第四八話 対峙
砦の中で馬を駆り、すぐ目の前には邸が迫っている。陸王は紫雲の前に出て、邸の前方に槍を構えた兵士達を見止め、ぎりぎりまで迫ってから邸前の彼等を馬で飛び越えた。それに紫雲も続く。
陸王の馬も紫雲の馬も、着地地点と覚しき場所は玄関前の階段を越えて、既に扉の向こうに定まっていた。
二頭の馬がほぼ同時に大きな両開きの扉に突っ込むと、蝶番が破壊される悲鳴のような音を消し去って、轟音と共に破壊された扉が邸内に吹っ飛んでいく。更にそこへ馬が均衡を崩して雪崩れ込んだのだから、内部で警備していた兵士達には堪らなかっただろう。吹っ飛んだ扉の向こうから横滑りで馬が二頭滑り込み、逃げ遅れた兵士を巻き込んで混乱が場を支配した。
陸王と紫雲はその時には既に馬から飛び降りてしまっていた。馬が扉を破壊した瞬間に、馬上から身を翻していたのだ。
だから突っ込んだのは馬二頭だけだった。
馬の悲鳴と馬体に巻き込まれて壁に直撃した者は、生きているのか死んでしまったのかも分からない。
陸王も紫雲もそんなものを確かめる暇さえ惜しく思い、陸王の嗅覚に従って邸の中を走り去っていった。
邸の西側に塔は併設されている。邸の内部に入り込んでしまうと、吸血鬼が流しただろう血の匂いは薄まってしまっていた。いや、ほとんど感じられない。それどころかもっと別の、血の匂いとは違う不快な臭いが陸王の鼻先を掠める。だが今は一刻を争う。血の匂いが感じられないとしても、塔が併設されてある方向へ行けばいい。陸王と紫雲は、邸の作りから考えて、塔のある方向へと移動した。
途中途中で出会す兵のほとんどが二人の必死の形相に気圧されてしまって、進行方向への道を勝手に開けてくれる始末だ。玄関口で騒ぎが起こっているのを感じても、騒ぎの原因が彼等だということには気が回らなかったのだろう。
余所者が手に手に得物を構えて血相を変えて走ってくるのだ。驚きはするが、それ以上の行動に出られない。「邪魔だ」と怒鳴られてしまえば、道を譲るほかなかった。
そうこうしながら進んでいくと、遂に塔へと続くのだろう場所へ辿り着いた。
通路の真正面に、一枚の錆の浮いた鉄扉が填め込まれている。
通路の途中途中の壁に幾本も松明が掲げられていたが、こちらには松明よりも光量のある二つの光の球があるのでそれらは特に必要なかった。
陸王は指先で光の球を操って呼び寄せると、鉄扉を照らす。
近づくと、血の匂いに似た鉄錆臭さが漂ってくるが、血の匂いとはまるで違う。鉄錆の臭いは鉱物としての無機質な臭いであり、温度も何も感じられない。血の鉄臭さは有機的で確実に温度のある匂いなのだ。
今鼻につく臭いは、そこから温度を感じることが出来る血液特有の匂いだった。鉄錆の臭いとは別に、扉の向こうから漂ってきているのだろう。
錆の浮いた扉に手を掛け、把手を回してゆっくり開いてみる。扉は錆び付いているにもかかわらず、抵抗も見せず、なんの軋みもなく開いた。扉はともかく、蝶番が生きているのだろう。
塔の内部は暗く、明かりの一つもなかった。松明一本の明かりもつけられていないのだ。光の球が照らすお陰で見えた塔内は、真正面に木製の扉があり、その脇を狭い階段が上へと螺旋状に続いていた。
血の匂いは階段から蛇のように這い降りてきている。
陸王は紫雲に目配せをした。この上に吸血鬼がいることを確信した真剣な眼差しで。
紫雲も頷きで返し、陸王から暗い段上へと視線を移す。
「行くぞ」
陸王が素早く呟き、彼を先頭にさっと階段を上っていく。
塔は外観からして、三階部分まであるように二人は記憶している。二階建ての邸よりも一階層高かったのだ。
血の匂いを追って上層へ駆け上がっていくと、階下からざわめきが聞こえ始めた。侵入者である陸王と紫雲を今更になって追ってきたのだろう。階段の幅は大人二人並ぶのが精一杯だ。兵士を送り込むことになったとしても、大量に投入は出来ないだろうし、吸血鬼を討つにあたって邪魔になるほどではないだろう。だから上層に昇ってくる兵士達に気を回すこともなく、二人は遂に三階にある扉の前まで辿り着いた。
陸王の鼻にはしっかりと血臭が感じられる。この奥に吸血鬼がいると確信していた。
扉の把手を握った瞬間、魔代魔法の気配を感じた。
扉が封印されているとすぐに気付く。
根源魔法の施錠の上から、魔代魔法で封が施されているのだ。これでは神聖魔法を使うか、魔代魔法を使って解錠するしかない。普通の人間に扉を開くことは出来る筈もなかった。それどころか扉周辺に結界が巡らされていて、破壊するどころか傷一つつけることも出来ないだろう。
普通の方法ではどうあっても入ることが出来ないため、これは人質を取られているとしたら手も足も出ない状況だ。
陸王は片手で印を作り、把手を握ったもう片方の手元を見つめて小さく魔代語を唱えた。途端、封が綻び、更に根源魔法で解呪してやると、施錠が外れた。そのまま陸王は堂々と把手を回して、扉を開く。こちらは何もやましいことはないのだ。もし吸血鬼が扉を開けた途端襲ってこようとも、心の準備は出来ている。
扉を開いた先にある部屋は実に広く豪華だった。
時期的に火のはいらない暖炉。
絨毯として、狐の頭蓋骨を咥えた熊の毛皮が敷かれている。
その周りを囲むように天鵞絨張りのソファが配置され、暖炉の上には見事な長剣が二本飾られている。
壁にはほかに、絵画と鹿の首の剥製が掛けられていた。
部屋の中を照らしているのは、三つ叉の燭台に立てられた蝋燭が全部で五つ。
三面ある窓は日光を遮るために真っ黒に塗り潰されているが、そこにかかるカーテンも厚く濃紺の天鵞絨生地で出来ていた。一箇所だけ窓が閉められて、カーテンが開かれている場所があったから窓がどうなっているのか分かったのだ。
部屋の一方には天蓋付きの大きな寝台が置いてあり、薄い帳が降りている。誰かは知らぬが、人の気配がそこからした。陸王は、間違いなくその人物が領主に対する人質なのだろうと見当をつけた。
その部屋の中央奥に、吸血鬼はいた。ほぼ窓際と言っていい位置に佇んでいる。
まだ片腕は完全に回復しておらず、術を掛けている最中のようだった。血臭も濃く、部屋に充満していた。完全に回復していない腕も、小さく湿った音を立てながら、腕の肉は肩の肉に繋がっていく。それに伴って、服の肩口も直っていた。
その様子に陸王は、
「やっとまともに対面が叶ったな。巫山戯たことしくさりやがって」
機嫌も悪く、反吐でも吐きそうな調子で言い遣った。
実際、気分は最悪だ。遂に対峙した吸血鬼だったが、こんなものに雷韋を狙われたかと思うと我慢ならなくなる。そのあまりもの立腹加減に逆に腹立たしさは収まって、陸王は妙に冷静になっていく自分を不思議にも感じていた。
陸王の感情の変化を気に留めなかったのか、吸血鬼も平然とした顔で返す。
「侍と修行僧……邪魔ですねぇ。領主と大臣から話は聞いていましたが、ここまで追ってくるとは。一体、どうやってここまで辿り着いたのか」
どこか節をつけて、歌うような言い回しをする。しかも上機嫌と言った風に。
二対一の上、相手は魔気が効かない陸王と修行僧である紫雲だ。状況的には吸血鬼の方が圧倒的に不利な筈なのに、余裕が覗える。
「余裕ですね。何か悪巧みを?」
紫雲が挑発的に声を掛けると、吸血鬼は紅い瞳を彼に向けた。しかし、紫雲は真正面からまともに魔気を受けないように、固く目を瞑っている。更には、既に紫雲は印契を組んでいた。
神聖魔法は範囲魔術だ。声が届く範囲全てに効果が渡る。いくら室内が広いと言っても、限界はある。詠唱が始まれば、この部屋にいる間は神聖魔法の餌食だ。印契を組んでいる今、唱えようと思えばすぐにでも詠唱を始められる。それこそ、吸血鬼の出方次第でいつでもだ。
陸王を巻き込むことになるが、致し方ない。陸王だってそんな事は織り込み済みでここまで来ているのだから。
そうして対峙して間もなく、階下から足音がどんどんやって来た。兵士が二人、背後に仲間を連れて駆け上がってくる。
「貴様ら、ここは領主様のお部屋だぞ! 只今は、愛鈴姫がご静養中だ! それを勝手に入り込むとは無礼な!」
声がしたと同時に、取り押さえろという声が上がる。
まだ室内に入っていなかった紫雲に、兵士二人が襲いかかってきた。瞑っていた目を開け、紫雲が兵士から身を躱す。こんなところで捕まるわけにはいかない。それに今の言い分からして、この部屋にいると言う姫君と言うのが人質なのだろうと知る。
寝台に感じる人の気配が当人なのだろう。
紫雲が兵士から身を翻して部屋の中に逃げ込んだとき、陸王の怒鳴り声が響き渡った。
「いい加減にしろ、喧しい! この部屋に吸血鬼が巣くっているのにも気付かんのか!?」
怒鳴ったが、陸王の顔はずっと吸血鬼に向けられたままだった。紅い瞳を真正面から黒い瞳で迎え撃っている。
吸血鬼は未だに余裕を見せている風だったが、陸王が見る分には、紅い瞳が微かに焦燥を滲ませていた。原因は人間達が来たからではない。やはり陸王と紫雲が来たためだ。
背後から兵士達のざわめく声、吸血鬼が室内にいることに気付いた者達の驚きの声が聞こえてくる。
陸王は刀を手にしていたが、まだ構えを取っていたわけではない。その陸王よりも先に構えを取ったのは、室内に侵入してきた兵士達だった。全部で五人いる。
「な、なんだ、あいつは!?」
「ひっ、目が赤い……。魔族か?」
「馬鹿な、何故、魔族がこの部屋に」
しかし、室内に飛び込んできて剣を構えたのはいいが、情けないことに兵士は吸血鬼を見て皆、及び腰になった。吸血鬼の、魔族特有の紅い目に怯んでいるのだとは分かるが、ここまで情けない兵士の様は陸王は始めて目にした気分だった。
飛び出してきた彼等のほかは、入り口のところで足踏みしている。やはりその兵士達も魔族の登場に恐れおののいているようだった。
それとは逆に飛び出してきた兵士だが、実際に魔族を目の当たりにして剣を構えられること自体は称賛に値するかも知れない。普通なら、相手が魔族だと分かった時点で逃げ出すだろう。瞳の色を見れば、否が応にもそれと知れるのだから。
ここが元々は玄芭の部屋で、今現在は姫の部屋だと言っていたことから、それだけ領主家族に忠心があるのかも知れない。




