と、蚊の吸血方法は同じだった。肌に突き刺した牙や鋭く尖った口から毒液を体内に送り込み、毒液の余剰分の血液を吸う。だが、毒液の違いが吸血鬼と蚊では雲泥の差があるのだ。
蚊の毒液なら、痒みを覚えるくらいですむ。病人の血液を吸ったあとなら、その病原菌を媒介することになるが、基本的にはそれほど恐れることはない。しかし、これが吸血鬼ともなれば、屍食鬼に変じさせてしまう。
吸血の方法は同じ原理でも、結果が違いすぎた。
陸王達は吸血鬼の説明だけで全てを悟っていたが、兵士達はどうか。紫雲が様子を見れば、困惑の表情で愛鈴姫と吸血鬼を交互に見遣っている。
そもそもが『毒液』というものの正体が分かっていないのだろう。害を加えられるという事は理解しても、人でなくなるとまでは思っていないに違いない。吸血鬼はほぼ伝承の中の生物だ。どれだけ危険か、ほとんど知らないのも無理はない。レイザスの村の者達でさえ、屍食鬼に変じた者を見てから何がどうなるのか知ったはずなのだ。それも、教会の書物の中から調べたに過ぎないだろう。
伝承はぽつぽつと残るが、知識量が人や村単位で違うのだ。
一般的に最もよく知られているのは、餌場を固定することだ。犠牲者が屍食鬼に変じるかどうかは、地域ごとに伝わっているかどうか分からない。知らないとなれば、屍食鬼の滅し方も知らないという事だ。
レイザスの村では教会に相談して、初めて吸血鬼の犠牲者が屍食鬼になることを知った。当然、葬り方も書物から知ったのだ。それが下地にあったからこそ、ゴザック村やほかの村にも吸血鬼と屍食鬼のことが知らされることになった。
吸血鬼の手の内に愛鈴姫があることで紫雲は言葉さえ封じられ、陸王も吉宗を構えることしか出来なかった。
「どうやら兵隊さんには何がどうなるか分からないようですね」
吸血鬼が揶揄う風に声を出せば、兵士達は一斉に吸血鬼に向き直る。それだとて、未だ及び腰なのは致し方ないが。
それを吸血鬼はせせら笑った。
「危害が加えられることは理解出来ているようですが、私が吸血することで姫君の身に何が起こるかは分からないと言ったところでしょうか? ならば教えて差し上げましょう。このまま貴公らが私に敵対的な態度をとり続けるままならば、私は吸血すると同時に姫君を屍食鬼に変えるということです。その為に毒液を注入しようと思っているのですよ。それが嫌なら、大人しくこの部屋から出て行くことです。侍と修行僧は私には邪魔な存在なので、処刑してしまいなさい。領主殿と大臣殿には言ったのですが、つらつらと言い訳を述べて始末しませんでしたからねぇ。私の匙加減で、姫君を人のまま吸血することさえ可能なのです。必ずしも屍食鬼に変える必要はない。何より今、私は空腹な上、手傷を負っているのですよ。回復のためにも、このまま姫を吸血したくて仕方がありません」
はっきりと告げられた悪意に、兵士達は一瞬で顔色をなくした。
「私の言ったことが理解出来ましたか? ならば速やかにこの部屋をあとにして、これ以降、私と姫君のことには一切構わないことです。それが最も賢い行動ですよ」
そこまで言ったとき、玄芭と玄史の二人が兵士達を掻き分けてやって来た。
「一体、何事だ! 誰もこの部屋には近づくなと言っていたはずだろう!」
部屋に入っての玄芭の第一声だった。その隣で玄史が壁に磔にされている愛鈴を発見する。
「兄上、姫が!」
玄史の指さす方を見た玄芭は、声なき悲鳴を上げた。何がどうなって己の娘があのようなことになっているか理解が追いつかなかったのだ。ただただ、娘の首筋を這い回っている血管の触手に怖気を振るうだけ。おぞましいの一言に尽きる。
僅かばかり、無音が続いた。玄芭と玄史、兵士達も愛鈴の安全だけを考えていたためだ。下手に逆らえば、愛鈴がどうなってしまうか。
「た、頼む。娘には手出ししないでくれ」
ようやくのことで玄芭が声を出した。それを聞いて、吸血鬼は薄ら笑いを顔に貼り付ける。玄芭は愛鈴のために、決して逆らうことは出来ない。それはこれまでの吸血鬼に対する対応で分かり切っていたことだ。だから吸血鬼は薄ら笑いを浮かべたのだ。
「貴方の気持ちはよく分かっています。この部屋から一人残らず人間を追い出してくれれば、姫に、私の花嫁に危害は加えません。彼女はこれから、美しく、その身を変じさせるでしょう。花は咲いてこそ価値がある。私としても傷つけたくはないのですよ。ですから貴方が賢ければ、貴方との約束は守りますよ。しかし……」
そこまで言って、吸血鬼は陸王と紫雲へと交互に視線を向けた。
玄芭はそこでやっと陸王と紫雲がいることを知った。驚きに目を見開いている。それからややあって、悲鳴にも似た怒号を上げた。
「何故こんな連中を入れているのだ!? 即刻、取り押さえよ!」
玄芭の怒号に兵士達は皆驚いていたが、言葉を返す。
「領主様。領主様はこんな化け物がいることを知ってらっしゃったのですか?」
兵士に問われ、玄芭は激昂したように声を荒げた。
「だとしたら、なんだ。このお方とは約束を交わしているのだ。それが何かなど聞くような浅はかなことはするな!」
「し……しかし、姫様がこのようなことに」
「逆らわなければ、愛鈴に危害は加えられぬ。分かったら、侍とそこの男を捕らえよ。すぐに処刑する。準備をいたせ」
玄芭と兵士の会話の中に、唐突に陸王が割り込んだ。
「玄芭、手前ぇは間抜けか?」
相変わらず、黒い瞳は真っ赤な瞳を見据えている。時折、ちらと愛鈴の方へ視線を流していたが、ほとんど陸王の視線は吸血鬼に向かったままだった。そのままの状態で玄芭に声をかけ続ける。
「この化け物、お前の娘を『花嫁』とかぬかしたな。『花嫁』ってのが魔族の中でどういう意味を持っているのか分かっているのか?」
「なんのことだ」
玄芭は険しい声で返してくる。
それを聞いて、陸王はあからさまに馬鹿にした口調で言い遣った。
「魔族が女を『花嫁』と呼ぶってことは『飼う』ってことだ。いいだけ弄ばれた末に、殺される。吸血鬼に連れ去られたら、お前の娘は二度と帰ってこんぞ」
「な……!?」
「魔族ってのは天性の嘘つきだ。どんなに固い約束を取り付けても、端から約束を守る気はない。そう言う生き物だ。自分の欲望さえ満たされれば、あとはどうなろうが知ったこっちゃねぇ」
だろう? と、今度は吸血鬼からの返答を促すように声を投げかけた。
陸王の問いかけに、吸血鬼は更に笑みを深める。
「飼いはしますが、花が散る寸前に返すつもりですよ。花びらが散った花ほど醜いものはないですからねぇ」
「返す『つもり』か……。つもりなだけで、ここまで送ってくるわけじゃあるまい」
「さて、それはどうなるでしょうか。返すときに、私がどこにいるか分かりませんから」
「遠く離れていりゃ、返すのも面倒だよなぁ? 送る気もないなら、捨てるか? そうなれば、姫は生家に辿り着く前に死ぬな。おそらく野垂れ死にだ。旅支度をさせる気もないんだろうからな」
「それは難しい問題ですね。その時にならなければ、私もどうするか分かりませんから」
「言うと思ったぜ」
鼻先で笑って、陸王は紅い瞳を睨み据えた。




