第二五話 戸惑い
吸血鬼に許しを貰い、玄芭はランタンを下げたまま娘の元へ近づいていった。
愛鈴は眠っているらしいが、眠りの中にあっても寂しそうな顔をしていないか、悪い夢でも見ていないか、吸血鬼の毒牙にかかってはいないか、様々心配の種は尽きない。親として胸は張り裂けんばかりだった。
なにしろ、吸血鬼が満足するまでしか愛鈴はここにいられないのだ。
娘を一日でも長く留まらせるためには、皮肉なことだが、吸血鬼にここにいて貰うしかない。
それとは真逆に、吸血鬼を純粋に追い出したい気持ちもある。当たり前の感情だ。ただそうなれば、愛鈴が連れ去られてしまう。あるいは殺されてしまう可能性が出てくる。
出来ることなら吸血鬼を始末して、愛鈴を救い出したいのが本音だ。
それが本当に出来るならば、今、こんな事になっていないが。それが酷く悔しい。
玄芭は弟の玄史共々、寝台に近づいた。近づいていくと、手に持っていたランタンの明かりで、紗の内側に愛娘の姿が徐々に浮き上がってきた。愛鈴はぐっすり眠っているようで、父親と叔父が近づいてきたことにも気付いていない様子だった。
いや、魔代魔法によって眠らされているから、気付くも気付かないもないのだ。
紗の内側に入って、玄芭はランタンを枕辺に起き、愛鈴の頬に手を当てた。
暖かい。しっかりと生きている感触が返ってくる。そのまま頬から首筋に手を伸ばしてみるが、噛まれたような痕はなかった。その事にほっとする。
眠らされているだけで、ちゃんと生きている。
血を啜られた痕もない。
例え、言葉を交わせずとも、呼吸音がしているだけでも安心出来た。
心の内で、やはり手放したくないという強い気持ちが湧き上がってくる。当たり前だ。どうしてこのままおめおめと化け物に差し出せようか。
いっその事、吸血鬼が言うように侍と修行僧を捕らえてきたあとで、彼等に吸血鬼を討って貰うことは出来ないかとも思うが、二人が返り討ちにでもなれば玄芭は吸血鬼に逆らったことになる。その時、愛鈴がどうなるか分からなかった。
迂闊に手を出すことは出来ないと、諦めの心も芽生える。
「玄史よ、愛鈴は生きている。傷の一つも負うこともなく。私はこの子が愛おしい」
静かに呼気を吐くように呟いた。
「兄上……」
「生きていてくれるだけで私は幸せだ」
その言葉に対して玄史は目を瞑り、玄芭の肩に手を置くのが精一杯だった。
どれほど愛おしいとしても、いつか愛鈴は吸血鬼に連れ去られるのだ。生きて帰ってくる保証はどこにもない。目覚めたとき、愛鈴が吸血鬼を拒絶した場合、殺されることもあり得る。全ては吸血鬼の掌の上でことは進められるのだから。
そもそも、どうして吸血鬼を招き入れてしまったのか。
今から約二週間前。突如として現れたのだ。晩堂課(午後九時の鐘)も鳴ろうかという頃、志堂と名乗り、宝石商の振りをしてやってきた。卑しい者との取引をしない代わりに、夜遅くに領主や貴族の元へ訪問することもままあるのだと言って、それは見事な装飾品を差し出してきた。それに気を良くして砦に招じ入れてしまったのが失敗だった。その足で邸にも足を踏み入れることを許したのだ。
その際、招き入れた門兵や邸の使用人。あとで問い質したところ、彼等には招き入れたという記憶すらなかった。ただ、こう思ったというのだ。吸血鬼の紅い瞳を見て、
──この者は、招き入れる客人だ。
なんとなしに、そう思ったことしか覚えていなかったと。
血を滴らせたような紅い瞳が何を意味するところか、考えもしなかったようだ。紅い瞳は魔族の証。魔族以外に紅い瞳を持つ生物はいない。
この世で最も危険な色だ。この世に生きる者であれば、動物でさえ紅い瞳の意味を知っている。
実際、招き入れた者達の気持ちは玄芭にも玄史にも、よく分かっている。
二人も吸血鬼と知らず相対したとき、真っ先に目に飛び込んできた紅い瞳を見て、強く惹かれた。
魅了されたのだ。
おそらく、吸血鬼の持つ能力の一つなのだろう。
それに、いちいち招き入れられているところからして、招かれない場合、建物の中に入ることが出来ないのだろうとも、今では推測される。
その事は、吸血鬼に愛鈴を人質として囚われたあと思いついたものだ。紅い瞳が何を意味するのか理解出来たあとのことだ。
始めは愛鈴を人質にとって、その代わり、村の一つをくれというものだった。人質に取られた愛鈴を求められたのはそのあとだ。突然、愛鈴を花嫁に迎えたいと言い出した。
そんなもの、承知出来るわけがない。村を一つくれてやっているのだから、娘は返して貰うと強硬手段に出ようとしたが、既に愛鈴は囚われの身。玄芭も玄史も身動きが取れない状態にあった。玄芭の妻は、それが原因で伏せってしまったくらいだ。
吸血鬼は、愛鈴も村も奪った。
今現在は、奪ったはずの村を護る者があるため、別の村を差し出せと言われている。
村を差し出すのはいい。領主としてはどうかと取れる態度だが、娘の生命がかかっているのだ。村の一つや二つ、どうという事はない。
問題なのは、村を襲って満足したあと、愛鈴を連れて行かれることだ。なんとしてでも食い止めたい。
心根の優しい愛娘だ。化け物にくれてやる謂れはない。なのに、取り戻す術もまたない。
眠っている状態でも母親にとても似て愛らしいのは変わりなく、髪は父親と同じ白っぽく薄い金。ランタンの明かりに照らし出された頬は薔薇色に色づいて、眠り通しだというのに健康的でさえある。
そんな娘は、いつ見ても愛おしい。
娘をこのままむざむざと吸血鬼にくれてやるのは口惜しかった。
そもそも、愛鈴にも対がいる。
今現在は下男として邸で働いている菉尚だ。領地の子供で、愛鈴より一つ下だ。菉尚は愛鈴の対として捜し出された少年だった。愛鈴を手放すということは、対である菉尚だけでなく、愛鈴も狂い死にの可能性があるのだ。それを防ぐためには、二人とも手放さなければならない。いや、それはある意味でよいのだ。対は互いを求め、どんな状況でも生きようと足掻く。
愛鈴を思うなら菉尚をつけるべきだし、菉尚をつけなければ愛鈴がどうなるか分からない。答えは初めから決まっていた。
「領主殿」
いきなりの言葉に、どきりとした。
「姫は今、とてもよい夢を見ていますよ」
「何故、そのようなことが分かる」
心で考えていたこと様々が吸血鬼に見透かされているようで、びくりとして声が僅かに掠れた。
「姫に眠りの術をかけたのは私だからですよ」
玄芭は問い返すこともせず、知らぬ間に愛鈴の手を握っていた。
「今、姫は夢の中で、母君と楽しく刺繍をなされていらっしゃる。姫の見ている夢は姫の中では現実。その中に、私も時折姿を現しています。夢の中で、姫は私にもよく話しかけてくれるのですよ。それがとても嬉しいですね。いつか二人きりになった暁にも、姫は私の存在を少しも疑うことはないでしょう。夫として、素直に受け入れてくれる」
そう言う吸血鬼を、玄史は危険だと思った。魔族なのだから、危険なのは当然だが、そうではない。吸血鬼の言葉はそのまま玄芭にとって、毒となると思ったのだ。呪いにも似た毒。精神をどんどん蝕んでくると感じたのだ。話しかけられれば話しかけられるほど、玄芭の心は虫食いの穴だらけになってしまう。そう遠くないうちに、正気を保っていられなくなるだろうと。
「兄上、そろそろ」
玄史は愛鈴の手を両手で握る玄芭の手を緩めて、そっと放させた。途端、玄芭の表情が苦々しいものに変わっていく。
玄芭としては、この上もなく悔しく腹立たしいが、今は愛鈴から離れなければならない。花嫁にと執着しているくらいだ。よほどのことがない限り、吸血鬼はそうそう愛鈴を乱暴に扱ったりはしないだろうと思った。
だから玄芭は、玄史に肩を抱かれるようにして部屋をあとにした。
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ランタンの明かりに照らされた塔の螺旋階段を二人で降りていく途中、先を歩いていた玄芭は声を潜めて弟に言った。
「あの化け物は、侍と修行僧を捕らえろと言っていたな」
「はい」
短くはあるが、しっかりと返答する。
「彼等を味方につけられぬものだろうか」
「それは私も考えました。今夜、吸血鬼からレイザスの村を護ったという彼等。奴にとっては邪魔者であり、脅威にもなる者達でしょう。ただ、味方につけたと言う事がばれたとき、何をされるか分かりません。姫の御身に危害が加えられることも」
しっかりした口調ではあるが、声が響かないように低く返す。
「だが、捕らえるように奴は言った。捕らえてきてからのことは何も指示されていない。殺せと指示されるまでに取り込むことが出来れば。今日やってきた侍は、金で簡単に転がりそうだが」
「では、始めから協力を仰ぎますか?」
待て、とでも言うように玄芭は玄史に手を翳した。
「いや、兵の前でそれはならん。吸血鬼のことは一部の者にしか知らせていないのだからな」
そうされて、玄史も注意深く問う。
「それでは、飽くまでも連行という形を取ることになりますが。それで?」
「それがいいだろう」
「では、侍と修行僧のことは手を打ちましょう。今夜の贄のことは私にお任せください。よいように計らいます」
弟の言葉に玄芭は渋く頷いて、塔から邸へと出た。




