第三話 対の魂~対極~
階下に降りて席についてもまだ、陸王と雷韋の間の空気は悪かった。
三人三様、食堂で注文をしたが、そのあと二人はむっつりと黙ったまま。
注文した食事が並べられて、流石に紫雲はまずいと思い、取り敢えず雷韋に声をかけようとしたが、意外なことが起こった。
いきなり陸王が、雷韋の頼んだ兎肉と馬鈴薯の炒め物に手をつけたのだ。
「一口寄越せ」
「あ、一口って言って、二切れも肉持っていった!」
なんの前触れもなく、突然二人の間に会話が生まれたのだ。
「じゃあ、俺はあんたの南瓜と人参茹でたの、貰うかんな」
雷韋は雷韋で、やり返している。紫雲がその出来事にぽかんとしていると、更に二人の会話は何事もなく続く。
「お前、健啖家だよな」
「え? 何、それ。どういう意味?」
雷韋が人参を頬張ったまま陸王に問うが、いつもどおり、雷韋の口からは人参の欠片が飛び散った。
「相変わらず汚ぇ野郎だな」
思わずと言った風に陸王は溜息をついたが、雷韋の質問には素直に答えてやる。
「健啖家ってのは、大食らいで好き嫌いがない奴のことだ」
「ん? なんでその、なんとか家って思ったんだ?」
「人参なんざ、子供が嫌う野菜だろうが」
「人参は甘くて旨いよ。俺、大好き。流石に生では食わないけどな」
「ほう。生で食ったことがないのか」
「あるわけないじゃん」
陸王に揶揄われているのかと、雷韋はぶすくれた顔になる。
対照的に、陸王は真面目な顔をしていた。
「人参を柵切りにして、味噌をつけて食うと旨い」
「は? それ、冗談言ってるんじゃなくて?」
「冗談じゃねぇ。本当の話だ」
「え? え? 日ノ本の人って鼠か兎なのか?」
言って、雷韋は陸王の顔を覗き込む。どこか冗談であって欲しいと願うように。
「嘘言ったってしゃあねぇだろう」
「だって、生だぜ?」
「生だから味噌をつけて食うんだろう」
雷韋はそこで腕を組んで小首を傾げた。
「そもそも『みそ』って何さ」
「日ノ本で使われる調味料だ。甘口から辛口まで色々ある。この場合の甘い、辛いは塩っ辛さの意味だぞ。味噌に使う原料次第で、色も味も様々あるな」
雷韋は説明してくれる陸王の顔をじっと見つめていたが、最後に「う~ん」と唸ったまま止まった。なのに、陸王の口は止まらない。
「堀りたての人参は土の匂いがして、生で食うには少し土臭いな。その点、大根はいいんだがな」
「は? また知らないなんかが出てきた。それ何?」
「大根か。色の白い根菜だ。あれはそのまま食うには、本当の意味で辛い。煮ると絶品だが」
「それも生で食ったことがあんのか?」
「あぁ。蕎麦の薬味にも使うしな」
「蕎麦? ガレットとか?」
「いや、菓子じゃねぇ。主食になる。あれは麺類だな。蕎麦掻きつって、蕎麦粉を練って、それを煮て食うこともあるが」
「へぇ~。日ノ本ってすげぇ。知らないことが一杯あるな」
心底感心したという風に、唸りを混ぜながら雷韋は言う。
それに対して、陸王は嘆息を落とした。
「そりゃ、違う文化圏だからな。大陸と違ってて当たり前だ」
それでも雷韋は「うん、すげぇ」と感心している。と、その雷韋が紫雲の視線に気付き、不思議そうな顔を向けた。
「どうしたんだよ、紫雲。あ、やっぱ紫雲も日ノ本すげぇって思った?」
雷韋の質問にも、紫雲は咄嗟には答えられなかった。何をどう言っていいかよく分からない。それで捻り出した言葉も、なかなか端的なものになってしまった。
「えぇと、その。喧嘩、してませんでしたか、二人とも」
「喧嘩ぁ?」
雷韋が驚いたように大声で言って、陸王と顔を突き合わせる。二人の顔には疑問符だけが張り付いていた。
「喧嘩なんてしてたっけ、俺達」
「さてな」
雷韋の問いに、陸王も見当がつかないという風だった。
ではあの不穏な空気はなんだったのか、紫雲は更に分からなくなる。確実にさっきまで、二人の間の空気は悪かった。思い出すだに困るほど。どう話の取っ掛かりをつけていいのかすら分からなかったくらいなのだ。
それを知ってか知らずか、雷韋が簡単に声をかけてくる。
「まぁさ、わけ分かんねぇこと言ってないで、紫雲も食っちまえよ。その魚、川で釣り上がったばっかりだって、宿のおっちゃん言ってたじゃん」
「えぇ」
釈然としない気分で、川魚の塩焼きに目を落とした。
そこで突然、陸王が紫雲に向けて口を開いた。
「喧嘩ってな、さっきのことか?」
「え?」
紫雲の目が陸王に向けられた。
陸王は紫雲の暗褐色の瞳を真正面から受けて、呆れたような溜息をつく。
「雷韋と俺の意見の相違なんてな、しょっちゅうだ。端から見たら険悪な雰囲気になっていたかも知れんが、俺と雷韋はそう感じてねぇ。あんなのはよくあることだからな」
それを聞いて、食事に戻っていた雷韋が馬鈴薯を口からぶちまけながら言う。
「ひょっとして、俺が陸王にバーカって言ったの、喧嘩だと思ったのか?」
「だから、汚ぇんだ、お前は。口の中のもの、飲み込んでから話せ」
陸王は雷韋の後頭部を引っ叩いた。
「いったい!」
引っ叩かれた後頭部を両手で押さえる。
「殴られたくなかったら、ちゃんとしろ」
「分かったよ~」
ん~と唸り声を上げ、雷韋は食事に集中した。二皿あるうちの一枚を引っ張り寄せて、雷韋はステーキ肉を切り分けにかかる。切り分けている間も、口の中には兎の肉が入っていて、それを咀嚼していた。
兎も鹿も、今朝仕留めたばかりの獲物だと宿の主人は言っていた。
兎はともかく、鹿は一頭の半分を猟師が持って帰り、半分は宿で料理されたり干し肉や塩漬けに加工されたりする。それを村人が買いに来ると言う寸法だった。牛や馬は農作業で使うため滅多なことで潰すことはないが、足が折れたり老齢で働く力がなくなったら屠殺する。羊は冬の終わり頃、各家庭で一頭は潰して冬を越すのだ。だから実は、一年を通じて、村で口にするのは兎や鹿、野鳩などの鳥が多かった。その中に時折、訳ありの牛や馬が混ざる程度だ。
だから今、雷韋が口にしているのも兎と鹿の肉なのだ。しかもそれを旨そうに食っている。なんのこともない、幸せそうな顔で。
陸王との言い合いなどなかった顔で。
そんな雷韋を見て、紫雲は食器を手放して両手の指を合わせると、両肘をついて親指で眉間を挟む。二人の間を取り持つように悩んだことすら馬鹿らしい思いだった。
陸王でさえ何事もなかったように食事を続けている。
いや、実際には何もなかったのだ。二人の間に流れていた険悪な空気など、どこにも流れてなどいなかった。全ては紫雲の思い込みだったのだ。実に馬鹿らしい心配をしたものだ。
と、思い至ることがあった。
二人が『対』だからこそなのかも知れないと。
対とは魂の半身だ。人の魂は陰と陽に別れている。完全な陰陽に分かれているわけではないが、陰に陽が僅かに混ざっている魂を少陽と呼び、その逆を少陰と呼ぶ。この魂の半身というものは、決して切っても切れない自分の運命だ。いや、切ってはいけないものだ。絶対に切ってはならない。
陰陽の陽である陸王の半身は、陰の雷韋。雷韋の半身は陽の陸王。魂の次元で結びついているのだ。対の魂は、出会った瞬間に結ばれる。
二人が出会ってどのくらい経つのか紫雲は知らないが、彼等はもうなんでも言える、または、出来る仲なのだと思った。言いたいこと、やりたいことには我を通すことすら出来る。それでも相手に嫌われないのだ。大概のことはお互い、受け入れて流せてしまえる。
雷韋が寝汚いこともそれに関係していた。大抵の場合、対が傍にいると安心感を得て、眠りが深くなるのだ。そのせいで雷韋の眠りは深く永くなった。
その反面、陸王はと言えば、特に眠りに関して変わったことはないという。目に見える範囲に雷韋がいるのを知るだけで、安堵を覚えるだけらしい。陸王の場合それだけで、雷韋のように眠りが深くなったりはしていない。
半身同士である陸王と雷韋は、今では気を使うことすらなくなっているのではなかろうか。互いに互いの心根は押さえているのだと思う。
だから言い合える、やり合える。
端から見たら不機嫌に見えても、二人はそんな事を感じてもいなかったのがそのいい証拠だ。
紫雲は散々振り回されたと思うが、対極である二人の正体が少しだけ見えた気がした。
それはこの先で対を見つけた時に紫雲にも適用される世界の法則──魂の条理なのだ。
少陰である紫雲には、まだ半身である少陽が見つかっていない。時機に紫雲を捜し出すために少陽も動き出すだろうと、ある女に言われたままだ。
本当に二人のようになれる相手が現れたら、どんなに幸せなことだろうかと思う。自分を隠さなくてもいい、飾らなくてもいい相手とは、どんな人なのだろうか。同時に、相手も自分を隠さないで生きてくれるのだ。そんな興味と期待が、紫雲の中にはあった。
けれど、それを受け入れる時、どんな思いをするのか楽しみなようでいて、怖い。まだ紫雲は、自分の前にある道を恐れている。道は確実にあるが、真っ暗で何も見えないからだ。そこに光を当ててくれるのが、対なのだろう。陽の魂に僅かに陰の魂が宿っている少陰である紫雲の半身、少陽。
早く出会いたいが、まだ出会いたくない。覚悟が決まっていないからだ。もう少し、猶予が欲しいと思う。
紫雲は合わせていた指を放し、肩から力を抜いた。眉間からも親指を退かす。僅かばかり沈思していたが、その間にも陸王と雷韋の食事は進んでいた。
雷韋を見ると、丁度食べ物を飲み込んだところで、陸王にすぐに話しかけている。その内容は他愛ない。食べ物の味のことだ。いつものように二、三人前程の食事をたのんでいる雷韋が、これはこんな味がして、あれはあんな味がすると陸王に一所懸命話しかけている。それを陸王は穏やかな黒い瞳で眺めつつ、「そうか」と相槌を打っていた。
自分もこんな風に相手を見つめることになるのだろうかと思いながら、紫雲は中断していた食事を再開した。