第三五話 本能と餓(かつ)え
陸王が宿近辺に行くと、村の中心部だというのに宿の周りはしんといていた。
当然だ。村の者達は皆、納屋周辺にいるのだから。寝る時間にならなければ、家に帰る者もいないだろう。
雷韋は言いつけどおり、ランプに火を入れていないようだ。二階全ての窓が闇色に塗り潰されている。納屋から離れるに当たり、陸王は松明を持ってきていたが、うっすらと明かりに照らされた窓辺に変化は見られない。
宿の二階に声をかけてみようかとも思ったが、やめておいた。まだ雷韋は眠ってはいないだろうし、下手に刺激して余計な行動を起こされたら堪ったものではないからだ。
それとも、することが何もなくて、既に眠りに就いているだろうか? もしそうであれば、今夜は陸王が比較的近くにいる。眠ってしまったなら簡単には起きやしないだろうと思い、陸王は宿近辺に何か異常が起きていないか見て回ることにした。
それにしても、雷韋の眠りは対が傍にいるといないとの差が顕著だ。陸王が傍にいると眠りは深くなり、起こしてもなかなか目を醒まさない。陸王から離れていると、勝手に一時課(午前六時)の鐘で目を醒ますくらいきっちりと目を醒ますのだ。
これは対が傍にいるといないとで変わる、特徴のようなものだ。対が傍にいると、安心感を得て眠りが深くなる。大体がそうなる。
稀に、感化されないこともあるが。陸王がそうだ。睡眠に変化が現れない質なのだ。ただ、それでも雷韋と出会って変わったこともある。
雷韋の姿が見えるだけで、安心感を覚えるのだ。傍から離れて姿が見えなくなると、急に不安になったりする。今では無意識のうちに、視界のうちに雷韋の姿を入れるようになっていた。
二階の様子ははっきりと分からないが、部屋を中心に宿の周りを一周してみたが、おかしなところはない。何もなさ過ぎて、逆に怪しいくらいだ。
雷韋は大切な対だ。いなくなられても、うっかり死なれても困る。互いの魂は繋がっているのだ。陸王でも雷韋でも、どちらの存在が消えても遺された方はただではすまない。
どちらかがいなくなれば、結句、死ぬしか道はないのだ。どちらがいなくなっても、死の運命からは逃れられない。
だからこそ、陸王は雷韋を宿に隔離した。もし吸血鬼が現れるとしたら、納屋の方だろう。昨夜と同じように集められた者達。それを狙ってくるはずだ。昨夜の失敗があるため、用心して無理に入り込むことはしないかも知れない。そうなったら、ほかの村へ向かうだろう。もしかしたら、昨夜と同じようにレイザスの村に行くかも知れない。あそこの納屋には出入り自由だ。既に招かれているのだから。
それでも吸血鬼にとって、陸王の存在は大きかったはずだ。魔気が全く効かない。村の異変には気付いたかも知れないが、陸王のことは予測すら立てられなかったはずだ。はっきり言って、脅威の存在だろう。その上、修行僧までいた。昨夜はぎりぎりで逃げ出したが、今夜はまたどうなるか誰にも分からない。もし吸血鬼がレイザスに再び行くことがあったとしても、陸王がいるかどうかは分からずとも紫雲がいる。外回りをしているのを見れば丸分かりだ。それだけでも充分な牽制になるはずだった。
ただ、昨日の今日だ。
嫌がって、ほかに行く可能性はかなり高い。向かう先がこの村になるかどうかは、全く予測不能だが。
陸王は宿を一周し終わって、宿の真正面に立った。雷韋がぽつねんといるだけで、宿はもぬけの殻だ。宿の一家も、今は納屋の方に移動している。息子が狙われるかも知れない年齢らしい。
宿の正面に立ち、陸王は目を瞑った。雷韋が陸王の存在を離れていても感じるようには出来ないが、心を落ち着かせれば雷韋の様子が分かるかも知れないと思ったのだ。何しろ、風球を持っている者同士だし、場所も目と鼻の先なのだから。
風球を使って静かに様子を窺ってみると、雷韋には特に変化はないようだった。精神も平常心だし、これと言った乱れは特にないようだ。ただ、つまらなげな気配は感じられた。
役に立ちたいと思う気持ちが空回りしてしまったことで、大方、仲間外れにでもされているとでも思い込んでいるのだろう。
雷韋の考えつきそうなことだ。
だが吸血鬼とは、気配だけで昏倒してしまうほど相性が悪い。
隔離したのは雷韋を護るために必要なことだったのだ。陸王としては、悪いがこれだけは絶対に譲れない事柄だった。
二階を見上げたまま、悪いな、と心の中で思ってみる。特に風球を意識したわけではなかったが、いくつもある窓の一つにすっと雷韋の姿が浮かび上がった。風球の影響で心の声が届いたのかも知れない。
雷韋はすぐに陸王の姿を見つけたようで、窓を開けて大声で呼ばわった。
「陸王! 邪魔はしないから、俺にも手伝わせてくれよ!」
必死の声だ。
陸王はそれを無視して、宿の前から立ち退きかけた。すると、
「こんな高さなら、簡単に飛び降りられるんだぞ! 本当に簡単なんだぞ!」
今度は脅すような声音で言ってきた。
陸王は足を止めて、大きく息を吸い込み、吐き出した。それから雷韋の方へ身体ごと振り返る。
「そんな事してみろ。殴ってでも閉じ込めるぞ」
決して大きな声ではなかったが、言葉の威圧に雷韋が一歩後退る様子を見せた。
「窓はしっかりと閉めておけ。分かったな」
それだけを言うと、もう振り返ることすらせずに納屋の方へと足を向けた。
その背後で、雷韋が悔しそうな、それでいて、今にも泣き出しそうな顔をしていることを陸王は知らなかった。
鐘が鳴りはしないが晩堂課(午後九時)になる頃、あれだけ騒いでいた子供達はそのほとんどが寝入ってしまっていた。まんじりともせず目を開けているのは年長の子供達だけだ。同じくらい緊張感に包まれて眠れないのは女達だった。声は聞こえないが、気配だけで語り合っている者達もいるようだ。
しんとした中で、二つの声が響いている。
司祭と助祭が納屋の二箇所で聖典を朗読しているのだ。当然それは神聖語だ。もう一人の助祭は大きな二枚扉の向こうで、やはり聖典の朗読をしていた。それで以てして、結界としているのだろう。
納屋の一番奥でじっと身動きせずに、陸王は神聖語の洗礼を浴びていた。そくそくと背筋を悪寒が這い上がってくる嫌な言語に苛まれつつ、少しも顔色を変えずにじっといている。
けれど、知らないうちに呼吸が浅く速くなっていた。
真綿で首を絞められるとはこのことか。
そんな事を思う。
致命傷になるようなことはないが、この納屋には長くいたくなかった。それでも見届けなければならない。今夜、何が起こるのか、それとも何も起こらないのかを。何も起こらないことが一番だが、一晩中神聖語を聞き続けるのは辛い。
別に動けなくなるようなことはないが、息苦しいのだ。身体も不調を訴えてくる。
気のせいだとは思うが、自分の呼吸音がやけに大きく耳に響いた。額と背筋に嫌な汗がじわりと浮いてくるが、平静を装うしかない。魔族だと知られるわけにはいかないのだから。
司祭達が聖典を読み始めてから、陸王は紫雲に連絡を取った。結界代わりになるから、そっちでも聖典を読むようにと。
詠唱に当たっているせいで、陸王も気分が悪くなっている。相手が中位や下位の魔族であれば、一分とここにはいられないに違いない。それどころか、傍に近寄ることすら出来ないだろう。
それくらい、三人の僧侶によって強烈な言葉が紡ぎ出されているのだ。
今夜一晩ここにいて苛まれるというのは正直、勘弁願いたかったが、人間達を護るためにはしようのないことだ。腹を据えて、ぐっと堪えるしかない。兎にも角にも、何事も起こらなければそれが一番いいことなのだ。今夜この納屋で、陸王一人が苦痛に苛まれるだけで皆が助かるのなら、それが一番いいことだと思う。
例え今夜、吸血鬼がこの村に目を向けていなくとも、護り抜けたと言えるだろう。
代わりに、ほかの村で悲劇が起こるとしても。
吸血鬼を滅ぼさない限り、必ずどこかで犠牲は出るのだ。
今夜は吸血鬼の出方を見るのが目的だ。どこに現れるか。レイザスかも知れないし、ゴザックかも知れない。あるいは、ほかの村。こちらは圧倒的に動ける人数が少ない。多少の消耗戦は覚悟の上だ。悪いが、全ての村を一晩に一通り廻ることは出来ない。
ただし、今夜は動きを見極める夜ではあるが、ゴザックの司祭が提案した神聖語で護るという方法があった。紫雲に連絡を取ってから、余所の村にもすぐに知らせが行くように手配をさせていた。レイザスからだけではなく、この村から人員も出した。
果たして、吸血鬼がどう出るか。それには同じ魔族として、純粋に興味があった。
強行突破するのか、退くのか。
陸王は人の肉を食まない。それより殺して歩く方が楽しいと思える。だから、雇われ侍を生業として選んだのだ。ただ、人の肉を食まない選択をしたことから、人の肉を食む魔族の気持ちがよく分からないという側面もあった。
血を好む吸血鬼の気持ちが魔に通じる者としても、よく分からないのだ。どのくらいの餓えを覚えるのか。
人を襲わないと生きていけない飢える感覚は、なんとなく理解出来る。『飢える』という感覚だけならば。
陸王も普通に食事をする。それが出来なければ辛い思いもする。その原点の部分は理解出来るが、更にその底にある人肉や血液への執着心というものが分からない。
陸王は雇われ侍として戦に赴く。当然ながら、敵と相対して斬り結ぶ。相手を殺すときの快楽。相手の怯えや死への恐怖といった、瞬間的に湧き上がる負の感情。それらも全て喰らって陸王は人を斬る。だからと言って、常に人を殺すことを考えているわけではない。理性があるのだから、戦場ではないところで人を斬りたいとは思わない。半ば楽しみのために殺すが、反面、金になるから戦に赴くのだ。
だが、本能で生きている魔族は違う。殺し、喰らうことを常に考えている。それがないと生きていけないほどの欲望を持っているのだ。そこが魔人である陸王と、魔族の決定的な違いだ。
魔族は常に餓えている。
陸王にはそれが理解出来ない。どういう心理なのかが分からないのだ。だから今、相対している吸血鬼の血に対する餓えのほども分からない。どれくらいの間、耐えられるのか、どれほどになれば耐えられなくなるのか。
吸血鬼は昨夜、襲撃に失敗している。間違いなく飢えているだろう。だが、その飢えと血に対する執着の度合いが分からないから、どこまで耐えられるのかも分からない。
もしかしたら今夜、無理にでも襲撃をかけてくるかも知れない。聖典で結界を張っていたとしても。
可能性はある。
吸血鬼は上位魔族の亜種なのだから、神聖語にもある程度耐性があるだろう。
一気に現れて、一気に人を攫っていくという可能性もある。それこそ力尽くでだ。短時間なら、神聖語にも耐えられるだろう。
そう。例え、神聖語の満ちるこの納屋にであっても。
下手をすれば、長い間神聖語に苛まれている陸王よりも、瞬発力という意味合いでは、ずっと素早く動けるのではなかろうか。
陸王はそれを思って苦く、くそっと小さく呟いた。




